120貴族令嬢は伯爵さんの家へ往診します。 ハンナさんが!
第120章 貴族令嬢は伯爵さんの家へ往診します
第一回の国際連盟会議で、エルレンフェルトが急に人だらけになる少し前のことです。
お父様は、朝から一通の電文を何度も読み返していました。書いたのは自分ですが、まだ送っていません。
「お父様、何してるの?」
「確認してるんだ」
「誰に?」
「サヴォイアに」
どろちゃんは机の横から紙をのぞきました。そこには、プリンツ・オイゲン、帰化、軍務、指揮官、世襲伯爵という言葉が並んでいます。最後まで読んでから顔を上げました。
「オイゲンさん、伯爵になるの?」
「そのつもりでいるよ」
「本人は知ってる?」
「まだだよ」
「本人より先にサヴォさんに聞くの?」
「長くこちらで暮らしていても、オイゲンはサヴォイアの家の人でもあるからな。こちらだけで決めて、あとから思いがけないところへ触るのは避けたいんだ」
お父様は紙を指で軽く叩きました。オイゲンさんがエルレンフェルトへ来たばかりのころなら、こんな話は出ませんでした。帝国軍を離れた直後に軍の指揮まで任せれば、外からは将軍をそのまま引き抜いたように見えます。そこで最初は軍政や兵站、外交、防衛の相談役として仕事を始め、それから帰化し、エルレンフェルトの軍の中で仕事を覚えていきました。こちらの人たちもオイゲンさんの仕事の仕方を覚え、今では実際に指揮を執り、国際会議でもお父様の横に座る立場です。ところが国内の身分だけを見ると、少し妙です。生まれはサヴォイア家のプリンツで、エルレンフェルトでは帰化した軍人。仕事の重さに比べて、国内での位置が整理されないまま残っていました。
「伯爵くらいがいいの?」
「今の仕事と立場を考えれば、そのくらいが落ち着くだろうな。公爵を増やして私と並べるのも妙だし、男爵ではこれまでの働きに釣り合わない」
「じゃあ伯爵」
「そう考えているよ」
「オイゲンさん、びっくりするかな」
「するかもしれないな」
どろちゃんはもう一度、電文を読みました。エルレンフェルト公国で世襲伯爵位を授ける予定であること、出生によって持つサヴォイア家での身分には手を触れないこと、こちらの叙爵によって家法や継承その他の権利関係に思わぬ支障が生じないか、念のため確認したいこと。それだけが書かれています。結婚や子どもの話は一行もなく、このときは本当に誰も知りませんでした。
「これでいいと思う?」
「私に聞くの?」
「お前は外国の爵位をいくつも持つようになったからな。書類の変なところには気づくかもしれないだろう」
「好きで増やしたんじゃないよ」
「それも知ってるよ」
お父様は少し笑って、電文を通信所へ回しました。
◇ ◇ ◇
返事は早く来ました。サヴォさんからで、エルレンフェルトでの叙爵に異議はなく、サヴォイア家におけるオイゲンさんの出生上の身分もそのまま扱い、現時点で特に注意を求める事項もない、という内容でした。
「よかったね」
「これで進められるよ」
お父様は議会へ書類を回しました。議会といっても、エルレンフェルトの小さな議会です。何十日も演説が続くほどの規模はなく、帰化して長く働き、すでに軍の指揮官として国外との会議にも出ている人物の国内身分を整える話なので、手続きはすぐに進みました。伯爵位は世襲とし、軍の指揮官という職務は本人の任務として扱います。爵位を継いだ子孫へ軍まで一緒についていく制度にはしませんでした。数日後、オイゲンさんが領主館へ呼ばれました。
「何かありましたか」
部屋へ入ったときの顔は、完全に仕事の顔です。
「今日は仕事の相談ではない。これまでずいぶん働いてもらったから、その話をきちんと形にしておこうと思ってな」
お父様が書類を渡しました。オイゲンさんは立ったまま読み始め、途中で止まりました。
「伯爵?」
「ああ」
「私を?」
「エルレンフェルトへ来て、もう長い。帰化して、軍を預けられるところまで来た。いつまでも外から来た客人のような身分のままにしておく方がおかしいだろう」
どろちゃんは少し離れた椅子に座って見ています。フランソワさんも後ろにいます。
「サヴォイアには確認した。異議はないそうだ」
「そこまで先に済ませたのですか」
「サヴォイアの家とのつながりまで、こちらで勝手に扱うわけにはいかん。受けてもらうなら、気持ちよく受けてもらいたかった」
オイゲンさんは最初から読み直しました。戦場では軍団を動かし、王侯貴族の親類も多い人ですが、小さなエルレンフェルトの伯爵位の紙をずいぶん丁寧に読んでいます。
「お受けします」
「では、今日から国内ではオイゲン伯爵だ」
お父様が言いました。オイゲンさんは書類をもう一度見てから、深く頭を下げました。
