127貴族令嬢は、清の全権さんを北京へ送ります。 全権さんたちは世界ツアーに出かけます。駆け足だけど。
第127章 貴族令嬢は、清の全権さんを北京へ送ります
ラサ会議議定書の署名が終わった翌朝。
清の全権さんたちは、まだ北京へ帰りません。
昨日、アン女王陛下に聞いた範囲では、あと数日なら帰朝予定がずれても大きな問題にはならなさそうです。
そこで、帰る前に少し違う世界を見てもらうことにしました。
「最初はリスボンです」
どろちゃんが地図を広げます。
その次はテネリフェ。
そこで二泊したあと、いったんエルレンフェルトへ戻って一泊します。
翌朝、チェブラーシカちゃんに乗り換えてトリノへ行き、サヴォさんを乗せてローマ。
ローマを見たあと、サヴォさんをトリノへ送り、もう一度エルレンフェルトへ戻ってから、ムリヤちゃんでラサへ向かいます。
清の全権さんは、地図の上を指で追いました。
「数日で、これだけ回るのですか」
「ムリヤちゃんとチェブラーシカちゃんを使います。テネリフェでは一日休みますし」
北京からラサまで馬車で何か月もかけた人にとって、地図の見方が少し変わってきています。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんにはラサで十分に燃料を入れました。
清の全権さんと随行員。
護衛。
通訳。
必要な荷物。
どろちゃんは左席へ座り、フランソワさんが右席へ入ります。
「行きます」
「はい」
六基のエンジンが回転を上げます。
高地の滑走路を長く走り、機首が上がりました。
ラサの大学、学生寮、無線塔、トロリーバスの架線が小さくなっていきます。
ムリヤちゃんは北京から来た道とは別の方向へ進み、中央アジアからさらに西へ向かいました。
◇ ◇ ◇
リスボンへ着いたころには、清の全権さんたちも長距離飛行にかなり慣れていました。
郊外の滑走路へ降りると、ポルトガル側の迎えが来ています。
今回、清の全権さんがポルトガルと条約を結びに来たわけではありません。
ラサ会議で与えられた全権は、ラサ会議のためのものです。
今日は、ポルトガル摂政へ挨拶をして、国と港を見せてもらう訪問です。
王宮へ向かうと、大家さんが待っていました。
正式には、ポルトガル王国の摂政、カタリナ・デ・ブラガンサです。
「大家さん、連れてきました」
「外国の全権を紹介するときまで、その呼び方なのですね」
「本人には説明してあります」
清の全権さんも少し笑いました。
正式な挨拶が終わると、宮殿のテラスへ出ました。
◇ ◇ ◇
テラスから、海と港が見えます。
帆柱が何本も重なっています。
河口を出て大西洋へ向かう船。
港へ戻ってくる船。
荷を降ろしている船。
沖で順番を待つ船。
清の全権さんは、しばらく黙って見ていました。
「大きな港ですな」
大家さんが頷きます。
「ここから大西洋の各地へ船が出ます。アゾレスへも、西の大陸へも、アフリカへも、さらに遠くへも」
どろちゃんが清側へ訳します。
日常の短い話なら、全権さんたちもナーロッパの共通語をある程度使えます。
けれど、国家間の話で意味を取り違えたくないところは通訳さんが入ります。
ラサの会議では中央アジア側の言葉がいくつもありました。
今日は相手側のヨーロッパ言語が一つだけなので、通訳さんも少し楽そうです。
大家さんは港の方を見ながら続けました。
「今後、ポルトガルの商人が清の港へ行くことがあれば、どうぞよろしくお願いします」
清の全権さんは、そこで即座に何かを約束する立場ではありません。
「今日のお話は北京へ持ち帰ります。海の向こうから来る商人が、これほど大きな港を本拠にしていることも一緒に報告しましょう」
「それで十分です」
貿易の話は、そこから自然に続きました。
清側からは沿岸部の港や河川交通。
大家さんからは大西洋航路と船の補給。
どちらにも大きな商業圏がありますが、海の使い方がかなり違います。
昼食も宮殿で一緒に取りました。
魚。
塩気のある肉料理。
パン。
野菜。
果物。
清の随行員さんたちは、料理そのものだけでなく、卓上に出てくる香辛料にも興味を持っていました。
◇ ◇ ◇
午後は、港を見せてもらいました。
