150貴族令嬢は新しい馬車を持って戻ります。 ムリヤでいろいろ運びます。
第150章 貴族令嬢は新しい馬車を持って戻ります
ムリヤちゃんは、イスタンブールへ向かっています。
操縦席の左はどろちゃん。
右はフランソワさん。
FEさんが2人。
いつもの給仕さんが1人。
貨物室には、3日かけて準備したものが並んでいます。
新しい馬車4台。
全部カバー付き。
客室は輸送ロックされています。
予備部品を積んだハイラックス用トレーラー。
穴がたくさんあいているハイラックス。
零式三座。
専用の車輪付き台車。
水中用レール。
必要な工具と整備品。
荷物の重さだけを見れば、ムリヤちゃんにはかなり余裕があります。
「軽いね」
「ムリヤちゃんとしては、でございますね」
フランソワさんが言いました。
普通の飛行機なら、とても軽いとは言わない荷物です。
でも、ムリヤちゃんは比較する相手が違います。
◇ ◇ ◇
イスタンブールが近づきました。
マルマラ海。
その北側の陸地。
数日前にチェブラーシカちゃんで降りた場所も見えてきます。
どろちゃんは少し高度を取りながら、着陸予定地を探しました。
「あった」
草地の中に、一本。
まっすぐな舗装面が伸びています。
数日前にはありませんでした。
どろちゃんが帰る前に、
「ここへ数日、何も置かないでください」
と頼んだ場所です。
神様の滑走路ができています。
向きはほぼ南北。
この土地で卓越しやすい風の軸にも合っています。
後世、ほぼ同じ地域に造られるアタテュルク空港でも、主力になる長い滑走路は17/35方向です。
「ちゃんと出たね」
「はい」
どろちゃんは少しだけ安心しました。
ムリヤちゃんが神様に頼んでくれることでできる滑走路です。
空けておいた。
必要になった。
そして現れた。
今回も、その順番です。
滑走路の周囲には、オスマン側の兵士が人と馬を近づけないようにしています。
その外側。
馬が8頭。
馭者さんが4人。
馬具も見えます。
こちらも頼んでおいたものです。
「準備できてる」
「オイゲン伯爵からも連絡がございました」
「じゃあ降りよう」
ムリヤちゃんは進入に入りました。
◇ ◇ ◇
今日のムリヤちゃんは軽いです。
大量の建設機械も未積載です。
何十tもの資材を限界まで積んでいません。
どろちゃんは、長い神様滑走路のかなり手前側へ接地しました。
主脚。
前脚。
減速。
滑走路はまだ先へ長く続いています。
「余った」
「かなり余りましたね」
フランソワさんが言いました。
滑走路は余裕を持ってつかえます。
ゆっくり速度を落とします。
誘導してくれる人の位置まで進みました。
停止。
エンジンを落としていきます。
外では、オスマン側の人たちが巨大な機体を見上げています。
チェブラーシカちゃんを見た人でも、ムリヤちゃんは別物です。
◇ ◇ ◇
荷下ろしを始めます。
機首のカーゴドアを開きます。
大きな機首が上へ動きます。
前部の降着装置を使って、機体前方を低くします。
ムリヤちゃんが前へ少し膝をついたような姿勢になります。
カーゴドア側からランプを展開します。
これで貨物室の床と地面がつながりました。
「ハイラックスから出そう」
固定を外します。
穴がたくさんあいているハイラックスが、ランプをゆっくり降ります。
エンジンを掛けます。
次は予備部品トレーラー。
ハイラックスへつなぎます。
ばね。
ダンパー。
リンク。
ベアリング。
座席。
その他の交換部品。
全部この中です。
地面へ部品箱をばらばらに置きません。
整備拠点ごと動かせます。
◇ ◇ ◇
次は馬車です。
カバーが掛かったまま、パレットの固定を外します。
1台目。
2台目。
3台目。
4台目。
地上へ降ろします。
パレットから外します。
車輪の固定を解除。
そして、客室の輸送ロックも外します。
上から吊った客室が、初めて自由に動く状態になりました。
どろちゃんが横から軽く押します。
少し動きます。
戻ります。