「ありがとうございます。ここで働く者として、この爵位をお受けします」
「これまで通りでいい。肩書が増えたからといって、急に別人になられても困るからな」
オイゲンさんが少し笑いました。爵位が一つ増えても、午後からの仕事は減りません。書類を持って、そのまま庁舎へ戻っていきました。
◇ ◇ ◇
それから二週間ほどたちました。朝、フランソワさんがどろちゃんの部屋へ来ました。
「お嬢様、今日、少しお時間をいただけますか」
「何かあるの?」
「ハンナさんが、一度診ていただきたいそうです」
どろちゃんは机から顔を上げました。
「具合悪い?」
「ここ数日、少し疲れやすいようです。食事の匂いで気分が悪くなることもあるそうで」
「熱は?」
「ないと聞いております」
「じゃあ行く」
薬箱を持ちます。フランソワさんも一緒です。外は冬の空気でした。オイゲンさんの家は、以前ケールの商人が持っていた大きな家を、買い取って解体し、エルレンフェルトへ運んで組み直したものです。ライプニッツ先生が市長代理をしていたころは、その隣の家に住んでいました。今は正式な市長と役人へ仕事を引き継ぎ、先生はもう帰っています。玄関を開けてくれたのは、オイゲンさんのお母様、オランピアさんでした。
「来てくださったのね」
「ハンナさんは?」
「奥にいます。今朝は食べられるものだけ少し食べさせました」
家の中は暖かくしてあります。廊下の向こうから、もう一人の女性が湯の入った容器を持ってきました。マリー=ジャンヌさんです。その後ろから、ルイーズ=フィリベルトさんも顔を出しました。オイゲンさんの妹たちです。
「先生、こちらでよろしいですか」
「うん。ありがとう」
どろちゃんは受け取りながら、マリー=ジャンヌさんの顔を見ました。頬には色があります。歩いても息は乱れません。咳も出ません。今はハンナさんを手伝う側にいる人ですが、ここまで元気になるまでには長い治療がありました。
◇ ◇ ◇
――少し前。オイゲンさんの家族が移ってきたころ。
マリー=ジャンヌさんはずいぶん痩せていました。咳が長く続き、ときどき熱が出て、夜になると汗をかきます。食べても体重が戻らず、話をしている途中にも咳が出ました。どろちゃんは、ウィーンで診た患者を思い出しました。
「痰、少しもらっていい?」
「痰を?」
「調べたいの」
痰は、薬品工場に隣接して設けた負圧の検査室へ持ち帰りました。患者さんから採ったものを調べるための部屋で、薬を作る場所とは分けてあります。顕微鏡も使いました。一つの検査だけで全部を決めず、症状、経過、周囲の人の様子も合わせました。そして、結核として治療を始めました。
治療は長く続けました。咳が少し減った、熱が下がった、食べられるようになったというところで薬を止めると、あとで病気が戻ってくることがあります。複数の抗菌薬を組み合わせ、状態を見ながら続けました。薬が効き始めると、まず熱の出る日が減り、夜の汗と咳も少なくなりました。食べる量が戻るにつれて体重も少しずつ増えます。途中で何度も診察し、薬や量を確認し、痰ももう一度調べました。治療を終えたあとも、しばらく経過を見ています。
だから今、マリー=ジャンヌさんが湯を持って廊下を普通に歩いている姿は、どろちゃんにとって、治療を受けた患者さんが元気になった姿です。それだけのこととして見ています。
◇ ◇ ◇
――そして、今朝のオイゲン伯爵の家。
「先生?」
見られていたマリー=ジャンヌさんが首をかしげました。
「どうしました?」
「ううん。元気そうだなと思って」
「元気ですよ。今日は私がハンナさんを手伝います」
「重いものは持たなくていいからね」
「それは先生にも言われました」
横からルイーズさんが笑いました。
「姉は元気になると、前の分まで動こうとするんです」
「じゃあ、ほどほどに」
「はい」
どろちゃんは奥の部屋へ入りました。
◇ ◇ ◇
ハンナさんは自分で歩けて、窓の近くの椅子に座って待っていました。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。気分どう?」
「今は大丈夫です。朝、台所へ行くと少し……」
「何の匂い?」
「焼いたお肉が、今日はだめでした」
「いつもは?」
「好きです」
どろちゃんは向かいへ座りました。どろちゃんは熱を測り、脈、顔色、呼吸を見ながら、痛むところ、吐き気や嘔吐、下痢、頭痛、最近の食べ物の好みの変化まで順に聞いていきました。いくつか聞いたあと、どろちゃんは一度だけ言葉を止めました。
「ハンナさん」
「はい」
「月のもの、最後はいつだった?」
