126貴族令嬢は、清の全権さんとラサ会議議定書を完成させます
第126章 貴族令嬢は、清の全権さんとラサ会議議定書を完成させます
英国へは先に無線を送りました。
ムリヤちゃんが行くこと。
アン女王陛下をラサへお迎えしたいこと。
清の全権と随行員も一緒であること。
宮殿側で面会と宿泊の準備をお願いしたいこと。
返事が来ると、ラサのホテル棟では機内食の準備が始まりました。
パン。
肉料理。
乳製品。
果物。
温めて出せる料理。
茶。
清の全権一行は二階の客席へ入ります。
どろちゃんは操縦席。
右席にはフランソワさんです。
「行きます」
「はい」
六基のエンジンが音を重ね、ムリヤちゃんはラサの高地を走りました。
速度が上がります。
機首を上げると、大きな機体が滑走路から離れました。
ラサを離れると、高原の山並みが窓の下へ広がりました。
北京から来た道とは別の方向へ、ムリヤちゃんは中央アジアを目指します。
◇ ◇ ◇
中央アジアを越えたあと、大きな水面が見えてきました。
休憩で客席へ出たどろちゃんへ、全権が聞きました。
「海ですか」
「カスピ海です」
「海ではないのですか」
「湖です」
全権は、もう一度窓の外を見ました。
「大きすぎますな」
「大きいですね」
しばらくすると食事が出ます。
どろちゃんは食べ終わると操縦席へ戻り、フランソワさんも右席へ戻ります。
さらに西へ進むと、今度は黒海が見えました。
地図でしか知らなかった場所が、窓の下へ現れては後ろへ流れていきます。
北京からラサまで何か月もかけて進んだ全権が、一日のうちに大陸の西側まで来ています。
本人は、窓から離れませんでした。
◇ ◇ ◇
英国の海岸線が見えます。
フランソワさんが計器を確認しました。
「進入、このままで大丈夫です」
「うん」
どろちゃんは滑走路へ機首を合わせます。
接地。
少し遅れて前脚。
逆噴射。
ムリヤちゃんは速度を落とし、誘導された場所で止まりました。
英国側の迎えが待っています。
どろちゃんは清の全権へ聞きました。
「ここからは、馬車でも行けるし、電車でも行けます。どっちがいいですか?」
「電車というものを見てみたい」
「じゃあ、電車にしましょう。今日は滑走路まで迎えに来てもらいます」
ロンドンから来る普通のトラムは、フック男爵領の村で向きを変えます。
線路そのものは、その先の滑走路まで続いていました。
今日は後ろにトレーラーをつないだ車が、村のループへ入らず、そのまま滑走路まで来ています。
どろちゃんが説明しました。
「後ろにトレーラーをつないでいる車は、今日は村のループを回らず、こっちまで来てから滑走路のループで向きを変えるんです。トレーラーのない車なら、反対側の運転台へ移って、その場で折り返すこともできます」
「つまり、今日はここが終点になるのですな」
「うん。ここで向きを変えたら、今度はここが始発です」
一行が乗ると、トラムは滑走路を離れました。
村まで来ると、いつもの乗客が乗ってきます。
仕事へ行く人。
荷物を持った人。
買い物へ向かうらしい人。
清の全権さんは、その人たちを見ました。
「これは、特別な者が使う乗り物ではないのですな」
「うん。ここまで来てもらったのは特別だけど、村から先は普通のトラムです」
全権さんは窓の外を見ながら、かなり楽しそうでした。
◇ ◇ ◇
宮殿では、アン女王陛下が待っていました。
大きな祝典ではなく、正式な外交面会の席です。
アン女王陛下。
清の全権。
随行員。
英国側の担当者。
どろちゃんは通訳の位置へ座り、フランソワさんも近くにいます。
挨拶が終わると、どろちゃんは持ってきた議定書を机へ置きました。
「陛下、前にラサへ来ていただいたとき、清国へ送る招待状を作っていただきましたよね」
「覚えています」
「一回目、来ませんでした」
アン女王が少し目を上げました。
