145貴族令嬢は、暖かい島を離れます。 国際連盟主催冬季テネリフェツアー終了です。イスタンブール行きの準備が入ります。
第145章 貴族令嬢は、暖かい島を離れます
競技会が終わった日の夜。
どろちゃんは、康熙帝が泊まっている建物へ行きました。
今日は4kmを走って、400mも走っています。
脚は少し重いままです。
でも、帰国までの日程を考えると、今夜のうちに聞いておきたいことがありました。
「陛下、このあと行ってみたいところってあります?」
康熙帝は少し考えました。
「イスタンブール」
「そこですか」
どろちゃんが少し意外そうな顔をしました。
近くにいたルイ14世も顔を上げます。
「余も行こう」
「増えた」
「何か問題があるのか」
「先方に連絡する内容が増えます」
皇帝一人と国王一人では、受け入れる側の準備も変わります。
ムリヤちゃんで突然上空へ現れて、そのまま降りるわけにはいきません。
どろちゃんは、そこで改めて康熙帝を見ました。
「それで陛下、どうしてイスタンブールなんです?」
「清からは遠い。商人も話も来るが、直接見る機会は少ない」
康熙帝がヨーロッパへ来てから、エルレンフェルト、ヴェルサイユ、リスボン、ロカ岬、テネリフェと、ずいぶん西側を回っています。
今度は東です。
地中海の向こう側。
オスマン帝国の大きな都です。
「まず、オスマン側に聞きます」
「どうやって聞く」
「今回は、フランスに頼ります」
どろちゃんはルイ14世の方を見ました。
「フランスはオスマン帝国と悪い関係ではないですし、イスタンブールにはフランスの外交官もいます。エルレンフェルトからいきなり話を持っていくより、フランスから通してもらった方が早いです」
「よかろう」
ルイ14世には、その方が話が早いです。
「いつ行ける」
「お返事次第です。でも、この旅行の続きにはしません」
どろちゃんは、今回の予定を指でたどりました。
エルレンフェルト。
リスボン。
ロカ岬。
テネリフェ。
そして帰国。
「キャサリン王太后様は、帰りにリスボンで降ります。そこからエルレンフェルトへ帰って、いったんこの旅行を終わりにします」
「そのあとか」
「はい。イスタンブールへ持っていくものも積みたいですし、フランスの外交官さんも入れ替えた方がいいです」
ポルトガルや大西洋側を担当する人と、オスマン帝国との交渉に慣れた人では、必要な経験が違います。
ルイ14世が頷きました。
「トルシーにもすぐ回させよう」
「こっちからも打ちます」
打つものは、電報です。
◇ ◇ ◇
テネリフェには、大きな無線通信所があります。
王侯たちの避難先として使われるようになり、大西洋側の重要な連絡地点にもなったため、通信設備は少しずつ強化されていました。
送信機の一つはTX-88DX。
長距離通信用に、送信出力を大きくできるよう手が入っています。
ただし、高出力で使うのはA1です。
CWの電信。
短い信号と長い信号を組み合わせる、モールスです。
A3のAM電話も使えますが、こちらを大電力のままきれいに増幅するには、信号の形を保ったまま直線的に増幅できる回路が必要です。
この世界で作れる高出力増幅器では、そこが難しい。
声を遠くへ飛ばそうとして、歪んだ大電力の電波を出しても困ります。
A1なら、もっと単純で丈夫な高出力送信ができます。
長距離は電信。
近いところや条件のよい通信は電話。
今のところ、それで十分でした。
通信所へ行くと、どろちゃんは紙を一枚取りました。
「パリ宛て。外交電報です」
書くのは、正式な訪問照会です。
清国皇帝康熙帝。
フランス国王ルイ14世。
両名がイスタンブール訪問を希望。
出発予定は、テネリフェから直接ではなく、一度エルレンフェルトへ帰国した後。
同行人数は調整中。
使用機はムリヤ。
長大な滑走距離と、重量に耐える地面が必要。
到着予定時刻は、先方の受け入れ条件に合わせて調整可能。
警備員の人数。
携行する武器の扱い。
滞在日数。
皇帝と国王の移動方法。
正式な面会場所。
宿泊場所。
必要な項目を順番に書きます。
「最初から全部決めて送りつけるより、向こうが用意できる条件を聞いた方がいいね」
フランソワさんが紙を見ました。
「ムリヤちゃんの着陸場所が、最初の問題になりそうでございますね」
「うん。そこだけは馬車道ってわけにいかないから」
コウノトリさんなら、かなり短い草地でも使えます。
ムリヤちゃんは別です。
世界最大級の飛行機を迎えるには、場所を選びます。
電文はテネリフェからパリへ送ります。