四角錐のダンパーが余分な動きを止めます。
「大丈夫」
カバーを外しました。
オスマン側の馭者さんたちが見ています。
見た目は、かなり普通の豪華馬車です。
鋼管柱。
コイルばね。
ダンパー。
そういうものは飾りと外装の中へ隠れています。
中は上質な布。
カーテン。
木部。
座席も豪華です。
でも、その中身は電車のクッションです。
◇ ◇ ◇
馬をつなぎます。
1台2頭。
4台で8頭。
馬具はオスマン側が普段使っているものを基本にして、馬車側の牽引部へ接続できるようにしています。
馭者さんも4人。
自分たちの馬です。
馬の扱いまで、どろちゃん側が突然代わる必要はありません。
1号車。
2号車。
3号車。
4号車。
順番に馬がつながりました。
馭者さんが少し動かします。
車輪が回ります。
ベアリングが入っているので、平地で動き始める抵抗はかなり小さいです。
もちろん坂道では1tを超える重量そのものが効きます。
だから2頭立てです。
「この4台は、トプカプ宮殿の馬車倉庫へお願いします」
どろちゃんがオスマン側の担当者へ直接頼みました。
「承知いたしました」
4台は、どろちゃんたちとは別に出発します。
先導してもらうわけではありません。
馭者さんたちは道を知っています。
どろちゃんのハイラックスの方が、ずっと速いです。
◇ ◇ ◇
ハイラックスへ乗ります。
運転席はどろちゃん。
助手席はフランソワさん。
後ろには、護衛を兼ねるFEさんが1人。
そして、オスマン側の案内役。
予備部品トレーラーもつないでいます。
もう1人のFEさんと、いつもの給仕さんはムリヤちゃんへ残ります。
貨物室の清掃。
固定具の片付け。
機内の確認。
そして警備。
巨大な飛行機を無人にはしません。
「先に行ってきます」
「はい」
ハイラックスは滑走路を離れました。
馬車4台は、まだ後ろで準備しています。
待ちません。
先にトプカプ宮殿へ向かいます。
◇ ◇ ◇
数日前。
同じ道を馬車で走りました。
2時間以上。
とってもお尻が痛くなりました。
今日はハイラックスです。
石畳そのものは変わりません。
坂もあります。
人も馬車も荷車もいます。
だから町の中では飛ばせません。
でも、郊外の空いている道は速いです。
車輪は空気入りタイヤ。
サスペンション。
ダンパー。
座席。
「違うね」
「何がでございますか」
「お尻」
フランソワさんは笑いました。
案内役にはナーロッパ語が分かりません。
どろちゃんがオスマン側の言葉で何の話か説明すると、案内役も笑いました。
数日前の馬車移動は、向こうも知っています。
◇ ◇ ◇
トプカプ宮殿へ着きました。
ハイラックスを止めます。
予備部品トレーラーは、あとで馬車倉庫へ置けるようにします。
どろちゃんが降りると、宮殿側から人が来ました。
アフメト3世です。
連絡を聞いて、自分から出てきました。
その横にはルイ14世。
康熙帝。
サヴォさん。
数日前の会談メンバーが、そろっています。
「戻ったか」
アフメト3世が言いました。
「戻りました」
「大きな飛行機で来たと聞いた」
「はい」
「何を持ってきた」
どろちゃんは普通に答えました。
「馬車でお尻が痛かったので、新しい馬車を作ってきました」
少し静かになりました。
アフメト3世がどろちゃんを見ます。
ルイ14世が見ます。
サヴォさんも見ます。
康熙帝には、側近が満州語へ訳しました。
康熙帝も見ました。
「馬車を?」
「はい。4台」
「そなた、帰ってから何日たった」
「間に3日です」
「3日で4台?」
「部品は全部あるものを使いましたから」
新しいばね工場を作ったわけではありません。
新しいベアリングを発明したわけでもありません。
既存規格品を組み合わせただけです。
「もう来ます」
どろちゃんが門の方を見ました。
馬の蹄の音。
車輪の音。
4台の新しい馬車が、少し遅れて到着しました。
◇ ◇ ◇
「これか」
アフメト3世が1台目を見ました。
「はい」
外見だけなら、変な機械には見えません。