大家さん本人を港じゅう連れ回すことはしません。
ポルトガル側の行政官と護衛が案内につきます。
港の管理施設。
倉庫。
荷役場。
船を修理する場所。
外国船が入る区域。
積荷を確認する場所。
全権さんは、船だけではなく、その周りで動く役人や商人をよく見ていました。
「船が多くても、これを記録する者がいなければ港は動きませんな」
案内の行政官が少しうれしそうに頷きました。
夕方、もう一度王宮へ戻って大家さんへお礼を言います。
「よい旅を」
「ありがとうございます」
清の全権さんにとっては、ポルトガルとの外交交渉ではありません。
それでも、北京へ持ち帰る話はまた増えました。
◇ ◇ ◇
夕方。
ムリヤちゃんはリスボンを離れ、大西洋を南西へ向かいました。
次はテネリフェです。
清の全権さんは、この島の名前をまだ知りません。
どろちゃんは地図を広げました。
「ここがリスボン。今は、ここから大西洋を南西へ飛んでます」
指を下へ滑らせます。
「テネリフェはこのあたり。アフリカ北西岸の沖にあるカナリア諸島の島です」
ヨーロッパから見ると、かなり南です。
大西洋を渡る船や飛行機にとっても、途中で休み、燃料や物資を受け取れる場所になります。
この世界ではスペイン側が治め、港、行政、医療、倉庫、周辺の島々への船便をまとめる中継地になっていました。
神様の燃料設備もあります。
「そこへ泊まるのですか」
「うん。滑走路の近くに家を一軒持ってるから」
「家まで?」
「小さい別荘です。丘の上」
リスボンを出る前に、島の通信所へは無線で到着予定を知らせてあります。
清の一行が一緒であることも、宿泊人数も伝えてありました。
しばらくすると、海の中から大きな島が見えてきます。
中央に高い山があります。
テイデ山です。
清の全権さんは窓へ近づきました。
「島の中央が、あれほど高いのですか」
「火山です」
ムリヤちゃんは島の滑走路へ降りました。
地上では、連絡を受けていた島側の人たちが待っています。
荷物を降ろし、そこから滑走路にほど近い丘の上へ移りました。
どろちゃんの別荘です。
寝具も夕食も、到着前に準備してもらってあります。
◇ ◇ ◇
夕食は、丘の上の別荘で取りました。
魚を焼いたもの。
芋。
豆。
野菜。
果物。
パン。
島で手に入りやすいものを中心に並べてもらいます。
長い会議と移動のあとです。
正式な晩餐会にはしませんでした。
清の全権さんも、重い正式服から着替えています。
「北京を出たとき、こんな島の家で夕食を取るとは考えておりませんでした」
「私も、全権さんをここへ連れてくるとは思ってなかったですよ」
食後には茶と果物が出ました。
窓の外はもう暗く、海の方に小さな灯りが見えます。
全権さんは明日の予定を聞きました。
「明日は?」
「自由です」
「自由?」
「一日、何も会議を入れてません。海へ行ってもいいし、市場を見てもいいし、寝ててもいいです」
どろちゃんは、以前から島で使っている仕組みも説明しました。
「普通の買い物なら、お店で名前と国を書いてサインしてください。宿泊客だと分かれば、あとでスペイン側からまとめて請求してくれます」
「現金を持たなくてもよいのですか」
「普通のものなら。明細を自分の国に見られたくない買い物は、自分で払ってください」
随行員の何人かが笑いました。
この仕組みは前にも王侯や事務官たちを自由行動させたときに使っています。
今回も中日は完全な自由行動です。
◇ ◇ ◇
翌朝。
朝食には卵、パン、果物、乳製品、それに温かい料理が並びました。
食べ終わると、本当に解散です。
市場へ行く人。
港を見に行く人。
町を歩く人。
家で休む人。
清の全権さんも、護衛と必要な随行員だけを伴って外へ出ました。
どろちゃんとフランソワさんは、浜へ行きます。
全権さんたちにも声はかけましたが、参加するかどうかは本人たち次第です。
しばらくすると、何人かが海岸へやってきました。
◇ ◇ ◇
浜は暖かく、冬の高地から来た人には季節が変わったように感じます。
靴を脱いで波打ち際まで行く人もいます。
海水へ手を入れてみる人。
砂を踏んで歩く人。
海へ少し入る人。
全権さんは最初、少し離れたところから見ていました。
「入らないんですか」
