144貴族令嬢は走ります。 清の皇帝とルイ14世主催で、文官と武官の競技会をやります。
第144章 貴族令嬢は走ります
オプショナルツアーの日が終わりました。
ハイラックスは二回。
コウノトリちゃんは八回。
タドポール君は、有料のお客さんはゼロでしたが、給仕さんを三人乗せて、ずいぶん長く空を飛びました。
機体を片付け、受付の紙をまとめて、夕食も終わりました。
今日はこれで終わりです。
――そのはずでした。
◇ ◇ ◇
夕食のあと、どろちゃんは宿泊場所の廊下を歩いていて、新しい掲示に気がつきました。
「……何これ」
昨日まではなかった紙です。
人の集まりやすい場所へ、明日の催しについてのお知らせが出ていました。
文官競争。
往復4km。
滑走路沿いの道を2km進み、そこに立ててある自分の旗を一本取り、同じ場所まで持って帰ってくる。
「走るの?」
どろちゃんは、もう一度上から読みました。
その少し前、ルイ十四世と清の皇帝が何を相談していたのか、どろちゃんは知りません。
ただ、掲示を見れば、何かを企んだことだけは分かります。
参加資格は基本的に文官。
男性武官は参加しません。
女性武官は参加できます。
清側では、宦官も参加できます。
旗は一人一本。
ほかの人の旗を取って渡してはいけません。
途中で旗を受け取って、そこから折り返すのも失格です。
「なるほど」
旗は折り返し地点の目印だけではありません。
本人が2km先まで行ったことを示す証明でもあります。
往復にした理由も、すぐ分かりました。
スタート地点とゴール地点が同じなら、見ている人は出発でも盛り上がり、しばらくして帰ってくる人でもう一度盛り上がれます。
受付も審判も同じ場所で済みます。
近くで掲示を読んでいた武官たちは、4kmという数字を見て、少し妙な顔をしました。
声には出しません。
でも、顔にはかなりはっきり書いてあります。
――たった4km?
一方、文官の人たちは、あまりうれしそうではありません。
ここに来ている文官は、若い伝令や現場を走り回る役人ではありません。
国の中で長く仕事をして、大勢の人を動かし、国際会議へ呼ばれるところまで上がってきた人たちです。
たいへん立派な人たちなのですが、4kmを走るために作られたような身体つきの人は、それほど多くありません。
掲示の下には、参加希望者は今夜の説明に集まるよう書かれていました。
「参加する?」
フランソワさんが尋ねました。
「する」
どろちゃんは、すぐ答えました。
◇ ◇ ◇
その夜、参加者向けの説明が行われました。
エルレンフェルト側では、マルガレータさんが受付や記録などの運営を担当します。
「旗は一人一本です」
マルガレータさんが確認しました。
「先に着いた方が複数の旗を取って、往路の遅い方へ渡すのも不可です」
「途中でもらった旗を持って折り返すのも駄目ですね」
どろちゃんが言いました。
「はい。2km地点まで本人が行ったことになりませんから」
その日の夕刻、競技の案内が各国の宿泊場所に掲示されました。
距離も、折り返し方も、旗の扱いも書かれています。
それから、もう一つの競技について説明されました。
武官競争。
距離は400m。
こちらは、押っ取り刀で駆けつけるための競争です。
ここで、一つ説明が必要です。
「押っ取り刀」の「おっとり」は、「おっとりした人」のような、のんびりした様子を表す言葉ではありません。
むしろ反対です。
急な異変が起きたとき、刀をきちんと腰へ差し、身支度を整えている暇もない。
とにかく刀を手に取って、そのまま急いで駆けつける。
それが「押っ取り刀」です。
のんびり駆けつける競争ではありません。
そんなことをしていたら、主君の方が困ります。
本物の武器を持って走るわけにはいかないので、競技では木の棒を使います。
重さは、それぞれの体重の20%。
体重が違えば、棒の太さを変えて調整します。
普段その人が武器を運ぶために使っている装具は使用できます。
肩から掛ける紐。
帯革。
銃のスリング。
鞘を留めるもの。
背負うための保持具。
槍や長柄武器を使う人も、競技では実物ではなく木の棒を使います。
「それなら、私も一つあります」
どろちゃんは思い出しました。
ムリヤちゃんの中に、背負い式の銃用ホルダーがあります。
木の棒を背中へ固定すれば、両手を空けたまま走れます。
もっとも、これはどろちゃんだけの特別な抜け道ではありません。
職業軍人たちは、それぞれ自分の武器を持って動くための方法を知っています。
明日の二つ目の競技は、そういうところまで含めた押っ取り刀競争でした。
◇ ◇ ◇
その夜。
どろちゃんたちのところへ、神様から荷物が届きました。
「……これ、明日のだよね」
箱の中に入っていたのは、走るための服でした。
けれど、陸上競技場で短い時間だけ着るような、生地の少ない競技用ユニフォームではありません。
街の中を走っても、そのまま店へ入ってもおかしくないような、たいへん洒落たランニングウェアです。