パリではフランス側が正式な外交文書として整え、イスタンブールにいるフランス大使館へ送ります。
大使館からオスマン帝国側へ連絡します。
電波は海と陸を一気に越えます。
外交の手続きは、いつもの順番で進めます。
誰が来るのか。
何人なのか。
何に乗って来るのか。
どこへ降りるのか。
武器を持つ護衛をどう扱うのか。
全部、先に話しておきます。
「送ります」
通信士さんが電鍵へ手を置きました。
カチ。
カチカチ。
高出力のA1電波が、テネリフェから北東へ飛んでいきました。
昔なら、ここから手紙を船へ載せます。
パリへ届くまで待ちます。
パリからまた地中海を越えます。
返事も同じ道を戻ります。
それだけで何十日も使います。
今は、文章そのものはその日のうちに届きます。
役所の判断と準備には、人が働く時間が要ります。
オスマン側にも、宮廷があります。
外交官がいます。
役所があります。
警備を担当する人がいます。
飛行機を降ろす場所を実際に見に行く人も必要です。
必要な仕事をする人は、1709年にもちゃんといます。
無線と飛行機が消したのは、人間の能力の不足ではなく、情報と人が移動するための長い時間でした。
◇ ◇ ◇
翌朝。
1709年1月14日。
帰国前の一日です。
町へ出る人たちは、朝食のあとから増えました。
今日は視察も競技会も入れず、帰る前に好きなものを買う日です。
どろちゃんMapを見ながら、市場へ向かう人。
菓子を買う人。
保存できる果物を探す人。
布を選ぶ人。
器を買う人。
酒を買う人。
島で作られた小さな工芸品を探す人。
数日前まで外交文書を抱えていた人が、今日は菓子の箱を抱えています。
王侯の付き人も同じです。
店の人たちはよく売れました。
今回の一行は、島にとってかなり大きなお客です。
それでも、多くの店は普段の住民と同じ値段で売っています。
どろちゃんMapに載っている店には、値段についての記載もあります。
旅行者が来たときだけ値段を大きく上げる店は、非推薦です。
非推薦になった店より、地図で推薦される別の店へ客が流れます。
でも、どろちゃんMapを持った人が何十人も町へ来れば、かなり効きます。
住民と同じ値段で売ってくれる店には、人が集まります。
売る側にも利益があります。
買う側も安心できます。
そして、島の人がいつもの店へ行ったとき、旅行者が来たせいで急に値段が跳ね上がることも減ります。
店先で荷物が増えてきたころ、どろちゃんからもう一つ注意が回りました。
「お土産は、自分で持てる分までね」
「重量でございますか」
「重さを量って決めるんじゃなくて、台車とかカートなしで、自分で運べる範囲」
「ムリヤちゃんの搭載量ではないのですか」
「ムリヤちゃんは大丈夫。帰ってからピーチライナーが詰まるから」
そこでした。
エルレンフェルトへ着けば、多くの人が新滑走路から中心街、ホテル、住宅地へ移動します。
ピーチライナーには、普通の住民も乗っています。
旅行帰りの人が一人で箱を何個も持ち込み、扉の前と通路を荷物で塞いだら困ります。
ムリヤちゃんの貨物室に入るかどうかより、最後に人間が自分で運べるかどうか。
それを上限にしました。
結果として、みんなかなり買いました。
自分で持てる範囲という条件は、人によってずいぶん違います。
◇ ◇ ◇
みんなが買い物をしているころ。
どろちゃんは滑走路にいました。
どろちゃんは、お土産の代わりに飛行機を片づけます。
コウノトリさん。
タドポール君。
それからハイラックスです。
昨日まで飛んでいた2機を、帰りはムリヤちゃんの貨物に戻します。
タドポール君は輸送用に翼を外します。
翼を支える台。
胴体を載せる支持具。
外した部品を留める場所。
それぞれを確認します。
コウノトリさんも、ムリヤちゃんへ収まる形へ戻します。
部品を外すところには番号があります。
左右を間違えないように印もあります。
輸送用のパレットへ載せ、固定具を締めます。
ここでハイラックスがよく働きました。
工具を運びます。
支持具を運びます。
取り外した部品を運びます。
空になった箱を移します。
ムリヤちゃんのところと作業場所を何度も往復します。
「最後まで働くね」
どろちゃんが運転席の屋根を軽く叩きました。
ハイラックスは返事をしません。
普通の自動車です。
でも、今回の旅行ではずいぶん役に立ちました。
テイデ山へ人を運びました。
荷物を運びました。
飛行機の片付けにも使います。
そして全部が終わったら、自分もムリヤちゃんへ入ります。
積む順番は最後の方。
エルレンフェルトへ着いたら、早めに降ろしてまた働いてもらいます。
