121貴族令嬢は、六世さんを大学生にします。 ダライラマ6世登場 ここからチベット編はじまり
第121章 貴族令嬢は、六世さんを大学生にします
オイゲン伯爵の家から戻った夜、どろちゃんは領主館の廊下で、ふと一年ほど前のことを思い出しました。
今ではエルレンフェルトの軍を預かり、伯爵になり、家へ帰ればハンナさんがいるオイゲンさんです。あのころは、まだ軍務に就くオイゲンさんとしてムリヤちゃんに乗っていました。
ベトナムでの仕事を終え、ムリヤちゃんでエルレンフェルトへ帰る途中でした。高度は一万メートルほど。雲の上は静かで、六基のエンジンの音だけが機体の奥から低く続いていました。
どろちゃんは左席、右席にはフランソワさん。後ろにはオイゲンさんと護衛の人たちが乗っています。
「このままなら、少し早く帰れそうですね」
フランソワさんが地図と時計を見ながら言いました。
「うん。風がいいね。帰ったらお風呂入ろう」
「先に飛行記録をお願いいたします」
「分かってるよ」
いつもの帰り道でした。
その声が頭の中へ入ってくるまでは。
『どろちゃん』
技師さんです。
「なに?」
『神様警報』
どろちゃんの手が止まりました。技師さんたちは危ないことにはかなりうるさい人たちです。それでも「神様警報」という言葉を使ったことはありませんでした。
「どこ?」
『下。かなり急いだ方がいい』
「何があるの?」
少し間がありました。
『人がいる。このままだと星になる』
「誰?」
『第六世ダライ・ラマ』
どろちゃんは前を見たまま、もう一度聞きました。
「六世?」
『うん。今、清へ送られている途中。このまま進むと助からない』
フランソワさんが顔を向けました。
「お嬢様?」
「降りるよ」
「どちらへ?」
「下」
フランソワさんは一瞬だけ黙りました。
「着陸地点はありますか」
「ない」
『できる』
今度は別の技師さんが言いました。
「できるって、滑走路?」
『滑走路』
「今から?」
『今から』
どろちゃんは操縦桿を握り直しました。
「フランソワさん、降下します。かなり急ぎます」
「はい」
推力を落とします。巨大な機体の機首がゆっくり下がりました。
一万メートルからの降下です。急ぐからといって、速度も姿勢も無視して地面へ向かうことはできません。山岳地帯へ入るなら、なおさらです。フランソワさんは地図を広げ、どろちゃんは高度と速度を見ながら進路を変えました。
「この先はかなり高いです。谷はありますが、飛行場の記載はありません」
「うん。今作ってるらしいから」
「今、ですか」
「そうみたい」
フランソワさんは、それ以上聞きませんでした。
神様が相手では、地図にない理由を考えても仕方ありません。
雲の下へ出ました。
山が見えます。雪の残る峰。灰褐色の斜面。谷底に細い道。その道を、馬と人の列が進んでいました。
『あれ』
「見えた」
どろちゃんは地上を探しました。
隊列から少し離れたところに、平らな場所があります。その上へ、一本の長い帯が伸びていました。
「……滑走路ある」
フランソワさんも前を見ました。
「先ほどの地図にはありませんでした」
『だって、先ほどはなかったからね』
どろちゃんは一瞬、何も言えませんでした。
ムリヤちゃんが一万メートルから降りてくる間に、山の中へ滑走路が一本できています。
燃料が届く。倉庫が増える。必要な機械が置かれる。神様がそういうことをするのは、もう知っています。
でも今回は、人を一人助けるために、飛んでいるムリヤちゃんへ警報を出し、その下へ着陸場所まで作りました。
「よほど助けたいんだね」
『たぶんね』
技師さんの返事は短いものでした。
どろちゃんも、それ以上は聞きませんでした。今は着陸の方が大事です。
◇ ◇ ◇
ムリヤちゃんは一度、できたばかりの滑走路の横を通りました。
長さ。幅。周囲の地形。風向き。進入側に高い障害物がないか。
どろちゃんとフランソワさんが確認しているあいだに、後ろではオイゲンさんが状況を聞いていました。
「第六世ダライ・ラマを?」
「はい。あの隊列にいるらしいです」
どろちゃんが答えると、オイゲンさんの顔が変わりました。
「着陸後、外へ出る前に私へ知らせてください」
「うん」
もう軍人の顔でした。
どろちゃんは滑走路へ戻ります。
「脚をお願いします」
「脚、下げます」
フランソワさんが操作しました。巨大な脚が降りていきます。
「脚、確認しました」
「着陸します」
「はい」
