158貴族令嬢は、帰国便の準備をします。
第158章 貴族令嬢は、帰国便の準備をします
レスボス島を離れた零式三座は、エーゲ海からダーダネルス海峡、マルマラ海を戻り、イスタンブールへ近づきました。
朝に出発してから、サモトラケとレスボスの二つの島へ降りています。帰りの機内でも、島嶼部管理官は窓の外をよく見ていました。
海岸と集落、その間を結ぶ道、港の位置が一度に見えます。山の向こう側にある村まで、空からなら地形との関係を続けて追えます。
どろちゃんはガラタ側の水面へ降りる前に、風向と船の流れを見ました。商船の間を縫うようなことはせず、広く空いている水面を選びます。高度を落とし、速度を整え、フロートが水面へ触れると左右へ白い飛沫が広がりました。
水上をゆっくり進み、ガラタの家の船倉庫前へ向かいます。
ここには、以前から船を陸へ引き上げるための設備が残っています。水際まで下りる台車と、それを引くウインチです。
「これ、そのまま使えるね」
「船を引き上げていた設備でございますものね」
フランソワさんが答えました。
零式三座を台車へ合わせ、既存のウインチでゆっくり水から引き上げます。もともと船のために作られた台車とウインチですが、水上機を引き上げるのにもそのまま使えました。
船倉庫の入口まで来たところで、零式三座の主翼を大きく折り畳みます。
飛んでいるときには横へ広がっていた翼が胴体側へ寄ると、必要な幅が一気に小さくなりました。
翼を畳んだ零式三座を、そのまま台車ごとウインチで船倉庫へ引き込みます。
「入った」
「かなり余裕がございますね」
これで零式三座は、ガラタの家に置いておけます。
◇ ◇ ◇
三人はガラタから船を一艘借りました。
金角湾を渡り、対岸へ着くと、そこからは歩きます。
エジプシャン・バザールのあたりを通り、グランド・バザールの脇を抜けます。人の声と荷車の音が続き、香辛料、布、金属製品、食べ物を扱う店が並んでいます。
さらに歩いて、アヤソフィアの近くをかすめ、トプカプ宮殿へ向かいます。
朝には飛行機でイスタンブールを離れたのに、その日のうちにサモトラケとレスボスへ行き、また宮殿へ戻ってきました。
島嶼部管理官が、歩きながら言いました。
「島を管理する者にとって、飛行機は非常に便利でございますね。船でしたら、今日の二つの島を同じようには回れません」
「ライデン大学のモーターグライダーなら買えますよ」
どろちゃんが答えると、管理官が足を少し緩めました。
「購入できるのでございますか」
「はい。高純度のアルコールを燃料に使えます。完成した飛行機をそのまま大きな船へ載せるのではなく、部品に分けて送ってもらえます。着いたところで組み立てるところまで入ります」
管理官は、もう一度振り返るようにガラタの方向を見ました。
「操縦する者は、こちらで育てるのでしょうか」
「二人くらいライデンへ送るのがいいと思います。操縦だけ覚えて帰るより、機体の構造も分かっていた方がいいです。どこを点検するのか、どういう壊れ方があるのか、それから風や雲を見て、飛んでいい日とやめた方がいい日を判断するところまで習ってきた方がいいです」
「気象も、でございますか」
「飛行機はそこが大事です。晴れているか雨が降っているかだけじゃなくて、風向や風の強さ、雲の高さ、山の近くで風がどう変わるかもありますから」
どろちゃんは少し考えました。
「二人で行って、訓練が終わったら二機を持って帰るくらいがいいと思います。分解して運べますから」
「飛ばす場所は、大きな飛行場が必要でしょうか」
「五百メートルくらい、平らな芝生があれば使えます」
管理官の顔が変わりました。
島ごとに巨大な施設を造る話なら、すぐには進みません。平坦な芝地を確保すればよいとなれば、話はかなり違います。
「海から飛び立てれば、さらに便利なのでございますが」
「それは、今のエンジンだともう少し出力が欲しいですね」
どろちゃんは答えました。
「フロートを付けると重くなりますし、水の上を走って速度を上げる間の抵抗も大きいです。今のモーターグライダーのエンジンだと、陸上で使った方が余裕があります」
「なるほど」
「島の中に五百メートルくらいの芝生を作れるなら、今はそっちの方がいいです」