タドポール君のパレットがムリヤちゃんの前へ来ました。
大きな機首は開いています。
パレットを引き上げ、貨物室の床へ入れます。
所定の位置まで移動。
前後。
左右。
上下。
動かないように固定します。
次はコウノトリさんです。
どろちゃんは緊締具を一つずつ確認しました。
「これで帰れるね」
『うん』
タドポール君が答えます。
そのとき、頭の中で別の声がしました。
『こういう積み方は、やっぱりいいね』
技師さんです。
「何が?」
『飛行機を飛行機で運ぶところ』
「技師さんたち、そういうの好きですよね」
『好きだよ』
「飛行機以外も好きですけど」
どろちゃんは、そこで思い出しました。
「ピーチライナーとか」
少し間がありました。
『あれも楽しかったよ』
「水上機のときも、そう言ってた」
『水上機は楽しかったよ』
「3種類5機も作ったでしょう」
『うん』
「飛燕ちゃんまで」
『あれも面白かったね』
どろちゃんは固定具をもう一度引きました。
「技師さんたちって、アントノフの人でしょう」
『そうだよ』
「何で、こんなに何でもやるの?」
今度の間は、少し長くなりました。
返ってきた声も、いつもの短い作業指示とは違いました。
◇ ◇ ◇
『生きていたころはね、何でも好きなものを作れたわけじゃないんだよ』
技師さんは、ゆっくり話し始めました。
『設計局には仕事がある。国から来る仕事もある。工場には作るものが決まっている。材料も、人も、機械も、時間も、全部どこかから勝手に生えてくるわけじゃない』
「それは今も同じじゃない?」
『今は、だいぶ違うよ』
笑っているような声でした。
『アントノフは、何でも作る設計局じゃなかった。グライダーから始まって、輸送機、連絡機、短い場所から飛べる飛行機、大きな貨物を運ぶ飛行機。そういう仕事をずっとやってきた。戦闘機や爆撃機を主に作る設計局じゃない』
「全然知らなかったわけじゃないでしょう」
『もちろん。飛行機屋なんだから、ほかの飛行機も見る。資料も読む。試験の話も入ってくる。でも、自分が面白いと思ったから明日から戦闘機を一機作ってみよう、とはならない』
「今は飛燕ちゃん作ったけど」
『だから楽しかったんだよ』
即答でした。
『あれは川崎の機体だろう。エンジンはドイツの試験型。足りないところはこっちで設計し直す。日本の戦闘機の機体を、ソ連の輸送機屋が、ドイツの高高度エンジンで飛ばす。生きているときなら、あんな仕事の始め方はできないよ』
「紫雲ちゃんも」
『日本の水上機にアメリカのエンジンを入れて、二重反転の減速機はこっちで作り直した。あれも楽しかった』
「やっぱり遊んでる」
『遊んでるよ』
技師さんは否定しませんでした。
『でも、遊びだから雑にやるわけじゃない。飛ばすなら計算する。壊れたところは直す。昔うまくいかなかったところは、なぜ駄目だったのか調べる。材料を変えたら、また計算する。地上で回して、温度も振動も見る。最後に飛ばして測る』
「そこは仕事と同じなんですね」
『そこを変えたら危ないからね』
どろちゃんはタドポール君の翼を留めた支持具へ手を当てました。
遊びでも、固定具は締めます。
興味本位でも、飛行機は落としません。
技師さんは続けました。
『それに、設計局の中だけの話でもなかった。国全体の計画があったし、ソ連だけで全部を作っていたわけでもない』
「COMECON?」
『そう。COMECON』
どろちゃんには分かります。
でも、この世界の人へ説明するときには、それだけでは通じません。
「知らない人向けに言うと?」
『ソ連を中心にした社会主義国どうしの経済の組織だよ。経済相互援助会議。国ごとに工場も得意な産業も違うから、機械、車両、電気製品、工作機械、資源、いろいろなものを分担して作って、互いに使う』
「一つの国が全部作るんじゃなくて」
『そう。もちろん、何々はこの国だけ、ほかの国は絶対に作るな、みたいな単純な線引きじゃないよ。同じ種類のものを何か国も作ることもある。でも、大きな流れとして、生産や投資や供給には分担があった』
少し間を置きました。
『だからね。自分たちの設計局が飛行機を作っている横で、別の国の工場が面白い工作機械を作っていても、欲しいから一台ばらして遊ぼう、とはいかない。鉄道車両を見て、台車も制御器も信号も全部触ってみたいと思っても、航空機の設計局が国家の予算で勝手に一編成買ってくるわけにはいかない』
「当たり前ですね」
『当たり前だよ』
『材料だってそうだ。良い軸受がある。良い電気部品がある。良い工作機械がある。でも、どこの工場へ何を何台入れるかは、技師一人の好奇心で決めるものじゃない。軍用なら、見せてもらえないものもある。他の設計局の仕事なら、なおさらだ』