山が近い。谷が近い。その中へ、さっきまで存在しなかった滑走路が伸びています。
速度を合わせます。
主脚が接地しました。
大きな衝撃が機体を通りました。前脚がつきます。逆噴射。
六基のエンジンの音が谷へ響きました。
ムリヤちゃんは速度を落とし、滑走路の先で止まりました。
どろちゃんが息を吐いたころには、後ろでオイゲンさんがもう人を動かしていました。
「機体の周囲を確保してください。こちらから武器を向けない。相手の人数と武器だけ確認。前へ出る者は私が決めます」
護衛の人たちが散ります。
扉。機体の左右。後方。
誰がどこを見るのかがすぐ決まりました。
「速いね」
どろちゃんが言うと、フランソワさんが小さく答えました。
「軍隊で長くお仕事をなさっていますから」
「こういうとき、本当に違うね」
どろちゃんなら、まず何人連れていこうかと考えます。
オイゲンさんは、もう配置を終えていました。
外へ出ます。
滑走路の向こうで、地上の隊列も止まっています。突然、山の中へ巨大な六発機が降りてきたのです。馬は落ち着きません。人もこちらを見ています。
オイゲンさんは、護衛の人たちを必要以上に近づけませんでした。
「閣下、言葉は通じますか」
「大丈夫」
「では、まず話してください。私は少し後ろにおります」
どろちゃんが前へ出ました。
相手の言葉で呼びかけます。
誰を連れているのか。どこへ向かっているのか。
何人かが相談し、一人が前へ出ました。
清へ送る途中だと答えます。
「六世さんはいますか」
相手の顔が動きました。
返事はありません。
「本人と話をさせてください」
今度は、はっきり嫌だと言われました。
命令を受けている。勝手に引き渡せない。清へ送る途中である。
どろちゃんにも、それは分かります。隊列を動かす判断は、目の前の兵士より上の責任者が持っています。
でも、技師さんの声が頭の中へ入ります。
『まだ間に合う』
「本人と話をさせてください。連れていくかどうかは、そのあと話します」
交渉が長くなり始めたとき、オイゲンさんが一歩だけ前へ出ました。
怒鳴りません。武器へ手もかけません。
ただ、相手側から見ると、こちらの護衛がどこにいるか全部見えます。前、左右、機体側。誰かが急に走っても、どこからでも見られます。
護衛は退路を塞がず、機体とどろちゃんたちへ近づく動きだけを確実に見られる位置へ散っていました。隊列をそのまま進めようとすれば、必ず誰かの視線に入ります。
どろちゃんは横目で見ました。
さすが軍隊経験のある人は違う。
あとで、そのまま本人にも言おうと思いました。
しばらくして、隊列の奥から若い男が一人連れてこられました。
疲れています。顔色もよくありません。それでも目はよく動きました。
ムリヤちゃん。滑走路。どろちゃん。フランソワさん。オイゲンさんと護衛。
一つずつ見ています。
「あなたが第六世ですか」
「そう呼ばれていました」
返事が少し変でした。
「呼ばれていました?」
「ラサでは別の六世を立てるのでしょう。私は清へ送られます」
その言い方は、怒っているというより、もう自分のことを遠くから話しているように聞こえました。
「清へ着いたあと、どうなるの?」
若い男は、ほんの少し口元を動かしました。
「あなたは、私がラサへ戻ると思いますか」
どろちゃんは返事ができませんでした。
頭の中で技師さんが言いました。
『この人だよ』
「うん」
どろちゃんは決めました。
「この人、うちで預かります」
相手側が一斉に騒ぎました。
当然です。
どろちゃんは、今度は急がず話しました。
六世さん本人の安全はエルレンフェルト側で引き受ける。ここまで命令に従って同行してきた人たちは、そのまま自分たちの隊列へ戻ってよい。六世さん本人がこちらへ来る意思を示したら、ムリヤちゃんで保護する。どろちゃんは、その三点を順に伝えました。
相手側の責任者も簡単には頷きませんでした。
何度も話しました。
その間、オイゲンさんの人たちは動きません。誰も武器を撃ちません。巨大な機体だけが滑走路の向こうにいます。
最後に六世さん本人が言いました。
「私は、この方たちと行きます」
その一言で、話が変わりました。
六世さんは自分の足でこちらへ歩いてきました。
オイゲンさんの護衛が周囲を見ながら下がります。
扉が閉まりました。
誰も撃たずに終わりました。
どろちゃんは操縦席へ戻る前に、もう一度滑走路を見ました。
さっきまでなかった道です。
その向こうに、清へ向かうはずだった隊列が残っています。