「二回目も来ませんでした」
「二度とも?」
「はい。三回目で、やっと来てくれました」
清の全権にも全部そのまま訳します。
本人は少し困ったような顔をしたあと、苦笑しました。
どろちゃんは議定書を開きました。
「でも、来てからはちゃんと話せました。清側の署名と印もあります」
アン女王は本文と附属地図を順に見ます。
「それでは、ここで私が署名してもよいのでは?」
「できます。でも、ラサ会議議定書なので、最後の署名もラサでお願いしたいです」
女王は少し考えてから頷きました。
「分かりました。では、ラサへ行きましょう」
王配殿下も同行することになりました。
◇ ◇ ◇
翌日の出発までに、宮殿側で用意するものを頼みました。
ラサ大学へ送る書籍。
研究用の資料。
英国側で受け取っておきたい文書。
六世さんから預かってきた手紙もあります。
どろちゃんとフランソワさんが一軒ずつ町を回る必要はありません。
担当者へ一覧を渡し、間に合うものだけ翌朝までにそろえてもらうことにしました。
少し時間が空きます。
二人は駅の方へ出かけました。
どろちゃんの本領地にある店の売れ行きも気になります。
駅には人が多く、店も動いていました。
「ちゃんと売れてるね」
どろちゃんはしばらく眺めました。
帰りにはジャム入り紅茶とピロシキを買います。
フランソワさんが包みを受け取りました。
「これは機内で召し上がりますか」
「夜でもいいね」
二人はそのまま宮殿へ戻りました。
◇ ◇ ◇
夕方、小さな公式晩餐会が開かれました。
どろちゃんとフランソワさんはドレスです。
清の全権も正式な服へ着替えています。
アン女王陛下と王配殿下。
英国側の関係者。
清の全権と随行員。
料理が運ばれてきます。
会話はラサ会議から始まり、やがて飛行中に見た景色の話へ移りました。
「カスピ海は、地図で見るより大きく見えました」
全権の言葉をどろちゃんが訳します。
アン女王が笑いました。
「空から見ると、また違うでしょう」
全権は英国へ来たこと自体を楽しんでいるようでした。
長い旅の末にやっと会議へ着き、そのまま別の大陸まで連れてこられています。
それでも疲れた顔ばかりではありません。
どろちゃんは、その方がよいと思いました。
◇ ◇ ◇
次の料理が運ばれてきたところで、どろちゃんの目が一人の給仕へ止まりました。
顔を知っています。
向こうも気づきました。
「あなた、あの島にいたよね?」
南スラウェシの言葉で聞きます。
男の目が大きくなりました。
「はい」
プロ・コンドール島にいた人です。
以前、契約を終えたあとに進路を選び直した人たちの一人でした。
「元気だったんだ」
「はい」
「よかった」
男は仕事中なので、それ以上長く止めません。
アン女王が聞きました。
「知っている方ですか?」
「前にベトナム沖の島で会った人です」
清の全権にも訳します。
全権は、料理を運びに戻る男の後ろ姿を見ていました。
「あなたは、ずいぶんいろいろな場所に知り合いがいるのですな」
「私も、ここにいるとは思いませんでした」
晩餐会はそのまま続きました。
◇ ◇ ◇
翌朝。
間に合った書籍や資料をムリヤちゃんへ積みます。
アン女王陛下と王配殿下。
清の全権一行。
どろちゃんとフランソワさん。
ラサへ直接戻ることもできますが、途中でエルレンフェルトへ寄ることになりました。
どろちゃんは全権へ伝えます。
「一度、うちの国も見ていってください」
全権は頷きました。
「ラサで聞くだけでは分からないこともありましょう」
ムリヤちゃんはロンドンを離陸しました。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトへ近づきます。
ムリヤちゃんは、三千八百メートル滑走路へ進入します。
「着陸します」
「はい」
フランソワさんが計器を確認します。
