第159章 貴族令嬢は、帰国します。
第159章 貴族令嬢は、帰国します
数日が過ぎました。
二月三日。帰国の日です。
朝のトプカプ宮殿では、帰国する人たちの荷物が先にまとめられ、馬車も用意されています。
今回使うのは、エルレンフェルトから持ってきた新型馬車です。外から見れば上等な四輪馬車ですが、座席の中には電車用のクッションが入っています。前に古い馬車で二時間以上揺られたときのように、着いたころにはみんなのお尻が痛い、ということにはなりません。
四台の馬車には、それぞれ二頭ずつ馬がつながれました。馭者さんたちはイスタンブールの道を知っています。
帰国する人たちの多くは、この馬車でムリヤちゃんのいる滑走路へ向かいます。
トプカプ宮殿から滑走路までは二十キロメートル少々ですが、馬車なら片道二時間を少し超えます。
どろちゃんとフランソワさんは、その馬車には乗りません。
「先にガラタへ行こう」
「はい、お嬢様」
二人は宮殿の海側の桟橋へ下り、船を一艘頼みました。金角湾へ出て、ガラタ側の桟橋へ渡ります。
ガラタの家では、常駐の管理人さんが待っていました。
「おはようございます。今日、零式三座を一度出します」
「承知いたしました」
船倉庫の中には、翼を大きく畳んだ零式三座があります。
管理人さんにも手伝ってもらい、既存のウインチを使って台車ごと船倉庫の外へ出します。入口を通り抜けて十分な幅が取れたところで、左右の主翼を展開しました。
ロックを確認します。
そのまま台車を水際へ送り、零式三座を水へ浮かべます。
今日の最初の移動は、ガラタからムリヤちゃんのいる滑走路近くまでです。
どろちゃんが前に座り、フランソワさんも乗り込みました。
エンジンを始動します。回転が安定するのを待ち、計器、舵、水面、周囲の船を確認しました。
「行くよ」
「はい、お嬢様」
零式三座はガラタの水面を離れました。
目的地はすぐ近くです。
マルマラ海側へ出て、ムリヤちゃんを置いている滑走路近くの海岸まで五分から六分ほどです。
馬車なら二時間以上かかる距離を、零式三座はほんの数分で飛びます。
どろちゃんは以前零式三座を降ろした海岸を見つけ、風と水面を確認して着水しました。
フロートが水へ触れ、飛沫が後ろへ流れます。速度を落として岸へ寄せました。
「ここで降りるね」
「はい。ハイラックスを宮殿へ回しておきます」
フランソワさんが岸へ上がり、滑走路側へ歩きます。
ムリヤちゃんの近くには、ハイラックスが残してあります。前に零式三座を進水させたあと、台車や水中レールを片付け、ハイラックスをここへ戻してありました。
ハイラックスはフランソワさんもFEさんたちも使える共用の地上車です。フランソワさんはそのまま運転席へ向かいました。
どろちゃんはフランソワさんが岸へ上がったことを確かめると、零式三座をもう一度沖へ出しました。
「じゃあ、ガラタへ戻るね」
今度は一人です。
出力を上げ、離水します。
帰りも五分から六分ほどです。
さっき飛んできた道を、そのままガラタへ戻りました。
◇ ◇ ◇
そのころフランソワさんは、ハイラックスで滑走路を出ていました。
目的地はトプカプ宮殿です。
二十キロメートル少々の道を、ハイラックスなら三十分ほどで走れます。馬車のように二時間以上はかかりません。
宮殿の馬車倉庫の近くには、ハイラックス用のトレーラーが残っています。
イスタンブールへ来たときには、新型馬車四台の予備部品を積んでいたトレーラーです。中の部品はすでに宮殿側へ降ろしてありますから、帰国する今日は空になっています。
フランソワさんは、まずトプカプ宮殿へ向かいます。
同じころ、どろちゃんはガラタへ着水しました。
ガラタの家の前まで水上を進み、朝に使った台車へ零式三座を合わせます。
「戻りました」
「お帰りなさいませ」
管理人さんがまた手伝ってくれます。
零式三座を台車へ載せ、既存のウインチでゆっくり水から引き上げました。
船倉庫の入口まで来たところで止めます。
左右の主翼を大きく折り畳みます。
翼が胴体側へ寄り、横幅が小さくなったことを確認してから、台車ごと船倉庫へ引き込みました。
朝はここから出した飛行機が、もう同じ場所へ戻っています。
「これでお願いします」
「お任せください」
零式三座は帰国便へ積みません。
これからもイスタンブールで使えるように、ガラタの家の船倉庫へ置いていきます。
どろちゃんは管理人さんへお礼を言うと、今度はガラタの桟橋へ向かいました。
また船を一艘頼みます。
行き先はトプカプ宮殿の桟橋です。
空を往復したあとは、船で金角湾を渡ります。
◇ ◇ ◇
フランソワさんのハイラックスは、どろちゃんより先にトプカプ宮殿へ着いていました。