管理官は頷きました。
今日一日、零式三座に乗って二つの島を回ったあとです。飛行機が島嶼行政に使えるという話は、紙の上の説明ではなくなっていました。
どろちゃんは、そのまま続けました。
「ただ、空から爆弾を落とすような使い方は、やめた方がいいですよ」
管理官がどろちゃんを見ました。
「飛行機を兵器にする、ということでございますか」
「ロシアとスウェーデンで、とんでもないことになった例があります」
どろちゃんは、分かっている範囲を順に話しました。
ロシアとスウェーデンは、ライデン大学から盗み出された航空技術を使い、それぞれ二機の動力付き航空機を用意しました。操縦する人も、もともとソアラーを飛ばせる人です。
相手の航空機を地上で壊すため、リンゴほどの小さな爆発物と、燃える液体を入れた瓶を積みました。
ところが、攻撃のために国境を越えたところで、飛行機は消えました。
先に国境へ入った一機が消え、続いていた二機目も消えました。反対側から飛んだ二機にも同じことが起こり、四機とも爆発物を落とすところまで行っていません。
「そのすぐあとに、ロシアとスウェーデンの中で共通語が通じなくなりました」
「国中で、でございますか」
「地域ごとに言葉が分かれました。役所も軍も、中央と地方も、人によって話が通じなくなりました」
管理官の表情が固くなりました。
「それは、神様がなさったのでございますか」
「そこは分かりません」
どろちゃんは首を振りました。
「飛行機が消えたのと、二つの国で共通語が通じなくなったのは、ほとんど同じ時期です。でも、神様が何をして、何を条件にしたのかは聞いていません」
その後、ロシア王国とスウェーデン王国はそのままの形では統治を続けられなくなりました。王は王権を放棄し、旧王国を終わらせ、地方代表、役所、裁判所、税、中央政府との連絡を整えて、新しい共和国を作りました。
さらに外国から新しい主権国家として正式に承認された直後、ようやく両国全土で共通語が戻りました。
「だから、飛行機で爆弾を落とすと危ない、という程度のお話ではないです」
どろちゃんは管理官を見ました。
「国がなくなりました」
管理官は、しばらく何も言いませんでした。
「行政のために使うのが、よろしゅうございますね」
「その方がいいと思います」
ちょうどそのころ、トプカプ宮殿の入口が近づいていました。
◇ ◇ ◇
宮殿へ着くと、島嶼部管理官は何度も頭を下げました。
「本日は、本当にありがとうございました。島のことだけでなく、飛行機についてまで教えていただきました」
「私も二つの島を見られたので、よかったです」
「ライデンへ人を送る件も、上へ報告いたします」
「二人くらいから始めるといいと思います」
「はい」
もう一度お礼を言って、管理官は自分の仕事へ戻っていきました。
どろちゃんとフランソワさんは、トプカプ宮殿でいつも割り当てられている部屋へ戻ります。
島を二つ回った一日は、これで終わりそうに見えました。
部屋には紙が待っていました。
「増えてる」
「VOGからの分と、エルレンフェルトからの分でございます」
フランソワさんが束を分けました。
夕食と身支度を済ませたあと、どろちゃんは机へ座ります。
VOG関係とエルレンフェルト関係の書類を分け、その中から自分の権限で決裁できるものを先に見ます。表題だけで署名することはせず、本文、数字、条件、添付された内容へ目を通し、問題がなければ署名します。
一枚を終えると次の書類を取り、また内容を確認して署名します。フランソワさんは、まだ見ていない束、確認中の束、署名が終わった束を混ざらないように並べました。
「まだある?」
「こちらで最後でございます」
「ほんと?」
「本日届いている分では」
「明日のことは聞かなかったことにする」
フランソワさんが少し笑いました。
最後の一枚へ署名を入れ、どろちゃんはようやくペンを置きました。
◇ ◇ ◇
翌朝。
どろちゃんは起きると、フランソワさんを見ました。
「お風呂行こ」
「はい」
二人とも、もう宮殿のハマムがどこにあるか知っています。
前に来たときのように、浴室の仕組みを一つずつ確かめる必要もなく、女性の係に案内されて暖かい大理石の室内へ入りました。
