161貴族令嬢は、真夜中のラサでお店をのぞきます。
第161章 貴族令嬢は、真夜中のラサでお店をのぞきます
二月五日になったばかりのラサです。
ELBI0204便のムリヤちゃんは、両方向に整備されたILSを使って夜の滑走路へ降り、ゆっくり誘導路へ入りました。
「こちらですね」
フランソワさんが前を見ます。
「うん。地上の人も待ってる」
誘導灯の向こうで、地上係員が合図を送っています。
大きな機体を所定の位置まで進め、停止します。六発のエンジンを順に落とすと、ずっと身体の奥へ響いていた音が少しずつ小さくなりました。
FEさんたちは、すぐに到着後の確認へ入っています。
「油圧、確認しています」
「電源、地上側へ切り替えます」
「お願いします」
どろちゃんも計器を見回しました。
もう一つ、ラサで早く済むものがあります。
客室と外の圧力合わせです。
ムリヤちゃんは高空を飛ぶあいだ、客室を海面と同じ圧力まで上げずに運航しています。巡航中の客室圧力は海面気圧より低く、ラサのような高地の外気圧とかなり近いところにあります。
しかも、ラサへ降下してくる途中から、着陸後の外気圧へ近づくように客室側を調整してきました。
そのため、地上へ止まってから大きな差圧を長時間かけて抜くことにはなりません。
「差圧、ほとんどありません」
FEさんが計器を見ました。
「最後、合わせます」
「お願いします」
少し待つだけです。
針がそろいます。
「外気とそろいました。乗降扉、開けられます」
「ありがとう」
ロックを確認して、乗降扉が開きました。
その瞬間、ラサの夜の空気が入ってきます。
「寒っ」
近くにいたどろちゃんが、思わず言いました。
エルレンフェルトも真冬でした。
でも、ここは高いところです。
夜のラサは、同じ冬でも身体へ来る冷たさが違いました。
◇ ◇ ◇
ドアが開くと、すぐにいつもの人が来ました。
トルシー侯です。
昨日、イスタンブールを出るときも、帰国する人、残る人、途中まで乗る人、翌日ラサや北京まで乗る人まで名簿で一人ずつ確認していた人です。
今夜も名簿を持っています。
「ラサでお降りになる方は、こちらで確認いたします。北京までの方と、イスタンブールまでの方は、いったん待合室へ行かれる場合もお名前を残してください」
「侯爵ご自身がなさるのですか」
清国側の随員さんが聞きました。
「昨日から私が名簿を持っておりますので、このまま続けた方が早いのです」
「なるほど」
トルシー侯は、もう次の人を見ています。
「こちらの方は、ラサ大学までですね」
「はい」
「お荷物は大学側へ渡します。こちらでお待ちください」
エルレンフェルトから乗ってきたラサ大学関係の交代要員が、順に降り始めました。
地上では、ライデン大学ラサ分校側の人が待っています。
名前を確認する。
荷物の行き先を確認する。
ラサで降ろす荷物はラサ側へ。
北京まで載せる荷物は機内に残す。
イスタンブールまで行くものは、さらにその先まで動かさない。
一つの飛行機に三つの目的地の人と荷物が混ざっているので、ここで取り違えるとあとが大変です。
「この箱はラサです」
「確認しました」
「こちらは北京」
「そのままです」
「これはイスタンブール」
「動かしません」
FEさんと地上係員が声を掛け合っています。
トルシー侯は人の方を見ます。
貨物はFEさん。
乗る人と降りる人は、いつもの人。
役割がきれいに分かれました。
◇ ◇ ◇
人の流れが落ち着いたところで、マルガレーテさんがドアの近くへ来ました。
マルガレーテさんと三人の給仕さんも、着陸前に客室を片づけてあります。
ここからは地上滞在です。
マルガレーテさんがナーロッパ共通語で案内します。
『皆さま、ラサではおよそ二時間停まりますので、一度降りていただいても大丈夫です。空港の待合室にはお店も開いておりますので、ご興味のある方はご利用ください』
客室で何人かが顔を上げました。
まだ続きます。
『ただし、空港の外はたいへん寒く、遠くまで行かれますと出発までに戻れないこともございます。外へ出られる方は十分お気をつけください。二時間後には出発いたしますので、時間には余裕を持ってお戻りください』