「私は見ております」
「冷たくないですよ」
「そういう問題ではないのですが」
それでも最後には靴を脱ぎました。
裾を少し上げて、波が来るところまで歩きます。
水が足へかかると、一度だけ顔が変わりました。
随行員さんが笑っています。
「笑うな」
そう言った本人も笑いました。
どろちゃんとフランソワさんは、少し沖まで歩いて戻ってきます。
浜では昼まで過ごしました。
◇ ◇ ◇
昼食は海に近いところで取りました。
魚介。
パン。
野菜。
果物。
冷たい飲み物。
朝とは違って、みんなかなりくだけています。
午後はまた自由です。
清の随行員の一人は市場へ行き、別の人は港へ戻りました。
全権さんは町を歩き、途中で店へ入っています。
何を買ったのか、どろちゃんは聞きません。
名前と国を書いてあるなら、そのうちスペイン側から明細が回ります。
聞く必要もありません。
◇ ◇ ◇
二日目の夕食も家で取りました。
今度は昼に市場へ出た人たちが、そこで見たものの話をしています。
清の人たちから見ると、島の市場には北京とは違う魚、果物、酒、布があります。
スペイン側の人たちから見ても、清の服や持ち物は珍しい。
昼間に店でかなり質問された人もいました。
「何を売っているか見るつもりが、こちらの服の値段を聞かれました」
「売ったの?」
「売っておりません」
「残念」
「どろちゃん様」
フランソワさんに止められました。
食後は早めに休みます。
明日はまた飛びます。
◇ ◇ ◇
翌朝。
出発前にムリヤちゃんへ燃料を入れました。
人と荷物を載せ、どろちゃんは左席。
フランソワさんは右席です。
「離陸します」
「はい」
ムリヤちゃんはテネリフェの滑走路を走り、島から離れました。
今日は、そのまま上昇して島を置いていくのではありません。
進路を少し海岸側へ取ります。
テイデ山の大きな斜面。
深い谷。
海岸の町。
そしてガラチコの近くには、前年の噴火で流れた黒い溶岩がまだ新しく見えています。
古い港の一部も埋まりました。
清の全権さんは窓の下を見たまま聞きました。
「これは、いつの噴火ですか」
「去年です」
ムリヤちゃんはそのまま北東へ向きを変えました。
観光のために一度降りたり、もう一度燃料を入れたりはしません。
テネリフェを離れるついでに島の地形と噴火跡を見て、そのままエルレンフェルトへ向かいます。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトへ戻ると、ムリヤちゃんを三千メートル滑走路側へ止めました。
今日は、ここで一泊します。
テネリフェから戻った時点で、もう夕方が近くなっていました。
「今日はここで泊まりましょう」
清の全権さんも異論はありませんでした。
ムリヤちゃんは一晩休ませます。
明日使うチェブラーシカちゃんも、そのあいだに準備してもらいます。
燃料。
水。
食器。
温めればすぐ出せる料理。
パン。
果物。
飲み物。
途中で出す軽食。
ホテル棟の厨房から、チェブラーシカちゃんのギャレーへ食べ物を積んでもらいます。
◇ ◇ ◇
夜は、ホテル棟のレストランです。
清の一行にも客室を用意しました。
荷物を置いて少し休んでから、みんなで夕食へ降ります。
料理長さんのところには、テネリフェから運んできた海産物も入っていました。
白身の魚。
マグロの仲間。
タコ。
貝。
エルレンフェルトでいつも使う肉や野菜に、今日は大西洋の魚介が混じっています。
席につくと、一人に一枚ずつメニューが配られました。
清の全権さんは一枚を見て、料理名をいくつか確認しました。
「読める言葉は増えましたが、料理となると中身までは分かりませんな」
「じゃあ、書きます」
どろちゃんはペンを借りました。
料理名の横へ、満州文字を書き込んでいきます。
縦に続く、あの満州くるくる文字です。
「これは?」
「テネリフェから来た白身魚。焼いて、香草とレモンを添えます」
さらさら。
「こちらは?」
「マグロの仲間。厚く切って焼く料理」
さらさら。
「これは、タコですか」
「うん。こっちはタコ。こっちは貝」
その場で一品ずつ満州語へ直していきました。
随行員さんたちも、自分のメニューと見比べています。
