156貴族令嬢は、新しい家を見に行きます。イスタンブールの宮殿から湾を挟んだ対岸に商館をゲット
第156章 貴族令嬢は、新しい家を見に行きます
清国とオスマン帝国の国際連合加盟が決まった翌朝、どろちゃんはフランソワさんと一緒に、昨日アフメト三世からもらった家を見に行くことにしました。
宮殿の役人に案内されて向かったのはガラタでした。
後の時代にガラタ橋が架かるところから東へ寄った、金角湾がボスポラスへ開いていく側の海岸でした。トプカプ宮殿から地図の上で見れば近いのですが、陸路だけで行こうとすると水路を大きく回り込まなければなりません。
この町では、そんな場所へ行くために昔から舟を使います。
人を乗せた小舟が何艘も行き来しています。船頭へ運賃を払い、対岸へ渡る人も珍しくありません。荷物を積んだ舟も混じっています。
「船の方が早いね」
「この町では、そのようでございますね」
今日は宮殿側が用意した舟へ乗りました。
サライブルヌを離れ、金角湾の入口を横切ります。帆船の間を小さな舟が行き来し、岸には荷物を積み下ろしている人がいます。
少し進んだところで役人が岸を指しました。
「あちらでございます」
「え、あれ全部ですか?」
「はい。昨日、陛下がお示しになった土地は、あの一画です」
どろちゃんは示された一画をもう一度見ました。思っていたより、ずっと大きいです。
◇ ◇ ◇
最初に着いたのは、屋敷の私設桟橋でした。
商人が自分の船や荷舟を使うために作ったもので、公共の船着き場とは別です。荷物を揚げる場所があり、その横には船を陸へ引き上げるための斜路も残っていました。
さらに奥には船を入れておく倉庫があります。
どろちゃんは舟を降りると船倉庫の前まで歩き、扉の幅から内部の奥行き、床から屋根までの高さまで順に見ました。
「フランソワさん」
「はい」
「零式三座、入るね」
フランソワさんも中を見ました。
「翼幅を考えても、余裕がありそうでございます」
「引き上げるところもあるし」
「専用の台車を作れば、かなり使いやすそうでございますね」
「うん。帰るとき、ここへ置いていける」
今まで零式三座はトプカプ宮殿の海側に置いていました。
これからは、自分の家の桟橋へ着水し、自分の船倉庫へ引き上げられます。海水を洗い流す設備と、乾かす場所、整備用の台車を用意すれば、単なる船倉庫よりずっと使いやすくなります。
「これ、家というより基地にもなるね」
「お嬢様の家は、だんだん基地になる傾向がございます」
「そうかな」
「かなり」
役人には二人の会話の細かな意味までは伝わっていませんでしたが、もらった本人が気に入っていることは分かったようでした。
◇ ◇ ◇
海側から建物へ入ると商人の仕事場が続き、帳簿を扱う部屋もいくつもありました。そこへ机を並べれば大勢が働けます。役人の説明では、前の商人は店先の人だけでなく、仕入れ、倉庫、船、帳場、集金、取引先との連絡まで含めて百人ほどを使っていたそうです。
「百人?」
「おおむね、その程度であったと聞いております」
「大きいお店だったんだ」
不正をして財産を取り上げられた商人です。
その善し悪しとは別に、商売そのものはかなり大きかったようでした。
どろちゃんは事務室を一つずつ見ました。鉄道の地図を大きく広げられる部屋も、帳簿をまとめて置ける部屋もあり、何人もの実務者が同時に仕事をしても十分な広さがあります。
「ここ、鉄道のOfficeにできるね」
「イスタンブール側の実務者が常駐できますね」
「ウィーンまでの工事が始まったら、人が増えるからちょうどいい」
オスマン側、オーストリア国鉄側、ハンガリー国鉄側に加え、フランスから来る港湾や資材関係の人もいます。測量、橋、トンネル、資材輸送、国境手続きまで考えれば、仕事はいくらでも増えます。
