142貴族令嬢は暖かい島で自由時間を過ごします。
第142章 貴族令嬢は暖かい島で自由時間を過ごします
翌朝。
1709年1月11日。
別荘の窓を開けると、冷たい空気は入ってきませんでした。
昨夜も暖かかったのですが、朝になって明るくなると、冬のエルレンフェルトから来たことをいっそう忘れそうになります。
どろちゃんは朝食の席で、パンをちぎりながら予定表を見ました。
「今日は、何もないね」
フランソワさんも自分の紙を確認します。
「全体行事はございません。各国とも自由時間でございます」
「ほんとに何もない」
「昨日、説明は終わっております」
いつもの給仕さんが果物を切りながら笑いました。
「お嬢様。何も予定を入れないために、昨日あれだけ説明なさったのでございます」
「そうだったね」
「皆様には地図もございますし、宿泊先も分かっております。清国側は全権の方がご一緒です。何かございましたら連絡も参ります」
朝から各国の馬車が一列になって待っているわけでもありません。
旗を立てた観光隊もありません。
今日は本当に、好きなところへ行ってよい日です。
海へ行く人。
町へ行く人。
市場へ行く人。
宿で寝ている人。
朝から酒を飲む人は、たぶんもういるでしょう。
「じゃあ、私たちも遊ぼうか」
「はい」
フランソワさんは即答しました。
◇ ◇ ◇
宿泊所の方では、朝から少し変なことになっていました。
海を見たい人が多すぎます。
もちろん、海のある国から来た人もたくさんいます。
イングランド。
ネーデルラント。
フランス。
バルト海に面した地域。
北海に近い国々。
船を持つ国の役人や商人なら、港へ行った経験くらい珍しくもありません。
それでも、テネリフェの海は勝手が違いました。
「青いな」
「海なのだから青いだろう」
「いや、そういう青ではない」
北海沿岸から来た役人が、朝から海岸で真面目に議論しています。
彼が普段見る海は、風が強く、空も低く、水面の色も重い日が多いのでしょう。
今日のテネリフェは晴れています。
海の色は場所によって青く、浅いところでは緑がかって見えました。
しかも水が澄んでいます。
岸近くでは、底の岩が見えます。
「浅いのか?」
「そこは浅い」
「では、あちらは?」
「かなり深いはずだ」
「底が見えるぞ」
「見えるな」
海を知っている人ほど、しばらく水面を見ていました。
内陸国から来た人たちは、もっと分かりやすい反応です。
人生でほとんど海を見たことがない人までいます。
地図では知っています。
港の絵も見ています。
船の構造も知っています。
貿易額を計算したこともあります。
それでも、目の前いっぱいに水があり、向こう側に陸地が見えないということは、紙の上では分かりません。
「これが全部、海なのか」
ある小さな内陸国の財務担当者が言いました。
「そうだと思います」
横の人も、なぜか自信がありません。
「川なら向こう岸がある」
「海にも向こう岸はあるでしょう」
「見えない」
「かなり遠いですからね」
しばらく2人とも黙りました。
そのあと靴を脱ぎました。
海を見るだけで帰るつもりだったらしいのですが、浅いところまで入ってみたくなったようです。
「冷たくない」
「冬だぞ」
「ここではそういう冬なのだろう」
膝まで入るつもりはなかったのに、少しずつ沖へ進みます。
最後には裾を持ち上げながら笑っていました。
◇ ◇ ◇
清国の一行は、前回テネリフェへ来た全権さんがいます。
ですから、朝から迷いません。
「陛下。こちらでございます」
康熙帝を案内した先は、前に自分たちが遊んだ穏やかな湾でした。
小さなボートを借りられます。
二人一組。
湾の中だけ。
沖へ出ない。
風が強くなったら戻る。
前回と同じ説明を受けます。
康熙帝は、水面を見ました。
「報告に書いてあったところか」
「はい。ここでございます」
「水がないように見える、と書いたな」
「実際に見ると、そのように感じました」