「お店、開いてるんだ」
どろちゃんが言いました。
マルガレーテさんが頷きます。
「この便の到着に合わせて開けてくださっています。待合室の中は暖かいそうです」
「それなら行きたい人、多そう」
「はい。先ほどから、何人か出口の方を見ておられます」
そして、どろちゃんは別のものを見ました。
ギャレーです。
「紅茶、まだ出せる?」
「もちろんでございます」
「ジャムもある?」
「ございます」
「じゃあ、ちょっと出そう」
マルガレーテさんが一瞬だけどろちゃんを見ました。
「お嬢様がお出しになるのでございますか」
「うん。外へ行く人、寒いでしょう」
「でしたら、カップはこちらで用意いたします」
「ありがとう」
◇ ◇ ◇
大きなポットから紅茶を注ぎます。
そこへ赤いジャムを少し。
かき混ぜると、色がゆっくり紅茶へ広がっていきます。
この数年で、エルレンフェルトやロンドン、エジンバラ、それに交通機関の売店でも、すっかり見慣れた飲み方になりました。
暖かいジャム入り紅茶です。
今日は機長が配ります。
「外へ行く人、飲んでから行ってください。寒いですよ」
最初に受け取ったのは、ラサで降りる大学関係者でした。
「ありがとうございます」
「これから大学まで行くんでしょう?」
「はい。迎えが来ています」
「じゃあ、もっと寒いところを歩くね」
「待合室までよりは長いです」
「飲んでいって」
次は清国側の随員さんです。
「私もいただいてよろしいですか」
「どうぞ」
カップを渡すと、その人は少し笑いました。
「機長自ら給仕ですか」
「今日は寒いから」
「理由は、それだけですか」
「それで十分でしょう」
近くにいたフランソワさんが笑っています。
「お嬢様は、こういうときは止めてもおやめになりません」
「フランソワさんも飲む?」
「あとでいただきます」
オスマン側の人も一杯受け取りました。
「甘いですね」
「寒いところだと、これくらいでもいいでしょう」
「これはエルレンフェルトの飲み方ですか」
「いろんなところで出すようになりました。ピロシキと一緒に出すお店もあります」
「それなら、待合室にも似たものがあるそうですよ」
マルガレーテさんが言いました。
「ピロシキも?」
「はい」
「見に行こうかな」
「お嬢様も行かれるのでございますか」
「二時間あるよ」
「戻る時間は見ておいてくださいませ」
「はーい」
◇ ◇ ◇
待合室へ向かいます。
ムリヤちゃんから建物までの短い移動でも、外へ出れば寒さが分かります。
「これは、長く外にいたらだめだね」
「マルガレーテさんの案内どおりですね」
フランソワさんは外套の前をしっかり閉じています。
待合室へ入ると、空気が変わりました。
暖かいです。
夜中ですが、人もいます。
ラサ大学から帰る人。
北京へ向かう人。
イスタンブールまで乗る人。
到着した人を迎えに来た大学関係者。
それに、二時間だけ空港へ降りたムリヤちゃんの乗客です。
店も開いていました。
食べ物を売るところから、湯気が上がっています。
ピロシキ。
ジャム入り紅茶。
ほかにも簡単な温かい食べ物と飲み物があります。
「本当にある」
「お嬢様が機内でお出しになったばかりですね」
「でも、ピロシキは別」
「召し上がりますか」
「一個だけ」
どろちゃんは一つ買いました。
割ると中から湯気が出ます。
「やっぱり寒いところのピロシキは強い」
「食べ物にも強い弱いがあるのですか」
「ある気がする」
フランソワさんは少し笑いました。
◇ ◇ ◇
食べ物の店の隣には、布が並んでいます。
赤。
黄色。
青。
緑。
細かな幾何学模様や、チベットらしい意匠を織り込んだ布地です。
「きれいですね」
清国の随員さんが一枚を広げました。
「家への土産にするには、これがよさそうです」
「一枚?」
「いえ、人数がいますので」
「何枚くらい?」
「まだ決めておりません」
「長く見てると増えるよ」
「それは困りますな」
その本人は、結局かなり長く見ています。
向こうには木版刷りの経典が置かれていました。
一枚もの。