王侯が乗ってもおかしくないよう、内装屋さんがかなり頑張りました。
ルイ14世は窓枠と外装を見ています。
サヴォさんは車輪の周辺を見ています。
康熙帝は、下部フレームをのぞきました。
アフメト3世は客室の中へ入りました。
「座ってみてください」
電車用クッションへ座ります。
「柔らかい」
「中身は電車の椅子です」
「電車?」
アフメト3世には、そこから説明が必要です。
側近がナーロッパ語へ補足します。
ルイ14世たちには、もう電車の座席が分かります。
「見えるところだけ豪華にしたのか」
ルイ14世が言いました。
「そうです。中身は量産品です」
「合理的ではあるな」
「座るところは、見えないですから」
表皮だけ交換できます。
汚れたら外せます。
傷んだら替えられます。
中のクッションまで捨てる必要はありません。
◇ ◇ ◇
「乗ってみよう」
アフメト3世が言いました。
そのために4台持ってきました。
1台目には、アフメト3世とどろちゃん。
必要な側近も乗ります。
2台目にはルイ14世とサヴォさん。
フランソワさんもそちらです。
3台目には康熙帝と清側の側近。
4台目には、ほかの随員。
馭者さんたちは、さっき滑走路から運んできた人たちです。
馬も同じ。
まず、ゆっくり動きます。
石畳。
車輪の音は普通にします。
がたん。
ごとん。
でも、客室へ来るものが違います。
下部フレームが動きます。
客室は少し遅れて動きます。
コイルばねが短い衝撃を分けます。
大きく動こうとした客室を、四角錐のダンパーが止めます。
最後に座席のばねとシュロが細かな振動を取ります。
アフメト3世が窓の外を見ました。
「石畳を走っているな」
「走ってます」
「音もする」
「車輪は普通に石を踏んでますから」
少し速度を上げます。
段差。
客室が一度動きます。
戻ります。
そこで終わります。
革帯吊りの馬車のように、反対側へもう一度大きく揺れません。
アフメト3世が座席へ手を置きました。
「これは違う」
「お尻、痛くないでしょう」
「そこが基準なのか」
「今回は、そこです」
◇ ◇ ◇
曲がります。
ここで差がもっと分かります。
客室が少しロールします。
でも、戻ったあとに左右へ何度も振れません。
四角錐状のダンパーは、上下だけを見ていません。
ロール。
ピッチ。
ヨー。
どの方向に相対運動が出ても、4本のどこかが働きます。
床中央のゴムが客室を中心へ戻します。
アフメト3世が床の小さなノブを見つけました。
「これは何だ」
「中央へ引くゴムの強さを変えます」
「今は?」
「普通です。荒れた道なら少し強くします」
「柔らかくもできるのか」
「できます。でも柔らかくしすぎると、また揺れます」
何でも柔らかければ乗り心地が良いわけではありません。
動いたあとに止めること。
位置を戻すこと。
それも必要です。
◇ ◇ ◇
短い試乗を終えて戻りました。
2台目からルイ14世とサヴォさんが降ります。
「これはよい」
ルイ14世が先に言いました。
サヴォさんは、車体ではなく道を見ました。
「イタリアで売れる」
「やっぱりそう思います?」
「古い町は、もっとひどい石畳がある」
イタリアの都市には、何百年も使われた石畳があります。
沈んだところ。
補修したところ。
坂。
狭い曲がり角。
今日のイスタンブールと似た条件です。
「これを持っていけば、欲しがる者は多い」
「売れますよ」
どろちゃんは答えました。
「神様の部品は使ってないので」
鋼管。
溶接。
コイルばね。
ダンパー。
ベアリング。
ゴム。
座席。
全部、この世界の工場で作っています。
「同じものを作れるのか」
「作れます」
サヴォさんが少し嬉しそうな顔になりました。
「では、こちらでも工場を」
「それは作りません」
早かったです。
「なぜだ」
「工作機械も人も、まだ足りないからです。今ある工場でまとめて作って送ります」
フランスに鉄道車両工場が一つ。
水玉船工場。