浅いところでは、砂も岩もよく見えます。
波が通るたびに、底の模様だけがゆらゆら動きます。
小さなボートを出すと、その影まで見えました。
康熙帝は全権さんと同じ艇に乗りました。
護衛は別の艇です。
漕ぎ始めます。
「軽いな」
「はい。あまり力を入れなくても進みます」
「北京の池とは違う」
「かなり違います」
少し進んでから、康熙帝は櫂を止めました。
水面の下を見ます。
ボートだけが空中に浮いているように見える。
以前、全権さんが北京で説明した通りです。
「これは、見なければ分からぬな」
「私も、文章にするのに困りました」
「そのようだ」
全権さんは少しうれしそうでした。
自分が遠い土地で見てきたものを、今度は皇帝本人が同じ場所で見ています。
帰国したあと、報告書のあの一行だけは、もう説明し直さなくて済みそうです。
◇ ◇ ◇
海へ来ても、全員が水へ入るわけではありません。
食べる方へ向かった人も、かなりいます。
港の近くでは、朝から魚が並んでいます。
その日の魚。
イカ。
タコ。
貝。
エビに似たもの。
見慣れない魚を前にして、各国の人たちが店の人へ次々に尋ねています。
「これはどう食べる」
「焼けます」
「これは」
「煮ます」
「こちらは?」
「今日はよいものです。塩と油だけでも十分です」
「では、それを」
「何人分ですか」
「4人だ」
「その大きさなら2尾で十分です」
「4尾では駄目か」
「食べきれるならお出しします」
昨日の説明をちゃんと守って、大人数では押しかけていません。
3人。
4人。
6人。
それくらいの小さな組に分かれて、町のあちこちへ散っています。
その結果、魚料理の店だけが一軒満員になることもありません。
ある内陸国の一行は、昼食だけでかなりの種類を頼みました。
炭火で焼いた魚。
やわらかく煮たタコ。
汁ごと出てくる貝。
小さなエビを油とにんにくで焼いたもの。
パン。
山羊のチーズ。
じゃがいも。
「海の近くでは、毎日こういうものを食べられるのか」
「毎日全部食べる人はいないと思います」
「今日は食べてもよいだろう」
「国費ですか」
一瞬、全員が止まりました。
「……昼食は出張費でよかったはずだ」
「酒は?」
「酒は量による」
「では一本だけにしよう」
昨日のパンフレットが、ここでも役に立っています。
海のない国から来た人たちは、魚を珍しがって食べます。
海のある国から来た人たちは、今度は種類と調理法の違いを比べながら食べます。
「北で食べる魚と全然違うな」
「水温が違えば、魚も違うだろう」
「理屈では分かる」
「味は理屈ではない」
「もう一皿頼もう」
結局、よく食べます。
◇ ◇ ◇
どろちゃんとフランソワさんは、以前遊びに来たときと似た道を歩いていました。
海の近く。
店が続くところです。
「帽子、見よう」
「すでにお持ちでございます」
「ここで買った帽子もあるよ」
「存じております」
「今日の日差しに合うのがあるかもしれない」
「帽子は、日差しに合わせて毎回増やすものなのでございますか」
「違うの?」
フランソワさんは答えませんでした。
最初の店へ入ります。
布。
革の小物。
薄い綿の服。
香辛料。
帽子。
前に来たときと同じようなものもあれば、新しく入ったものもあります。
どろちゃんは大きなつばの帽子を一つ持ち上げました。
「これ、いい」
「前が見えますか」
「見える」
「本当に?」
「たぶん」
「では、被って歩いてみてくださいませ」
店の中を数歩歩きました。
棚の角へ当たりそうになりました。
「少し大きいね」
「はい」
今日は買いませんでした。
代わりに、もう少し小さい帽子を買いました。
フランソワさんも薄い布を何枚か見ています。
「何に使うの?」
「夏用の服に使えるかと思いまして」
「エルレンフェルトだと、まだずっと先だよ」
「ですから、今買っておけばよろしいのではないでしょうか」
「それはそうだね」
前に清国の全権さんも、薄い綿の衣類を持ち帰っています。