ホテルの一室や宮殿の会議室を、そのたび借りるより、ここに常設のOfficeを置いた方がよほど使いやすいです。
◇ ◇ ◇
通り側へ出ると、店舗が三つありました。
一つは、この家の商売に使っていた大きめの店です。
残り二つは、別の商人へ貸せるように入口が分かれています。
「三軒ある」
「一軒はお使いになるのでございますか」
「使う」
どろちゃんは迷いませんでした。
「アクセサリーを売る」
「やはり、そちらでございますね」
「アルミの台座も、色を変えたのも、丸い石も持ってこられるし」
エルレンフェルトでは、合成した酸化アルミニウムや炭化ケイ素を削り、装飾品に使うようになっています。アルミニウムの台座も、着色して色を変えられます。
金や銀とは違う、軽いアクセサリーです。
イスタンブールには金銀細工の職人も多くいるので、エルレンフェルトで作った素材を現地の細工と組み合わせることもできます。
「それと紅茶」
「はい」
「ピロシキも」
フランソワさんが少し考えました。
「アクセサリーのお店で、紅茶とピロシキもお出しになるのでございますか」
「買わなくても入れる方がいいよ。紅茶飲んで、ピロシキ食べて、石を見てもらう」
「なるほど」
「お腹すいてる人は、石よりピロシキ見るかもしれないけど」
「それは仕方がございません」
自分で使う一店舗は、アクセサリーを売りながら紅茶とピロシキも出す店にします。
残り二店舗は貸します。
家をもらった翌朝には、もう店の使い方まで決まりました。
◇ ◇ ◇
商業部分を抜けると庭があり、その向こうに独立した住居棟が建っていました。
どろちゃんは外から建物を見上げました。
「これも大きい」
「ケールから移したオイゲン様のお屋敷くらいはありそうでございますね」
「うん。そのくらいある」
客を通す部屋、食事をする部屋、寝室、使用人の部屋、物置をそれぞれ分けられるだけの広さがあります。
商店側に百人近い人が出入りしても、庭と別棟が間にあるため、住居側では商売の人の流れと生活をきちんと分けられます。
「ほんとに別荘になった」
「かなり大きな別荘でございます」
「お店とOfficeと飛行機の家が付いてるけど」
「それでも、お嬢様がお住まいになるところは別荘でございます」
「じゃあ別荘」
どろちゃんはそれで納得しました。
◇ ◇ ◇
もう一度、海側へ戻りました。
桟橋の前では、人を乗せた舟が何艘も横切っています。
少し離れた岸には馬車も見えます。
馬車は陸の上では便利ですが、小さな渡し舟に馬車ごと乗せることはできません。人なら舟へ乗り換えられ、手で運べる荷物なら積み替えられますが、大きな荷車では馬を外して荷を移し、対岸でまた馬車を用意するか、水を渡らず大きく回ることになります。
「馬車ごと乗れたらいいのに」
どろちゃんが言いました。
「船へ、でございますか」
「うん。馬も外さないで、そのまま入るの」
頭の中では、馬車が前方ランプから入り、船内をまっすぐ進み、反対側のランプからそのまま出ていく形ができていきます。船内で向きを変えずに通り抜けられます。
「An-124みたいにすればいいね」
フランソワさんには、その意味が分かります。
「前後から出入りできる貨物室でございますね」
「そう。船だから、前と後にランプを付ける」
両頭式なら通常運航では着岸のたびに船体を回さず、そのまま反対方向へ走れます。それでも、どろちゃんは必要なときには強く回頭できる船にしたくなりました。
「外輪にしよう」
「外輪でございますか」
「左右を別々に回すの。右を前、左を後ろにすれば、その場でくるっと回れる」
水流や風を受ける船なので陸上車両の超信地旋回そのものにはなりませんが、左右の外輪を独立して動かせば、船首の向きをかなり強く変えられます。
「モーター二つ。四百馬力ずつ」
「合計八百馬力でございますね」