折ったもの。
束ねたもの。
文字と図が並んでいます。
印刷は機械ではなく、木版です。
「これも売るのですね」
オスマン側の人が手に取りました。
売店の人が答えます。
「遠くから来た方が買っていかれます。読むために買う方もおられますし、木版の仕事そのものを見たい方もおられます」
「全部、同じ版で?」
「版ごとに違います」
隣には手作りのアクセサリーがあります。
金属。
石。
紐。
小さな飾り。
一つずつ形が少し違います。
さらに、その横には妙に小さなものがぶら下がっていました。
「これ、なに?」
どろちゃんが一つ持ち上げます。
宗教用の飾りや道具の形を小さくしたキーホルダーです。
「ずいぶん小さくしたね」
「旅人向けだそうです」
ラサ大学の人が教えてくれました。
「本来の宗教用具として使うものではなく、形を小さくしたお土産です」
「鍵につけるの?」
「そういう使い方をする方が多いそうです」
「これなら荷物にならないね」
清国側の人も一つ見ています。
「家族の人数が多い者には、先ほどの布より危険ですな」
「いっぱい買えるから?」
「そのとおりです」
◇ ◇ ◇
絵はがき風のカードもありました。
棚へ何十種類も差してあります。
ポタラ宮。
雪をかぶった山。
ラサの町。
トロリーバスが走る通り。
新しい集合住宅。
夜の飛行場。
滑走路の向こうに山が見えるもの。
ライデン大学ラサ分校。
「これ、今日降りたところだ」
どろちゃんが夜の飛行場のカードを抜きました。
「ILSまでは絵に描けませんね」
「電波だからね」
別のカードには、トロリーバスが大きく描かれています。
「二十台くらいまで増えたって、前に聞いたね」
「マルガレーテさんも休日に乗っておられました」
「そうだった」
その隣には、新しい集合住宅のカードまであります。
「フルシチョフカも絵はがきになるんだ」
ヨーロッパから来た人が見ています。
「観光名所なのですか」
「今のラサの景色なんでしょうね。昔からあるものだけが町じゃないから」
その人はカードを一枚買いました。
そして、さらに横の棚を見て止まりました。
「同じ建物がありますよ」
「え?」
模型です。
小さなフルシチョフカ。
窓も入口も付いています。
「これ、売ってるんだ」
どろちゃんが持ち上げました。
「住んでいる人には普通の家だよね」
「普通の家がお土産になるのも、おもしろいですな」
「新しい町の象徴なんだろうね」
◇ ◇ ◇
その隣には、トロリーバスの模型があります。
箱の窓から車体が見えます。
屋根には集電装置まで付いていました。
オスマン側の人が箱を手に取ります。
「私はこれにしましょう」
「トロリーバス?」
「よくできていますよ」
「架線は?」
「そこまでは入っていないようです」
「惜しい」
「そこまで必要ですか」
「模型なら欲しいです」
「お嬢様は模型には厳しいですね」
フランソワさんが言いました。
「だって、上から電気取るところが大事でしょう」
「車体にも車輪にも目を向けて差し上げてくださいませ」
「見てるよ」
別の棚には、もう少し大きな模型があります。
中央が高い。
左右対称。
正面の入口が大きく、重い列柱が並んでいます。
ライデン大学ラサ分校です。
この世界の人たちは未来の建築史上の呼び名を知りませんが、後世から見ればスターリン様式と呼ばれる系統の外観です。
「これが大学ですか」
初めてラサへ来た人が聞きました。
「はい。ライデン大学ラサ分校です」
大学側の人が答えます。
「最近はこれをお土産に買う方が多いのです」
「寺院の模型ではなく、大学を買うのですね」
「今のラサでは、どちらも町の顔でございます」
「なるほど」
その人は箱を持ち上げました。
「重いですか」
「模型ですから、それほどでも」
「では、これも」
「買うんだ」
どろちゃんが言いました。
「子どもへの土産にちょうどいいですね」
「大学を?」
「建物の形がおもしろいですから」
「それなら分かる」
少し離れたところから、フランソワさんがどろちゃんを見ました。
「お嬢様も欲しくなっておられませんか」
「ちょっと」