暖かい場所で使う服は、寒い北京の冬服とはまるで違います。
見本として買って帰るだけでも、十分に意味があります。
でも、どろちゃんたちは今日は仕事のためではありません。
単に気に入ったから買っています。
◇ ◇ ◇
昼近くになると、海岸の小さなボートがずいぶん増えました。
内陸国の人たちも乗っています。
北海側の人も乗っています。
清国の人もいます。
漕ぐのが上手な人。
まっすぐ進まない人。
片方だけ強く漕いで、同じところを回る人。
「右だ、右!」
「右を漕いだら左へ行ったぞ!」
「反対だ!」
「先に言え!」
岸から笑い声が聞こえます。
貸している側も慣れています。
危ないところへ行きそうなら声をかけ、風が変われば戻します。
湾の外へ出さなければ、小さな艇で遊ぶには十分でした。
泳ぐ人もいます。
といっても、沖へ出る人はいません。
浅いところで水に入り、少し泳いで、また岸へ戻ります。
海に慣れているはずの北の人たちまで、今日は長く水にいます。
「寒くない海というのは、妙だな」
「海に入って震えない」
「それを妙と言うのか」
「私の知っている海ではない」
でも、顔は笑っています。
内陸国の人たちは、もっと単純です。
「もう一度入る」
「昼食は?」
「あとでいい」
「魚を食べに来たのではなかったのか」
「海も今しかない」
旅行の目的が、どんどん増えていました。
◇ ◇ ◇
ルイ14世は、朝から海へ飛び込むような遊び方はしませんでした。
ただ、宿に残っているわけでもありません。
少人数で町へ出ます。
市場を見て、港を見て、それから昼食の店へ入りました。
店の人が魚を見せます。
「こちらは今朝のものです」
「では、それを焼いてもらおう」
「ソースはいかがいたしますか」
「この島の食べ方でよい」
出てきた魚を食べながら、ルイ14世は窓の外の港を見ていました。
昨日までは港湾設備や船の積み方を話しています。
今日は同じ港を見ても、図面を広げません。
「陛下。午後はいかがなさいますか」
付き人が尋ねます。
「何もしなくてもよいのだったな」
「はい」
「では、何もしない」
そう言って、もう一切れ魚を取りました。
かなり珍しい休日です。
◇ ◇ ◇
サヴォさんは、もっと分かりやすく遊んでいました。
午前中は海。
昼は魚。
午後は酒。
ただし、昨夜自分で説明した側ですから、店の選び方も支払いもきちんとしています。
「これは記名でよいのか」
「昼食でしたら国の会計へ回せます」
「こちらの酒は?」
「私的に追加なさるのでしたら現金の方が簡単でしょう」
「では、そうしよう」
話が早いです。
その横では、別の国の外交官が昨夜の地図を何度も見ています。
「そんなに見るな」
「店を探しているだけです」
「どの種類の店だ」
「魚です」
「なら魚の印だけ見ればよい」
「分かっています」
「そうか」
サヴォさんはそれ以上聞きませんでした。
◇ ◇ ◇
キャサリン王太后は、市場の方へ行きました。
果物が並んでいます。
オレンジ。
バナナ。
いちじく。
ほかにもエルレンフェルトでは冬に簡単には手に入らないものがあります。
少しずつ味を見ながら、宿へ持ち帰る分も選びます。
「これは甘いですね」
「今日のものは特に良いです」
「こちらは?」
「少し酸味があります」
「では、それも」
結局、箱が増えました。
王太后のお付きが数を確認しています。
「全部お持ち帰りになりますか」
「皆で食べます」
その言葉通り、宿へ戻るころには周りの人へ配ることになりました。
海で遊んで戻ってきた人も、町を歩いて疲れた人も、果物なら入ります。
共用の場所に切った果物が置かれ、いつの間にか国の違う人たちが周りに集まっていました。
会議ではありません。
資料もありません。
ただ、海から戻ってきた人が果物を食べています。
◇ ◇ ◇
午後、どろちゃんとフランソワさんも海の料理を出す店へ入りました。
前と同じように、店先から魚を見ます。
「今日はどれがいい?」