馬車倉庫の近くへ回し、空になっているハイラックス用トレーラーの前へ車を合わせます。
連結部を合わせ、ピンを入れ、外れないことを確認します。
少しして、海側の桟橋からどろちゃんが上がってきました。
「お待たせ」
「ちょうど終わったところでございます」
零式三座は、もうガラタの船倉庫です。
ハイラックスは、空のトレーラーを連結しました。
朝に宮殿を出た馬車組は、まだ滑走路へ向かう途中です。
「じゃあ、私たちも戻ろう」
「はい」
二人はハイラックスへ乗りました。
今度は空のトレーラーを後ろへ引いて、トプカプ宮殿からムリヤちゃんのところまで走ります。
こちらも三十分ほどです。
朝からずいぶんたくさんの乗り物を使っています。
最初は船でトプカプからガラタへ渡り、そこから零式三座で滑走路近くまで飛びました。フランソワさんを降ろしたあと、どろちゃんだけが零式三座でガラタへ戻り、飛行機を船倉庫へ収納しています。
そのあと、どろちゃんは船でトプカプへ戻りました。その間にフランソワさんはハイラックスで滑走路からトプカプへ走り、そこで二人が合流しています。最後に空のトレーラーを連結したハイラックスで滑走路へ戻ります。
文章にすると長い移動ですが、零式三座の一航程は五分から六分ほど、ハイラックスは片道三十分ほどです。
馬車がトプカプ宮殿から滑走路まで片道二時間少々かけて進んでいる間に、零式三座の往復と収納、船での移動、ハイラックスとトレーラーの回収まで終わってしまいました。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんのところへ戻ると、FEさんたちはすでに帰国便の積み込みを進めていました。
各国から預かった荷物は、行き先ごとに分けてパレットへ載せられています。飛行中に動かないように固定し、パレットそのものも貨物室の所定位置へ固定します。
FEさんたちはハイラックスを運転し、ムリヤちゃんの貨物扉やランプ、パレットや固定具も扱います。単発ターボプロップへ換装した水上機型のAn-2まで、自分たちで飛ばせるところまで訓練が進んでいます。
「ハイラックス、戻りました」
フランソワさんが声をかけると、FEさんの一人が手を上げました。
空のトレーラーを引いたハイラックスも、そのまま積み込みの列へ回します。
別のFEさんが貨物室側から位置を見て、車を誘導します。車輪を止め、車体とトレーラーをそれぞれ固定し、周囲の通路を確保します。
どろちゃんは、それを横から見ていました。
テネリフェでもFEさんたちはハイラックスを使っていました。旅行の最初に比べると、ムリヤちゃんを動かす仕事をできる人がずいぶん増えています。
しばらくすると、トプカプ宮殿を出た新型馬車も順に到着しました。
馬車から降りてくる人たちは、前に古い馬車で長時間揺られたときより、ずっと普通の顔をしています。トプカプ宮殿からここまでは二時間を少し超えています。それだけ石畳や土の道を走ってきても、前のようにお尻や腰を気にしながら降りてくる人はいません。
「今度は大丈夫そうだね」
「客室を吊っているばねと、下のダンパーが効いているのでございますね」
「うん。座席だけ柔らかくした馬車じゃないからね」
古い馬車では、車輪から入った細かな衝撃を革帯などで柔らかくすることはできても、一度動き始めた客室全体の揺れを積極的に止めることができませんでした。
この四台では、客室を上部の四本のコイルばねで吊っています。路面から入る短い周期の振動を客室へそのまま伝えにくくし、客室の下には四本のダンパーを斜めに組んであります。上下だけでなく、左右への傾き、前後の揺れ、向きがずれる動きまで、客室と下部フレームの相対運動が出ればどこかのダンパーが働きます。
床の中央から下部フレームの中心へ張ったゴムの牽引材は、前後左右へずれた客室を中央へ戻します。
その上で、座席には電車の座席用クッションを流用しています。そのクッションは、内部のコイルばねとシュロ、厚手の布地などで作られています。座席の仕事は、客室を吊るばねとダンパーを通ったあとに残る細かな振動を受けることです。
「二時間乗って、これなら成功だね」
どろちゃんが馬車から降りてきた人たちを見ました。
「はい。前とはずいぶん違います」
フランソワさんも笑いました。
人が揃い、荷物も揃っていきます。
トルシー侯は、今日は完全にいつもの仕事をしていました。
手元の名簿と実際に来ている人を照らし合わせます。帰国する人、イスタンブールへ残る人、随員と護衛、途中の区間まで一緒に乗る予定の人、翌日のラサ、北京方面まで乗る人まで、名前と人数を一つずつ確認し、変更が入っているところは書き直します。
