122貴族令嬢は、六世さんをホータン経由でラサへ送ります。 ラサへ帰還です。
第122章 貴族令嬢は、六世さんをホータン経由でラサへ送ります
六世さんがラサへ帰ると決めると、話は一人分の旅行では済まなくなりました。
本人はライデン大学で学んだものを持ち帰りたいと言っています。大学も作りたい。ラサと外を結ぶ無線も必要です。行政の整理もしたい。周辺の小さな領主や集落とも、清や大きな国の名前だけで話を進めず、本人たちの代表と会っておきたい。
どろちゃんの机には、数日のうちに紙が積み上がりました。
六世さんが横から一枚取り上げます。
「私が帰るだけの話ではなくなっていますね」
「六世さんが大学作るって言ったから」
「大学だけで、この紙の量になりますか」
「ならないね」
フランソワさんが横で笑いました。
「お嬢様が増やしておられます」
「必要なんだよ」
どろちゃんは紙を分けました。
第一便は、人を中心にします。
六世さんとその一行。
ライデン大学からラサへ行く教員と学生。
大学の立ち上げを手伝う人。
行政や記録の仕事をする人。
無線と電気設備を扱える人。
警備と安全を担当する人。
そしてホータンで、周辺の小さな領主や集落の代表者たちと打ち合わせるための人員です。
大学の大きな機材や大量の本、交通設備は後便へ回します。
「人だけでもかなり多いね」
どろちゃんが名簿を見ました。
「ムリヤちゃんでなければ、一便では無理ですね」
フランソワさんが答えました。
◇ ◇ ◇
この話を英国へ知らせると、意外なところから返事が来ました。
ニュートン先生。
ろばーとっち。
ハレーさん。
三人とも、六世さんの帰還とラサ大学の話を聞いています。
最初に強く反応したのはハレーさんでした。
「ラサへ行くのですか」
「行くよ」
「いつです」
「第一便」
「私も行きたい」
どろちゃんは聞き返しました。
「ラサへ?」
「その高度で天体と気圧を見られるなら、行かない理由がありません」
ろばーとっちは、話を聞くと別の方向から乗ってきました。
「顕微鏡も持っていける?」
「持っていけるよ」
「植物と水を見たい」
「短期だよ」
「十分」
ニュートン先生は少し考えてから言いました。
「六世が、ラサでどのように学問を置くのかを見たい」
「先生も?」
「長くは滞在できませんが」
三人とも、自分から短期のラサ行きを希望しました。英国で研究と公務を続ける三人にとって、これは六世さんの帰還に合わせた短期の研究旅行です。ラサに残って大学を運営するライデン側の教員とは、最初から役割が分かれていました。
六世さんへ知らせると、珍しく言葉がすぐ出ませんでした。
「三人とも来るのですか」
「うん」
「ニュートン先生も?」
「うん」
「ろばーとっちも?」
「うん」
「ハレーさんも?」
「うん」
六世さんはしばらく黙ってから、フランソワさんを見ました。
「これは、かなり大きな一行になりますね」
「先生方まで自分から来られるとは思いませんでした」
フランソワさんがそう答えると、六世さんはうれしそうに頷きました。
◇ ◇ ◇
出発前日。
ムリヤちゃんの貨物室には、第一便で必要なものだけを積みました。
各人の荷物。
最低限の本と文書。
会議用の地図。
無線設備の初期部材。
医療用品。
食料。
現地へ着いてすぐ使う机や記録用品。
大型設備の場所は空けます。
どろちゃんは積荷表を見ながら、何度も線を引き直しました。
「トロリーバスは?」
六世さんが聞きました。
「第二便」
「四台とも?」
「うん。架線柱も電線も一緒。あれ積んだら人の便じゃなくなるから」
「なるほど」
第一便の目的は、人が着いて、話を始めることです。
荷物で人を押し出してしまっては順番が逆になります。
◇ ◇ ◇
出発の日。
ムリヤちゃんの前には、見慣れない組み合わせの人たちが集まりました。
六世さんとその側近。
ライデン大学の教授と学生。
英国から来た三人の科学者。
フランス、英国、イタリア側で行政や制度の実務を経験している人たち。
ホータンでの打ち合わせを担当する人。
護衛。
どろちゃん。
フランソワさん。
オイゲンさん自身はエルレンフェルトに残りますが、護衛の中には彼の下で仕事を覚えた人がいます。
どろちゃんは操縦席へ上がりました。
右席にはフランソワさん。
「人数、多いね」
「ムリヤちゃんでございますから」
「普通の飛行機なら何便だろう」
「考えない方がよろしいかと存じます」
六基のエンジンが順に動き始めました。
低い音が重なります。
離陸許可。
滑走路へ出ます。
「行きます」
「はい」
推力を上げました。
ムリヤちゃんが動き始めます。
長い機体が速度を上げ、やがて前脚が浮きました。
主脚も地面を離れます。
エルレンフェルトが下へ遠ざかっていきました。
◇ ◇ ◇
最初の大きな目的地はホータンです。
六世さんの帰還だけなら、そのままラサへ向かうこともできます。