「技師さんたち、見たかったんですね」
『見たいよ』
声が少し明るくなりました。
『技師なんて、知らない機械が動いていたら中を見たくなるものだよ』
「それで天国で自由になった」
『うん』
『予算書を書かなくていい。生産計画の枠を取らなくていい。工場長に、これ一台だけ貸してくれって頼まなくていい。別の設計局へ正式な照会を出して、返事を何週間も待たなくていい』
「神様には聞くでしょう」
『聞くよ。勝手に持っていったらだめだからね』
「鉛の航空ガソリンもだめって言われたし」
『あれは駄目だったね』
技師さんは素直でした。
『自由になったって、何でも許されるわけじゃない。毒を持っていくなと言われたら持っていかない。人を傷つけるためのものも、こっちへ持ってくる必要はない。でも、残骸置き場に面白い機械があって、直して動かしてみたいと言ったとき、神様がいいと言えばできる』
「それが仕事ではない仕事」
『そう』
前にも聞いた言葉が、ここへつながりました。
『水上機もそうだった。日本の飛行機は、こっちには馴染みが薄いものが多かった。フロートの構造を見る。防水を見る。塩水のことを考える。紫雲みたいに、何でこんな難しいことを一機に全部入れたんだ、という飛行機もある』
「技師さんたち、そういうの好きでしょう」
『大好きだよ』
「知ってる」
『飛燕もそう。飛んだことのない機体がある。試験型の高高度エンジンもある。だったら組み合わせたらどうなるんだろう、って思うだろう』
「普通は思っても作れない」
『今は作れる』
そこが一番大きいようでした。
『それで、飛行機以外も見るようになった』
「ピーチライナー」
『あれは見つけたとき、ずいぶん面白かったよ』
「VONA」
『Vehicle Of New Age。ゴムタイヤで走る案内軌条式の新交通だね。車両だけ見ても面白い。でも、車両だけじゃ意味がない』
技師さんの声が、また少し仕事の声に近づきました。
『軌道がある。案内する部分がある。桁がある。高架がある。地下へ入るところもある。電気設備がある。信号がある。ポイントがある。車両基地がある。終点のループがある。駅にはホームドアがある。改札も券売機もある』
「ほぼ一式」
『そう。ほぼフルセットだった』
小牧でピーチライナーが造られてから、使われなくなるまでの期間は、鉄道設備としては短い方でした。
供用期間が比較的短かったため、使える車両、機器、軌道部材、駅設備が大量に残っていました。撤去や解体で傷んだ部分だけを選り分けます。
『あれを見て、車両だけ直して終わりにする方が難しいよ』
「全部見たくなった?」
『全部見たくなった』
『ゴムタイヤでどう案内するのか。ポイントはどう切り替えるのか。車両の位置をどう取るのか。信号と進路をどう連動させるのか。ホームドアをどう合わせるのか。基地でどう検査するのか。ループで向きを変えずにどう回すのか。急な勾配で、鉄の車輪と何が違うのか』
「飛行機屋さんなのに」
『飛行機屋だからだよ』
「またそれ」
『制御も、信号も、電気も、構造も、安全装置もある。飛行機と同じものじゃない。でも、考え方を比べられるところはいくらでもある。違うから面白いんだ』
「それで、エルレンフェルトへ持ってきた」
『使えるものはね』
その言い方が大事でした。
路線は、エルレンフェルトの地形に合わせて組み直します。
鉄道駅。
中心街。
水玉船。
旧滑走路。
新しい3800m滑走路。
新滑走路西と南の住宅地。
必要な場所を結び直しました。
『高架の桁も、使えるものは使った。地下駅に使える設備も使った。軌道部材も、電気設備も、信号も、基地設備も、ポイントも、ループの部材も、ホームドアも、改札も、券売機も』
「駅は作り直したところもありますね」
『うん。階段しかないところを、そのまま持ってきても困るからね。ホームと床の高さを合わせて、エレベーターも入れた。線形もエルレンフェルト用に引き直した』
「でも中身はピーチライナー」
『そう。方式だけ真似して新しく作ったんじゃない。拾って、直して、組み直して使ってる』
「リニモじゃだめだったの?」
技師さんが笑いました。
『まだ天国に来てないよ』
「あ、そうだった」
『向こうでまだ働いてるものは、こっちの残骸置き場にはない』
「じゃあ、選べる中でピーチライナーが良かった」
『状態もよかったし、一式そろってたし、何より面白かった』
「最後が一番大きそう」
『大きいね』
技師さんは、あっさり認めました。