湯と水を水盤で加減し、身体へかけます。
身体が十分に温まるころ、今日のゴシゴシ係が来ました。
二人とも、目を引く人でした。
一人は、目鼻立ちがはっきりしていて、どろちゃんが見慣れているナーロッパ圏の女性とは少し顔つきが違います。
身体をゴシゴシされながら、どろちゃんが聞きました。
「どこから来たの?」
返ってきた地名を聞いて、どろちゃんは顔を上げました。
「ペルシャ?」
「はい」
どろちゃんは、そのまま相手の言葉へ切り替えました。
「どのあたり?」
今度は、相手の女性が少し驚きました。
「バンダレ・アンザリーです」
「カスピ海のところだ」
「ご存じなのですか」
「知ってるよ。ロシアへ行ったことある?」
「いいえ」
どろちゃんは一瞬だけ不思議に思いました。
アンザリーはカスピ海南岸にあります。北へ向かえばロシア側との往来も考えられる場所です。
ところが、この人自身の移動経路はまったく別でした。
「アンザリーから、どうやってここまで来たの?」
「バクーへ連れて行かれて、そこで売られました」
ゴシゴシされていたどろちゃんの顔から、笑いが消えました。
「それから逃げました。西へ行って、黒海の方まで出ました」
現在の地図でいえば、バクーからアゼルバイジャンを西へ抜け、ジョージア方面へ移動したことになります。
「ジョージアでは農園で働こうと思っていました」
「農園?」
「はい。仕事を探していたら、宮殿の募集がありました」
「ここの?」
「はい」
トプカプ宮殿では、いろいろな出身地、民族、宗教、言語の人を集めるための募集を出していました。
「それで申し込んだの?」
「住むところも仕事もありましたから」
「なるほど」
どろちゃんはまたゴシゴシされます。
「シーア派だよね?」
「はい」
「ここで大丈夫なの?」
「大丈夫です」
スンナ派のオスマン帝国の宮殿に、ペルシャ出身のシーア派の女性が普通に勤めています。
どろちゃんが想像していたより、宮殿の中は宗派だけで人を分けてはいませんでした。
隣でフランソワさんを担当していた女性にも、どろちゃんはそちらの言葉へ切り替えて聞きました。
「あなたは?」
「ソフィアの近くです」
「ずいぶん西だね。イスラム教?」
「キリスト教です」
「え」
今度はキリスト教徒です。
「どうしてここへ来たの?」
「私も同じ募集です」
どろちゃんは二人を見ました。
一人はペルシャのカスピ海沿岸、もう一人はソフィア周辺の出身で、宗派も宗教も違います。
しかも二人とも整った顔立ちをしています。
「これ、いろんな人を集めてるよね」
「はい。いろいろな土地から来ています」
「人間コンプリートみたい」
フランソワさんが横から答えました。
「かなり集まりそうでございますね」
「若い人ばかりなの?」
どろちゃんが聞くと、ペルシャ出身の女性が首を振りました。
「年を取ってからも仕事はあります。台所へ行く人もいますし、清掃や洗濯をする人もいます。ほかの仕事もたくさんあります」
「じゃあ、ずっと働けるんだ」
「はい」
この二人はいま賓客の近くで働いていますが、年齢を重ねれば宮殿の中にある別の仕事へ移ることもできます。
ハマムのゴシゴシ係そのものも大勢います。ナーロッパ圏の出身で、共通語だけで普通に応対できる人もたくさんいます。
「じゃあ、どうして今日は二人が私たちの担当なの?」
二人が少し笑いました。
「お嬢様はいろいろな言葉をお話しになると聞きましたので、私たちが担当になりました」
「選ばれてたんだ」
「はい」
宮殿側も、どろちゃんが出身地を聞き始めることまで予想していたのかもしれません。
そのあとも身体を洗われ、髪も整えてもらい、どろちゃんとフランソワさんは朝からすっかりピカピカになりました。
◇ ◇ ◇
部屋へ戻ると、朝食が用意されていました。
今日は朝食をゆっくり取る時間があります。
焼いたパンに、オリーブ、蜂蜜、卵、干した果物と生の果物が並び、チーズも何種類か用意されています。
どろちゃんは白いチーズを少し切って口へ入れました。
「これ、山羊?」
「そのようでございます」
フランソワさんも少し食べました。
「羊のものより、香りが強いですね」
「山羊のチーズは癖があるね」
もう一口食べます。