でも、ラサで周辺の政治や境界の話を始めるなら、その前に会っておきたい人たちがいました。
大きな国の地図では、小さな色の違いにもならない領地。
一つの谷。
一つのオアシス。
一つの町。
数か所の集落をまとめる領主。
商人の道を管理している人。
水場を共同で使っている人。
そういう人たちです。
ホータンでは、すでに何人もの代表が待っていました。
ムリヤちゃんが降りると、滑走路のそばに馬と荷車が並んでいます。
降りてきた六世さんを見て、驚く人もいました。
死んだと聞いていた人。
清へ送られたままだと思っていた人。
噂だけで、何が本当か分からなかった人。
六世さんは一人ずつ挨拶しました。
どろちゃんは通訳に回ります。
相手が変わるたびに使う言葉も変わり、どろちゃんは席を移りながら通訳を続けました。
◇ ◇ ◇
打ち合わせは大きな地図を床へ広げるところから始まり、代表者ごとの聞き取りへ進みました。
大きな地図を床へ広げます。
一人の代表が、地図の上へ指を置きました。
「ここからここまでが、私たちの土地だと言われています」
「言われています?」
六世さんが聞きました。
「冬にはこちらの人が使います。夏には向こうの谷から家畜が来ます。境界線を書くなら、季節ごとの利用と通行も一緒に書いてください」
別の人が、井戸の場所を指します。
「この水場を閉じられると、こちらの村は春まで持ちません」
また別の人は道を示しました。
「この峠は私たちが直しています。しかし通る商人は三つの土地から来ます」
どろちゃんは記録担当へ言いました。
「線だけじゃなくて、井戸と道も書いてください」
六世さんも頷きました。
「ラサで話すとき、この人たちの席を作りましょう」
一人が聞きました。
「私たちは国なのですか」
六世さんはすぐに答えませんでした。
どろちゃんの方を見ます。
どろちゃんも首を振りました。
「今日ここで名前だけ決めるのはやめよう」
六世さんが続けます。
「誰がどこを治め、誰と約束を結べるのか。まず、それを本人たちから聞きます」
打ち合わせは長くなりました。
代表者の名前。
後継者。
集落の範囲。
市場。
税。
水場。
峠。
冬と夏で人が動く場所。
宗教施設。
隣との争い。
既にある約束。
紙の上では小さな点でも、そこには人が暮らしています。
◇ ◇ ◇
昼食を挟んでも終わりません。
ニュートン先生は最初、政治の話から少し離れたところにいました。
でも、測量記録が出てくると地図の方へ来ました。
ハレーさんは高度と道の関係を聞きます。
ろばーとっちは、井戸の水を見ていました。
「もう始めてる」
どろちゃんが言うと、フランソワさんが笑いました。
「もうそれぞれ調べ始めておられますね」
フランソワさんが言いました。
六世さんも、井戸の水を手にしたろばーとっちと、地図へ寄ってきたニュートン先生を見ていました。
「ラサへ着く前から研究が始まっていますね」
夕方まで話して、ラサで続きをした方がよい代表者が何人か決まりました。
本人が行く。
随員を一人連れる。
自分は残り、書面だけ託す。
選び方はそれぞれです。
ムリヤちゃんの客席には、ホータンから新しい人が加わりました。
どろちゃんは搭乗名簿を見直しました。
「また増えた」
「第一便は人を運ぶ便ですから」
フランソワさんが言いました。
「そうだった」
今度こそラサへ向かいます。
◇ ◇ ◇
ホータンを離れると、山が増えていきました。
六世さんは窓のそばに座っています。
ライデンへ向かったころは、窓から見えるものを何でも質問していました。
今は地図と実際の谷を比べています。
フランソワさんが休憩で客席へ出たとき、六世さんの隣へ座りました。
「緊張していますか」
「しています」
「帰りたいとおっしゃっていたのに?」
「帰りたいことと、怖くないことは同じではありません」
六世さんは窓の外を見ました。
「私がいない間に、私が死んだものとして暮らし始めた人もいます。別の六世を受け入れた人もいます。戻れば喜ぶ人ばかりではありません」
「それでも戻られるのですね」
「はい」
少し間がありました。
「フランソワさんは、私が戻るのをどう思いますか」
「六世さんがご自分で決められたのでしたら、よいと思います」
「六世だからではなく?」
「はい」
六世さんは、小さく笑いました。
「だから、あなたとは話しやすいのです」
フランソワさんも笑いました。
◇ ◇ ◇
ラサへ近づくと、六世さんが操縦席の後ろまで来ました。
「見えますか」
「もう少し」
どろちゃんは前を見ました。
山の間に盆地が開いてきます。
町が見えます。
その向こうにポタラ宮。
そして町から少し離れたところへ、長い滑走路が伸びていました。
「滑走路です」
フランソワさんが言いました。
六世さんも見ています。
「前にはありませんでした」