『今はね、生きていたころに触れなかったものを、いくらでも勉強できる。西側の機械も、日本の機械も、鉄道も、船も、工作機械も、電子機器も。全部を自分たちで発明する必要もない。もう作った人がいるんだから、まず実物を見ればいい』
「それで、直して、動かして」
『測る。分解する。どうしてそうしたのか考える。駄目だったところも見る。もっと良い方法があれば試す』
「楽しい?」
『楽しいよ』
即答でした。
『ずっと仕事をしてきた技師が、死んだあとでやっと自由研究をしてるんだ。少しくらい好きにやらせてよ』
どろちゃんは笑いました。
「少し?」
『少しだよ』
ムリヤちゃんの貨物室には、タドポール君とコウノトリさんが入っています。
外には、最後まで働くハイラックスがあります。
エルレンフェルトへ帰れば、技師さんたちが拾ったピーチライナーが走っています。
どろちゃんが頼む前に始まったものも、たくさんあります。
必要だから作ったもの。
神様が持ってきたもの。
技師さんたちが面白がって始めたもの。
その全部が混ざって、今のエルレンフェルトになっています。
「じゃあ、次は何を拾うの?」
『それは見つけてからのお楽しみ』
「怖いなあ」
『大丈夫。危ないものは神様が止めるよ』
「そこを神様任せにしないで」
『ちゃんと自分たちでも考えるよ』
いつもの技師さんでした。
どろちゃんは最後の緊締具へ確認印を付けました。
タドポール君。
固定完了。
コウノトリさん。
固定完了。
帰国準備は、一つずつ終わっていきます。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
テネリフェの通信所へ、パリから返信が入りました。
フランス外務側は、イスタンブールの大使館へすでに連絡を回しています。
大使館からオスマン側へ、正式に照会を始めたという内容でした。
しばらくして、もう一通。
訪問そのものについては歓迎する意向。
ただし、ムリヤちゃんを降ろせる場所は確認が必要。
皇帝と国王を同時に迎えるため、警備と宿泊についても調整する。
護衛の武器については、種類と人数を先に知らせてほしい。
詳細は引き続き大使館経由で詰める。
「もう返事が来た」
どろちゃんは紙を見ました。
フランソワさんも横から読みます。
「パリから先も、もう動いているのでございますね」
「うん」
どろちゃんは返信を書きました。
護衛人数の予定。
ムリヤちゃんの寸法と必要条件。
エルレンフェルトへ一度戻り、そこで贈答品と必要貨物を積み直すこと。
フランス側の外交団も、オスマン方面の実務に合う人へ交代すること。
最終的な出発日時は、オスマン側の受入準備が整ってから決めること。
「これで送ってください」
またA1の音が始まりました。
明日は帰国です。
でも、帰っている間にも話は進みます。
テネリフェからリスボン。
リスボンからエルレンフェルト。
その間にも、パリとイスタンブールでは電報が往復します。
エルレンフェルトへ着いたころには、次の旅行の準備をもっと具体的にできそうです。
◇ ◇ ◇
もう一人、翌日の帰国便に乗る人が増えました。
テネリフェの少女です。
今回、別荘の仕事を手伝うあいだに、マルガレーテたちの仕事をよく見ていました。
食事を運ぶ。
片づける。
飛行機へ持っていくものをそろえる。
部下1と部下2が、マルガレーテの指示を聞いて動く。
少女も、頼まれたことをよく手伝いました。
マルガレーテが声をかけました。
「この仕事、好き?」
「はい」
「エルレンフェルトでも、一緒に仕事する?」
少女は少し驚いてから、すぐに頷きました。
「行ってもいいんですか」
「ちゃんと手続きができればね」
少女には家族がいません。
そこで、本人の希望だけで連れていくのではなく、テネリフェの役所へ話を通しました。
本人がエルレンフェルトへ移り、働くことを希望していること。
身元と家族関係。
誰と一緒に行くのか。
役所の人の前でも本人の意思を確認し、同行の許可をもらいます。
どろちゃんは、その内容をお父様へ電文で送りました。
帰国後はエルレンフェルトで暮らすこと。
マルガレーテの下で働くこと。
国籍もエルレンフェルトにしてほしいこと。
お父様から返事が来ました。
受け入れる。
帰国後、エルレンフェルト国籍として登録する。
「これで一緒に帰れるよ」
どろちゃんが伝えると、少女は何度も頷きました。
マルガレーテには、これで3人目の部下が加わります。
部下1。
部下2。
そして、テネリフェから来る部下3。
当面の仕事は、ホテル棟のレストランです。