「嫌いじゃないけど、ちゃんと山羊だね」
パンには蜂蜜を付け、オリーブをつまみ、別のチーズも少しずつ試します。
昨日は島を二つ回り、夜は書類へ署名し、今朝はハマムでゴシゴシされました。
朝食くらいは、ゆっくり食べます。
◇ ◇ ◇
朝食が終わると、どろちゃんは二月三日の帰国便について要項を作りました。
今回、イスタンブールからエルレンフェルトへ戻るときに使う機体は、来たときより大きくなります。
「荷物も引き受けられるね」
「どの程度までにいたしますか」
「一か国あたり十トンくらいまで」
貨物は、パレットへ載せて飛行中に動かないよう固定できるものに限ります。
「パレットに載せて固定できるものにしてください。飛んでいる途中で動くものは積めません」
「その条件も書いておきます」
フランソワさんが書き留めました。
各国へ回す要項には、帰国する人の名簿だけでなく、イスタンブールへそのまま駐在する人がいる場合、その人たちも知らせてもらうようにします。
フランスについては、すでに大使館があります。
「フランスは、大使館の人を交代させるならそれも対応します、って入れてください」
「帰任する方と、交代で来る方の両方でございますね」
「うん」
もう一つ、大事な注意を書きます。
「美術品と遺跡のものは、法律が変わってるから注意してもらわないと」
どろちゃんたちがイスタンブールへ到着したときと、今では、オスマン帝国側の文化財や遺跡を扱う法律が変わっています。
絵画や彫刻などの美術品、発掘された考古資料、遺跡を構成する石材、柱、壁、床、階段、門、固定された彫刻や建築部材は、十トンの貨物枠があるからといって自由に国外へ持ち出せません。
「到着したときに買えたものでも、今は扱いが違う場合があります。持ち出す前にオスマン側へ確認してください、でお願いします」
「承知いたしました」
貨物をたくさん積めるようになったからこそ、文化財を大きな荷物として運び出すことがないよう、先に注意を回します。
◇ ◇ ◇
帰国便の案内は、エルレンフェルトへ着いたところで終わりません。
「そのあとの便も一緒に回しておこう」
どろちゃんは運航予定を続けて書きました。
イスタンブールからエルレンフェルトへ到着。
その翌日の二月四日は、康熙帝を北京へお送りする便です。エルレンフェルトからラサを経由して北京へ向かいます。
北京では滞在しません。
到着後、必要な乗降と貨物の扱いを済ませたら折り返し、イスタンブールを経由してエルレンフェルトへ戻ります。
「全部乗る人だけじゃなくて、途中だけ乗りたい人も申し込めるようにしてください」
「貨物室の旅客用座席パレットも積めますものね」
「うん。空いている区間があるなら使ってもらおう」
エルレンフェルトまで乗る人、そこからラサや北京へ向かう人、北京からイスタンブールへ来る人、イスタンブールからエルレンフェルトへ戻る人も、それぞれ必要な区間だけ申し込めます。空いている区間ごとに座席を使い、貨物も降ろす場所が分かるようにパレットと行き先を管理します。
「申し込みの変更は、フランス大使館へお願いしてみてください」
「無線電信でございますね」
「うん。イスタンブールで無線電信設備がある大使館、いまはフランスだけだから」
イスタンブール側の連絡はフランス大使館へ集め、そこから無線電信で運航側へ送ってもらいます。
搭乗者の追加や区間の変更、貨物の量とパレット数、イスタンブールへ残る人、大使館員の交代など、出発前までに変わる情報はそこへ集めます。
「ジャン=バティスト・コルベール・ド・トルシー侯が、今回も全区間乗ってくださるそうでございます」
フランソワさんが言いました。
「トルシー侯が?」
「はい。搭乗する方と荷物の申し込みを、通して見てくださるそうです」
「それなら助かる」
イスタンブールからエルレンフェルトへ飛び、翌日はラサ経由で北京へ向かい、そのまま折り返してイスタンブールを経由し、もう一度エルレンフェルトへ戻ります。同じ人が全区間を通して乗れば、途中で乗客や貨物が入れ替わっても、前の区間から続く話を毎回一から説明し直さずに済みます。
帰国便の要項は、各国の担当者へ回されていきました。
あと数日で、イスタンブールを離れます。




