124貴族令嬢は、六世さんの授業を見てから帰ります。 ダライラマ6世とフランソワさんって
第124章 貴族令嬢は、六世さんの授業を見てから帰ります
大学の教室が使えるようになると、六世さんは最初の大きな集まりを開きました。
大きな講義室には、ラサの僧侶や役人、若い学僧、大学への入学を考えている人、ホータンから来た代表者が集まりました。ライデン大学の先生と学生、英国から短期で来ているニュートン先生、ろばーとっち、ハレーさんも席につき、どろちゃんとフランソワさんは少し後ろから見ています。
六世さんは正面の机へ立ちました。
一年前なら、この位置へ座るときは宗教的な地位のためだったはずです。
今日は質問を受けるために立っています。
「今日は、質問ごとに一番よく知っている人へ答えてもらいます」
六世さんは最初に言いました。
「星のことなら星を見ている人へ、病気なら病気を調べている人へ、計算なら計算のできる人へ聞きます。私も、分からないことはその人たちから学びます」
どろちゃんは少し後ろの席で聞いていました。
これだけで、六世さんがライデンから持ち帰ったものがかなり見えます。
◇ ◇ ◇
最初の質問は天文学でした。
「太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が動くという話を聞きました。本当ですか」
六世さんは自分で長く答えませんでした。
ニュートン先生の方を見ます。
「先生」
ニュートン先生は机の上へ簡単な図を置きました。
惑星の位置。
観測される動き。
計算。
同じ法則で説明できること。
話が進むにつれ、僧侶の側からも質問が出ます。
「では、昔の宇宙の説明は全部間違いなのですか」
今度は六世さんが答えました。
「昔の人は、昔の人が見える範囲で考えました」
机の上の望遠鏡へ手を置きます。
「今は、これがあります。昔より遠くが見えます。見えるものが増えたなら、その分だけ考え直します」
「曼荼羅に描かれた世界は、捨てるのですか」
「曼荼羅は宗教の中で何を表しているのかを読みます。惑星の運動は観測と計算で確かめます。問いに合わせて、使う方法を分けます」
ニュートン先生が六世さんを見ました。
二人はロンドンでも似た話を何度もしています。
考え方が同じところもあります。
違うところもあります。
それでも会話は続きます。
◇ ◇ ◇
次は病気の質問でした。
「病は、悪いものが取りついたために起きることもありますか」
六世さんは、今度はろばーとっちと、医学を担当する先生の方を見ました。
ろばーとっちは顕微鏡を机へ出しました。
「まず、見えるものを見よう」
水の中。
患者から採ったもの。
植物。
肉眼では見えない小さな世界。
説明を聞いたあと、一人の僧侶が顕微鏡をのぞきました。
顔を上げます。
「これが病気を起こすのですか」
医学側の先生が答えます。
「病気ごとに原因は違います。微生物が関わるものもあれば、まだ原因を突き止められていないものもあります」
六世さんがそこへ言葉を足しました。
「分からないときは、分からないと書きます。分からないところへ、好きな答えを入れない」
どろちゃんは、その言葉を聞いて少し笑いました。
六世さんが最初にムリヤちゃんへ乗った日、何でも質問した理由がそのまま残っています。
◇ ◇ ◇
ハレーさんへは、高地の空について質問が集まりました。
「ラサは、ほかの町より星を見るのに向いているのですか」
「向いているところがあります」
ハレーさんは記録した気圧と気温を見せました。
「高地には利点があります。そのうえで、雲、風、季節、観測する場所を毎日記録して比べます」
「毎日?」
「同じ時刻に」
学生候補の一人が少し困った顔をしました。
「晴れていなくても?」
「晴れていない、と記録する」
六世さんが笑いました。
「それも観測なのですね」
「そうです」
ハレーさんは楽しそうでした。
ハレーさんは、帰国後も同じ書式で記録を続けてもらえるよう、学生へ観測表を渡しました。
◇ ◇ ◇
やがて質問は、大学で誰が学ぶのかという話へ移りました。
「大学では、僧侶でない者も学ぶのですか」
「学びます」
「商人の子も?」
「本人が学べるなら」
「遠い村の者も?」
「学生寮を作りました」
「女も?」
六世さんは答えようとして、少し止まりました。
別の年長の僧侶が先に言いました。
「古い教えには、女は穢れを持つとするものがあります」
講義室が静かになりました。
六世さんは正面を向いたまま、少しだけ横を見ました。
そこにフランソワさんがいます。
講義室の中でも、目を向ければすぐ分かる人でした。美の女神という言葉をそのまま人の姿にしたような美しさがあります。その美しさは妖艶さよりも、澄んだ水や磨いた水晶を思わせる透明感の方が強く、肌も表情も佇まいも静かに透き通って見える人です。
六世さんは、ライデンでもロンドンでも、その人と普通に話し、食事をし、地図を広げ、冗談も言ってきました。目の前にいる一人の人間として知っています。
そのフランソワさんを見たまま、六世さんは僧侶へ聞きました。