客へ料理を出す。
食器を下げる。
厨房との流れを見る。
大勢の客が来たときに、誰がどこを見ているのか覚える。
飛行機の仕事へ入るのは、その先です。
マルガレーテは少女の少ない荷物を見ました。
自分がエルレンフェルトへ来たころのことを、少し思い出したようでした。
マルガレーテも、家族を持たずに育ちました。
母の名前だけが残り、その名前で呼ばれてきました。
マルガレーテ。
「明日の朝、一緒に行きましょう」
「はい」
それだけでした。
◇ ◇ ◇
夕方になると、町へ出ていたエルレンフェルト組が別荘へ戻ってきました。
手には袋。
箱。
包み。
みんな、自分で持てる範囲ですが、出かけたときより明らかに荷物が増えています。
「買いましたね」
飛行場の仕事を終えて戻ったどろちゃんが言いました。
フランソワさんも荷物を見ます。
「皆さま、かなりお楽しみになったようでございます」
ほかの国の旅行参加者たちは、それぞれ自分たちの宿泊先にいます。
今夜ここで食べるのは、どろちゃんの別荘に泊まっているエルレンフェルト組です。
どろちゃん。
フランソワさん。
マルガレーテ。
部下1。
部下2。
護衛2人。
それに、明日から部下3になる少女。
食事を整えるのは、別荘の管理を任せている地元の人たちです。
どろちゃんたちが島にいない間も、建物を見て、庭を整え、換気をし、水回りを確かめてくれている人たちです。
今夜は厨房も任せます。
だから、いつもは料理を運ぶマルガレーテたちも座ります。
護衛2人も一緒です。
料理は、テネリフェで何度も食べたものが並びました。
魚。
じゃがいも。
野菜。
パン。
果物。
大皿から、それぞれ好きなものを取ります。
外はもう暗くなっています。
でも、部屋は外とつながっています。
大きく開いたところから海の空気が入り、みんな軽い服のまま食べています。
エルレンフェルトへ帰れば冬です。
上着を着て、暖房のある部屋で過ごす季節へ戻ります。
こんなふうに外とつながった部屋で夕食を食べられるのも、しばらくお預けです。
管理をしている人の一人が、町の話をしました。
「今日は、ずいぶん売れたそうですよ」
「みんなお土産を買ってましたからね」
「店の人たちも喜んでいました」
旅行参加者が一斉に買い物へ出たので、町の売上はかなり増えました。
それでも、どろちゃんMapで推薦されている店の多くは住民と同じ価格で売っています。
旅行客だからと値段を大きく上げれば、次の地図では非推薦です。
「値段を変えなかった店の方が、よく売れたでしょう」
どろちゃんが聞きました。
「はい。皆さん、地図を見て店を選んでおられましたから」
「それならよかった」
店は売れる。
島へお金が落ちる。
住民がいつも買う値段は変わらない。
その方が長く続きます。
部下3になる少女は、マルガレーテの隣で食べていました。
「寒いですか。エルレンフェルト」
「今は寒いですよ」
「雪も?」
「降ります」
少女は少し考えました。
今日まで着ていた軽い服だけでは足りません。
「着く前に上着を出しておいた方がいいね」
どろちゃんが言いました。
「はい」
食事はゆっくり続きました。
明日の予定は簡単です。
朝食を食べる。
荷物を持つ。
集合は滑走路。
それだけです。
最後に果物が出ました。
どろちゃんは一つ取って、外を見ました。
「また来たいね」
フランソワさんが答えました。
「はい。今度はもう少しお休みになれるとよろしいですね」
「たぶん、また何かするよ」
飛行機を飛ばして。
地図を配って。
競技にも出て。
帰る前にはコウノトリさんとタドポール君を片づけました。
それでも最後の夜は、仕事をしていた人たちも一緒に座っています。
海の空気が入る部屋で。
軽い服のまま。
冬へ帰る前の、最後の夕食でした。
◇ ◇ ◇
1709年1月15日。
朝です。
それぞれの宿泊場所で朝食を取ります。
別荘でも、地元の管理人さんたちが朝食を整えてくれました。
昨日より荷物が増えています。
部下3の荷物だけは、あまり増えていません。
旅行から帰るのではなく、これから住む場所へ向かうからです。
朝食が終わると、別荘を確認します。
忘れ物。
窓。
水回り。
火。
残す食材。
管理人さんへ引き継ぐもの。
次に来たときも使えるようにして、鍵を預けます。
「ありがとうございました」
「またお越しください」
「うん。また来ます」
昨夜、一緒に夕食を食べたので、今朝は普通に挨拶をして出発します。
集合場所は滑走路です。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんの前へ、人が集まってきました。