ムリヤちゃんは滑走路へ降りました。
空港から旧会議棟とホテルまでは、VONAのピーチライナーがあります。
一行で乗りました。
清の全権は窓の外を見ています。
「ここにも電車がありますな」
「あります」
「あなたの国は飛行機だけではないのですね」
「飛行機で着いても、その先へ行けないと困りますから」
全権が笑いました。
◇ ◇ ◇
旧会議棟には、これまでの会議の写真が残っています。
最初のころ。
参加者がまだ少なかったころ。
国ごとの問題を一つずつ話していたころ。
その後、参加する国と扱う仕事が増えていったころ。
写真の中には、アン女王陛下もいます。
清の全権が足を止めました。
「陛下がおられますな」
アン女王本人も同じ写真を見ました。
「ずいぶん前のように見えます」
「そんなに前じゃないですよ」
どろちゃんは答えました。
全権は写真を急いで通り過ぎませんでした。
ラサで突然完成した制度を見せられたのではなく、その前に何度も会議をし、条約を書き、失敗し、少しずつ仕事が増えていったことを写真で見ています。
◇ ◇ ◇
どろちゃんは途中でラボへ行きました。
贈答用に作っておいた人造宝石のセットがあります。
今回必要なのは、ラサ会議議定書の記念として各国の代表へ同じように渡せるものです。
大きさをそろえます。
内容もそろえます。
必要な数を箱へ入れ、ムリヤちゃんへ運んでもらいました。
ギャレーにも食料を積みます。
穀物。
果物。
調理用の油。
保存しやすいもの。
機内だけでなく、ラサのホテル棟でも使えます。
夕方までに人と荷物がそろいました。
◇ ◇ ◇
六基のエンジンが順に動きます。
どろちゃんは左席。
フランソワさんは右席。
「離陸できます」
「行きます」
ムリヤちゃんは三千八百メートルの滑走路を加速し、エルレンフェルトから離れました。
下には町、工場、線路、ホテル、旧会議棟が見えます。
清の全権も窓から見ていました。
◇ ◇ ◇
夕方、ラサへ戻りました。
ポタラ宮。
大学。
学生寮。
無線設備。
道路を走るトロリーバス。
町の外には大規模な太陽光発電設備が広がっています。
以前来たときより、アン女王にも増えたものが分かります。
「また大きくなっていますね」
「大学も人が増えましたから」
どろちゃんは高度を下げ、高地の滑走路へ進入しました。
接地。
逆噴射。
ムリヤちゃんは夕方のラサへ戻りました。
◇ ◇ ◇
ホテル棟の会議室へ移ります。
机の上にはラサ会議議定書と附属地図があります。
清側の署名と正式な印は、すでに入っています。
アン女王陛下が席につきました。
今回の国際連盟全権として、四か国から委任を受けています。
どろちゃんは最後の署名欄を示しました。
「陛下、ここです」
アン女王は本文をもう一度確認し、署名しました。
日付。
印。
附属地図にも必要な確認が入ります。
担当者が最後まで見ました。
「終わりました」
長かったラサ会議の文書が、ようやく完成しました。
◇ ◇ ◇
関係者はそのままホテル棟の食堂へ移りました。
調印が終われば食事です。
ラサの肉や乳製品、野菜。
エルレンフェルトから持ってきた穀物や果物。
料理が並びます。
会議中とは違う顔で、みんな食べています。
清の全権も六世さんと話しています。
英国の話。
エルレンフェルトの鉄道。
北京から何か月もかけた道。
食事が少し落ち着いたところで、どろちゃんはラボから持ってきた箱を出しました。
「今回の議定書の記念です」
どろちゃんは、同じ大きさの人造宝石セットを各国の代表者に一つずつ渡しました。
清の全権も箱を開けます。
「これは、あなたが作ったものですか」
「うちのラボで作ったものです」
全権はしばらく中を見ました。
「北京へ持ち帰ります」
「それなら、箱ごとにしておいた方がいいですね」
「そうしましょう」
今度は北京まで何か月も馬車で運ぶ必要はありません。