「彼女が汚れていると思うか?」
講義室の視線がフランソワさんへ集まりました。本人は何も言わず、いつもどおり静かに座っています。
僧侶はしばらくその姿を見ました。
「……思いません」
六世さんは頷きました。
「では、その事実から始めましょう」
それだけでした。
次の質問へ移ります。
フランソワさんが少しだけ六世さんの方を見ました。
六世さんも見ます。
二人とも、ごく小さく笑いました。
どろちゃんは、そのやり取りを見ていました。
この一言は、六世さんがフランソワさんを一年知っているから出てきた言葉です。
◇ ◇ ◇
休憩のあと、六世さんは自分の部屋から一冊の本を持ってきました。
『プリンキピア』です。
ニュートン先生の署名が入っています。
六世さんは署名のあるページを開きました。
「私は、この本をとても大事にしています」
僧侶たちも学生たちも見ています。
「ニュートン先生からいただきました。私には、難しいところもまだたくさんあります」
横にいるニュートン先生が少し笑いました。
「でも、この本に書いてあることでも、観測して違うと分かったなら考え直します」
一人が聞きました。
「大事な本なのに?」
「大事な本だからこそ、観測したものと突き合わせながら読み続けます」
六世さんは本を閉じました。
「仏教の本も同じです」
講義室の空気が少し変わりました。
「古い本を覚えることは大切です。でも、覚えたことで全部を知ったと思うのは違います。昔の人が見えなかったものを、今の私たちは見られることがあります。ならば、その分は増やします。違うところは直します」
六世さんは、自分がこれからラサでどう学び、どう教えるかを話していました。
「私は一年前、この宗教から離れるつもりでした」
講義室が静かになりました。
六世さんが自分からその話をしたのは、この場では初めてです。
「私である前に六世であることを求められ、それが嫌でした。別の六世を立てる話が進み、私は清へ送られました。戻らないと思っていました」
どろちゃんは、山の中の滑走路を思い出しました。
「その途中で助けられ、ライデンへ行きました。自然科学を学びました。経済も行政も学びました。ロンドンでニュートン先生、フック先生、ハレーさんと話しました」
六世さんは一度、フランソワさんの方も見ました。
「友人もできました」
フランソワさんは少しだけ姿勢を正しました。
「学んだあと、私は戻る方を選びました。観測と合わないところは直し、分からないところは調べ続けます。私は、そのために戻ってきました」
誰もすぐには質問しませんでした。
六世さんも、沈黙を埋めませんでした。
◇ ◇ ◇
午後になると、今度は行政の質問が増えました。
僧院の土地。
税。
道。
市場。
水場。
遠い谷との連絡。
大学へ誰が費用を出すのか。
六世さんは、全部を自分で答えようとしません。
ホータンから来た代表者が水場の話をします。
ラサの役人が市場の記録を出します。
ライデンの先生が会計の仕組みを説明します。
どろちゃんは必要なときだけ通訳します。
一つの質問に、一番詳しい人が答えます。
その形が、六世さんのやりたかったことでした。
夕方。
会が終わると、講義室から人がなかなか出ませんでした。
残って話す人。
顕微鏡をもう一度見たい人。
ニュートン先生へ数式を聞く人。
ハレーさんへ星を聞く人。
大学の入学方法を聞く人。
フランソワさんへ、女性も本当に学生になれるのか聞く若い女性もいました。
「なれますよ」
フランソワさんは普通に答えました。
その女性は何度も頷きました。
◇ ◇ ◇
翌日から、本当に授業が始まりました。
最初は人数も少なく、教室も全部は使いません。
数学。
読み書き。
自然科学。
医学の基礎。
行政。
言語。
宗教研究。
学生の学力が同じではないので、初歩から始める教室もあります。
ライデンから来た先生は、ラサの人に教えながら、自分たちも現地の言葉や事情を学びます。
現地の僧侶が教える授業もあります。
植物を知る人が呼ばれます。
薬草の話をする人もいます。
大学は、ヨーロッパの授業をそのまま山の上へ置いただけの場所にはなりませんでした。
六世さんは、あちこちの教室へ顔を出します。
自分も学生だった癖が抜けないのか、気になる授業があるとそのまま座って聞いています。
六世さんは運営の合間にも、気になる講義があると学生の席へ座りました。
「まだ学ぶ側でもいるのですね」
どろちゃんが言うと、六世さんは頷きました。
「ライデンで学び始めて一年です。ここで教えるようになっても、学ぶことは終わりません」
フランソワさんも、その答えに小さく笑いました。
◇ ◇ ◇
英国の三人が帰る日も近づきました。
ハレーさんは観測記録の書式を学生へ残します。
ろばーとっちは顕微鏡の扱いを何人かに教えました。
ニュートン先生は六世さんへ、数式と参考文献を書き込んだ紙を何枚か渡しました。六世さんは一枚ずつ目を通し、『プリンキピア』へ挟みます。
「次に会うまでに読んでおきます」
「急ぐ必要はありません。疑問ができたら書いてください」
