160貴族令嬢は、みんなのおうちを見に行きます。 清とオスマントルコの駐在員さん用住宅を探しに行きます。
第160章 貴族令嬢は、みんなのおうちを見に行きます
二月四日。
朝のエルレンフェルトは、よく晴れていました。
ホテル棟の窓から外を見ると、夜のあいだに降りた霜で、芝生も道の脇も白くなっています。
「白いですね」
フランソワさんが窓の外を見ました。
「うん。でも晴れてる」
「今日は見に行きやすそうでございます」
朝食を終えるころ、執事さんが鍵の束と図面を持ってきました。
「新滑走路西の住宅を、何軒か開けてございます。すぐにご案内できます」
「お願いします」
今日の主役は、清国とオスマン帝国からエルレンフェルトへ常駐する人たちです。
国連への加盟手続きそのものは、両国の全権と、当番を務めるルイ十四世のあいだで必要な調整まで終わっています。全権二人は今日のムリヤちゃんで帰国します。
でも、その二人も家を見に行くと言いました。
「私は今日帰りますが、どのようなところへ駐在するのかは見ておきたいですな」
清国の全権さんが言います。
オスマン側の全権さんも頷きました。
「私も参ります。イスタンブールへ帰ってから、陛下へ報告できます」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
ほかにも見に行きたい人が少し増えました。
見学する人数は絞りました。実際に住む駐在組が、部屋の使い方や必要な設備を落ち着いて決められる人数です。
◇ ◇ ◇
ホテル棟を出ると、空気が冷たく鼻に入ってきました。
朝日が当たったところから、霜が少しずつ消えています。日陰はまだ白いままです。
水玉船前駅へ入ります。
「この駅を毎日使うことになるのですか」
清国側の常駐代表が聞きました。
「たぶん、かなり使うと思います。新滑走路西のおうちなら、駅も近いです」
「国連本部へ行くときも?」
「はい。乗ってしまえばすぐです」
ピーチライナーが入ってきました。
今日も普通の電車です。
仕事へ行く人、買い物へ出る人、荷物を持った人が乗っています。その中へ、清国とオスマン帝国の新しい駐在組も入ります。
貸切にはしていません。
「こちらの方々も、同じ列車を使われるのですね」
「そうですよ。新滑走路西と南に住む人は、だいたいこれです」
どろちゃんが答えると、オスマン側の人が窓の外を見ました。
「馬車を毎朝用意しなくてよいのは助かります」
「遊びに行くときも使えます」
「遊びに?」
「お休みの日なら、どこか見に行ってもいいでしょう。駅から駅へ行けますから」
清国の全権さんが笑いました。
「駐在を始めれば、本国からあちらへ行け、こちらを見てこいと、すぐ仕事が届くでしょうな」
常駐代表も笑います。
「フランス、イングランド、ネーデルラント、イタリア。それにポルトガルへ出張せよと言われれば、休みの日が先に消えそうです」
「それもありそう」
列車は住宅地へ向かいます。
窓の向こうに新滑走路が見えました。
その手前には、ケールから移してきた大きな屋敷が点々と並んでいます。旧市街のように建物が詰まっていません。庭と道を取ったうえで、一軒ずつ間を空けて建っています。
新滑走路西駅で降りました。
◇ ◇ ◇
最初の屋敷へ向かいます。
外壁には、移築してから時間がたった部分と、補修した部分の色の差が少し残っています。
執事さんが鍵を開けました。
「こちらは、ケールから移した商人屋敷の一つでございます。建物はすでにエルレンフェルト側で取得して移築したものです。入居が決まりましたら、外装と内装を改めて整えます」
中へ入ります。
玄関から廊下が延び、左右に部屋があります。
「こちらは来客用に使えます。奥が食堂で、その隣が客間です」
清国側の人たちが奥へ進みました。
食堂は大きく、長い机を置いてもまだ周囲を歩けます。
「何人ほど入れますか」
「食事の出し方にもよりますが、二十名ほどの会食でしたら十分にできます」
「二十名」
常駐代表が部屋を見回しました。
「公の会議は国連本部で行えます。しかし、少人数を招いて話すこともあります。この広さなら使えますな」
「厨房からこちらへ料理を運べます。給仕の動線も取れます」
執事さんは隣の扉を開けました。
