128貴族令嬢は、清の皇帝に報告されます。 全権が皇帝に謁見して報告をします。
第128章 貴族令嬢は、清の皇帝に報告されます
清の全権さんが北京へ戻ると、まずラサで持ち帰った書類を提出しました。
ラサ会議議定書の正本。
国境図。
現地調査と測量の記録。
旅程。
費用の書類。
各地で受け取った文書。
ラサでの交渉では、全権さんが清の代表団の最高位です。
その権限で議定書へ署名し、清の印を押しました。
北京へ戻れば、今度はその結果を役所へ報告します。
書類は先に上司へ渡され、皇帝陛下のところへも回りました。
謁見の日には、その上司も一緒です。
康熙帝の前には、すでに報告書と地図が置かれていました。
最初から全部を読み上げるための謁見ではありません。
皇帝は、書類を読んだうえで聞きたいところを聞きます。
「ラサで署名した、この議定書だが。そなたには署名する権限があったのだな」
「はい。清から与えられた全権の範囲で署名しております」
康熙帝は国境図を広げました。
川に沿うところもあります。
尾根を使うところもあります。
峠、放牧地、水場、市場、道路、巡礼路、寺院の土地まで、線の周囲に細かな記録が付いていました。
「現地を見てから決めたところもあるな」
「はい。場所について意見が分かれたとき、ドロテーア殿が申しました」
全権さんは、そのときの言葉をそのまま伝えました。
「『では現地まで行って調査してきてください。その場所は、戻るまで決めません』と」
康熙帝が地図から顔を上げます。
「その娘は、会議でもそのように口を出すのか」
「測量や技術に関することでは、よく発言されます。条文そのものは各国の全権と実務の者が詰めておりました」
国境を越える者の扱い。
家畜を連れた移動。
放牧地や水場の利用。
市場と関税。
峠や道路の閉鎖。
巡礼と寺院の土地。
そして、昔の称号や宗教上の関係だけを根拠に、合意した国境の外まで主権を主張しないこと。
「清に不利なところはあるか」
「ございます。ただ、同じ制限は相手にもかかります。清だけに都合のよい文書ではございません」
康熙帝は頷きました。
「それなら交渉した文書だな。全部こちらに都合がよければ、相手は署名せぬ」
◇ ◇ ◇
議定書の横には、小さな箱がありました。
康熙帝がふたを開けると、金色の竜が現れます。
台はアルミニウム。
金色の着色アルマイトが施され、竜が浮き彫りになっています。
中央には一センチほどの人工ルビー。
天然石ならピジョンブラッドと呼ばれるほどの濃く鮮やかな赤で、形はカボション。
裏には安全ピンが付いたブローチです。
「これが余の分か」
「はい」
全権さんも、自分が受け取ったものを出しました。
「同じでございます」
大きさも、竜も、ルビーも同じです。
「そなたと余が同じものを持つのか」
「はい。清のものは同じ意匠でございます」
「随員もか」
「会議室へ入った者は同じものを受け取りました。護衛もでございます」
康熙帝は、自分の分をもう一度見ました。
「余のだけ石を大きくすることもしなかったのだな」
「はい」
「面白い」
これは皇帝への献上品ではありません。
ラサ会議に参加した国のために作られた記念品です。
国や地域ごとに意匠は違います。
清の意匠は竜。
同じ清のものなら、全権さんも護衛も、北京で用意されていた康熙帝の分も同じです。
◇ ◇ ◇
次に康熙帝が見たのは旅程でした。
北京を出て、何か月もかけてラサへ行きました。
そこから英国へ飛び、再びラサへ戻って議定書を完成させています。
そのあとの帰路が長い。
リスボン。
テネリフェ。
エルレンフェルト。
トリノ。
ローマ。
またトリノ。
またエルレンフェルト。
ラサ。
そして北京近郊。
「そなたは、ずいぶん寄り道をしたな」
「はい」
「誰が決めた」
「ドロテーア殿です。せっかく来たのだから、面白い方がよい、と」
康熙帝は旅程を見たまま笑いました。
「ポルトガルの摂政にも会ったそうだな」
「はい。ドロテーア殿は、摂政殿下を『大家さん』と呼んでおりました」
「大家さん?」
「はい」
「その娘の人間関係は、報告書を読んでもよく分からぬな」
「私も、最初はよく分かりませんでした」
横にいる上司も、少しだけ口元を緩めました。
◇ ◇ ◇
「北京へ何度か紙を落とした大きな飛行機があったな」
「はい」
「あれが、そなたの乗って帰った飛行機か」
「はい。ムリヤという機体でございます」
「馬車まで積んだとある」