軽いトップス。
動きやすいボトム。
足に合ったランニングシューズ。
女性用には、きちんとスポーツブラまで入っています。
「こっちは私」
「こちらはフランソワさん」
「これは……」
少し大きめの一組を見て、みんなの視線が一人へ集まりました。
ぽっちゃりした給仕さんです。
「私も、でございますか」
「サイズ、合いそうだよ」
参加する人の分が、ちゃんとあります。
神様の気持ちを人間側で勝手に決めつけることはできません。
ただ、少なくとも箱の中身だけを見るなら、明日走る人たちに必要なものは、たいへん真面目に揃えられていました。
スポーツブラまであります。
かなり本格的です。
◇ ◇ ◇
翌朝。
受付にはマルガレータさんが座りました。
今日は走りません。
エルレンフェルト側の受付、参加者確認、記録などを担当します。
「旗は一人一本です」
前夜にも説明したことを、もう一度確認します。
「2km先で自分の旗を取り、ここまで持って戻ってください。ほかの方の旗を取って渡してはいけません。途中で受け取った旗を持って折り返した場合も失格です」
参加者たちはうなずきました。
どろちゃんは神様から届いたランニングウェアを着ています。
フランソワさんも同じです。
給仕さんたちも、昨日までの仕事着とはまったく違います。
ぽっちゃりした給仕さんも、きちんと走る格好になっています。
武官の人たちは、少し離れたところから文官競争を見ています。
4km。
やっぱり、短そうな顔をしています。
文官の人たちは、そうでもありません。
「始めます」
合図が出ました。
何人かが、勢いよく前へ出ます。
どろちゃんは出ません。
学校で、こういう走り方は習っています。
4kmは、最初の100mだけ速ければよい競技ではありません。
最初に気持ちよく飛ばしてしまうと、あとで困ります。
「お嬢様」
横からフランソワさんの声がしました。
「うん。このくらい」
二人より前には、何人もいます。
最初の200m。
300m。
まだ前の人たちは元気です。
500m。
どろちゃんは追いません。
800mほど進んだところで、前の集団の動きが変わり始めました。
最初に大きく腕を振って走っていた人の歩幅が小さくなります。
別の人は、肩が上下し始めました。
一人を抜きます。
少し先でもう一人。
さらに一人。
どろちゃんの速さが急に上がったわけではありません。
ほぼ同じ速さで走っています。
周りの人たちが、先に使った分だけ遅くなっていくのです。
1kmを過ぎるころには、前にいる人数がずいぶん減りました。
やがて、一番前に出ました。
そこからは一人です。
道の先に、旗が並んでいるのが見えてきました。
2km地点です。
自分の旗を確認します。
一本だけ取ります。
向きを変えます。
そして帰り道へ入りました。
そこで初めて、後ろの様子がよく見えました。
「……離れたね」
次の参加者は、まだこちらへ向かっています。
どろちゃんは、そのまま同じように走ります。
前半で無理をしなかった分、帰りも大きく速度を落とす必要がありません。
スタート地点だった場所が、今度はゴールになります。
観客の声が聞こえてきました。
旗を持っているので、遠くからでも誰が帰ってきたのか分かります。
どろちゃんが最初に戻りました。
「一位!」
マルガレータさんが記録します。
どろちゃんは止まって、しばらく歩きました。
すぐに座り込む必要はありません。
でも、4kmは4kmです。
息は上がっています。
それからしばらくして、二人目の旗が見えました。
フランソワさんです。
どろちゃんから、およそ500mほど離れていました。
三位は、マルガレータさんの部下の細い給仕さん。
四位は、フランスの女性武官。
五位は、エルレンフェルトのぽっちゃりした給仕さん。
六位は、大家さんのところの護衛をしている女性武官でした。
ぽっちゃりした給仕さんは、エルレンフェルトから参加した人の中では一番遅くなりました。
それでも、きちんと2km先まで行き、自分の旗を持って帰ってきています。
旗を途中でもらって近道した人はいません。
全員、自分の脚で往復しました。
◇ ◇ ◇
優勝賞品は、少し変わっていました。
まず、VOGの株です。
どろちゃんは受け取る手続きをしたあと、その株を国連へ寄付することにしました。
もう一つは、手放しませんでした。
清の皇帝が直接書いた優勝賞状です。
文字だけではありません。
水墨画も入っています。
「これは、いただきます」
どろちゃんは、たいへん大事そうに持ちました。
皇帝本人の直筆です。
しかも絵まであります。
賞状ですが、普通の紙一枚という感じではありません。
どう見ても美術品です。
これを国連へ寄付する気はありませんでした。
◇ ◇ ◇
次の競技までは、およそ一時間です。
文官競争に出た人たちは休みます。
今度は武官たちが準備を始めました。
木の棒が並びます。
一本ごとに重さが違います。