「上階には寝室と客室がございます。書記の方や、お付きの方が同居される場合も部屋を分けられます」
「こちらがよいと思います」
清国側の常駐代表は、思ったより早く言いました。
全権さんが聞きます。
「もう決めるのですか」
「駅が近く、仕事に使える客間があり、二十人ほど招ける。毎日住む側から申せば、十分です。別の家を十軒見ても、最後にここへ戻る気がします」
「それなら決まりですね」
どろちゃんも笑いました。
執事さんは帳面へ書き込みました。
「では、清国側の常駐代表公邸として手続きを進めます」
「電話は使えますか」
「回線の引き込みはこれからでございます。住宅地までは来ておりますので、この屋敷へ支線を入れれば使えます」
どろちゃんが壁際を見ました。
「電線も一緒に工事できますね」
「はい。外装の工事と重ならない順番で入れます」
清国側の人が聞きました。
「電話は、この町の中だけですか」
「近距離は交換手さんに相手を言えばつないでもらえます。それから、エルレンフェルトを通して、中心四か国の王宮や、ネーデルラント代表のいる場所へ伸びている長距離回線もあります」
「電信を出して返事を待たなくても、話せるのですか」
「回線が空いていれば、その場で話せます」
「ずいぶん違いますな」
「ただし、一組のメタル回線に載せる通話は一つだけです。いくつもの会話を同じ線へ重ねる仕組みにはしていません。誰かが使っていれば、交換手さんが空くまで待ってもらいます」
「遠いところへも、同じようにつないでもらえるのですか」
「はい。交換手さんに、つないでほしい相手を伝えてください。回線が空いていれば、そのままつないでもらえます」
全権さんが笑いました。
「それなら、町の中へ頼むのと同じですな」
「はい。長距離の回線は数が少ないので、使っている人がいれば少し待ちます」
清国側の人たちは、もう一度食堂と客間を見ました。
家は決まりました。
◇ ◇ ◇
「では、次はオスマン側でございます」
執事さんが外へ出ます。
「遠いですか」
「お隣です」
歩き始めました。
庭の端を回り、道を少し進みます。
まだ着きません。
オスマン側の人が笑いました。
「これでお隣なのですか」
「五十メートルくらいです」
どろちゃんが答えました。
「五十メートル」
「この辺りでは、お隣です」
次の屋敷も、ほぼ同じ規模でした。
ただし、間取りは違います。
大きな食堂と客間があります。こちらも二十人規模の会食を開けます。
さらに廊下の奥に、少し独立した部屋がありました。
執事さんが扉を開けます。
「以前の住人が祭壇を置いていた部屋です」
壁際に、キリスト教式の祭壇と装飾が残っています。
オスマン側の常駐代表が中へ入りました。
「この部屋を礼拝に使えそうです」
「祭壇は外しますか」
「はい。壊さずに外して保管してください。室内はこちらの礼拝に合わせて直していただきたい」
「承知いたしました」
どろちゃんは窓の方を見て、それから持ってきた地図を開きました。
「向きを確認しますね」
オスマン側の人たちも地図へ寄ります。
「この部屋を使うなら、こちらがメッカの方向です」
部屋の長い軸とは少しずれています。
一人が床を見ました。
「敷物を斜めに置けば礼拝はできます」
別の人が言いました。
「毎日使う部屋です。できるなら、最初から合わせたいですね」
執事さんが少し考えました。
「建物を回しましょうか」
オスマン側の人が顔を上げました。
「建物を?」
「はい。曳家ができます」
「この家を、丸ごとですか」
「もともと解体して運び、こちらで組み直した建物です。敷地にも余裕があります。基礎を準備して持ち上げ、必要な角度だけ回して据え直すことができます」
どろちゃんも地図を見たまま頷きました。
「電線と電話線はまだ引き込んでないから、今の方がやりやすいですね」
「排水と入口の道は、向きを変えたあとで合わせ直します」
常駐代表は、もう一度祭壇のある部屋を見ました。
「それなら、この部屋を礼拝室にしましょう。建物そのものは使い、内部を我々の使い方へ改めます」
全権さんが少し笑いました。
「アヤソフィアと同じ考え方ですな。建物を捨てず、使う側に合わせる」
「こちらは、建物そのものまで回せますが」
どろちゃんが言うと、何人かが笑いました。