「速く走るためじゃなくて、風に押されたときに使う」
甲板へ馬車が何台も並べば、幌や荷物まで風を受けます。
金角湾を横切る巡航では出力にかなり余裕があり、その余裕は着岸時に効きます。
いちばん出力が要るのは、むしろ着岸時です。船速を落としたところで横風に押され、ランプの位置が桟橋からずれれば、馬車をまっすぐ降ろせません。
「横にも動きたいね」
「スラスターでございますか」
「前と後ろに一つずつ」
横方向のスラスターは前後に一基ずつ、合計二基とします。前後の位置を別々に横へ押せれば、外輪で前後進と回頭を行いながら、スラスターで横移動と着岸位置の微調整ができます。
「二隻作ろう」
「一隻ではなく、二隻でございますね」
「こっちを出たら、向こうからもう一隻。片方を直してても、もう一隻は動けるし」
同型船なら部品も共通にできます。
乗組員も同じ船として扱えます。
船長や船員は、船の多いイスタンブールなら現地で十分に確保できそうです。
今、目の前を見ているだけでも船が多いのです。
長い間、海と金角湾とボスポラスを仕事場にしてきた人たちがいます。
自分で走れる船にして、現地の船長さんに任せた方がいい。
「帰ったら図面引こう」
「すぐでございますか」
「すぐ」
製作はエルレンフェルトで行い、二隻ともムリヤちゃんに積める大きさへ分割して、船体ブロック、前後のランプ、左右の外輪と駆動部、一隻につき四百馬力のモーター二基、横スラスター二基、電気関係の機器をまとめてイスタンブールへ運びます。
完成船を一般道路で運ぶ工程は作らず、後の時代にアタチュルク空港になる場所の長い滑走路と、そこから近いマルマラ海を利用します。
「滑走路の横まで海から掘ろう」
「ドックをお作りになるのでございますね」
「うん。掘り込み式にする。中で組めば、最後に水を入れれば浮くから」
掘り込み式の建造ドックなら、ムリヤちゃんが滑走路へ運んだ部材をすぐドックへ入れて組み立て、完成後に注水して浮かせられます。
神様ものの大型クレーンは必要な作業が終わればエルレンフェルトへ持ち帰るので、ドックには現地製の門型クレーンを常設します。
「門型クレーンは現地に作ろう」
「船を直すときにも使えますね」
「うん。二隻目も作れるし、そのあとも船を直せる」
どろちゃんは海を見ながら、頭の中で船とドックをだいたい組み終えました。
図面はエルレンフェルトへ戻ったらすぐに引き、部材を手配することにしました。今日は新しい家を見に来ただけなのに、帰国後の仕事まで一つ増えています。
◇ ◇ ◇
午後、どろちゃんたちはトプカプ宮殿へ戻りました。
アフメト三世に会うと、最初にきちんと頭を下げます。
「陛下、あんなに大きな屋敷をいただいて、ありがとうございました」
「見てきたか」
「はい。思っていたよりずっと大きかったです」
「使えそうか」
「とても使えます」
どろちゃんは、見てきたものを順番に話しました。
「商店の事務室が大きいので、イスタンブールからウィーンまでの鉄道建設用Officeにします。オスマン側の鉄道や行政の実務者の方と、いつでも連絡できるようにしたいのですが、お願いしてもよろしいでしょうか」
「よかろう。担当の者に伝えさせる」
「ありがとうございます。オーストリア国鉄側の人も置きます。測量や橋、トンネル、資材の人も来ると思います」
「百人ほど使っていた商人の仕事場だ。足りよう」
「しばらくは大丈夫だと思います」
店舗の話もします。
「通り側の三つのお店のうち、一つは自分で使います」
「何を売る」
「アクセサリーです。エルレンフェルトで作った石やアルミニウムのものを持ってきます。それと紅茶とピロシキも出します」
アフメト三世が少し止まりました。
「装身具の店で、食べるのか」
「はい。買わない人も紅茶を飲みに来られます」
「変わった店になりそうだな」