参加者の体重の20%になるよう調整されているからです。
どろちゃんも、自分の棒を背中へ固定しました。
ムリヤちゃんから持ってきた銃用ホルダーです。
両手を振れます。
隣では、別の武官が肩掛けの装具を使っています。
その向こうでは、帯革へ棒を留めています。
みんな、自分の本来の武器を運ぶときに近い方法を選んでいます。
400m先。
ゴール側には、ルイ十四世と清の皇帝がいます。
スタートの合図に使うのは、大きな銅鑼でした。
「陛下が打たれたら開始です」
説明は、それだけです。
どろちゃんはゴール側を見ました。
遠いですが、皇帝の姿は見えます。
銅鑼も見えます。
ばちが上がりました。
振り下ろされました。
どろちゃんは走り出しました。
まだ音は聞こえていません。
少し遅れて、
ゴォン。
大きな音が届きました。
後ろで、ほかの参加者が一斉に走り出します。
どろちゃんは先頭です。
「よし」
かなり大きな先行です。
けれど、相手は職業軍人でした。
背後から足音が近づいてきます。
一人。
抜かれました。
二人目。
三人目。
「速い……」
四人目。
五人目。
結局、どろちゃんは六番目にゴールしました。
約1秒以上先に走り始めたのに、五人に抜かれました。
押っ取り刀競争に出てくる人たちは、本職です。
◇ ◇ ◇
「今のは早かっただろう」
競技が終わると、すぐに声が上がりました。
「合図の前に出ていたのではないか」
何人かが、どろちゃんのスタートを見ています。
音が鳴るより前に動いたのは間違いありません。
ルイ十四世が答えました。
「いや。あれはフライングではない」
「しかし、音より先に」
「あちらで陛下が銅鑼を打ったのは見えていただろう」
武官たちが、400m向こうを見ました。
「主君が襲われた時も、悲鳴が聞こえてから走り出すつもりか」
少し静かになりました。
どろちゃんは、銅鑼の音を聞いていませんでした。
見ていたのです。
光は、400m程度なら人間にはほとんど同時に届いたように見えます。
音は違います。
今日くらいの暖かさなら、音は1秒に340数mほど進みます。
400mなら、およそ1.16秒です。
どろちゃんは、その分だけ先に走り始めました。
「……本当に、それほど違うのか」
一人の武官が、まだ納得していません。
「試してみます?」
どろちゃんは言いました。
納得いかないときに実験をするのは良いことです。
銅鑼を使い、距離を変えて試すことになりました。
一人が遠くでばちを振ります。
こちらは、その瞬間を目で見ます。
そして、あとから音が来ます。
距離を長くすると、目で見てから音が届くまでの間も長くなりました。
「本当だ」
「打ったのが先に見える」
「さっきと同じだ」
疑っていた人たちも、自分の目と耳で確認しました。
これなら仕方ありません。
どろちゃんは規則を破っていません。
ただ、合図を耳だけで待たなかったのです。
ちなみに、もっと寒ければ音は少し遅くなります。
5℃くらいなら、400mで約1.20秒。
今日の24℃前後なら約1.16秒。
差は1/40秒より少し大きいくらいです。
順位を一つ上げるほどの差ではなさそうです。
「暖かい方がいいです」
どろちゃんは言いました。
寒いのは嫌いです。
◇ ◇ ◇
六位も正式な入賞でした。
参加賞ではありません。
どろちゃんは、清の皇帝から小さな御札を受け取りました。
これも直筆です。
午前中に手に入れたものを並べると、少し妙でした。
文官4km競争。
一位。
水墨画入り、清の皇帝直筆の優勝賞状。
VOG株は国連へ寄付。
武官押っ取り刀400m競争。
六位。
清の皇帝直筆の御札。
「今日、よく走ったね」
フランソワさんが言いました。
「4kmと400mだけだよ」
近くにいた武官が、こちらを見ました。
その顔には、やっぱり少し、
――たった4km。
と書いてありました。
【小さな説明】
【押っ取り刀】
「押っ取り刀」は、のんびり駆けつけるという意味ではありません。「おっとり」を現代語の「おっとりした」と切り離して考えると、意味を逆に取りやすい言葉です。急な異変に、刀をきちんと帯びる暇もなく手に取って、そのまま駆けつけることを表します。本章の武官競争は、この意味をそのまま競技にしています。
【400m先の銅鑼】
気温24℃前後の乾燥空気では、音速はおよそ345.5~346m/sです。400mを進むには約1.16秒かかります。光の到達時間はこの距離では無視できるほど短いため、遠くの銅鑼は「打つ動作が見えてから、少し遅れて音が届く」ことになります。5℃前後なら音速は約334.5m/sで、400mに約1.20秒かかります。
【文官競争の旗】
2km先の旗は折り返し地点の目印であると同時に、本人がそこまで到達したことを示す通過証明です。一人一本だけを持ち帰ります。先行者が複数本を取って後続へ渡したり、途中で受け取った人がそこから折り返したりするのはルール違反です。