「それはアヤソフィアより大掛かりです」
決まりました。
オスマン側も、この家です。
◇ ◇ ◇
執事さんの帳面が急に忙しくなりました。
「では、本日から手配いたします。清国側は外装の塗り直し、内装の貼り替え、電気と電話の引き込み。暖房、水回り、煙突ももう一度点検します」
「家具は?」
「残っているものを確認して、不足分を入れます。机や書棚など、仕事に必要なものは先にそろえます」
次にオスマン側です。
「こちらは最初に曳家です。建物を持ち上げて向きを変え、基礎へ据え直します。そのあと入口、排水、外装を整えます。祭壇と宗教装飾は取り外して保管し、礼拝室の内装と床を整えます。それから電気と電話を引き込みます」
「どのくらいかかりますか」
「突貫で進めます。ただ、今日の夜から住める状態にはなりません」
「もちろんです」
オスマン側の代表も笑いました。
「家の向きが変わる途中で寝るのは避けたいです」
「しばらくホテルですね」
どろちゃんが言いました。
執事さんは別の紙を出します。
「ホテル棟のファーストは、両国の駐在組について長期契約へ切り替えます。お荷物もそのまま置いていただけます。食事はホテルレストランをご利用ください」
「朝も夜も?」
「はい。仕事の時間に合わせてお取りいただけます」
「それなら困りませんな」
清国側の常駐代表が言いました。
「家が完成するまで、毎日工事を見に来てもよいですか」
「もちろんです。水玉船前からピーチライナーで新滑走路西まで来られます」
「仕事がなければ、そのまま別の駅まで乗って町を見ることもできる」
「できますよ」
どろちゃんが答えます。
オスマン側の全権さんが笑いました。
「先ほども申しましたが、本国がその暇を与えてくれるかどうかですな」
「パリへ行け」
清国側の人が続けます。
「ロンドンへ行け」
「ネーデルラントの港を見てこい」
「ポルトガルの商人と話してこい」
「家が完成する前に、出張の方が先に始まりそうです」
みんな少し笑いました。
エルレンフェルトへ常駐する人たちは、国連本部での仕事に加えて各国へ出向き、見て、話して、本国へ報告する役目も持ちます。
各国へ行き、見て、話して、本国へ報告する仕事も始まります。
◇ ◇ ◇
昼前にホテルへ戻りました。
朝は白かった芝生の霜が、日なたではほとんど消えています。
ホテルレストランで昼食です。
今日ここへ残る人と、午後のムリヤちゃんで帰る人が同じ卓にいます。
清国の全権さんが常駐代表へ言いました。
「家も決まりましたな」
「はい。あとは工事を待ちます」
「国連側の手続きは、こちらでルイ十四世と必要なところまで調整してあります。あとは常駐する皆さんの仕事です」
「承知しております。北京へお戻りになりましたら、こちらからも連絡を送ります」
オスマン側でも同じような話をしています。
「私は北京を経由してイスタンブールへ戻ります」
全権さんが言いました。
「こちらはお任せください」
「家が回ったところを見られないのが残念です」
「写真を送ります」
「それはぜひ」
どろちゃんはスープを飲みながら聞いていました。
朝、一緒に家を見に行った人たちのうち、半分ほどは午後から別の方向へ進みます。
◇ ◇ ◇
そのころ、新滑走路ではムリヤちゃんの準備が進んでいました。
イスタンブールから運んできた荷物のうち、エルレンフェルトで使うものは降ろしてあります。
どろちゃんが買った約二十トンのタイルも、エルレンフェルトで降ろし終えました。
清国へ持っていくお土産と荷物は、北京で降ろす位置へまとめられています。
ハイラックスと空のトレーラーは、そのまま載っています。
貨物室には、MRJの座席を使った旅客用パレットが百二十席分。
トイレパレット。
ギャレーパレット。
そして食事です。
今日はエルレンフェルトから出ます。
長距離便へ温かい食事を積み込める設備があるので、パン、温めて出せる料理、スープ、果物、茶、飲み物まで、かなりの量を積みました。
ラサへ着けば、今度は大学関係の人が入れ替わります。
エルレンフェルトからは、ラサ大学へ向かう交代要員が乗ります。
ラサでは、任期や出張を終えた人たちが待っています。
北京で降りる人。
北京を経由してイスタンブールまで行く人。
ラサから先も、百二十席は無駄になりません。