「たぶん」
「残り二つはどうする」
「貸します。空けておくのはもったいないので」
「好きに使うがよい。もうそなたのものだ」
「はい。大事に使います」
私設桟橋と船倉庫には零式三座を置けることも話しました。
アフメト三世は、射撃大会の賞品として渡した家が、翌日には鉄道Officeと店と飛行機の置き場にまでなったことを聞いて笑いました。
◇ ◇ ◇
「陛下、もう一つお願いがあります」
「まだあるのか」
「はい」
どろちゃんはエーゲ海の地図を広げ、いくつも並ぶ島の中から二つを指しました。
「サモトラケ島と、レスボス島を調査したいです」
「何を調べる」
「昔の遺跡です。地面の下に埋まっているものも探したいです」
アフメト三世が地図を見ました。
「土地はどうする」
「調査に必要なところは、持ち主の方と話して買います」
「買えるところは買う、と」
「はい。所有者と話して、必要な範囲だけです」
「発掘して何か出れば、それはどうする」
そこが本題でした。
どろちゃんは少し姿勢を直します。
「建物や道や壁など、地下から出てきた遺跡は、発掘したあとオスマン帝国へお渡しします。発掘する人の賃金も、道具も、保存するためのお金も、こちらで出します。陛下のところへ発掘費用を請求しません」
「そなたたちが金を出して掘り、出た遺跡は余の国へ引き渡すのか」
「はい」
「それでは、そなたたちは何を得る」
「像や美術品を、各島二点まで選ばせてください」
アフメト三世はすぐには答えませんでした。
「二点、とは」
「発掘費用を負担した研究者が選びます。もともと独立した像や美術品です。それを研究者の所有にします」
「壊れていたらどうする」
「元が一つなら一つです」
「たとえば」
「像の頭と腕と胴体が別々に出ても、三点にはしません。同じ像だと分かった破片を集めて、できるところまで復元して、一体で一点です」
「頭だけを一点、胴を一点、と数えることはできぬのだな」
「できません」
今度はアフメト三世が少し笑いました。
「先に抜け道を塞ぐのだな」
「そうしておいた方が、あとでもめません」
「では、門が一つ出たらどうする。門を一点として選ぶのか」
「それは駄目です」
どろちゃんはすぐ答えました。
「門は建物です。壁も、柱も、床も、階段も駄目です。壁に付いている彫刻も、壁ごと切って一つの美術品にはできません」
「柱に彫刻があれば」
「柱のまま残します」
「大きな門が土の中から出ても」
「その場所に残します」
「運び出してはならぬ、と」
「はい。研究するために掘るのはいいです。直すのもいいです。でも、建物をばらして、門や柱や壁を外国へ持っていくのは駄目にしたいです」
アフメト三世はしばらく黙っていました。
どろちゃんは続けます。
「陛下は、いま地上にあるオスマン帝国の歴史的な建物を守っておられますよね」
「そうだな」
「だったら、地下から出てきたものだけ別の扱いにしない方がいいです。わたしがサモトラケ島で掘るときだけの特別な約束ではなくて、誰が掘っても同じにした方がいいと思います」
「帝国内すべてでか」
「はい。普遍的な扱いにした方がいいです」
どろちゃんが欲しいものがあるから、自分だけ特別に二点を持ち帰れる規則を作る。
それでは、あとで必ずおかしくなります。
「わたしが欲しいものでも同じです。建物なら持っていきません」
「像なら二点まで」
「はい。サモトラケ島で二点、レスボス島で二点までです。発掘費用を出した研究者が選びます」
「それ以外は余の国へ残る」
「はい。発掘した遺跡も残ります。費用は請求しません」
「ずいぶん余に有利な条件だな」
「研究者にも二点あるので、掘る理由があります」
何年も人を雇い、土を動かし、記録を取り、壊れやすいものを保存しながら発掘する。
全部自費で、何も所有できないなら、研究者側は資金を集めにくくなります。