ばねの担当工場。
ダンパーの担当工場。
各地に同じ設備を重複させるほど、世界全体の資本量は多くありません。
「注文は受けます。作る場所は増やしません」
サヴォさんは少し考えました。
「その方が安いか」
「今は」
将来、需要と資本が増えれば話は変わります。
1709年の今は、集中した方が速いです。
◇ ◇ ◇
康熙帝も3台目から降りました。
側近が満州語で感想を聞いています。
返ってきた言葉をナーロッパ語へ直します。
「道は同じなのか、と陛下がお尋ねです」
「同じです」
どろちゃんが答えます。
康熙帝はもう一度馬車を見ました。
道路を直したのではありません。
同じ石畳です。
乗る側を変えただけです。
この違いは分かりやすいです。
アフメト3世も、数日前に自分の馬車で同じ道を走っています。
比較する相手があります。
「4台とも置いていくのか」
「はい。使ってください」
「全部か」
「試験も兼ねます。壊れたら、どこが壊れたか教えてください」
予備部品もあります。
どろちゃんはハイラックスの後ろを指しました。
「ばねもダンパーも座席も、予備を持ってきました」
「そこまで持ってきたのか」
「別の馬車から外すと、4台あるのに1台しか動かないことになりますから」
アフメト3世は少し笑いました。
「そなたは、壊れることも予定に入れるのだな」
「機械は壊れます」
それを前提にしておく方が楽です。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは、予備部品トレーラーを馬車倉庫の近くでハイラックスから外しました。
これで予備部品は宮殿側へ残せます。
ハイラックスだけになります。
「わたし、いちど滑走路へ戻ります」
フランソワさんが見ました。
「お一人でございますか」
「うん。すぐ戻るよ」
「では、わたくしはこちらにおります」
護衛を兼ねたFEさんも宮殿側へ残ります。
どろちゃんはアフメト3世へ向きました。
「もう一つお願いがあります」
「今度は何だ」
「1時間くらいあとに、宮殿の小さい船が着く桟橋を借りてもいいですか」
「船で来るのか」
「飛行機です」
少し間がありました。
「桟橋へ?」
「水に浮く飛行機なので」
アフメト3世は、もう驚き方を少し覚えてきています。
「よい。空けさせよう」
「ありがとうございます」
どろちゃんは、もう一つ思い出しました。
「あ。それと、ごめんなさい」
「何だ」
「戻るとき、人を増やしちゃいました。FEさん2人と給仕さん1人です。先にちゃんと人数を言わないで来ました」
完全に事後連絡です。
「3人か」
「はい」
「その程度なら構わぬ」
「ありがとうございます」
宿泊や食事の人数が変わります。
宮殿側には準備があります。
本来は先に言うべきです。
どろちゃんは素直に謝りました。
◇ ◇ ◇
ハイラックスへ乗ります。
今度は一人です。
フランソワさんもオスマントルコ側の案内の人もいませんが、何度か通っているので道はもう分かります。
トプカプ宮殿を出ました。
石畳。
坂。
門。
郊外。
数日前の馬車より、はるかに速く進みます。
でも町の中では、人と馬が優先です。
どろちゃんは無理に飛ばしません。
滑走路が見えてきました。
ムリヤちゃんも見えます。
大きすぎるので、ずっと遠くから分かります。
◇ ◇ ◇
「戻りました」
残っていたFEさんと給仕さんが出てきました。
貨物室の片付けは終わっていました。
「今度は零式三座を出します」
オスマン側の兵士へ、ムリヤちゃんの周囲を警備してもらうよう頼みました。
「この飛行機は、しばらくここへ置きます。人が近づきすぎないようお願いします」
「承知しました」
これでFEさんが機体へ残り続ける必要がなくなります。
3人で作業できます。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんの機首を、もう一度開きます。
前部を下げます。
ランプを出します。