周りの卓を見ると、同じ料理を大皿から取り分けているわけではありません。
一人ずつ、自分で頼んだ皿が運ばれています。
全権さんはもう一度メニューを見ました。
「では、私はこの白身魚を」
隣の随行員さんはマグロの料理。
別の人はタコ。
海のものが続いた人は鶏料理を選びました。
「同じものを頼まなくてもよいのですな」
「うん。好きなのを一つずつ選べます」
注文を取る給仕さんは、誰が何を選んだかも書き留めていきます。
どろちゃんは必要な枚数のメニューへ満州文字を書き足しました。
今夜だけ使えればよいと思って書いたものですが、食事が終わったあと、ホテルの人が一枚を持ってきました。
「こちらは、残しておいてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
ナーロッパ語の料理名。
その横に、どろちゃんの手書きの満州文字。
そして、清の一行が実際に選んだ料理の記録。
メニューはホテル側で保管されることになりました。
◇ ◇ ◇
料理が一人ずつ運ばれてきます。
全権さんの皿には、焼いた白身魚。
香草。
レモン。
温かい野菜。
隣では、厚く切ったマグロを食べています。
タコを選んだ随行員さんは、最初に一切れだけ慎重に口へ入れて、それから普通に食べ始めました。
「これは知っている味に近いです」
「材料は同じだからね」
パンも来ます。
果物と菓子もあります。
長い移動のあとの夕食なので、宴会にはしません。
食事が進んだころ、どろちゃんは席を立ちました。
レストランには、最初から神様が置いてくれたアコースティックピアノがあります。
いつもの場所にある、本物の弦と響板を持つピアノです。
「少し弾いてきます」
フランソワさんは、もう慣れています。
「はい」
どろちゃんはピアノの前へ座りました。
最初は静かな曲です。
食事中の会話を止めないくらいの音量で弾きます。
演奏会ではありません。
料理を食べながら話している人の間へ、ピアノの音が入っていきます。
清の全権さんは途中で一度だけ手を止めました。
「これも神様の品ですか」
「うん。でも、弾いてるのは私」
また弾きます。
少し明るい曲へ移り、最後は静かな曲へ戻しました。
大きく終わらせて拍手を待つこともしません。
どろちゃんは曲が終わると、そのまま席へ戻りました。
「毎晩弾くのですか」
「弾きたい日に」
全権さんは笑いました。
◇ ◇ ◇
翌朝。
ホテルで朝食を取ります。
卵。
パン。
温かい料理。
果物。
乳製品。
茶。
今日はローマまで行って戻る日なので、朝からきちんと食べます。
食事のあいだにも、厨房と飛行場側では準備が続いていました。
チェブラーシカちゃんのギャレーには、昨日のうちに積んだ食べ物があります。
不足分を朝に追加します。
飲み物も補充しました。
◇ ◇ ◇
朝食後、三千メートル滑走路へ向かいます。
ここからローマへは、ムリヤちゃんを使いません。
ローマ北側の着陸場所は、以前チェブラーシカちゃんで使った場所です。
チェブラーシカちゃんはエルレンフェルトにいます。
清の全権さんたちは、必要な荷物だけ持って乗り換えました。
ムリヤちゃんの大きな客室から、ずっと小さな機体へ移ります。
「今度はこの子ですか」
「うん。ローマへ降りるなら、こっち」
この乗り換えで、ホテル・レストランのいつもの給仕さんも搭乗しました。
長距離便で王様や外交使節へ食事を出している、いつもの人です。
「本日もよろしくお願いいたします」
「お願いします」
どろちゃんが左席へ入り、フランソワさんが右席へ座ります。
清の全権さんと必要な随行員。
通訳さん。
いつもの給仕さん。
荷物は最低限です。
チェブラーシカちゃんはエルレンフェルトを離陸し、まずトリノへ向かいました。
◇ ◇ ◇
トリノへ降りると、サヴォさんが待っていました。
今はイタリア王国の王様です。
どろちゃんは清の全権さんを紹介しました。
「ラサ会議の清の全権さんです。これからローマを見るので、一緒に行きませんか」
サヴォさんは全権さんと挨拶を交わしました。
「ローマなら、私も行こう」
話が早いです。
サヴォさんと側近も乗ります。
チェブラーシカちゃんは、今度はローマへ向けて離陸しました。