「本当に神がかりだね」
フランソワさんが隣で答えました。
「はい」
◇ ◇ ◇
再び離陸してしばらくすると、六世さんは窓の外を長く見ていました。
山が下へ離れていきます。
フランソワさんが水と軽い食事を持っていきました。
「急いで召し上がらず、少しずつになさってください」
「ありがとうございます」
少し食べると、顔色が戻ってきました。
そのあと、六世さんは操縦席の後ろまで来ました。
「これは、どうして飛ぶのですか」
どろちゃんは振り返りました。
「そこから?」
「そこからです」
清へ送られていた話より先に、飛行機でした。
「翼で空気を下へ曲げて、その反作用で上がるんだけど」
「この大きさでも?」
「大きいから大変だけどね」
「この数字は何ですか」
「高度」
「こちらは?」
「速度」
「なぜ、山より高いところにいるのに息ができますか」
「中の空気を保ってるから」
質問が止まりません。
方位。気圧。温度。位置。夜になったらどうやって進むのか。
六世さんは聞いたことをそのまま覚え、次の質問へつなげます。
フランソワさんが少し笑いました。
「ずいぶんお元気になられましたね」
「うん」
どろちゃんも笑いました。
「頭いいね」
六世さんが振り返りました。
「何を見て、そう思ったのですか」
「質問の順番」
「順番?」
「分からないものを、分からないままにしないから」
六世さんは少し黙りました。
それから、窓の外を見ながら言いました。
「私は、チベット仏教をやめるつもりでした」
どろちゃんは、すぐには返事をしませんでした。
「どうして?」
「私は、私である前に六世であることを求められました。誰と会うか、何を好むか、どう振る舞うか。私が考える前に答えが置かれていることが多かった」
静かな声でした。
「信じていることなら、それでもよかったのです。ですが、信じられないことまで立場のために信じるふりをするのは、もうやめようと思っていました」
「それで、本当にやめるつもりだったんだ」
「はい」
「なのに、別の六世を立てる話が進んだ」
「私がやめるより先でした」
六世さんは笑いませんでした。
どろちゃんも笑いませんでした。
「清へ着いたあと、どうなると思ってた?」
「分かりません。ただ、もうラサへ戻ることはないと思っていました」
どろちゃんは前を向きました。
神様警報。
一万メートルからの降下。
山の中に突然できた滑走路。
全部が、さっきまでより重く感じられます。
「神様、あなたを助けたかったみたいだよ」
「神様?」
「私にもよく分からない神様。でも、滑走路まで作ったから、かなり本気だと思う」
「なぜ私を?」
「それは私も知りたい」
どろちゃんは本当に分かりませんでした。
◇ ◇ ◇
エルレンフェルトへ帰ると、お父様はどろちゃんから話を聞き、次にオイゲンさんから報告を聞きました。
本人の意思を確認したこと。清へ送られる途中だったこと。護衛側と戦闘にはならなかったこと。そして、神様警報でムリヤちゃんが一万メートルから降り、着陸に合わせて滑走路まで現れたこと。
お父様は最後のところで長く黙りました。
「神様が、そこまでしたのか」
「うん」
「では、事情も聞かずに送り返すわけにはいかないな」
「六世さんも帰りたくないって」
本人とも話し、しばらくエルレンフェルトで保護することになりました。
数日一緒にいると、どろちゃんは六世さんが本当に頭のいい人だと分かりました。
食堂の窓の曇り方から室内外の温度を聞き、時計を見て影の動きから方角を確かめ、町の市場へ行けば品物の値段と運ばれてきた距離を尋ねます。
それを見ていた日の夕食後、どろちゃんはお父様に言いました。
「六世さん、大学生にしてみようか」
「なぜそうなる」
「頭いいから」
「それだけか」
「勉強したそうだから」
「本人に聞いたのか」
「まだ」
「先に本人に聞きなさい」
「はい」
隣でフランソワさんが笑っています。
六世さん本人へ聞くと、最初に返ってきたのは、どこの大学かという質問でした。
「ライデン大学」
「何を学べますか」
「数学、自然科学、医学、哲学、法律、経済。興味のあるものを選べるよ」
「宗教も?」
「あるよ」
「仏教以外の宗教も学べますか」
「もちろん」
六世さんは少し考えました。
「行きたいです」
「じゃあ決まり」
こうして、神様が山の中へ滑走路まで作って助けた人は、エルレンフェルトでしばらく暮らしたあと、ライデン大学の学生になりました。