◇ ◇ ◇
昼食が終わると、出発する人たちは再びピーチライナーへ乗りました。
今度は新滑走路です。
午前中に家を決めた常駐組は、ホテルへ残ります。
清国の全権は北京へ。
オスマン帝国の全権は、北京を経由してイスタンブールへ。
康熙帝も北京へ戻ります。
ラサ大学へ向かう交代要員も乗ります。
新滑走路へ着くと、ムリヤちゃんの大きな機体が待っていました。
ランプの近くでFEさんが搭乗名簿を見ています。
「お嬢様、貨物の固定は終わっています。ハイラックスとトレーラーもそのままです」
「タイルは?」
「すべて降ろしました。北京向けの荷物も固定済みです」
「座席は百二十?」
「はい。MRJ座席パレットを百二十席分入れてあります。通路も確保しております」
もう一人のFEさんが機内から降りてきました。
「燃料も予定量まで入っています。ラサ側へ飛行計画を送ってあります」
「ありがとう」
給仕側も準備が終わっています。
マルガレーテさん。
その下で働く三人。
今日は四人で乗ります。
「食事、多いね」
どろちゃんがギャレー側を見ました。
「はい。ラサまでの夕食だけでも人数がありますし、その先もございますから」
マルガレーテさんが答えました。
「ラサで乗る方の名簿も来ています。北京で降りる方と、イスタンブールまで行かれる方に分かれております」
「分かりました」
「上は私が見ます。下の百二十席側は三人で回します」
「お願いします」
操縦は、どろちゃんとフランソワさん。
護衛を兼ねるFEさんが二人。
客室はマルガレーテさんと三人の給仕さん。
今日のムリヤちゃんは、この八人で運航します。
◇ ◇ ◇
搭乗が終わりました。
康熙帝と主要な随員、両国の全権は上部デッキへ入ります。
ラサへ向かう大学関係者の多くは、下のMRJ座席パレット側です。
手荷物が収まり、扉の前も通路も空きました。
どろちゃんは左席へ座ります。
右席はフランソワさんです。
「今日は途中が二つあるから、便名も長いね」
「エルレンフェルト、ラサ、北京、イスタンブールでございますね」
「うん。ELBI0204」
途中に立ち寄る都市を、飛ぶ順番に並べます。
エルレンフェルトのE。
ラサのL。
北京のB。
イスタンブールのI。
そして、出発地側の日付、二月四日です。
どろちゃんはマイクを取りました。
「今日は四つで言います」
「チベット語も、でございますね」
「うん。ラサで降りる人もいるし、ラサの人にも分かるから」
最初はナーロッパ共通語です。
『皆さま、本日はアエロフロート・エルレンフェルト航空、ELBI0204便をご利用いただき、ありがとうございます。機長のドロテーヤ・フォン・エルレンフェルトでございます。これよりエルレンフェルトを出発し、最初の目的地ラサへ向かいます。その後、北京を経由してイスタンブールへ向かいます』
そのまま、清国側の言葉へ変えます。
『皆さま、本日はアエロフロート・エルレンフェルト航空、ELBI0204便をご利用いただき、ありがとうございます。最初にラサへ着陸し、その後は北京、イスタンブールの順に飛行いたします』
次はオスマン・トルコ語です。
『皆さま、本日はご搭乗ありがとうございます。ELBI0204便は、エルレンフェルトからラサ、北京を経由してイスタンブールへ向かいます。区間ごとに乗り降りがありますので、お降りになる場所までどうぞごゆっくりお過ごしください』
最後はチベット語です。
『皆さま、本日はご搭乗ありがとうございます。最初の目的地はラサです。到着は夜間になります。ラサでお降りになる方は、到着前の案内をお聞きください』
マイクを戻します。
フランソワさんが笑いました。
「四回続くと、かなり機長らしい放送でございます」
「最後まで自分で何を言ってるか分かるから楽だよ」
「普通は、そこが一番難しいのでございますが」
続いて、マルガレーテさんの声が客室へ流れました。
こちらはナーロッパ共通語だけです。
『皆さま、離陸前のご案内を申し上げます。シートベルトは腰の低い位置で確実にお締めください。外すときは金具を持ち上げます。非常口の位置をお確かめください。離陸中はお席を立たず、お手回り品は通路へ出さないようお願いいたします。乗務員から案内があった場合は、その指示に従ってください』