◇ ◇ ◇
ローマ北側の着陸場所は、以前にもチェブラーシカちゃんで使ったところです。
草を刈り、大きな石をどけ、地面の悪いところを直した長い空き地。
まだ大きな飛行場ではありません。
ムリヤちゃんを降ろす場所でもありません。
チェブラーシカちゃんは、前回と同じように上空から風と地面を確認してから降りました。
機体が止まると、イタリア側の役人たちが近づいてきます。
「大臣、お待ちしておりました」
清の全権さんが、どろちゃんを見ました。
「大臣?」
「あ、まだ言ってなかった」
どろちゃんは自分を指しました。
「イタリアでは、古代ローマ遺跡修復担当大臣もやってます」
「……まだ役職があったのですか」
「あります」
英国では侯爵。
エルレンフェルトでは公爵令嬢。
ここではイタリア政府の大臣です。
イタリア側の役人は、爵位より仕事上の役職で呼びます。
◇ ◇ ◇
市内へ入る前に、もう一人と合流しました。
フランチェスコ・ビアンキーニさんです。
ローマの遺跡や碑文を長く調べてきた人で、今はどろちゃんと共同で保存や調査を進めています。
「大臣、今日はどちらから回りますか」
「コロッセオからでいい?」
「承知しました」
清の全権さんは、今度はビアンキーニさんを見ました。
「この方も大臣なのですか」
「違います。私よりずっと前からローマの古いものを調べてる人」
ビアンキーニさんが少し笑いました。
◇ ◇ ◇
最初はコロッセオです。
清の全権さんは、建物の前で足を止めました。
壊れています。
石もかなり失われています。
それでも巨大です。
「これは、いつ頃の建物ですか」
聞かれたどろちゃんは、今度はすぐに答えました。
「こちらの暦で、西暦八十年ごろに完成して使われ始めています。今から千六百二十七年くらい前です」
全権さんが、もう一度建物を見上げました。
「千六百……」
「ただし、今見えているもの全部が八十年に一度で完成したわけじゃないですよ。地下の設備などは、そのあとにも手が入っています」
ビアンキーニさんが続けます。
「皇帝が替わってから加えられた部分もございます。その後も修理や改変が繰り返されました」
「では、千六百年以上、同じ姿だったわけではない」
「そうです」
どろちゃんは頷きました。
「建物も使えば変わるし、壊れれば直します。今は使わなくなったあとに石を持っていかれたところもあります」
どろちゃんが大臣として困っている部分でもあります。
どこまで補強するのか。
崩れた部分をどこまで戻すのか。
後世の改変を残すのか。
石材を別の建物へ持ち出させないため、どこからを保護対象にするのか。
清の全権さんは、その話にも興味を持ちました。
「古いから残す、だけでは決まらないのですな」
「うん。直しすぎても別のものになりますから」
◇ ◇ ◇
次はカラカラ浴場です。
巨大な壁の残る場所へ入ると、全権さんは最初、宮殿だと思ったようでした。
「ここが浴場なのですか」
「そうです。二百十二年から二百十六年ごろに造られました。今から千四百九十年くらい前」
「これほどのものを、湯を使うために?」
「お風呂だけじゃないです」
どろちゃんは、残っている配置を見ながら説明します。
温かい浴室。
ぬるい浴室。
冷たい浴室。
大きな水槽。
運動する場所。
人が集まる場所。
水を運ぶ設備。
地下で熱を扱う設備。
「水は水道で持ってきます。温めるところと、使った水を流すところも必要です」
フランソワさんが少し笑いました。
「お嬢様は以前も、浴場そのものより設備をご覧になっておりました」
「設備も大事でしょう」
「大臣になっても同じでございますね」
「同じだよ」
イタリア側の役人も笑っています。
ビアンキーニさんは、発掘で分かっている部分や、後世に持ち出された彫刻の話を補いました。
清の全権さんは、建物の高さよりも、千五百年近く前にこれだけの水と熱を動かしていたことの方を何度も聞き直しました。
◇ ◇ ◇
午後はバチカンです。
ビアンキーニさんも一緒に入ります。
今日の一行にはサヴォさんがいます。
そのため、前回のように高位聖職者だけと話して終わる日程ではなく、教皇本人への挨拶も入っています。