「お屋敷には置く場所がありますが」
「じゃあ一個」
「やはり、お買いになるのですね」
◇ ◇ ◇
売店の奥には、まったく違う種類の商品がありました。
地図です。
薄い紙を何度も折ったもの。
少し厚い紙へ印刷したもの。
冊子になった街道案内。
壁へ貼れる大きな広域図。
どろちゃんは、一枚を広げました。
「広い」
西はウイグルの土地。
天山。
タクラマカンの周辺。
オアシスを結ぶ道。
そこからチベット高原。
ラサ。
ヒマラヤ。
さらに南東にはブータンまで入っています。
町の名前に加えて、主な街道が描かれています。
馬車が通れる区間。
荷車では難しく、駄獣へ替えた方がよい区間。
らくだ隊で使いやすい道。
峠。
水場。
宿営に使われる場所。
町から町までの距離。
さらに、旅の日数まで書いてあります。
「土産物屋にしては、ずいぶん実用的ですね」
清国側の人が言いました。
売店の人が答えます。
「このあたりは、道を知っていること自体が大事でございますから」
「ここ、数字が二つある」
どろちゃんが指しました。
「馬車で十五日、らくだで十二日……」
「荷物の量や季節でも変わります」
「十二日って書いてあっても、十二日目に必ず着くわけじゃないんだ」
「はい。雨や雪、峠の状態で延びます」
別の人が地図をのぞき込みました。
「空を飛ぶと感覚が狂いますな」
「地上だと、やっぱり遠いですね」
どろちゃんも指で道をたどります。
ムリヤちゃんなら、山を越えてきました。
地上の旅では、その山を一つずつ避けたり、峠を探したり、水場へ寄ったりしながら進みます。
「この線は、タクラマカンを横切るのですか」
地元の人が地図を指しました。
「オアシスをつないで進みます。水場と町を外さないようにします。中央を一直線に横切る道ではございません」
「こちらは天山?」
「はい。冬は特に日程が読みにくくなります」
「でも、道は描いてありますよ」
ヨーロッパから来た人が言いました。
ラサ側の人は、その線を見てから答えました。
「線があることと、生きて着くことは別です」
少し静かになりました。
「そんなに厳しいのですか」
「タクラマカンの周りでは、水場を一つ外しただけでも困ります。天山では吹雪があります。こちらへ来れば、高さと寒さがあります」
「これを全部、地上から来る人がいるのですね」
「います」
「何週間も?」
「何か月になることもあります」
「全員、着くのですか」
今度は、答えるまでに少し間がありました。
「着かない人もいます」
地図の上では、線が一本続いています。
実際の旅では、食料が減ります。
水場まで届かなければ困ります。
病気になる人もいます。
寒さで動けなくなる人もいます。
峠が雪で閉じれば、予定していた日数では進めません。
旅の途中、星の見える空の下で、そのまま帰ってこない人もいます。
だから、この地図には距離だけでなく日数が要ります。
水場も要ります。
馬車で行けるか、らくだが向くか、荷物を積み替える必要があるかも要ります。
線を引くだけでは、旅の道具になりません。
「ムリヤちゃんだと、ずいぶん近く感じてしまいますね」
どろちゃんが言いました。
「エルレンフェルトから昼食後に出て、もうラサですものね」
清国側の人が答えました。
「地上では同じ距離でも、意味がまったく違いますな」
フランソワさんも地図を見ています。
「これ、買おう」
「お嬢様もですか」
「うん。空から見る地図と、地上を旅する地図は違うから」
「大学の模型もお買いになりましたね」
「それは別」
◇ ◇ ◇
二時間は、店を見ていると短くなります。
待合室の時計を見たトルシー侯が、入口の方から戻ってきました。
「そろそろ、機内へお戻りいただく時間です」
「もう?」
「二時間後に出発すると、マルガレーテさんが最初に案内しております」
「そうだった」
「お嬢様まで忘れないでください」
「忘れてないよ」
トルシー侯は、どろちゃんの手を見ました。
大学の模型。
折りたたみ地図。
絵はがき風のカード。
「増えておりますな」
「侯爵は何も買ってないの?」
「私は名簿を持っております」
「それ、お土産じゃないでしょう」