下の客席では、三人の給仕さんが座席を見て回ります。
百二十席には、まだ空席もあります。
それでもラサ大学の交代要員と、北京方面まで乗る人たちが加わり、いつもの少人数便よりずっと人が多くなっています。
◇ ◇ ◇
「扉、確認できています」
FEさんから声が来ました。
「貨物固定、異常ありません」
もう一人からも返事です。
無線。
油圧。
電気系統。
操縦系統。
燃料。
外の風。
必要なところを確認します。
「始動します」
「はい、お嬢様」
六発のエンジンが、一基ずつ動き始めます。
音がそろいました。
ムリヤちゃんは駐機位置を離れ、新滑走路へ向かいます。
朝、家を見に行った新滑走路西の住宅地も近くです。
清国側とオスマン側の二軒では、もう工事の手配が始まっています。
片方は塗装と内装。
もう片方は、その前に家を回します。
「午前中は家を決めて、午後はラサか」
「忙しい一日でございますね」
「明日は北京だよ」
「ラサの時刻では、今日のうちに明日になりそうでございます」
「東へ飛ぶからね」
滑走路へ入ります。
「離陸します」
「はい、お嬢様」
六発の出力を上げました。
ムリヤちゃんが走り始めます。
速度が上がります。
機首を上げます。
主脚が滑走路を離れました。
冬のエルレンフェルトが下へ遠ざかります。
◇ ◇ ◇
巡航へ入ると、客室では最初に飲み物が出ました。
昼食を食べたばかりなので、すぐに大きな食事は出しません。
上部デッキでは、マルガレーテさんが茶を運びます。
「陛下、お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう」
康熙帝は窓の外を見ていました。
「明日には北京か」
「ラサで一度降りますので、北京へはそのあとでございます」
清国の全権さんが隣で言いました。
「私は北京で降りますが、あちらの全権殿はまだ先ですな」
オスマン側の全権さんが笑います。
「北京からイスタンブールが残っています。家を見に行った朝から考えると、ずいぶん長い帰り道です」
「空を飛んで長いと言えるなら、馬車で帰るよりはよいでしょう」
「それは間違いありません」
下の客席では、ラサへ向かう大学関係者たちが話しています。
「今夜着くのですか」
「はい。夜間です」
「暗くても降りられるのですね」
近くにいた給仕さんが答えました。
「ラサの飛行場は夜間の着陸に対応しております。到着前に改めてご案内いたします」
「荷物は、着いてすぐ降ろすのでしょうか」
「大学向けの荷物は行き先別にまとめてあります。機体が止まってから地上の担当者と確認いたします」
ラサで降りる人。
そのまま乗る人。
ラサから新しく乗る人。
一回の着陸で、客室の顔ぶれがかなり変わります。
◇ ◇ ◇
時間がたちました。
窓の外が暗くなります。
夕食の時間になると、四人の給仕さんが動き始めました。
上部デッキはマルガレーテさん。
下では三人がギャレーパレットとMRJ座席パレットのあいだを往復します。
『こちら、温かくなっております。お気をつけください』
「ありがとうございます」
『お茶のお代わりはいかがですか』
「お願いします」
『パンもお持ちします』
昼に大量に積み込んだ食事が、次々に客席へ出ていきます。
食べ終わった皿は残しません。
揺れが来る前に片づけられるよう、食事の進み方を見ながら回収します。
部下三人も、ホテルレストランに加えてムリヤちゃんの長距離便を担当するようになりました。
ムリヤちゃんの長距離便で、実際に百二十席側を回しています。
夕食が終わるころには、客室の照明が少し落とされました。
眠る人もいます。
書類を開く人もいます。
清国の全権さんは、また紙を読んでいました。
「またお仕事ですか」
どろちゃんが休憩で客室へ出たときに聞きました。
「帰れば、今回の加盟手続きとイスタンブールでの話を報告せねばなりません」
「今日、おうちまで見に行ったことも?」
「もちろんです。駐在する者がどこで暮らすかも、立派な報告事項です」
「五十メートル離れたお隣さんも?」
「それも書いておきましょう」
オスマン側の全権さんが横から言いました。
「こちらは、家を丸ごと回すことまで書かなければなりません」
「それは報告した方がいいですね」