最初は教皇庁の高位聖職者が迎えました。
「国王陛下。大臣。お待ちしておりました」
サヴォさんが挨拶を返します。
どろちゃんも頭を下げました。
清の全権さんは、サヴォさんに同行している外国使節として紹介されます。
清の全権さん自身のために教皇が出てきたわけではありません。
それでも、遠く北京から来た客人です。
奥の部屋へ入ると、クレメンス十一世猊下が待っていました。
まずサヴォさんと教皇が言葉を交わします。
そのあとで、どろちゃんが清の全権さんを紹介しました。
「ラサで清を代表して会議に来られた方です。いまは会議も終わって、帰国前にローマを見てもらっています」
全権さんは正式に挨拶しました。
「国王陛下のお供に加えていただき、この地を拝見する機会を得ました」
教皇は頷きました。
「遠い旅をされたと伺いました。ローマで見たものが、よい記憶となることを願います」
長い外交交渉にはなりません。
今日はサヴォさんの訪問に同行している客人です。
それでも全権さんの報告書には、また一人、会った人物が増えました。
◇ ◇ ◇
サン・ピエトロ大聖堂へ出ます。
全権さんは、ここでも最初に年代を聞きました。
「これは、先ほどの建物と同じくらい古いのですか」
「これはずっと新しいです」
どろちゃんは正面を見上げます。
「今の大聖堂は一五〇六年に工事を始めています。完成して献堂されたのが一六二六年。だから完成してから八十一年くらいです」
「八十一年?」
全権さんが驚きました。
コロッセオの千六百年以上と比べれば、ほとんど新築です。
「でも、この場所に教会が八十一年前まで無かったわけじゃないですよ。前の大聖堂は四世紀からありました」
ビアンキーニさんが補います。
「古い聖堂を残したまま新しい部分を造った時期もあり、長い工事でした」
「つまり、場所の歴史と、今見えている建物の年代は別なのですな」
「そういうことです」
どろちゃんが嬉しそうに頷きました。
それから広場へ出ました。
どろちゃんは列柱を指します。
「こっちはもっと新しいです。ベルニーニさんの列柱は一六五六年から一六六七年。完成して四十年くらい」
「同じ場所に、千年以上違う年代のものが重なっている」
「ローマはそれが多いです」
古代の石。
古い聖堂の記憶。
新しい大聖堂。
さらに新しい広場。
一つの町に、違う時代の建物が重なっています。
清の全権さんは、今度は年代を自分の手帳へ書き込みました。
◇ ◇ ◇
その後も、どろちゃん大臣とビアンキーニさんが一緒に回ります。
古代彫刻。
碑文。
後世に修理された像。
教会の建物。
どろちゃんが知っている年代を説明し、ビアンキーニさんが出土場所や記録を補います。
どろちゃんの知識だけで決めません。
この時代のローマで実際に調べている人の記録と照らし合わせながら保存方針を決めるために、二人で仕事をしています。
イタリア側の役人が途中で何度か、
「大臣、こちらの石材についてですが」
「大臣、前回の記録が届いております」
と仕事の話を持ってきました。
清の全権さんが笑いました。
「見物に来ても仕事が追いかけてきますな」
「そうなんです」
サヴォさんも笑いました。
「だから大臣にしたんだ」
◇ ◇ ◇
夕方、ローマ北側へ戻ります。
チェブラーシカちゃんへ乗り、トリノへ帰ります。
サヴォさんを連れてきたので、そのまま本拠地へ送り届ける形です。
「面白かったですか」
サヴォさんが清の全権さんへ聞きました。
「非常に。年代を聞くたびに、最初の印象が変わりました」
「ローマはそういう町だ」
トリノへ着くと、サヴォさんと側近が降りました。
「今度は清へ行ってみたいものだ」
サヴォさんが言います。
清の全権さんは笑いました。
「そのときは、何か月も馬車に乗らずに来られる方法を選ばれた方がよいでしょう」
どろちゃんも笑いました。
サヴォさんたちを降ろすと、チェブラーシカちゃんは再び離陸しました。
行き先はエルレンフェルトです。
清の全権さんたちも、そのまま乗っています。
ローマへ行くためにここまで連れてきたチェブラーシカちゃんを、トリノへ置いて帰るわけにはいきません。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトへ戻るころには、外は夕方になっていました。