自分の荷物。
昨日買ったお土産。
みんな、自分で運んできます。
そこで初めて、荷物をまとめます。
お土産は種類ごと、持ち主ごとに確認しながらコンテナへ入れます。
箱。
布包み。
瓶。
器。
菓子。
果物。
かなりの量になりました。
「壊れ物は、ちゃんと包みました?」
どろちゃんがもう一度聞きました。
これは旅行の最初から言ってあります。
陶器。
ガラス。
瓶。
壊れやすいものは、自分で十分に梱包すること。
荷役中に普通に扱って壊れたものは、本人の責任です。
飛行機の中では箱とコンテナを固定します。箱の中の梱包は持ち主の担当です。陶器同士を裸のまま重ねておけば、普通の荷役でも割れることがあります。
「そこまでこちらで一個ずつ包み直していたら、今日帰れないからね」
それで十分でした。
コンテナの蓋を閉めます。
パレットへ載せます。
固定します。
ムリヤちゃんの機首側へ運びます。
斜路の向こうに大きな貨物室があります。
パレットを引き上げます。
昨日入れたタドポール君。
コウノトリさん。
その近くには、旅行中に使った機材。
お土産コンテナのパレットも、荷重と取り出す順番を見ながら位置を決めました。
キャサリン王太后の荷物は、リスボンで降ろします。
エルレンフェルトまで運ぶ荷物と混ざらない場所へ置きます。
帰路の最初の到着地はリスボンです。
そこで一部だけ降ろし、また飛びます。
「ハイラックス、最後ね」
どろちゃんは、まだ地上を走っている車を見ました。
最後の荷物を運びます。
工具箱を運びます。
忘れ物がないか、滑走路の端まで見に行きます。
地上作業の人を乗せて戻ってきます。
全部終わってから、ハイラックス自身がムリヤちゃんへ入りました。
所定の場所へ停めます。
車輪を固定。
車体を緊締。
「お疲れさま」
これで地上車も帰国準備完了です。
◇ ◇ ◇
人の搭乗が始まりました。
貨物室には、MRJ座席を固定したパレットが並んでいます。
ベルト。
リクライニング。
シートレール。
長距離を座って過ごせる旅客用の席です。
今回の旅行参加者の多くは、こちらへ乗ります。
各国の実務担当者。
随行員。
護衛。
給仕さんたち。
マルガレーテ。
部下1。
部下2。
そして部下3。
昨日までテネリフェの住民だった少女が、今日はエルレンフェルトへ向かう乗客です。
上の客室も使います。
康熙帝。
ルイ14世。
キャサリン王太后。
そのほか、上階を使う王侯と上位の随員。
VIP区画の座席と室内も確認します。
マルガレーテたちは今日は客室の安全確認へ戻りました。
食事そのものは、テネリフェ側で用意します。
帰国前の軽食です。
パン。
チーズ。
果物。
冷たいまま食べられる料理。
焼き菓子。
飲み物。
長い正式な機内食ではなく、リスボンまでの途中で出せるものを中心に積みます。
別荘の管理をしている人たちと、今回食事を任せた地元の人が、容器ごと滑走路まで運んできました。
マルガレーテが中身と数を確認します。
「こちらでございますね」
「はい。今朝用意した分です」
「ありがとうございます」
ギャレーパレットへ収めます。
冷やすもの。
常温でよいもの。
飲み物。
出す順番で分けます。
食器とごみを戻す場所も確認します。
テネリフェで積む最後の荷物が、食べ物になりました。
どろちゃんは貨物室を前から後ろまで見ました。
タドポール君。
コウノトリさん。
ハイラックス。
お土産のコンテナ。
旅客用のMRJ座席パレット。
トイレパレット。
ギャレーパレット。
そして人。
行きより、ずいぶん賑やかな貨物室です。
「固定、もう一度見ます」
地上の係と一緒に確認します。
パレットロック。
緊締具。
車両。
コンテナ。
機体部品。
通路。
非常時に使うところへ荷物が出ていないか。
全部を見ます。
マルガレーテたちも、乗客のベルトを確認しました。
部下3は、今日はまだ見ています。
最初の日です。
まず、自分の席でベルトを締めます。
「帰ったら、レストランからね」
マルガレーテが言いました。
「はい」
「飛行機の仕事は、そのあと」
「はい」
短い返事です。
それで十分でした。
◇ ◇ ◇
機首が閉じます。
外の光が細くなり、最後に消えました。
貨物室の照明が残ります。
どろちゃんとフランソワさんは操縦席へ入りました。
今日の最初の区間は、テネリフェからリスボン。
便名はTL0115便です。
テネリフェのT。
リスボンのL。
出発地の日付、0115。
無線を確認します。
天候。
風。
滑走路。