「北京からラサまで使った馬車を、そのまま機内へ入れました。北京近郊で降ろして、現地で用意された馬をつなぎ、そこから馬車で戻っております」
康熙帝は以前、北京の上空から同じ機体が警告文書を落としていったことを知っています。
「同じ文書を何度も落としたのはなぜだ」
「最初の通達が地方の船まで届いていないか、途中で遅れたり、内容が変わったりした可能性を考えていたそうでございます。そのため、同じ内容を何度か北京へ届けたと聞きました」
康熙帝はそれ以上そこを追わず、費用の書類へ目を移しました。
「帰りの飛行はいくらだ」
全権さんが金額を答えます。
康熙帝は、北京からラサまでの往路に要した費用と見比べました。
「ほとんど同じだな。帰りの方が少し安い」
「エルレンフェルト側から、私どもが北京からラサまで来るのに清がどれほど費用を使ったか、先に問い合わせがございました。その額を基準にしたそうです」
「少し安い理由は」
「ラサから北京へ下る帰り道なので、その分は少し安くしておく、と」
康熙帝は一度だけ全権さんを見ました。
「そういう値段の決め方なのか」
「請求書には、そのように」
往路は何か月もかかりました。
全権、随員、護衛、御者。
途中で替える馬。
宿と食事。
馬の飼料。
荷物。
修理。
川を渡り、険しい道では荷を降ろし、人を増やします。
それだけの旅と、ムリヤで帰る費用がほとんど同じです。
「飛行していた時間だけなら、一日もかからぬのか」
「はい」
「人件費まで考えれば、ずいぶん安いな」
「私もそう思いました」
◇ ◇ ◇
康熙帝は、ムリヤについて書かれたところを読み直しました。
「その大きな飛行機を操縦しているのは、二人とも若い娘らしいが」
「はい。ドロテーア殿が左席、フランソワ殿が右席でございました」
「いくつだ」
「二十一と二十四と聞いております」
「二人で、あれを飛ばすのか」
「はい。離陸も着陸も、その二人で行っておりました」
馬車まで入る巨大な機体です。
その前方に二人の若い女性が座り、何千キロもの距離を飛んでいます。
康熙帝が次に気にしたのは、飛行機よりもその二人のうち一人でした。
「そなたの報告には、ラサでも、中央アジアでも、英国でも、ポルトガルでも、イタリアでも、その娘が自分で話しているとある」
「はい」
「清の言葉もか」
「私どもとは満州語でも話されました。書くこともできます」
「書く?」
全権さんは、持ち帰った紙の中から一枚を出しました。
エルレンフェルトのホテルで使った献立です。
料理が分からない清の一行のために、どろちゃんがその場で満州文字を書き足したものです。
「夕食の献立まで書いております」
康熙帝は受け取って眺めました。
「条約の通訳まで一人でやるのか」
「正式な条文には専門の通訳を使っております。本人も内容は理解しているようでしたが、国境を決める文書ですので、一語の違いまで確認しておりました」
康熙帝は献立を置きました。
「その娘を清へ取り立てることはできぬか」
全権さんは、すぐには答えませんでした。
「難しいと思います」
「どのような者なのだ。もう少し話せ」
「エルレンフェルトでは公爵令嬢です。英国では侯爵位を持ち、フランスにも侯爵位と所領がございます。イタリアでは古代ローマ遺跡修復担当大臣です。ライデン大学にも籍があり、研究と教育の仕事を持っております」
「では、その娘の上に立つのは誰だ」
全権さんは少し考えました。
「本人は、英国女王陛下を『上司』と呼んでおりました」
「英国女王が上司なのか」
「本人の言い方では」
「フランスにも所領があり、イタリアでは大臣なのだろう」
「はい」
「分かりにくい娘だな」
「はい」
◇ ◇ ◇
「金でなびくか」
全権さんは、今度は少し困りました。
「金を嫌っているわけではございません。代金はきちんと取りますし、必要なものにはよく金を使います。ただ、本人への褒賞として銀を積んでも、あまり効かないように思います」
「なぜだ」
「すでに、かなり持っております」
「どの程度だ」
「正確な帳簿を見たわけではございません」
「それでよい」
全権さんは、ヨーロッパで聞いた話と、自分が見た事業を思い出しました。
「清の資産家と比べても、陛下の次に入るほどではないかと」
康熙帝が顔を上げました。
「余の次か」
「はい」
「二十一歳の娘が」
「はい。フランスではルイ十四世陛下の次、英国ではアン女王陛下の次ほどと聞きました。ネーデルラントでは、個人としては一番ではないかと」