三千メートル滑走路には、ムリヤちゃんが待っています。
清の一行はもう一度機体を乗り換えました。
いつもの給仕さんも、食事まわりの荷物と一緒にムリヤちゃんへ移ります。
今度はラサまで東向きの夜行便です。
どろちゃんとフランソワさんはムリヤちゃんの操縦席へ戻りました。
六基のエンジンが順に動きます。
ムリヤちゃんはエルレンフェルトを離陸しました。
西の空に残っていた明るさが、少しずつ消えていきます。
客室では夕食を出しました。
それから照明を落とします。
清の全権さんたちも、今夜は機内で眠ります。
◇ ◇ ◇
夜中。
どろちゃんが客室へ出ると、全権さんはまだ起きていました。
手元には、また報告書があります。
「まだ書いてるんですか」
「ローマの年代を忘れないうちに」
「寝た方がいいですよ」
「もう少しだけ」
窓の外は暗いままです。
どろちゃんは、机の上の時計を見ました。
「でも、朝は早いですよ」
「飛行時間はまだかなり残っているのでは?」
「残ってます。でも、東へ飛んでるから」
全権さんが顔を上げました。
どろちゃんは紙を一枚取ります。
「地球は丸くて、自転しています。場所ごとに太陽が南へ来る時刻が違います」
以前から船の経度を求めるときにも使っている話です。
「基準になる時計を持って移動して、その場所の太陽の時刻と比べると、時差が分かります。時差が分かれば、東西にどれくらい離れたかも計算できます」
「経度ですな」
「そうです」
全権さんは、そこまではラサでも説明を聞いています。
どろちゃんは続けました。
「今回は逆です。エルレンフェルトからラサへずっと東へ飛んでるから、ラサの地方時はこっちより先に進んでいます。飛んでいる間の時間が短くなるわけじゃないけど、着く場所の時計では朝が早く来るんです」
「夜そのものが短くなったように感じる」
「うん。西向きなら逆です」
全権さんは少し考えてから、自分の時計を見ました。
「では、北京へ戻ったあとも、遠い西の国と文書の日付や時刻を比べるときには気をつけねばなりませんな」
「そういうことです」
今度こそ、全権さんは報告書を閉じました。
◇ ◇ ◇
それほど長く眠った感じがしないうちに、窓の外が明るくなってきました。
清の随行員さんの一人が、窓の覆いを少し上げます。
「もう朝ですか」
昨夜の説明を聞いていた全権さんが答えました。
「我々が東へ来たのだ」
どろちゃんは操縦席で、ラサ側の時刻を確認します。
前方には高原の山並みが見えてきました。
ムリヤちゃんは高度を下げます。
大学。
学生寮。
無線塔。
トロリーバスの架線。
数日前に出発したラサの町が、朝の光の中へ戻ってきます。
着陸。
長い夜行便でした。
でも、乗客が感じた夜は短いものでした。
◇ ◇ ◇
ラサへ戻った朝、清の全権さんは客室から降りる前に、もう一度時計を見ました。
「時差というものは、地図だけで説明されるより、飛んだ方がよく分かりますな」
「普通は、こんな速度で確かめないですけどね」
全権さんは笑いました。
◇ ◇ ◇
ラサへ戻ると、一行は一晩休みました。
翌朝から、帰国の準備です。
清の一行が北京から何か月もかけて使ってきた馬車を、ムリヤちゃんの貨物室へ入れます。
馬はいません。
馬車だけです。
固定位置を決め、車輪が動かないようにします。
荷物もまとめます。
ラサ会議議定書の写し。
附属地図。
各地で増えた記録。
どろちゃんから渡した人造宝石。
ロンドンやリスボンで受け取ったもの。
全権さん自身の報告書。
北京を出たときより荷物が増えています。
◇ ◇ ◇
六世さんも見送りに来ました。
清の全権さんと向き合います。
「長い旅になりました」
「来た道より、帰りの方が長いような気がいたします」
「距離だけなら、ずっと短いですよ」
「そういう意味ではありません」
六世さんは笑いました。
二人はラサ会議では何度も意見を違えました。
それでも最後には、同じ議定書へそれぞれの立場から署名しています。
「北京へよろしくお伝えください」
「ラサにも」
最後に握手を交わしました。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんはラサを離陸しました。