しかし、価値のある独立した美術品を最大二点まで選べるなら、発掘する側にも利益があります。
その代わり、神殿そのもの、宮殿そのもの、門、壁、柱、階段を商品にはできません。
研究者に発掘する理由を残しながら、遺跡を解体して売る理由をなくします。
アフメト三世は側近を呼びました。
「今の話を書き留めよ」
紙が出てきます。
書面には、調査用地は買い取ること、発掘費用は研究者側が負担すること、出土した遺跡はオスマン帝国へ引き渡すこと、サモトラケ島とレスボス島では発掘費用を負担した研究者が各島二点まで独立した像や美術品を所有できることが並びました。同一作品の破片は復元後の一作品を一点と数え、建築物とその構成部材は二点の対象外です。国外へ売ったり贈ったりするために、遺構から門、壁、柱、固定された彫刻を外すことも認めません。この原則は二つの島だけの特例にせず、オスマン帝国内で発掘される歴史的建造物に共通する扱いとします。
その場で文章の形が作られていきました。
アフメト三世も内容を読み、建築遺構の扱いについてもう一度確認したうえで、サモトラケ島とレスボス島の調査許可だけで終わらせず、同じ原則を帝国内の発掘に使うよう命じました。正式な文書は宮廷側で整え、アフメト三世の名で出すことになります。
◇ ◇ ◇
この取り決めが後の時代に何を変えるのかは、1709年の部屋にいる人たちにはまだ分かりません。
現実の歴史では、それから百年以上たったあと、オスマン帝国の各地でヨーロッパの発掘隊が大規模な調査を始めます。
そして、見つかった像だけではなく、建物そのものを構成していた石材や壁面まで、海を越えて博物館へ運ばれていきます。
この世界では、それが同じようにはできなくなりました。
◇ ◇ ◇
最初に大きく姿が変わるのは、後の大英博物館です。
1840年代になると、チャールズ・フェローズがオスマン帝国領リュキアのクサントスを調査します。
現実の歴史では、オスマン政府の許可を得て発掘し、ネレイド記念碑の彫刻だけでなく、重い建築部材まで運び出しました。
石材はクサントス川を筏で下ろされ、イギリス海軍のHMSビーコンへ積まれ、いったんマルタを経由してイギリスへ渡ります。
ネレイド像を含む主要な品々は、1848年取得として大英博物館へ登録されました。
後の大英博物館の第17室には、柱と梁と彫刻を組み合わせ、墓廟だったネレイド記念碑の一部が建物の形で再構成されます。
1709年に決めた規則なら、独立した像を二点選ぶことはできます。
独立した像を二点まで選べても、柱、梁、壁、建築を構成するフリーズは建物の一部として現地に残ります。
ロンドンの室内に、現実と同じネレイド記念碑を組み立てることはできません。
◇ ◇ ◇
その少しあとには、今のイラク北部にあるニムルドです。
1846年、オースティン・ヘンリー・レイヤードはアッシュールナツィルパル二世の北西宮殿などを発掘します。
現実の歴史では、宮殿の壁だった石膏の浮彫が次々に外されました。
1846年に見つかった壁面の中には、その年の12月に現地を出され、船で運ばれ、1849年にイギリスへ着いたものがあります。
大英博物館では1849年取得として登録され、後にはアッシリア展示室を代表する巨大な壁面群になります。
これらは最初から宮殿の壁面なので、1709年の規則では独立した美術品一点とは数えられません。
王の姿が彫られていても、翼のある精霊が彫られていても、戦争の場面が彫られていても、宮殿の壁だったものは壁のままです。
発掘、保存、記録は行えますし、必要ならオスマン帝国内の施設で保護することもできます。
しかし、壁面を外して何十枚もロンドンへ送ることはできません。
大英博物館のアッシリア展示は、現実の歴史とはかなり違う姿になります。