「六世さんが戻るから、神様が作ったんじゃない?」
『たぶん、それだけじゃないよ』
技師さんが頭の中で言いました。
「何?」
『左、見て』
どろちゃんは少し機首を振りました。
滑走路の近くに、大きな建物があります。
どろちゃんの前世の目には、スターリン様式のモスクワ大学本館をかなり小規模にしたような姿に見えました。高い中央塔を中心に、左右の翼棟が段をつけながら低く広がっています。モスクワ大学ほど巨大ではなく、ラサの滑走路と大学として使える規模へ縮めた感じです。
中央塔の頂部には、天球儀か観測器具を思わせる意匠が置かれています。正面の大壁面には巨大なモザイクがあり、星図、惑星、数式、植物、本、観測器具とともに、チベットの服を着た人とヨーロッパの服を着た人が同じ画面の中で学んでいました。
「大学でしょうか」
六世さんが言いました。
『神様、校舎は先に作ったみたいだね』
どろちゃんは建物の輪郭を見直しました。
「モスクワ大学の本館を小さくしたみたいだね。中を大学向けに作ってあるなら、かなり使えそう」
『そのつもりみたいだよ』
神様は、六世さんを助けたときにも滑走路を作りました。
今度は、帰る前に大学の校舎まで作っています。
どろちゃんは前へ視線を戻しました。
「降ります」
「はい」
フランソワさんが計器を確認しました。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんが接地し、速度を落としていくあいだにも、人の多さが分かりました。
無線で、滑走路へ出すぎないよう何度も伝えてあります。
それでも遠くには人が集まっています。
六世さんが機体から降りた瞬間、空気が変わりました。
声を上げる人。
手を合わせる人。
動けずに立っている人。
泣いている人。
六世さんは階段を降りたところで立ち止まりました。
一年前、自分はここへ戻らないと思っていました。
別の六世を立てる話が進み、本人は清へ送られました。
今、その本人が戻ってきました。
六世さんはゆっくり手を上げました。
人の声がさらに大きくなります。
どろちゃんは少し離れたところから見ていました。
「人気あるね」
フランソワさんが答えます。
「はい」
「六世さん、困ってるけど」
「少しだけ」
実際、六世さんは泣いている人にどう返せばいいのか分からない顔をしていました。
◇ ◇ ◇
その日のうちに、六世さんはポタラ宮へ向かいました。
どろちゃんたちは少し距離を置きます。
帰還の中心は六世さんです。
沿道には人が増えました。
白い宮殿と赤い宮殿が山の上へ積み重なっています。
六世さんは近づくほど口数が少なくなりました。
入口へ着いたところで、長く建物を見上げます。
「変わっていません」
それだけ言いました。
中では、すぐに政治の話が始まりました。
六世さんがいないものとして話を進めた人。
別の六世を受け入れた人。
清との関係をその前提で組み直した人。
戻ってきた本人を歓迎する人。
様子を見る人。
部屋には、歓迎する顔、警戒する顔、戸惑っている顔が混ざっていました。
六世さんは最初から報復の話をしませんでした。
「まず、今ここにいる人で話をしましょう」
一人の僧が聞きました。
「これまでのことは、お問わないのですか」
「何をしたかは確認します」
六世さんは答えました。
「でも、私が戻った最初の日に、誰を追い出すかを決めても、明日の食事も役所の帳簿も動きません」
ライデンで行政を学んでいた六世さんの言葉でした。
どろちゃんは後ろで聞いていました。
一年前に救った人が、もう自分の言葉でラサの明日を話しています。
◇ ◇ ◇
翌朝、六世さんは滑走路近くの大きな建物へ行きました。
昨日、空から見えた大学です。
入口を入ると、内部はまだ静かでした。
教室。
講義室。
研究室。
図書室。
実験室。
医学教育に使える部屋。
行政や法を教える部屋。
宗教研究のための部屋。
建物はあります。
でも、机の上にはまだ本がありません。
研究室にも、人の使った跡がありません。
大学の形をした空っぽの器です。
六世さんは大きなモザイクの前で止まりました。
天体と星図。
植物と人体。
幾何図形。
測量器具。
本を読む学生。
空を見上げる研究者。
チベットとヨーロッパの人々が同じ壁面に描かれています。
「ここへ、ライデンを入れるのですね」
「うん」
どろちゃんは答えました。
「建物は神様が作ったけど、大学にするのは私たちだね」
六世さんは、しばらく壁画を見ていました。
「それなら、ちょうどいいです」
「何が?」
「最初から全部できているより、いい」
「どうして?」
「誰が教えるか、誰が学ぶか、何を本棚へ置くか。そこは私たちが決められます」
六世さんは空の廊下を歩き始めました。
第一便で来た人たちも、そのあとへ続きました。
ラサの大学は、その日からやっと大学になり始めました。