今度は東へ向かいます。
北京近くの着陸地点までは、全権さんが最初に来た道を何か月も逆にたどる必要はありません。
山地と高原が後ろへ流れます。
やがて平地が広がります。
北京の近くへ降りるころには、全権さんも窓から見える地形を知っていました。
「あの方角です」
遠くを指します。
北京です。
ムリヤちゃんは以前にも使った場所へ着陸しました。
◇ ◇ ◇
機体が止まると、貨物室を開きます。
固定を外します。
北京からラサまで全権さんたちを運んだ馬車が、そのままムリヤちゃんから出てきました。
現地で手配しておいた馬をつなぎます。
随行員が車輪と馬具を確認しました。
「これで帰れます」
全権さんは、何か月ぶりかで自分の馬車の前に立っています。
どろちゃんは聞きました。
「忘れ物ないですか」
「おそらく」
「おそらく?」
「忘れていたら、もう一度届けていただけそうですからな」
「それはできます」
全権さんが笑いました。
随行員たちも馬車へ乗ります。
護衛も元の隊列へ戻りました。
出発したときと、ほとんど同じ姿です。
ただし、ラサ会議議定書と、何冊にも増えた記録が一緒です。
◇ ◇ ◇
馬車が北京へ向かって走り始めました。
ムリヤちゃんはその場に残っています。
どろちゃんとフランソワさんは、しばらく見送りました。
数時間後。
北京の城壁が見えてきます。
清の全権さんは窓から外を見ました。
ここを出たとき、ラサまでは何か月も先でした。
戻ってきた今は、ラサだけではありません。
英国の列車。
エルレンフェルトの町。
ポルトガルの船。
大西洋の島。
去年流れた溶岩。
ローマの石造建築。
そして、自分たちが署名した国境の地図。
馬車は城門へ近づきます。
門の役人が一行を確認しました。
清の全権さんが帰ってきました。
予定より少し遅く。
北京を出たときより、ずっと多くの世界を知って。
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第127章の小さな説明
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【テネリフェ】
テネリフェは、アフリカ北西岸沖の大西洋にあるカナリア諸島の島です。
本作ではスペイン側の中継拠点として、港、倉庫、医療、行政、島々を結ぶ船便、航空用の神様燃料設備が置かれています。
どろちゃんは滑走路からほど近い丘の上に小さな別荘を持っており、本章では到着予定を無線で知らせたうえで、清の一行とそこで二泊します。
【エルレンフェルトのホテルとアラカルト】
ホテル棟のレストランは、宴会料理だけでなく、一人ずつ料理を選んで注文できる形式も使っています。
本章では清の一行も、周囲の卓を見て一人一皿の注文方式を理解し、それぞれ別の料理を選びました。
テネリフェから戻った直後なので、料理長さんのところには島から運ばれた魚介も届いています。
【満州文字で書き足したメニュー】
清朝の支配層である満州人は満州語と満州文字を公的に用いました。
作中では、どろちゃんがその場で料理名と簡単な説明を満州文字へ書き足しています。
ホテル側がこのメニューと注文記録を残せば、後世には「どの料理をどう訳し、清の使節が実際に何を選んだか」が分かる生活史・外交史の一次資料になります。
【ローマの年代】
コロッセオは西暦80年ごろに供用が始まり、その後も地下施設などへ改変が加えられました。
カラカラ浴場は3世紀初頭、現在のサン・ピエトロ大聖堂は1506年に工事が始まり、1626年に献堂されています。
1707年の全権さんから見ると、同じローマの中に「千年以上前の遺構」と「完成して百年に満たない大聖堂」が同時にあります。
【東向きの夜行便と時差】
エルレンフェルトからラサへ飛ぶと、大きく東へ経度が変わります。
飛行中に経過する時間そのものは同じでも、到着地の地方時は西側より先へ進んでいるため、乗客には夜が短く感じられます。
物語では、すでに航海と測量で使っている「基準時刻と地方時の差から経度を考える」話を、全権さんが自分の移動として体験します。