貨物室の奥から、零式三座を載せた車輪付き台車を引き出します。
輸送用に折りたたんでいた部分を、飛行状態へ戻します。
固定。
確認。
燃料も運用状態へします。
FEさんとどろちゃんで作業します。
給仕さんは、指示された軽い物を運びます。
「これ、こちらですか」
「そこ」
「はい」
専門作業はやりなれた人が行います。
でも、人手が一人あるだけで、道具や固定具を運ぶ作業はずいぶん速くなります。
次に水中用レール。
分割して積んであるものをハイラックスへ載せます。
滑走路のすぐ南側は砂浜です。
着陸前から確認していました。
水上機つり上げ用の大型クレーンを旧市街へ運ぶことは道幅と路面の強度を考えると不可能ですが、滑走路脇では使えるようです。次回は持ってくるのも良いですね。
「浜へ行こう」
◇ ◇ ◇
ハイラックスで短い距離を走ります。
砂浜。
その先はマルマラ海です。
波は大きくありません。
まず水中用レールを組みます。
砂の上から、水へ。
傾斜を見ます。
片側だけ沈まないようにします。
接続部。
固定。
もう一度確認。
車輪付き台車の軌間を合わせます。
「よし」
零式三座を載せた台車をレールへ載せます。
ハイラックスのウインチケーブルを伸ばします。
落とすのではありません。
水へ向かう台車を、ケーブルでゆっくり送り出します。
レールの傾斜を下ります。
車輪が水へ入ります。
中央フロートが水に触れます。
さらに少し。
浮力が増えます。
やがて、台車が機体重量を持たなくなりました。
「浮いた」
機体を台車から離します。
零式三座が、マルマラ海へ浮かびました。
◇ ◇ ◇
そのまま流しておくわけにはいきません。
ロープを使って向きを変えます。
機首を海側。
フロートの後ろ側が、湿った砂へ軽く触れるくらいまで引き寄せます。
完全に陸へ上げません。
波で勝手に離れない程度です。
「これで待ってて」
飛行機は返事をしません。
普通の飛行機です。
どろちゃんたちは、今度は片付けます。
台車をレールから戻します。
水中レールを引き上げます。
分割。
ハイラックスへ。
台車も戻します。
工具。
固定具。
ケーブル。
全部確認。
ハイラックスをムリヤちゃんの近くへ戻します。
水中レールと台車を所定の場所へ置きます。
ムリヤちゃんのランプを収納。
機首を通常位置へ戻します。
前部を上げます。
カーゴドアを閉じます。
巨大輸送機が、また普通の駐機状態へ戻りました。
「これでいいね」
FEさんが周囲を確認します。
「はい」
警備はオスマン側の兵士が続けてくれます。
◇ ◇ ◇
3人で砂浜へ戻りました。
零式三座は、まだそこにいます。
どろちゃんが前席。
FEさん。
給仕さん。
3座なので、ちょうど3人です。
「わたし、水上機で宮殿へ行くとは思いませんでした」
給仕さんが言いました。
「わたしも数日前は馬車で行ったよ」
「どちらが早いのでございましょう」
「比べものにならないと思う」
エンジンを始動します。
どろちゃん専用の零式三座は、史実のE13Aそのままではありません。
エンジンも換装されています。
回転が安定します。
計器。
水面。
周囲。
確認。
「行きます」
出力を上げました。
機首は海側です。
フロートの後部が軽く砂へ触れているだけなので、推力が掛かると簡単に離れます。
ずるっ。
水へ。
もう浮いています。
「簡単」
少し沖へ出ます。
風向。
船。
岸。
離水方向を決めます。
◇ ◇ ◇
出力を上げます。
零式三座が水面を走り始めました。
最初はフロート全体で水を押します。
速度が上がります。
抵抗が変わります。
機体が少し上がります。
水しぶきが後ろへ流れます。
滑走。
約500m。
どろちゃんが操縦桿を扱います。
水面から離れました。
高度は上げません。
今日は長距離飛行ではありません。
マルマラ海岸に沿って、低空です。
右側に旧市街。
城壁。
屋根。
モスク。
丘。
数日前、馬車の窓から少しずつ見た景色が、一度に横へ流れていきます。