ハンナさんも止まりました。少し考えます。それから、日にちを答えました。どろちゃんは頭の中で数えました。
「次、来てない?」
「……はい」
「いつも遅れることある?」
「ほとんどありません」
「もう一回、少し診ていい?」
「お願いします」
必要な診察をします。服の上から見ても、まだいつも通りです。どろちゃんは診察を終えて、手を洗いました。ハンナさんは椅子へ戻っています。
「たぶん、二か月ちょっと」
ハンナさんが、どろちゃんを見ました。
「二か月?」
「赤ちゃん」
しばらく返事がありませんでした。部屋の外も静かです。オランピアさんたちは、聞こうとして扉へ耳をつけるようなことはしていません。
「……本当ですか」
「今のところ、そう考えていいと思う。もう少ししたら変化も分かりやすくなるけど、日にちと今の症状も合ってる」
ハンナさんは自分のお腹を見ました。服の上からなら、いつもと何も変わりません。
「ここに?」
「うん」
また少し黙りました。
「オイゲンさんには?」
ハンナさんは、すぐには答えませんでした。
オイゲンさんが、困ったことが起きたからといって逃げる人ではないことは知っています。こちらへ来たばかりのころから近くで働き、家族が移ってきてからも一緒に暮らしを回してきました。人柄について不安があるわけではありません。
それでも、赤ちゃんとなると話が少し違いました。
ハンナさんは、友人たちから両方の話を聞いています。結婚する前に子どもができて、相手の男の人やその家から冷たく扱われた人。反対に、妊娠をきっかけに裕福な家へ嫁ぎ、周りからはずいぶん運がよかったと言われた人。外から見れば正反対でも、どちらも本人はずいぶん悩んだそうです。
そして自分の相手は、ただ裕福な人というだけでもありません。
サヴォイアの王家につながるプリンツ・オイゲンで、つい二週間ほど前にはエルレンフェルトの伯爵にもなりました。
自分は、町で育って働いてきたハンナです。
「……私から話します」
「うん」
「オイゲンさんのことは信じています。でも、怖くないかと言われたら、少し怖いです」
ハンナさんは自分の手を見ました。
「子どもができたから、あの方に何かをしてもらおうとしたみたいに思われるのも嫌です。逆のことになるのも、もちろん怖いです」
どろちゃんは、すぐに「大丈夫」とは言いませんでした。人の家やサヴォイアの決まりまで、診察だけで決められることではありません。
「オイゲンさんに話すとき、私もここにいようか?」
「……お願いします」
「じゃあ、いるね」
どろちゃんは薬箱には手をつけず、今度はこれからの生活の話をしました。
「仕事は続けていいよ。重いものを持つのと、長く立ちっぱなしになる仕事は、ほかの人に回そう。食べられるものを少しずつ食べて、水分も取って。出血したり、強く痛くなったり、熱が出たらすぐ呼んで」
「分かりました」
「飛行機とか長い移動は、その都度、体調を見て決めよう。普段の仕事は続けていいよ」
ハンナさんは、少し安心したように息を吐きました。
「仕事を取り上げられるかと思いました」
「そんなに暇になったら、たぶんハンナさんの方が困るでしょ」
「はい。たぶん」
そこで扉が開きました。オイゲンさんです。軍服の上着を脱ぐ時間もなかったようで、外套を腕にかけています。
「ハンナが具合を悪くしたと聞いた」
ハンナさんが立とうとしました。
「そのままでいい」
先にオイゲンさんが言いました。どろちゃんは二人を見ました。
「私は外に出ようか?」
「いえ」
ハンナさんが答えました。
「いてください」
オイゲンさんが椅子を引きました。
「何だった?」
ハンナさんは、自分のお腹へ一度目を落としてから言いました。
「赤ちゃんがいるそうです」
オイゲンさんは、椅子を引いた姿勢のまま止まりました。
「……赤ちゃん?」
「はい」
ほんの数秒だったと思います。
それでもハンナさんには、返事を待つ時間がずいぶん長く感じられました。さっきどろちゃんに話したことが、もう一度頭の中を通ります。
オイゲンさんはようやく椅子へ座りました。
「ハンナ、体は大丈夫なのか」
最初に出てきたのは、その言葉でした。
「今のところは。お嬢様にも診ていただきました」
ハンナさんの肩から、少しだけ力が抜けました。
「いつごろ?」
今度はどろちゃんが答えます。
「二か月ちょっとくらい。日にちから見ると、そのくらいだと思う」
戦場の報告なら次々と質問を出す人が、今度はしばらく考えました。
「何をすればいい?」
結局、次に出てきたのはそれでした。
「今日はハンナさんを休ませる」
「分かった」
「それから、家の仕事を少し減らす」