「イタリアは」
「国をまとめるために国王陛下もかなりの資金を使っております。どちらが上かは、私には分かりません」
「何を持っている」
「鉄道会社の株や持株会社、土地や家、各国で使われる技術の権利、特許料、製造許諾料。そのほかにもございます」
「宝石は」
「作っております」
「作る?」
「人工のルビーやサファイアです。先ほどのブローチの石も、その一つでございます」
康熙帝は、ピジョンブラッドの色をした赤い石をもう一度見ました。
宝石も、土地も、爵位も、官職もすでに持っています。
「ではネーデルラントは、何を与えてその娘を働かせている」
「ライデン大学が学位を与え、大学に籍を置かせています。毎年研究俸を払い、書籍、器械、材料も用意しております」
「その代わりは」
「研究の記録を大学へ送り、質問に答え、研究や教育の仕事をいたします」
「俸禄を払って、仕事もさせるのか」
「はい」
「本人は」
「よく働いております」
康熙帝は少し考えました。
「本人へ金を積むより、研究する場所と仕事を用意して、その費用を出した方がよいのか」
「おそらく、その方が」
「なるほど」
◇ ◇ ◇
「そのエルレンフェルトという国について、もう少し話せ」
康熙帝はヨーロッパの地図を開きました。
「大きな国ではないのだな」
「はい。もとは一つの集落だったそうです。そこから子爵領となり、滑走路用の土地を買ったときに周囲の小さな集落がいくつか加わりました。人口は、子爵領だったころの一・五倍ほどと聞いております」
「城は」
「ございません」
「大きな軍もない」
「私が見た範囲では、城塞や大軍を抱える国ではございません」
「それで、王や女王や各国の全権が集まるのか」
「会議棟とホテルがあり、鉄道が通り、大きな飛行機が降りられる滑走路があります。連絡も早く、遠くから人を運べます」
「経済はどうだ」
「公国の国庫帳簿までは見ておりません。ただ、小さいから貧しいという国ではございません」
輸送。
宿泊。
会議。
工業。
薬品。
機械。
鉄道。
建設。
研究。
外から人と仕事が集まり、国外の工場や大学とも組みます。
トンネル工事のように、国外へ出て請け負う仕事もあります。
「土地を増やして豊かになる国というより、仕事を増やして豊かになる国か」
「私には、そのように見えました」
「公国の富と、その娘の富は同じなのか」
「分けて扱われております。公国の国庫、公爵閣下の財産、ドロテーア殿個人の財産は別でございます」
これは全権さん自身も、滞在してから分かったことでした。
「あの飛行機は」
「ドロテーア殿の個人資産です」
「会議棟は」
「建物は個人資産です」
「ホテルも」
「はい」
「滑走路は」
「土地は父君である公爵閣下のものです。滑走路として整備された施設は、ドロテーア殿の資産として扱われております」
「公国のものではないのか」
「はい」
「それほどの富を持つ娘は、どこに住んでいる」
「エルレンフェルトでは、子爵領だったころからの別邸に住んでおられます」
「城は持たぬのだな」
「はい。ほかの土地にも小さな別荘はいくつかございますが、大きな宮殿を建てて暮らしているわけではございません」
「では金はどこへ行く」
「飛行機、会議棟、ホテル棟、滑走路の設備。それに研究や鉄道、工業などへの投資でございます」
康熙帝はしばらく地図を見ました。
「金を大きな家へ変えるより、仕事をするものへ変える娘か」
「そのように見えました」
◇ ◇ ◇
話はフランスへ移りました。
「ルイ十四世は、長く戦争をしていた王だな」
「はい」
「それが、今は道路や港へ金を使うという」
「必要なら戦うのでしょう。ただ、戦わずに得られる利益まで捨てる考えではないように見えました」
康熙帝は、その理由を聞きました。
今のスペイン国王が王位を継ぐ前、先王の死後の継承をめぐって、多くの国が戦いました。
人が死に、馬が失われ、軍費が消え、町や農地も傷みました。
それを終わらせたのがエルレンフェルトでの会議です。
フランス、イングランド、サヴォイア、ネーデルラントが話し合い、戦争を終わらせました。
さらに、それまで戦争へ使っていた資金を、できるだけ通商、道路、港、水利施設、工房、倉庫などへ振り向ける方向を選びました。
「それ以後、その四つはどうなった」
「発展しております。道路も港も増え、鉄道や工場も広がっています」
「戦争で擦り減っていた分を、国を豊かにする方へ使ったのか」
「はい」