ニュートン先生がそう答えると、六世さんは大事そうに本を閉じました。
◇ ◇ ◇
どろちゃんたちが帰る日の朝。
六世さんは滑走路まで見送りに来てくれました。
大学の方を見ると、また窓の明かりが増えています。
少し離れたところには、昨日までなかったような気がするフルシチョカが並んでいました。
トロリーバスも走っています。
本当に、神様は今回かなり乗り気だったらしいです。
でも六世さんは、その景色を見ているときより、ムリヤちゃんを見ているときの方が少し寂しそうでした。
「またライデンにも来てね」
どろちゃんが言うと、六世さんがこちらを見ました。
「無線もあるし、急げば十五時間くらいで来られるんだから。昔みたいに、会ったら何年も会えないところじゃないよ」
それから、ちょっと考えて付け足しました。
「私、教授だし。学生が活躍するのはうれしいから、私も見に来るよ」
六世さんが笑いました。
そこでどろちゃんは、持ってきていた包みを渡しました。
「これも」
包みを開いた六世さんの手が止まりました。
ハンナさんが作ってくれた、六分の一のフランソワさんでした。
ちゃんと服まで作ってあります。
六世さんが人形を見て、それから本物のフランソワさんを見ました。
フランソワさんも人形を見ます。
「……お嬢様」
「なに?」
「どうして私なんですか」
「仲いいから」
六世さんが笑いながら、大事そうに人形を抱えました。
「ありがとうございます」
「壊さないでね」
「はい」
フランソワさんは、まだ何か言いたそうでしたが、結局言いませんでした。
◇ ◇ ◇
搭乗口のところで、もう一度手を振りました。
六世さんの後ろには、ライデン大学の人たちがいます。
短期滞在だった英国の三人も、帰りの便へ乗ります。
少し離れたところでは、学生たちが電気設備の作業を続けています。
無線塔も以前より立派になりました。
六世さんの周囲には、ライデンから来た教員と学生、ラサで学び始めた人たち、無線や電気を扱う人たちが残ります。ラサに新しいライデンの拠点が根を下ろし始めていました。
どろちゃんは操縦席へ上がりました。
右席には、いつものようにフランソワさんが座ります。
「帰ろっか」
「はい」
地上から扉閉鎖の連絡が入ります。
チェックを進め、六基のエンジンを順に始動しました。
低い音が重なり、機体全体が細かく震え始めます。
ラサは高い。
空気が薄いので、低地の飛行場と同じつもりでは飛ばせません。
大学の機材も、本も、トロリーバスも、架線柱も、ほとんど降ろしてあります。
燃料は十分に入っていますが、来たときに比べればムリヤちゃんはずっと軽くなっています。
誘導されて滑走路へ向かいます。
途中、走っているトロリーバスが見えました。
乗客がこちらを見ています。
フランソワさんも気づきました。
「もう普通に走っていますね」
「四台しかないけどね」
「増える気がします」
「神様が?」
「……はい」
どろちゃんも、そう思いました。
滑走路端で向きを変えます。
遠くにポタラ宮。
その手前に町。
さらにこちらには大学と学生寮。
その間を、細い二本の架線がつないでいます。
数日前までなかった景色でした。
離陸許可が来ます。
どろちゃんはブレーキを押さえたまま、推力を上げました。
六基のエンジンの音が大きくなります。
計器を確認します。
「異常ありません」
フランソワさんの声。
「離陸します」
ブレーキを離しました。
ムリヤちゃんが動き出します。
高地では空気密度が低いので、長めに加速を取ります。荷物を降ろして軽くなった巨体は、滑走路をまっすぐ走りながら離陸速度へ近づいていきました。
大学が流れていきます。
フルシチョカが流れていきます。
見送りの人たちが小さくなります。
速度計を見ます。
もう少し。
もう少し。
どろちゃんは操縦桿を静かに引きました。
前脚が浮きます。
一拍遅れて、主脚も地面を離れました。
「上がりました」
「ギア、アップ」
巨大な脚がゆっくり収納されていきます。
ムリヤちゃんはラサの盆地の上を、大きく旋回しながら高度を上げました。
窓の下にポタラ宮が見えます。
そこから少し離れたところに大学。
白っぽい建物の周囲に四角い学生寮が並び、その向こうに滑走路が伸びています。
小さなトロリーバスが一本の道を走っていました。
無線から声が入ります。
六世さんでした。
『お気をつけて』
どろちゃんは送信ボタンを押しました。
「また来るからね」
少し間がありました。
『はい。お待ちしています』
通信を終えます。
フランソワさんが前を見たまま言いました。
「人形、どこに置くのでしょうね」
「研究室じゃない?」
「それは困ります」
「じゃあ寝室」
「もっと困ります」
笑っているうちに、ラサの町は後ろへ遠ざかっていきました。
前には山が続いています。
その向こうにはホータンがあり、さらにずっと先にはエルレンフェルトがあります。
どろちゃんは針路を確認しました。
ムリヤちゃんは六基のエンジンを響かせながら、薄い青空へゆっくり高度を上げていきました。




