162貴族令嬢は、空からの日の出を見ます。
第162章 貴族令嬢は、空からの日の出を見ます
ラサでの二時間が終わり、ELBI0204便は北京への出発準備を終えました。
乗降口はすでに閉まり、ロックも確認済みです。待合室へ出ていた人たちは全員戻り、ラサで降りる人は大学側へ引き渡され、ここから北京やイスタンブールへ向かう人も乗っています。
客室には布の包み、木版の経典、トロリーバスやフルシチョフカの模型、ライデン大学ラサ分校の模型、折りたたみ地図など、ラサで増えた手荷物がきちんと収納されています。
客室の荷物は増えましたが、貨物室全体で見れば、ムリヤちゃんはかなり軽くなっていました。
どろちゃんとフランソワさんは操縦席へ戻ります。FEさん二人も所定の位置へ入りました。
「では、出発前の確認をお願いします」
「はい」
燃料、電気、油圧、舵面、エンジン、無線、乗降扉と貨物扉、搭載物の固定。ラサから北京までの航路と、北京の天候も確認します。
ラサでは朝食だけでなく、そのあとの昼食まで積んであります。北京では食事を積み直さず、人と貨物を入れ替え、給油を済ませたらそのまま次の区間へ出られるようにしてありました。
「全部、よろしいです」
「じゃあ行こう」
どろちゃんは機内放送のマイクを取りました。
『皆さま、これよりラサを出発し、次の目的地、北京へ向かいます。離陸後、機体が安定するまでお席にお座りになり、シートベルトをお締めください』
同じ内容を、ナーロッパ共通語を含む四つの言葉で繰り返します。チベット語も入っています。
マルガレーテさんの安全案内は、いつもどおりナーロッパ共通語です。
六発のエンジンを順に始動します。
夜のラサの滑走路へ入りました。
「行きます」
出力を上げます。
ムリヤちゃんが走り始めました。速度が上がり、操縦桿へ伝わる感触が変わります。どろちゃんは機首を上げました。
主脚が滑走路を離れます。
夜のラサが下へ遠ざかっていきました。
◇ ◇ ◇
上昇を終え、巡航へ移ったところで、どろちゃんが少し操縦桿を動かしました。
「軽くなったね」
右席のフランソワさんがこちらを見ます。
「昨日までとは、かなり違いますか」
「うん。ラサでずいぶん降ろしたから」
軽くなった大きな理由は、客席より貨物側にありました。
ラサでの二時間、旅客が待合室の売店を見ているあいだ、貨物側では大きな荷下ろしが続いていました。
降ろしたのは、穀物などを中心に百トン近く。
ライデン大学ラサ分校には学生が増えています。教員や職員も増え、その人たちの暮らしを支える人も集まるようになりました。大学が大きくなると、校舎と学生寮だけを増やせば終わる話にはなりません。
毎日食べる人が増えます。
その増え方を、ラサ周辺の食料生産だけですぐに吸収することはできません。
そこで、オランダ政府が購入した穀物などを、ムリヤちゃんでまとめて運び込んでいます。今回も、その分だけで百トン近くありました。
「百トン近くですものね」
「そりゃ軽くなるよ」
「大学生が増えると、飛行機の飛び方まで変わりますね」
「食べるからね。毎日」
どろちゃんは前を見たまま答えました。
「住宅もいる。暖房もいる。水もいる。それで、ごはんもいる」
「大学だけを建てれば大学の町になる、ということではございませんね」
「うん。住む人が増えたら町ごと大きくなる」
ラサで降ろした百トン近い貨物は、その変化の一部でした。
◇ ◇ ◇
しばらくすると、右手前方の空が変わり始めました。
最初は、ごく薄い明るさです。夜の青が残る空の下で、遠くの山の輪郭だけが黒く浮かびます。
「右の窓、明るくなってきました」
客室から連絡が来ました。
「前の方ですね」
フランソワさんも右手を見ます。
「東へ飛んでるから、あそこから出るよ」
どろちゃんも見ました。
まだ太陽そのものは出ていません。地平線に近いところだけが、少しずつ赤くなっています。その上が橙色、そのさらに上には、まだ夜の濃い青が残っていました。
「空から見る日の出、きれいなんだよ」
客室でも気づく人が増えてきました。
階下には百二十席の人員輸送用座席パレットがあります。百二十人分の席に対して、窓の数は限られています。
どろちゃんはマイクを取りました。