「仕事です」
いつもの人は、やっぱり仕事をしています。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんへ戻る人たちが、待合室から次々に出てきました。
来たときより、明らかに荷物が増えています。
ドア前には、またトルシー侯が立っています。
「お戻りの方はこちらです。ラサで降りる方は、こちらへは戻らなくて大丈夫です。ここからご搭乗になる方は、お名前を確認いたします」
最初に戻ってきた清国の随員さんは、布を抱えていました。
「ずいぶん買いましたね」
どろちゃんが言います。
「家への土産です。これだけ色が違うと、選ぶのに時間がかかりました」
「何枚買ったんですか」
「六枚です」
「多い」
「人数が多いのです」
「やっぱり増えたね」
「お嬢様に言われたとおりになりました」
その後ろから来た人は、細長い包みと紙袋を持っています。
「こちらは?」
「木版の経典です。それと小さな飾りをいくつか」
紙袋の中では、小さなキーホルダーが触れ合って、かすかに音を立てています。
「軽いものを選んだんですね」
「ところが数を買いましたので、結局そこそこ重くなりました」
「お土産あるあるだね」
フランソワさんが小さく笑いました。
◇ ◇ ◇
オスマン側の人も戻ってきました。
「私はこれです」
箱を見せます。
「トロリーバス?」
「模型です。よくできていますよ」
「架線は?」
「先ほどもおっしゃっていましたな」
「やっぱり欲しい」
「帰りましたら、自分で作ってみましょうか」
「それ、いいですね」
もう一人は、もっと大きな箱を抱えています。
「何を買ったんですか」
「大学です」
「大学?」
「ライデン大学ラサ分校です」
箱の絵には、中央部を高くした左右対称の大きな校舎が描かれています。
「建物をお土産にする人もいるんですね」
「模型なら持って帰れますからな」
「本物は無理ですね」
「本物を持って帰られては、ラサの学生が困ります」
近くにいた大学関係者が笑いました。
どろちゃんも同じ箱を持っています。
「お嬢様もお買いになったのですね」
「うん」
「では、お二人とも大学をお持ち帰りです」
「言い方がおかしいよ」
◇ ◇ ◇
別の人は、薄い束を抱えて戻ってきました。
「絵はがきですか」
「ええ。ポタラ宮のほかにもいろいろあります」
何枚か見せてもらいます。
雪山を背景にしたラサ。
トロリーバスの走る街路。
ライデン大学ラサ分校。
集合住宅。
飛行場。
夜の滑走路。
「これ、今日降りたところだ」
「こちらも買いました」
もう一枚出てきました。
フルシチョフカです。
「集合住宅まで絵はがきになるんだ」
「新しいラサの景色なのでしょう」
その本人は、さらに小さなフルシチョフカの模型まで買っています。
「同じもの二つ買ってる」
「絵と立体では違います」
「それはそうだけど」
「お嬢様が大学の模型と大学のカードを両方お持ちなのと同じです」
「ほんとだ」
◇ ◇ ◇
地図を買ってきた人もいました。
かなり大きな折りたたみ地図です。
「これ、見せてください」
どろちゃんは自分でも買ったのに、もう一度広げました。
「同じ地図では?」
「版が違う」
「そこをご覧になるのですね」
こちらには街道ごとの日程表が大きく付いています。
ウイグルから天山、タクラマカン周辺、チベット、ヒマラヤ、ブータンまで。
馬車。
らくだ。
駄獣。
街道。
水場。
距離。
日数。
「これ、大学で使うんです」
持ってきた人が言いました。
「地理?」
「地理にも交易の記録にも使えます。どこから何が何日かかって来るのか分かれば、運賃や食料の量も見積もれます」
「なるほど」
「空路が増えても、地上の道は残りますから」
「むしろ比較できるようになるね」
どろちゃんは地図を畳みました。
◇ ◇ ◇
最後の何人かが戻ってきます。
頬が真っ赤です。
「外へ行ったんですか」
「少しだけ」
「寒かったでしょう」
「少しではありませんでした」
「だから言ったのに」
どろちゃんが笑いました。
「どこまで行ったんですか」