店の人に聞きます。
「こちらがよく揚がっています」
「それ焼いてください。あとタコ」
「貝もございます」
「それも」
フランソワさんが横から見ました。
「お嬢様」
「今日は2人だけじゃないよ」
いつもの給仕さんと、休みになった護衛の一人も一緒です。
「4人」
「それでしたら、前よりは大丈夫でございます」
「エビみたいなのもある」
「まず今の分を召し上がってからになさってくださいませ」
「前も言われた気がする」
「同じことをなさっておりますので」
魚は炭火で焼かれました。
塩。
柑橘。
油。
タコはやわらかく煮てあります。
貝は汁ごと皿へ。
パンと山羊のチーズ。
じゃがいも。
最後に果物。
「やっぱりおいしい」
どろちゃんは魚をきれいに食べました。
この島で別荘まで買った理由は、今日も変わっていません。
◇ ◇ ◇
夕方になると、町のあちこちから人が宿へ戻ってきます。
日焼けした人。
帽子が増えた人。
薄い服を買った人。
魚を食べすぎた人。
ボートを漕ぎすぎて腕が痛い人。
昼から酒を飲んで機嫌のよい人。
逆に、一日ほとんど宿から出ずに寝ていた人もいます。
誰も同じ一日を過ごしていません。
清国の一行も戻ってきました。
康熙帝は、昨日よりずっと島の話が具体的になっています。
「全権」
「はい」
「報告に書いてあった海は、あれでよい」
「ありがとうございます」
「ただし、透明すぎて水がないように見える、という書き方は少し大げさだと思っていた」
全権さんが少し困った顔をしました。
「実際にご覧になって、いかがでございましたか」
「だいたいその通りだった」
これで長い旅の報告書が一つ、皇帝本人の実感になりました。
◇ ◇ ◇
夜。
大きな全体夕食会はありません。
昨日、最初の説明会は終わっています。
今日は各国ごと、あるいは気の合った数人ずつで食べます。
宿泊所の食堂を使う人。
予約していた場所を使う人。
小さな人数で町の店へ行く人。
自分の部屋で果物とパンだけ食べて休む人。
みんな好きにしています。
どろちゃんたちは別荘へ戻りました。
テーブルには、昼に買ってきた果物と、町で見つけたパン、それから少しだけ夕食が並びます。
「今日、何した?」
どろちゃんが聞きました。
フランソワさんは考えます。
「お買い物をして、お昼をいただいて、海を見ました」
「仕事は?」
「しておりません」
「私も」
いつもの給仕さんが笑いました。
「皆様も、今日はそのための日でございます」
窓を少し開けます。
夜の空気は冷えていますが、エルレンフェルトの冬とは比べものになりません。
遠くでは、まだ酒場の音がしています。
朝、海を初めて見た人も。
北の海しか知らなかった人も。
透明な水を皇帝に見せたかった全権さんも。
今日はそれぞれ、自分の好きなテネリフェを見つけました。
明日の朝も、全員を集める予定はありません。
【小さな説明】
【第74章の自由時間】
第74章「貴族令嬢は祝賀会の前に暖かい島で遊びます」では、どろちゃんとフランソワさんが仕事を終えたあと、海沿いの店を歩き、帽子や布、革小物などを買い、魚、タコ、貝、パン、山羊のチーズ、南の果物を食べています。本章のどろちゃんたちの過ごし方は、そのときの経験を引き継いでいます。
【清国全権さんのテネリフェ】
第128章「貴族令嬢は清の皇帝に報告されます」では、清国の全権一行がテネリフェで一日自由時間を与えられ、町を歩き、好きな店で食事をし、透明な海で遊び、二人乗りの小さなボートを自分たちで漕いだことを康熙帝へ報告しています。本章では、康熙帝本人がその全権さんの案内で同じ海を見る形にしています。
【全員を一つの観光団にしない理由】
第74章でも、王侯や随行員は島側が一団にまとめて案内する運用ではなく、それぞれ必要な付き人や護衛と自由に動ける形でした。今回も第141章の説明会後は国ごと、小グループごとに行動し、地元の店へ大人数で押しかけない運用を続けています。