『右手前方から、まもなく日が昇ります。階下のお席の方でご覧になりたい方は、窓を交代で使ってくださいね。一人でずっと使わないで、見終わったら次の方へ譲ってください』
マルガレーテさんと三人の給仕さんも階下で動きます。
「こちらの窓、順番にお願いいたします」
「見終わりましたら、後ろの方と代わってくださいませ」
「通路は空けておいてください」
最初の人が窓の外を見ます。
少しして、後ろへ下がりました。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
次の人が入ります。
そのあいだにも、空の色は変わり続けています。
そして、右手前方から太陽の縁が出ました。
「出た」
誰かが言いました。
階下のあちこちから、小さな声が上がります。
地上なら山や建物に隠れる高さでも、ムリヤちゃんはずっと高いところを飛んでいます。遠い地平線の向こうから、光そのものが上がってくるように見えました。
山の稜線が黒く残り、その上だけが強く光ります。
「きれいですね」
フランソワさんが言いました。
「ほんとにね」
どろちゃんも少しのあいだ見ました。
「フランソワさんもちゃんと見た?」
「はい。拝見しております」
「じゃあ、朝ごはんにしようか」
「皆さまも、そろそろお腹が空いておられるころですね」
◇ ◇ ◇
窓の順番が一巡するころには、機内へ朝の光が入るようになっていました。
階下の人たちも席へ戻ります。
マルガレーテさんと三人の給仕さんが、ラサで積んだ朝食を出し始めました。上部デッキにも、階下の百二十席側にも回します。
ラサで積んだものなので、見慣れたパンや温かい料理に混じって、土地らしいものもあります。
「これ、何のチーズですか」
初めて食べる人が聞きました。
「ヤクです」
ラサから乗った大学関係者が答えました。
「昨日、町の近くでも見ました」
「このあたりでは珍しい家畜ではございません」
どろちゃんも一切れ食べました。
「おいしい」
「お嬢様は以前にも召し上がっておられますね」
「うん。でも空の上で食べると、また違う感じ」
近くの人が笑いました。
「これだけ食べ物があるのに、穀物を百トン近く降ろしたのですか」
「大学の人が増えてるからね」
どろちゃんはチーズをパンにのせました。
「ヤクのチーズが作れても、それだけで何千人も増えた分の穀物まで急に出てくるわけじゃないでしょう」
「学生が増えると、住む場所だけでは済まないのですね」
「毎日食べるからね」
「確かに、毎日ですな」
窓の外は、すっかり朝です。
右前方から上がった太陽が、少しずつ高度を増していきます。
北京へ着くころには、十分に明るくなりそうです。
◇ ◇ ◇
朝食が片づくころ、北京が近づいてきました。
地上から気象と滑走路の情報を受けます。風向、風速、視程、滑走路の状態。夜のラサへ降りたときとは違い、外はすっかり明るくなっています。
「明るいうちに着けるね」
「ラサで二時間お待ちした分が、ちょうどよく働きましたね」
「うん。夜の北京へ降りなくていい」
マルガレーテさんから到着前の案内が入り、客室の人たちが席へ戻ります。
どろちゃんは降下を始めました。
明るい地面が近づきます。
北京近郊の飛行場が見えてきました。
進入を整えます。
速度。
降下率。
滑走路との位置。
「このままで大丈夫そうです」
「うん」
滑走路が正面へ入ります。
どろちゃんは接地の少し前に機首を起こしました。
主脚が接地します。
少し遅れて前脚。
逆噴射を使い、速度を落とします。
「着いた」
「北京へ戻ってまいりましたね」
ムリヤちゃんは滑走路を離れ、待っている地上係員の方へ進みました。
◇ ◇ ◇
停止すると、北京での作業がすぐに始まりました。
ここでは長い休憩を取りません。
乗る人と降りる人。北京で降ろす貨物と、ここから西へ運ぶ貨物。それから給油です。
まず康熙帝一行が降ります。
北京を出たとき、一行は康熙帝本人を含めて十二人でした。
今、北京へ戻るのは六人。
ちょうど半分です。
エルレンフェルトへ残って仕事を始めた人がいます。イスタンブールへ急きょ残った人もいます。
出発した十二人のうち半分は、エルレンフェルトやイスタンブールに残って仕事を始めています。
「お戻りになるのは六人ですね」
フランソワさんが、降りる人たちを見ました。