「陛下がお聞きになれば、完成したころに見に来たいと言われるかもしれません」
「そのときは電話してください」
「それも新しい話ですな」
全権さんは笑いました。
◇ ◇ ◇
さらに東へ進みます。
エルレンフェルトの時計で見れば、まだ二月四日の夜です。
でも、ラサの地方時はずっと先へ進んでいます。
日付は、もう二月五日になりました。
操縦席へ戻ったどろちゃんは、ラサから送られてくる気象情報を確認します。
風向。
風速。
視程。
雲。
気温。
滑走路の状態。
フランソワさんも同じ情報を見ました。
「夜間でも、視程は取れております」
「風はこっちですね」
「はい。こちらの方向から進入するのがよろしいかと存じます」
ラサの滑走路には、両方向から使えるILSが整備されています。
エルレンフェルトに次いで、かなり早い時期に整えた着陸設備です。
理由は、この暗い窓の外にあります。
山です。
昼なら見える山並みも、夜になると地面の暗さへ溶け込みます。雲があれば、なおさら見えません。
ラサへ夜間に入る飛行機が、滑走路を探しながら早く高度を下げるような運航はできません。
まず、あらかじめ決めた安全高度と進入経路を守ります。
地形から十分離れたまま、最終進入へ入る位置まで来ます。
その最後を、ILSのローカライザーとグライドスロープで滑走路へ導きます。
一方向だけに設備を置くと、風向によっては追い風側から無理に降りることになります。
だから、ラサでは滑走路の両方向へ設置しました。
「山にぶつかる方が怖いから、ここは真っ先に入れたんだよね」
どろちゃんが計器を見ながら言いました。
「はい。夜間に使うようになれば、なおさらでございます」
使用する側のILSへ周波数を合わせます。
「ラサ、こちらELBI0204。進入を開始します」
地上から返事が来ます。
使用する進入方向と、最新の風が伝えられました。
「了解しました」
◇ ◇ ◇
「マルガレーテさん、到着案内をお願いします」
『承知いたしました』
少しして、客室へ声が流れます。
マルガレーテさんの案内は、いつもどおりナーロッパ共通語です。
『皆さま、ELBI0204便は、まもなく最初の目的地ラサへ到着いたします。ラサでお降りになる方も、そのままご搭乗になる方も、お席へお戻りになり、シートベルトをお締めください。お手回り品は収納へお戻しください。着陸後、機体が停止してから乗務員がご案内いたします』
四人の給仕さんが食器と手回り品を確認します。
ラサ大学へ向かう交代要員も席へ戻りました。
ラサで待っている帰国組は、まだ地上です。
北京へ向かう人もいます。
イスタンブールまで乗る人もいます。
その入れ替わりは、着陸してからです。
◇ ◇ ◇
操縦席の前は暗いままです。
山の輪郭はほとんど見えません。
「ローカライザー、入ってきました」
フランソワさんが計器を見ます。
「確認しています」
どろちゃんは機体を少し修正しました。
指示が中央へ寄ります。
「捕捉」
まず横方向が決まりました。
まだ高度は不用意に下げません。
安全高度を守ったまま、グライドスロープが上から近づいてくるのを待ちます。
「グライドスロープ、来ます」
「見えています」
指示が合いました。
「降下します」
「はい、お嬢様」
ムリヤちゃんが、決められた降下経路へ入ります。
ローカライザーの中央を外さない。
グライドスロープからも外れない。
速度を整えます。
脚を下ろします。
FEさんから確認が入ります。
「脚、確認できています」
「フラップ、着陸位置へ」
「確認いたしました」
暗い高原を、計器の指示に沿って降りていきます。
どろちゃんは外と計器を交互に見ます。
やがて、暗闇の中に滑走路の灯火が見えてきました。
「見えた」
「滑走路、確認いたしました」
ここからは目でも位置が分かります。
ILSの指示を見ながら、そのまま進入を続けます。
滑走路が大きくなります。
降下率を小さくします。
フレア。
主脚が舗装面へ接地しました。
大きなタイヤが回り始めます。
機首をゆっくり下ろします。
六発の音が変わり、ムリヤちゃんの速度が落ちていきました。
真夜中のラサです。
エルレンフェルトを昼食後に出たELBI0204便は、最初の目的地へ着陸しました。