◇ ◇ ◇
ライデンへ行ってからの六世さんは、どろちゃんが思っていたより速く学びました。
最初は数学です。
記号の使い方。比。幾何。天文学へ進むのに必要な計算。
一度教わったことを、次の問題ではもう道具として使います。
望遠鏡をのぞいた日は、木星のそばに並ぶ小さな光を見ました。
「これは毎日、位置が変わるのですか」
「変わるよ」
「記録がありますか」
「あるよ。自分でも見てみる?」
「見ます」
翌日も来ました。その次の日も来ました。位置を書き、日付を書き、並べました。
「木星の周りを回っています」
「うん」
「経典に書かれた宇宙とは合いません」
「そうだね」
どろちゃんは、それ以上言いませんでした。
六世さんも、その場で結論を出しませんでした。
また観測しました。
何日分かを見たあとで、六世さんは紙を指しました。
「私が信じるかどうかとは関係なく、これはこう動いています」
「うん」
そのころから質問が変わりました。
最初は「これは何ですか」。
次に「どうしてですか」。
さらに「どうすれば確かめられますか」。
しばらくすると「別の説明では駄目ですか」と聞くようになりました。
先生たちが面白がるようになりました。
六世さんの関心は、やがて市場や行政にも広がりました。税、街道を維持する費用、穀物価格、役所の記録、飢饉のときに何を先に運ぶか。自然を理解することと、人が暮らし続けられる仕組みを考えることが、本人の中でつながっていきます。
六世さんは授業のあとまで先生を捕まえて話しています。
「望遠鏡があっても、冬に食べ物がなくなれば人は死にます」
ある日、食堂でそう言いました。
「うん」
「計算が正しくても、役人が嘘を書けば、その先で間違います」
「そうだね」
「全部、要りますね」
「うん。六世さん、自然科学だけを持って帰る気じゃなくなったね」
「人が暮らすところへ戻るのですから」
六世さんは、そう言って穀物価格の表へ目を戻しました。
◇ ◇ ◇
フランソワさんと六世さんが親しくなったのも、このころでした。
年齢が近いこともあります。
どろちゃんが教授の仕事や飛行の準備で席を外していると、二人で普通に話していました。
ある日、大学の食堂で六世さんがラサ周辺の地図を広げていました。
フランソワさんが隣へ座ります。
「またラサですか」
「はい」
「帰りたいですか」
六世さんは地図を見たまま、すぐには答えませんでした。
「帰りたくないと思っていました」
「今も?」
「今は、分かりません」
「何か変わりましたか」
「ここへ来て、知らないものが多すぎると分かりました」
六世さんは指先で地図を押さえました。
「以前は、古い本に答えがあると言われ続けることが嫌でした。だから全部から離れればよいと思っていました。でも、古い本が悪いのではなく、そこから動かなくなる方が問題なのかもしれません」
フランソワさんは黙って聞いていました。
「私は、ラサでこういう話ができる場所を見たことがありません」
「大学を作りたいのですか」
「……作れますか」
「お嬢様に聞くと、できると言うと思います」
二人が同時にこちらを見ました。
少し離れた机で書類を読んでいたどろちゃんが顔を上げます。
「できるよ」
「聞いていたのですか」
「最後だけ」
六世さんが笑いました。
「ライデン大学を、ラサにも作りたいです」
「分校?」
「名前だけの分校ではなく、ここで学べるものをラサでも学べる場所にしたいです。数学も、自然科学も、医学も、経済も、行政も、哲学も、宗教も」
「大きいね」
「必要です」
六世さんは真面目な顔になりました。
「古い本も残します。その上に、今の私たちに見えるものを足したいです。望遠鏡があります。顕微鏡があります。測れます。計算できます。古い説明と合わないところは、そこから考え直します」
フランソワさんが聞きました。
「それでも、六世として戻るのですか」
「はい」
「仏教をやめるつもりだったのに?」
「やめるつもりでした」
六世さんは、少しだけ笑いました。
「でも、やめる前に、直したいところが多すぎると気づきました」
◇ ◇ ◇
その少しあと、どろちゃんにロンドンへ行く用事ができました。
「六世さんも来る?」
「英国へですか」
「うん。ロンドンで会ってほしい人たちがいる」
六世さんはすぐに興味を示しました。フランソワさんも同行します。ライデンで学んでいる六世さんに、英国で研究を続ける人たちの仕事を直接見せるにはちょうどよい機会でした。