康熙帝には分かりやすい話でした。
「そのフランス王とは、一度話してみたいものだな」
「機会はあるかもしれません」
「そなたは会っていないのか」
「今回はフランスが国際連盟の当番国ではございませんでしたので」
「では、次だな」
◇ ◇ ◇
康熙帝は、もう一度旅程へ戻りました。
「テネリフェという島には二泊したのだな」
「はい」
「どこの国の島だ」
「スペインでございます」
「北京からなら、どれほど遠い」
「船で向かえば、順調でも半年ほど。風や季節によっては十か月ほど見た方がよいかと思います」
「ムリヤなら」
「二十時間はかからないそうです」
康熙帝の指が、北京から西へ地図の上を動きました。
「船で半年から十か月の島が、一日もかからぬのか」
「はい」
「どんなところだ」
全権さんは少し考えました。
「暖かく、海のきれいな島でございます」
「海がきれいなのか」
「水がないのではないかと思うほど透明なところがございました。浅いところでは、下の岩や砂までよく見えます」
「報告に、小さな船にも乗ったとある」
「はい。二人一組で、小さなボートを借りることができました。穏やかな湾の中だけなら、自分たちで漕いでよいと言われまして」
「そなたも乗ったのか」
「はい。水が透明ですので、下を見るとボートだけが空中に浮いているように見えました」
康熙帝は、その光景を想像したようです。
「二泊したうち、ずっと案内されていたのか」
「いいえ。一日は、朝から夕刻まで自由時間でございました」
「自由時間?」
「街へ行ってもよいし、宿で休んでもよい。海で遊んでもよい。昼食も自分で好きな店へ入り、好きなものを注文してよいと言われました」
「全権の一行を一日自由にしたのか」
「はい」
清の宴席ほど、たくさんの料理が一度に並ぶわけではありません。
その代わり、一人ずつ自分の食べたいものを注文し、一人分ずつ皿に盛られて出てきます。
「魚を食べたい者は魚を。鶏を食べたい者は鶏を、といった具合でございました」
「量は」
「清の宴席ほどではございません。ただ、自分の好きなものを選べますので、困りませんでした」
「夕食も街で食べたのか」
「私ども中心の者は、ドロテーア殿の別荘へ戻っていただきました。まだ遊び足りない者は街に残り、酒のある店で夕食を取っていたようでございます」
横にいる上司が全権さんを見ました。
全権さんは、そこには加わっていません。
自由時間でも、見るものは見ていました。
「衣服も持ち帰ったそうだな」
「参考になると思いまして」
持参していた包みを開きます。
中にあるのは、厚く中綿を入れた冬服ではありません。
薄い綿の衣類です。
「暖かい島ですので、この程度で十分でした。街にはこうした衣類が豊富に売られております」
康熙帝は布を手に取りました。
遠い島の気候と暮らしが、報告書の文字より分かりやすく伝わります。
◇ ◇ ◇
「近くにも島があるのだな」
「はい。カナリア諸島と呼ばれております」
「そこに、別の皇帝や国王が家族と暮らしている、とある」
「はい」
ヨーロッパで国が崩れたとき、どろちゃんとフランソワさんは、王家の者たちを探して各地を回りました。
本人だけを連れて逃げるのではなく、家族を集め、必要な整理をしたうえで、カナリア諸島へ移しています。
「皇帝本人にも会ったのか」
「皇帝陛下ご本人にはお会いできませんでした。ただ、ご家族の方にはテネリフェでお会いしました」
「テネリフェで?」
「買い物に来ておられました。私どもも自由時間に街へ出ておりましたので、そこで」
「国を失った皇帝の家族が、隣の島へ普通に買い物へ来るのか」
「はい。島の方々にも親しまれているようでございました」
「スペインは、なぜ自国の島へそこまで受け入れた」
「ヨーロッパ地域の偉大な皇帝陛下や国王陛下の救命に力を貸すことができて光栄である、という考えだそうでございます」
少し前まで、スペインの王位をめぐって多くの国が戦っていました。
その戦争をエルレンフェルト会議で終わらせたあと、かつて敵対した王家まで、今ではスペインの島で家族と暮らしています。
その家族は隣のテネリフェへ買い物に来ます。
清の全権一行は一日自由に町を歩き、好きな店で食べ、透明な海で遊び、小さなボートを漕ぎました。
北京から船なら半年から十か月。
ムリヤなら二十時間もかかりません。
康熙帝は、報告書のテネリフェのページと地図をしばらく見ていました。
「私もテネリフェへ行ってみたいな」