貨物側ではFEさんたちがパレットと車両の積み込みを進め、人の側ではトルシー侯が搭乗者を確認します。それぞれの担当が動き、帰国準備が一つずつ終わっていきました。
◇ ◇ ◇
出発前、アフメト三世も見送りに来ていました。
どろちゃんとフランソワさんは、最後にきちんとご挨拶をします。
「陛下、このたびは長いあいだ大変お世話になりました」
どろちゃんは頭を下げました。
「こちらこそ、ずいぶん多くのものを見せてもらった。気をつけて帰られよ」
「ありがとうございます。またイスタンブールへ参ります」
ガラタの家には零式三座も置いてあります。鉄道Officeもこれから動きます。これからもイスタンブールへ来る用事は続きます。
どろちゃんとフランソワさんは、もう一度アフメト三世へ礼をして、ムリヤちゃんへ乗り込みました。
◇ ◇ ◇
貨物室では最後の固定確認が終わっています。
ハイラックスと空のトレーラー、各国の貨物パレット、旅客用の座席パレットまで、それぞれ所定位置へ収まっています。通路と扉の前にも物は出ていません。
トルシー侯から、搭乗予定者が揃ったことも伝えられました。
機首が閉じます。
どろちゃんは左席、フランソワさんは右席へ座りました。FEさんたちもそれぞれの位置へ入ります。
無線を確認します。
外の風と滑走路の状態を確認し、六発のエンジンを順に始動します。油圧、電気、各系統の表示を見て、異常がないことを確かめました。
給仕さんから機内へ案内が入り、乗客は席へ戻ります。シートベルトを締め、手回り品を収めます。
「ムリヤちゃん、帰ろう」
『うん』
どろちゃんにだけ聞こえる返事です。
地上の人が離れました。
ムリヤちゃんはゆっくり動き出し、滑走路へ入ります。
「離陸します」
「はい、お嬢様」
六発の出力を上げます。
大きな機体が加速し、舗装面の継ぎ目が次々に後ろへ流れます。速度が上がり、機首を上げると主脚が滑走路を離れました。
イスタンブールが下へ遠ざかります。
二月三日。
帰国便は、エルレンフェルトへ向かいました。
◇ ◇ ◇
水平飛行へ移ると、機内も落ち着きました。
給仕さんたちが軽食と飲み物を配ります。
これもいつもの規則どおりです。
きちんとした食事を機内へ積み込める設備が整っているのは、今のところエルレンフェルトとラサだけです。イスタンブールから出る便では、軽食と飲み物までにします。
今日はエルレンフェルトまでなので、軽食と飲み物で十分な距離です。
食べる人は軽く食べ、飲み物をもらい、眠る人は眠ります。
ムリヤちゃんは北西へ進みます。
やがてチロル上空へ入りました。
冬の山々が下に続きます。高いところには雪が残り、谷と山腹の陰が長く伸びています。
ここまで来れば、エルレンフェルトが近づいてきます。
「帰ってきたね」
「はい、お嬢様」
見慣れた地形が前に出てきました。
どろちゃんは降下を始めます。
速度、高度、進入方向を合わせ、脚を下ろします。滑走路が正面へ入りました。
ムリヤちゃんは降下率を小さくしてフレアに入り、主脚が舗装面へ接地します。
大きなタイヤが回り始めました。
機首を下ろし、速度を落として滑走路を離れます。
エルレンフェルトへ帰ってきました。
◇ ◇ ◇
着陸後も、まだ案内が残っています。
今回エルレンフェルトへ来た人の中には、会議棟やホテル棟をまだよく知らない人もいます。国連本部を初めて使う人もいます。
荷物をホテルへ回しながら、必要な案内を始めました。
最初に会議棟へ入り、各国の実務者が集まるときにどこを使うのか、連絡をどこへ出すのかを確認します。次にホテル棟へ移り、今夜泊まる部屋、食事を取る場所、翌朝集まる場所を案内しました。
さらに国連本部へも行きました。
これから四か国だけでなく、正式に加わった国々も一緒に使っていく建物です。どこへ入ればよいのか、会議のときにどう動くのかを、実際に歩いて確かめます。
冬のエルレンフェルトは、日が短いです。
イスタンブールを出る朝から、零式三座を動かし、ハイラックスとトレーラーを回収し、人と荷物をムリヤちゃんへ集め、アフメト三世へ挨拶をして飛び、チロルを越えて帰ってきました。
そのあと会議棟、ホテル棟、国連本部まで回れば、外はもう暗くなっています。
四か国から来ている人たちも、今夜は各国へ散らず、みんなホテル棟へ泊まります。
前夜のイスタンブール最終日には、大規模な夕食会がありました。今日は朝から帰国の作業と移動です。
今夜は、みんな休みたいと言いました。
そこで正式な晩餐会は開かず、必要な人はホテル棟でそれぞれ食事を取り、そのまま部屋へ戻ります。
明日はまた、エルレンフェルトからラサを経由して北京へ飛ぶ日です。
今日はここまで。
おやすみなさい。