「うん。出てきたときは陛下を入れて十二人だったから、ちょうど半分」
「半分の方は、まだヨーロッパ側に残っておられるのですね」
「そう。旅行が終わって、みんな一緒に帰るんじゃなくて、ここから仕事を始める人がいるから」
どろちゃんも機体から降りました。
康熙帝へきちんとご挨拶します。
「陛下、北京へお戻りになりました。長いご旅行、お疲れさまでございました」
「世話になった」
「こちらこそ、ありがとうございました」
康熙帝は飛行場を見回しました。
「また来るのであろう」
「はい。近いうちに薩摩へ参る予定もございますので、またこちら側へ飛んでまいります」
「ならば、残した者も永久に向こうへ置くことにはならぬな」
「はい。交代や帰国も、そのときの運航に合わせて行えます」
康熙帝は頷きました。
どろちゃんはもう一度礼をして、ムリヤちゃんへ戻ります。
◇ ◇ ◇
一方、北京から新しく乗る人たちも待っていました。
エルレンフェルト滞在組へ加わる清国側の追加要員。
それから、イスタンブールで急に残ることになった人たちと交代する要員です。
「こちらからイスタンブールへ向かう方もいらっしゃるのですね」
「うん。交代の人たち」
「先に残られた方々は、もう交代なさるのですか」
「早い方がいいよ。今回は急に残ってもらった人たちだから、オスマン帝国に詳しい人を選んで残したわけじゃないでしょう」
「まずは連絡を途切れさせないために、残っていただいたということですね」
「そう。今度はちゃんと向こうのことを知っている人に代わってもらうの」
最初に残った人たちは、専門家が北京から到着するまで窓口を守りました。現地で決まったことを記録し、清国側へ送り返し、必要な人と会う。急な配置でも、外交官としてできる仕事は十分にありました。
ただ、長く置くなら、オスマン帝国側の事情に詳しい人へ早く替えた方がいい。
その人たちが、今からムリヤちゃんへ乗ります。
「エルレンフェルトへ残った方々も、ずっと帰ってこないのですか」
北京から乗る人の一人が聞きました。
「そんなことないよ。近いうちに薩摩にも行くでしょう。そのときも、こっちと向こうを飛ぶから交代できるよ」
「では、今回は最初の勤務ということですな」
「うん。イスタンブールも同じ。ずっと同じ人に任せるつもりじゃないよ」
荷物も積まれていきます。
◇ ◇ ◇
貨物室では、北京で降ろすものを外へ出し、ここから西へ運ぶものを所定の位置へ収めています。
食事は、ラサで積んだ分をそのまま使います。
朝食も昼食もラサで積んであります。
「昼食は?」
フランソワさんが確認しました。
「ラサで積んであります」
「では、北京では食事を積まないのですね」
「うん。乗り降りと貨物、それから給油だけ」
給油は、いつもより多めです。
ラサで百トン近くの穀物などを降ろしました。北京でも康熙帝一行と北京で降りる荷物が機外へ出ています。
その重量の余裕を、今度は燃料へ回します。
「燃料、多めに入れられるね」
「ラサでずいぶん軽くなりましたからね」
「北京でも人と荷物が降りたし。今度はイスタンブールまでだから、余裕を持って入れておこう」
FEさんが給油量を確認します。
「予定量まで入れます」
「お願いします」
次の区間は、最短距離を飛びません。
少し南へ外れます。
その理由は、まだ客室の人たちには詳しく話していません。
どろちゃんは地図を見ながら少し笑っていました。
◇ ◇ ◇
乗客がそろいました。
貨物の固定も終わります。
給油口が閉じられ、外部点検が済みました。
乗降扉と貨物扉を閉めます。
「北京では早いですね」
新しく乗った人が言いました。
「今日は人と荷物を入れ替えて、燃料を入れたら終わりだから」
「このままイスタンブールまでですか」
「うん。ただし、まっすぐは行かないよ」
「遠回りを?」
「少しだけ。見てもらいたいものがあるから」
どろちゃんは左席へ戻りました。
フランソワさんが右席。
FEさん二人。
マルガレーテさんと三人の給仕さんも、それぞれ出発位置へ戻っています。
六発を順に始動します。
朝の北京は、もう十分に明るくなっています。
「では、行きます」
ムリヤちゃんは再び滑走路へ向かいました。
次は、イスタンブールです。
でも今日は、いちばん短い線の上を飛びません。