◇ ◇ ◇
1856年から1857年には、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟が発掘されます。
チャールズ・トーマス・ニュートンが発掘し、現実の歴史では1856年にスルタン・アブデュルメジト一世名義の勅許を得て、出土品を国外へ運びました。
大英博物館へは、1857年7月から1858年10月まで、何便にも分けて到着します。
独立した人物像や獅子像に加えて、霊廟の上部構造に使われた大理石の石材も運ばれ、屋根の段を構成していた一トンを超える石材や、周囲の壁を構成していた数百キログラムの石材まで大英博物館の収蔵品になりました。
この世界では、研究者が独立した彫像を二点選ぶ余地は残っても、霊廟の屋根、壁、基礎を構成していた石材は建築部材として残ります。それを「美術品」と言い換えて国外へ運ぶことはできません。
後の大英博物館にあるハリカルナッソス関係の展示も、現実よりずっと小さくなります。
◇ ◇ ◇
そして1863年には、サモトラケ島が現実の歴史と大きく分かれます。
現実の歴史では、フランスの外交官シャルル・シャンポワゾーが、この年に翼を広げた勝利の女神像を発見します。
後に「サモトラケのニケ」と呼ばれる像です。
最初の発掘品は1864年にルーヴル美術館へ到着します。
その後も追加調査が行われ、1879年、1891年にも関連する部材がルーヴルへ入りました。
やがて像は、船首をかたどった台座とともにダリュ階段の上へ置かれ、ルーヴルを代表する作品の一つになります。
しかし、この世界では1709年のいま、どろちゃんがアフメト三世にサモトラケ島の調査許可を求めています。
これから百五十四年後にシャンポワゾーが「発見」するはずだった場所へ、先に調査隊が入ります。
像が多数の破片になっていれば、同じ作品の破片を探します。
頭、腕、翼、胴など同じ作品に属する破片が見つかれば、できる限り集めて戻し、全部を合わせた一作品で一点と数えます。
研究者がその一点を選べば、1864年にルーヴルへ到着するニケはありません。
ルーヴルの大階段の景色まで変わります。
◇ ◇ ◇
さらに1878年には、ベルリンの博物館隊が小アジアのペルガモンで大規模な発掘を始めます。
現実の発掘は1886年まで続きました。
発掘が始まった時点で大祭壇はすでに古代末期に解体され、建築部材や巨大なレリーフ板の多くが後世の防御壁へ転用されていました。
発掘隊は、その基礎と、多数の建築部材、巨人族との戦いを彫ったフリーズなどを発見します。
現実の歴史では、19世紀当時の発掘品分配によってベルリン側へ運ばれました。
1878年から1881年までの最初の二回の発掘では、オスマン政府は発見物の輸出を認め、オスマン側の取り分もベルリンの博物館へ売却されます。
1884年に規則が変わったあとも、交換によって最後のフリーズ板までベルリンへ渡りました。
大祭壇の巨大なフリーズは修復され、1901年12月11日に開館した最初のペルガモン博物館で常設展示になります。
その建物が手狭になり、1910年から1930年にかけて現在につながる巨大なペルガモン博物館が建設されます。
1930年には、大祭壇の西正面を大規模に復元した展示が、その中心になります。
けれど、1709年の規則ならフリーズは建築物の一部です。
後世の防御壁から見つかったからといって、独立した美術品にはなりません。
発掘して元の大祭壇の一部だと分かれば、遺構を構成する部材として扱われます。
オスマン政府の取り分をベルリンへ売ることもできません。
国外への贈与もできません。
ベルリンに巨大なペルガモン大祭壇の復元展示はできなくなります。
そして、その祭壇を名前にした博物館の歴史まで変わります。
◇ ◇ ◇