「空港の建物の外へ出て、少し周りを見ただけです。町へ行くのは諦めました」
「それが正解です」
マルガレーテさんも言いました。
「二時間ございます、と申し上げましたが、町まで行って帰ってくるための二時間ではございません」
「よく分かりました」
「もう一杯、温かいのありますよ」
どろちゃんが言いました。
「まだ紅茶を配っているのですか」
「寒そうだったから」
「ああ、それはありがたい」
残してあったジャム入り紅茶を渡します。
その人は両手でカップを持ちました。
「生き返ります」
「大げさ」
「外へ出れば、この言い方になりますよ」
「じゃあ私ももう一杯」
「お嬢様」
フランソワさんが見ています。
「なに?」
「先ほどもお飲みになっておられました」
「今日は寒いから」
「その言葉は便利ですね」
◇ ◇ ◇
ここから乗るラサ大学関係者も揃いました。
北京で降りる人。
北京を経由して、そのままイスタンブールまで行く人。
それぞれ荷物を持ってドア前へ来ます。
トルシー侯が一人ずつ確認しました。
「北京までですね」
「はい」
「こちらの方は、イスタンブールまで」
「そうです」
「お荷物はこちらへ。大きなものは客席へ持ち込まず、固定する場所へ回します」
大学の模型が来ます。
トロリーバス。
フルシチョフカ。
布地。
経典。
アクセサリー。
地図。
絵はがき風のカード。
行ったときより、ずっと荷物が増えました。
「これは壊れませんか」
大学模型を持った人が聞きます。
FEさんが箱を見ました。
「箱のまま置ける場所へ固定します。上へ重いものは載せません」
「お願いします」
「トロリーバスはこちら」
「はい」
「布は手荷物でも大丈夫です。ただし、通路へ出さないでください」
「分かりました」
マルガレーテさんと三人の給仕さんも客室へ戻り、増えた手荷物を見ながら収納を確認しています。
「こちらの箱は、お席の下へ入りませんのでお預かりします」
「お願いします」
「この袋は上へ入ります」
「はい」
買い物をすると、乗務員の仕事も少し増えます。
◇ ◇ ◇
トルシー侯が名簿を最後まで見ました。
ラサで降りた人は、もう大学側へ引き渡されています。
ここから乗る人も揃いました。
待合室へ出ていた通過客も戻っています。
「全員、確認できました」
「ありがとうございます」
どろちゃんが答えました。
「一人も置いていっておりません」
「それがいちばん大事」
「町まで行かれた方がいなかったので助かりました」
「マルガレーテさんがちゃんと言ってくれたからね」
マルガレーテさんは、もう客室側の仕事へ戻っています。
少しして、ナーロッパ共通語の案内が流れました。
『皆さま、お席へお戻りください。まもなくラサを出発いたします。お買い求めになったお品物も、座席の周囲や通路へ置かず、収納または乗務員がお預かりした場所へお願いいたします。シートベルトをお締めになり、出発までそのままお待ちください』
紙袋が収まります。
箱が固定されます。
布の包みが棚へ入ります。
地図を開いていた人も、最後に折り目を確かめて片づけました。
どろちゃんは、自分で買ったライデン大学ラサ分校の模型をフランソワさんへ渡します。
「これ、どこに置く?」
「お嬢様のお荷物と一緒に固定していただきましょう」
「壊れないところね」
「はい。壊れないところへ」
「地図は手元に持っていく」
「次の区間でもご覧になりますか」
「たぶん」
「では、操縦席へお戻りになる前に畳んでくださいませ」
「はーい」
ドア前では、最後の確認が終わりました。
「乗降口、閉めます」
FEさんから声が来ます。
外の冷たい空気が細くなり、やがて途切れました。
ロックを確認します。
客室には、二時間前にはなかった色鮮やかな布や模型や紙袋が増えています。
人も入れ替わりました。
エルレンフェルトからラサへ来た大学関係者は降りました。
ラサから北京へ向かう人が乗りました。
イスタンブールまで行く人も乗りました。
そして、みんな少しずつラサのお土産を持っています。
ELBI0204便は、次の目的地、北京へ向かう準備に入りました。