エンジン。
油圧。
電気。
六発を順に確認します。
「ムリヤちゃん、帰ろう」
『うん』
どろちゃんにだけ聞こえる声が返りました。
いつもの給仕案内は、今日はマルガレーテが担当します。
『皆さま、アエロフロート・エルレンフェルト航空、TL0115便は、まもなくテネリフェを出発いたします。お席へお戻りになり、シートベルトをお締めください。お手回り品は収納へお願いいたします』
上階でも、下のMRJ座席パレット側でも、人が席へ戻ります。
お土産はコンテナの中です。
通路は空いています。
扉の前も空いています。
地上員が離れました。
昨日までコウノトリさんとタドポール君が飛んでいた滑走路です。
今日は、その2機を腹の中へ入れたムリヤちゃんが走ります。
ハイラックスも中です。
部下3も中です。
康熙帝とルイ14世は、帰国したあとに始まるイスタンブール行きの返事を待っています。
六発の音が大きくなりました。
「離陸します」
フランソワさんが前を見ます。
「はい、お嬢様」
出力を上げます。
ムリヤちゃんが走り始めました。
速度が上がります。
海と山と、暖かい島の町が窓の外を流れます。
機首が上がりました。
主脚が滑走路を離れます。
1709年1月15日。
TL0115便は、テネリフェを離陸しました。
最初の目的地はリスボンです。
【小さな説明】
【COMECONと技師さんたち】
COMECONは、Council for Mutual Economic Assistance、一般に日本語では経済相互援助会議と呼ばれた、ソ連と東欧などの社会主義国を中心とする経済協力組織です。加盟国どうしで資源、工業製品、機械、設備などを融通し、生産や投資の分担も行いました。分業には重複もあり、一つの製品を一国だけへ完全に割り当てる単純な仕組みではありませんでした。本章では、国家計画、設計局ごとの担当、工場設備、国際分業などが、生前のアントノフ技師たちの自由研究の範囲を狭めていた背景を扱っています。
【技師さんたちの自由研究】
第109章では、天国のアントノフ工場で「仕事ではない仕事」が増え、技師さんたちが生前に触れなかった機体を分解、研究、再設計しています。紫雲1機、零式三座水上偵察機1機、ターボプロップ化したAn-2水上型3機の計5機と、キ61-II改を基礎にDB 605L系高高度実験エンジンを組み合わせた飛燕姿の実験機が、その成果としてどろちゃんの世界へ来ています。本章の長い会話は、その既出設定の続きです。
【VONAとピーチライナー】
VONAはVehicle Of New Ageの略です。本作では、技師さんたちが天国で見つけた小牧市由来のピーチライナーを、車両だけでなく、使える軌道、桁、高架・地下駅関係の設備、電気設備、信号、ポイント、車両基地、ループ線、ホームドア、改札、券売機なども可能な限り回収しています。エルレンフェルトの地形と路線に合わせて再構成し、階段中心だった駅はバリアフリー化しています。リニモはまだ現役側にあるため、天国の残骸置き場には来ていません。
【A1とA3】
本作の初期無線では、A1をCW電信、A3を搬送波付きAM電話として使っています。テネリフェの高出力局では、現地技術で大電力の直線増幅を安定して行うことが難しいため、遠距離の大電力通信はA1を中心にします。イスタンブール訪問の連絡は、テネリフェからパリ、パリからフランス大使館、そこからオスマン帝国側という外交経路で進めています。通信時間が短くなっても、受入側の判断、警備、宿泊、着陸場所の確認などの行政実務は残ります。
【最後の夕食】
最後の夕食は王侯用宿泊施設ではなく、どろちゃんの別荘で行います。参加するのは、どろちゃん、フランソワさん、マルガレーテ、部下1・2、護衛2人、それに翌日から部下3になる少女です。料理と給仕は別荘管理を任せている地元の人たちが担当するため、普段は給仕や護衛をしているエルレンフェルト組も同じ食卓で食べます。王侯や各国の旅行参加者はそれぞれの宿泊先で過ごしています。
【帰国時のお土産】
今回のお土産に一律の重量上限は設けていません。基準は「カートや台車を使わず、本人が自分で運べる範囲」です。ムリヤちゃんの搭載能力より、エルレンフェルト到着後に一般住民と共用するピーチライナーへ大量の手荷物を持ち込んで乗降や通路を塞がないことを優先しています。滑走路へ持ち込んだ後は、まとめてコンテナに収納し、パレット単位でムリヤちゃんへ積み込みます。壊れ物は各自が事前に十分な梱包を行い、通常の荷役で生じた破損は自己責任です。