「もう近い」
FEさんが言いました。
5分ほどです。
トプカプ宮殿のあるサライブルヌが前に見えます。
陸路では2時間以上かかった場所です。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは少し沖へ出て、着水の向きを取ります。
宮殿の海側。
小型船用の桟橋。
アフメト3世に、1時間後くらいに借りたいと頼んだ場所です。
周囲の小舟は、少し場所を空けてくれています。
進入。
水面。
接水。
フロートが海へ戻ります。
減速。
エンジンを使ってゆっくり進みます。
桟橋へ近づきます。
FEさんがロープを準備しました。
給仕さんも窓の外を見ています。
「本当に宮殿でございますね」
「うん」
ロープが渡されます。
機体が桟橋へ寄りました。
数日前。
どろちゃんは、同じ宮殿へ来るために2時間以上馬車へ揺られていました。
今日は、滑走路から低空で約5分間。
零式三座が、オスマン皇帝の小舟が使う桟橋の横で静かに水へ揺れていました。
【小さな説明】
【神様滑走路と後世のアタテュルク空港】
本作でムリヤちゃんが降りる場所は、後世のイェシルキョイ空港、さらにアタテュルク空港の周辺に相当します。
イスタンブールのヨーロッパ側は、北の黒海と南のマルマラ海に挟まれています。
北東のポイラズと南西のロドスなど、南北に近い軸の風が重要になるため、後世のアタテュルク空港には17L/35R、17R/35Lというほぼ南北方向の平行滑走路が造られました。
本作の神様滑走路も、その地形と風に合わせてほぼ南北へ現れています。
どろちゃんが数日前から空き地を確保していたのは、神様へ滑走路の出現を命令できるからではありません。
巨大機が来ても危険にならない空間だけを、人間側で先に確保したものです。
【ムリヤちゃんの機首からの荷下ろし】
AN-124やAN-225系の大型輸送機では、機首側の大型カーゴドアを開き、前部を低くする「ニーリング」を行い、ランプを展開して車両を自走または牽引で出し入れする方法が使われます。
本作のムリヤちゃんも、この方式を使っています。
そのためハイラックスのような自走車両だけでなく、パレットに固定した馬車や、水上機を載せた台車も機首側から地上へ降ろせます。
【新型馬車は普通の商品】
新型馬車には神様からしか入手できない部品を使っていません。
鋼管、溶接構造、コイルばね、ダンパー、ベアリング、ゴム、座席クッションなどは、すでにエルレンフェルトやVOG圏で工業製品として作られているものです。
したがって販売も量産もできます。
ただし本作世界では工作機械や工場設備そのものがまだ希少なので、需要国ごとに新工場を作るライセンス生産は行いません。
既存の担当工場で集約生産し、鉄道や船で各地へ供給します。
【零式三座】
本作の「零式三座」は、史実の愛知E13A系を基礎にした、どろちゃん専用の実験水上機です。
史実機そのままではなく、エンジンをR-1830系約1200hpへ換装するなど、この世界独自の改造を受けています。
長距離航空輸送では専用の車輪付き台車へ載せ、ムリヤちゃんから降ろしたあと、水中へ延ばしたレールを使って進水させます。
これなら大型クレーンを旧市街へ持ち込む必要がありません。
水上へ出したあとは普通のフロート機として自力で離水できます。
【トプカプ宮殿と海】
トプカプ宮殿は歴史半島の先端、サライブルヌにあり、海との関係が非常に深い宮殿です。
宮殿外苑の海岸には複数の海辺の亭があり、17世紀にはセペッチレル・カスルも建てられていました。
皇帝が帝室の舟で海へ出ることもありました。
本作の「小型船用桟橋」は、こうした宮殿の海上交通を背景に置いたものです。
1709年の特定の日に、現在の桟橋と同じ構造の設備がそこにあったと断定するものではありません。
ただし、サライブルヌの宮殿が船で出入りできる海岸施設を持つ設定には、歴史的な背景があります。