こうして六世さんは、どろちゃんとフランソワさんと一緒にロンドンへ行きました。
そこで会ったのが、英国で仕事をしている三人の科学者です。
ニュートン先生。
ろばーとっち。
ハレーさん。
三人は英国を活動の拠点にする科学者です。六世さんは、どろちゃんのロンドン行きに同行したことで、彼らの研究の場へ直接入ることになりました。
◇ ◇ ◇
ろばーとっちの研究室で、六世さんは顕微鏡をのぞきました。
「これは、本当に同じ水の中ですか」
「同じだよ」
ろばーとっちが答えます。
六世さんはもう一度のぞきました。
肉眼では何もいないように見えた水の中に、小さなものが動いています。
「見えないものがいる」
「見えなかったものが見えるようになった、だね」
どろちゃんが言いました。
六世さんは顕微鏡から顔を上げました。
「それは大きな違いです」
ろばーとっちが少し笑いました。
「だから面白い」
六世さんは、その日のうちに観察条件や倍率の違いを聞き始めました。
◇ ◇ ◇
ハレーさんとは高地の話になりました。
「ラサはどのくらい高いのですか」
六世さんが答えます。
ハレーさんの顔がすぐ変わりました。
「そこで星を見たことは?」
「もちろんあります」
「空は?」
「晴れた夜なら、とてもよく見えます」
「気圧は測ったことがありますか」
「ありません」
「温度と風は?」
「記録なら作れます」
話が一気に進みました。
高地の気圧。天体観測。気象。人の体。
六世さんは質問するだけでなく、ラサで自分が見てきた空や季節を答えます。
どろちゃんは横で聞いていました。
最初に飛行機の高度計を見て「この数字は何ですか」と聞いた人が、今はハレーさんと観測地点の話をしています。
◇ ◇ ◇
ニュートン先生との話は、もっと長くなりました。
最初は天体の運動でした。
そこから数学。重力。観測。そして、いつの間にか宗教の話になりました。
六世さんは、かなり率直に聞きました。
「先生は神を信じていますか」
「信じています」
「それでも、天体の運動を数式で表すのですか」
「それとこれは矛盾しません」
ニュートン先生は、簡単に話を終わらせませんでした。
六世さんも引きません。
信仰があるなら観測結果を変えるのか。計算が経典と合わなければどうするのか。神について考えることと、物体の運動を調べることはどこで分かれるのか。
二人の意見が全部同じになることはありませんでした。
それでも会話は続きました。
帰る時間になって、六世さんは一冊の本を抱えていました。
『プリンキピア』です。
開くと、ニュートン先生の署名があります。
「もらったの?」
「はい」
六世さんは本を閉じ、両手で持ち直しました。
「私は、科学を学ぶなら信仰を捨てるしかないと思っていました」
フランソワさんが聞きました。
「今は違うのですか」
「まだ分かりません」
六世さんは正直に答えました。
「でも、捨てる前に考えることが増えました」
その本は、六世さんの大事な一冊になりました。
◇ ◇ ◇
ロンドンからライデンへ戻ったあと、六世さんは以前より忙しくなりました。
自然科学。数学。経済。行政。哲学。宗教。
一つを学ぶと、ほかの授業へ質問を持っていきます。
フランソワさんと話す時間も増えました。
ある夕方、六世さんは例のラサの地図を持ってきました。
「帰りたいです」
今度は、はっきり言いました。
「ラサへ?」
「はい」
「怖くない?」
「怖いです」
六世さんは地図を机へ置きました。
「でも、私がいなくなったままなら、私を消そうとした人たちが作った答えだけが残ります。それは嫌です」
どろちゃんは黙って聞きました。
「私は仏教へ戻ります。そのうえで、ライデンで見たものを持って帰ります。観測して、測って、分からないものは分からないと言う。残すものも、直すものも、自分で考えたいです」
「大学も?」
「大学も」
どろちゃんは地図を引き寄せました。
「じゃあ、帰ろうか」
六世さんの顔から、しばらく表情が消えました。
「本当に?」
「うん」
「私は、帰ってもいいのですか」
「帰りたいんでしょう」
「はい」
「じゃあ帰ろう」
山の中へ滑走路まで作って助けられた人が、一年かけて学び、自分の意思でラサへ戻ろうとしています。
どろちゃんは、神様があのとき何を考えていたのか、まだ知りません。
でも、助けたことに意味があるらしいということだけは、前よりずっと分かるようになっていました。