◇ ◇ ◇
食後。
どろちゃんはアン女王陛下のところへ行きました。
「陛下、清の方々って、最初の到着予定から、どれくらい遅れると国としてまずいんでしょう?」
アン女王は少し考えました。
「二週間なら誰も驚かないでしょう。一月遅れるなら、理由を知らせておいた方がよいですね。二月となれば、私なら報告を求めます」
どろちゃんは頷きました。
会議へ出て、議定書へ署名し、英国まで外交上の用事で行っています。
無断で行方不明になっているわけではありません。
どろちゃんは清の全権のところへ戻りました。
「帰るまで、あと数日なら大丈夫そうです」
「何かご予定が?」
「せっかくだから、何か所か見学していきませんか」
全権は少し考えたあと、笑いました。
「それは、ぜひ」
随行員の方も嫌そうではありません。
◇ ◇ ◇
北京へ戻る方法も決めました。
全権たちが北京からラサまで使ってきた馬車があります。
「馬車ごと北京の近くまで運びます」
全権が聞き返しました。
「馬車も載るのですか」
「ムリヤちゃんなら載ります。ただ、馬は北京の近くで用意してくださいね」
「それで十分です」
馬車は貨物室へ。
人は客席へ。
北京近くで馬車を降ろし、そこで馬を用意すれば、最後は出発したときと同じ馬車で北京へ入れます。
ただ、その前に数日だけ、いくつかの町を見ます。
フランソワさんが翌日の予定表を持ってきました。
「明日から、見学ですね」
「うん」
どろちゃんは窓の外を見ました。
大学の灯り。
学生寮。
無線塔。
道路を走るトロリーバス。
清の全権が北京を出たときには、まだ知らなかったものばかりです。
「せっかくだから、面白い方がいいよ」
全権たちの帰朝は、もう少しだけ先になりました。
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第126章の小さな説明
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【国際連盟の当番国とアン女王】
本作の国際連盟では、四つの中心国が毎回そろって同じ場所へ集まらなくても実務を進められるよう、対外的な全権役を持ち回りにしています。
今回のラサ会議では英国がその当番で、アン女王が他の三国からも委任を受けた国際連盟全権として最後の署名を行います。
そのため、議定書は「英国だけの承認」ではなく、委任された国際連盟側の署名として完成します。
【1707年ごろの清と、のちの版図】
物語の時点は1707年ごろです。
この時期の清の西方・南西方の支配範囲は、後世の清帝国最盛期や現在の中華人民共和国の国境と同じではありません。
史実では、清軍がラサへ入るのは1720年、青海への支配を強めるのは1720年代、ジュンガルを破って現在の新疆にあたる広い地域を支配下へ置くのは1750年代です。
本作では、その拡大より前に中央アジア諸国とチベットが国際的な国家として承認され、国境を条約と測量で先に確定していきます。
【ロンドン側のトラム】
滑走路まで線路は続いていますが、通常の営業列車はフック男爵領の村で折り返します。
本章では清の一行を迎えるため、その日の便だけ滑走路まで延長しました。
トレーラー付き車はループで方向を変え、両運転台の単車なら運転位置を反対側へ移して折り返せます。
村から先では一般の乗客も乗るので、清の全権さんは「王侯専用の乗り物ではない」ことも一緒に見ています。
【清の全権】
清の全権さんが北京から持ってきた権限は、ラサ会議とその議定書をまとめるためのものです。
このあと西方を見学して各国の王侯と会っても、そこで新しい条約を独断で結ぶ権限まで自動的に増えるわけではありません。
見聞きした内容は北京へ持ち帰り、必要なら清朝側で改めて外交上の判断をすることになります。