ベルリンではもう一つ、現実なら巨大な展示になるミレトスの市場門も来なくなります。ローマ時代のこの門は高さがおよそ十六から十七メートル、幅が約二十九メートルあります。
現実の歴史では、ドイツ隊がミレトスの南市場を調べ、1903年に市場門の部材を発見しました。
発掘後、オスマン当局の許可を受けた公式の発掘品分配によって、主要な建築部材がベルリンへ移されます。
1907年から1908年にかけて運ばれた原物の部材は、およそ750トンに達しました。
1925年から1929年にかけて、新しいペルガモン博物館の中で大規模な復元が行われます。
現実のペルガモン博物館では、ペルガモン大祭壇と並ぶ古代建築展示の目玉になります。
この世界では、市場「門」という名前どおり建築遺構として扱われ、二点の美術品枠には入りません。約750トンの建築部材をベルリンへ運ぶこともなく、門はミレトスに残ります。
◇ ◇ ◇
さらにバビロンでは、現実の歴史ならドイツ東洋協会が1899年から1917年まで発掘を行います。
イシュタル門、行列道路、玉座室の壁面を飾っていた彩釉煉瓦は、多数の破片として土の中から出てきました。
しかし、それらがどの建築物の壁面を構成していたかは分かります。
現実では1903年、イスタンブールとの発掘品分配で、最初の大量の煉瓦片がベルリン側へ渡りました。
その年、ロベルト・コルデヴァイは、煉瓦片を一箱およそ250片ずつ入れた箱をほぼ400箱、ベルリンへ送りました。
さらに後の1926年には、オスマン帝国崩壊後のバグダードとの分配でも追加の破片がベルリン側へ渡り、二回目の大量輸送は1927年に到着します。
ベルリンでは破片を洗い、補強し、色と模様ごとに並べ直しました。
最大三十人ほどの作業班が、二年間で七十二体の動物浮彫を組み上げます。
現代の煉瓦も補いながら、イシュタル門、行列道路、玉座室壁面を復元し、1930年のペルガモン博物館開館時に初めて一般公開しました。
1709年の規則では、ここでも破片の数は関係ありません。
もともと門と壁を構成していた煉瓦なら、復元後の扱いは門と壁です。
少なくとも1903年にイスタンブールが建築壁面の破片を国外へ分配することはできません。
後の政治体制がどう変わるかは、その時代にならなければ分かりません。
それでも、現実と同じイシュタル門が1930年のベルリンに現れる道は、1709年の時点ですでに大きく変わっています。
◇ ◇ ◇
アフメト三世は、もちろんそんな未来の博物館を知りません。どろちゃんも未来の国名や博物館の名前は口に出さず、自分の胸の中に置いています。ただ、発掘した研究者が研究成果として独立した像を持つことと、建物そのものを切り分けて遠い国へ運ぶことは違うと知っています。
その違いを、最初から規則にしておきたかったのです。
「これでよいか」
アフメト三世が、書き上がった案を見ながら聞きました。
どろちゃんが読み、フランソワさんも横から一緒に確認しました。
「はい。ありがとうございます、陛下」
「サモトラケとレスボスの調査についても、現地へ知らせよう」
「ありがとうございます。土地はちゃんと買います」
「分かっておる」
「発掘費用もこちらで出します」
「それも、もう書いてある」
「あ、ほんとだ」
アフメト三世が少し笑いました。
どろちゃんは紙をもう一度見ました。
朝には、新しい家の船倉庫へ零式三座を置けることが分かり、鉄道建設用Officeと、アクセサリーに紅茶とピロシキを組み合わせた店の使い方まで決まりました。帰国したら馬車を馬ごと載せられる二隻の電動外輪フェリーを図面にし、午後には、まだ土の中にある遺跡をどう扱うかという原則まで決まりました。
新しい家を見に行っただけの一日でしたが、帰るころには、ずいぶん先の時代まで変わり始めていました。