「分かった」
「オイゲンさんの仕事は普通にしていいよ」
「私の話ではない」
「分かってる」
ハンナさんが笑いました。そのあと二人から家族にも話し、オランピアさんは静かにハンナさんの手を握りました。マリー=ジャンヌさんは椅子をもう一つ持ってきて、ルイーズさんは台所へ行き、朝に食べられたものをもう一度少し用意すると言います。家の中の空気は落ち着いたまま、それでも全員の動く方向が少し変わりました。
◇ ◇ ◇
その日の午後。お父様は、またサヴォさんへの電文を書いていました。
「二週間前に送ったばかりなのにね」
どろちゃんが言いました。
「まさか、こんなに早く続きを書くことになるとは思わなかったよ」
「今度は赤ちゃんの話だね」
「ああ。生まれてくる子が、こちらとサヴォイアの間で妙な扱いにならないようにしておきたいんだ」
内容は短くしました。先日の叙爵の件に続報があり、オイゲン伯爵とハンナさんとの間に子どもが生まれる見込みになったこと、エルレンフェルト側で必要な手続きを進めるにあたり、サヴォイア家の身分、婚姻、出生、将来の継承について先に確認しておく事項があれば知らせてほしいことを書きます。サヴォイア家の家法はサヴォさんに尋ねる。それがお父様のやり方です。
「これも送る」
「サヴォさん、びっくりするかな」
「二週間前には子どもの話なんてしていなかったからな」
「私たちも知らなかったもん」
「そういうことだよ」
電文は通信所へ運ばれました。
その話をあとで聞いたハンナさんは、少し長く黙ってから、「そこまで確認してくださるんですね」と言いました。オイゲンさんを信じていても、自分には分からなかったサヴォイア家のことまで、お父様が向こうへ正式に尋ねてくれています。
何もかも決まったわけではありません。それでも、分からないまま一人で考えなくてよいことが一つ増えました。
◇ ◇ ◇
政治と家法の確認は、お父様とサヴォさんに任せられます。家の中の方は、フランソワさんが動きました。
「お嬢様、少し出てまいります」
「どこ?」
「サラさんのところです」
「あ」
どろちゃんもすぐ分かりました。ライプニッツ先生がエルレンフェルトにいたころ、家の掃除や洗濯、買い物などを手伝っていたサラさんです。もともとハンナさんの知人で、ハンナさんとオイゲンさんが二人とも仕事で出ている日は、オイゲン家にも回っていました。忙しい日は二軒分を受け持っていたので、台所の場所も、洗濯物をどこへ出すかも、誰がどの部屋を使っているかも、だいたい分かっています。ライプニッツ先生が帰国した今は、以前ほど決まった仕事が入っていません。
サラさんの仕事ぶりも、オイゲン家の勝手を知っていることも、もうみんな分かっています。フランソワさんが確認しに行くのは、今ほかの仕事が入っているか、これからオイゲンさんの家を主な勤め先にしてもらえるか、その二点だけです。夕方、フランソワさんが戻りました。
「お願いできるそうです」
「早いね」
「ご本人も、あのお宅なら勝手が分かっているので助かります、と」
「誰が雇うの?」
「オイゲン伯爵です。明日、給金と勤務のことを直接決めていただきます」
サラさんを雇うのはオイゲンさんで、給金もオイゲンさん個人が払います。翌日から、サラさんが来ました。
「おはようございます」
「おはよう、サラさん」
ハンナさんも普通に迎えます。初めて入る家なら、戸棚を一つずつ開けて説明するところです。サラさんはそのまま台所へ行きました。
「今日は洗濯物、多いですか?」
「奥の籠にあります」
「分かりました。そちらは私がやりますね」
「ありがとうございます」
それで終わりです。洗濯や掃除、買い物に加えて、大きな鍋、水を運ぶ仕事、重い籠の扱いなど、ハンナさんが今まで普通にやっていたことの一部が少しずつサラさんへ移りました。ハンナさんの仕事そのものは続きます。オイゲンさんの書類を手伝う日もあれば、外へ出る仕事もあります。ただ、疲れたら座り、食べられる時間に食べ、家へ戻れば家事まで全部抱え込まずに済むようになりました。マリー=ジャンヌさんとルイーズさんも手伝います。オランピアさんもいます。そしてサラさんが増えました。家の中では、何人かで仕事を分ける形ができていました。
◇ ◇ ◇
数日後、さらに荷物が増えました。布屋さんからです。包みには、柔らかい麻布、小さなシャツにできる布、頭にかぶせるもの、赤ちゃんを包む布、冬に使える薄い毛織物が入り、まだ形になっていない上等な布まで添えられていました。
「これ、頼んだの?」
どろちゃんが聞きました。
「いいえ」
ハンナさんも困った顔をしています。サラさんが包みの中の紙を読みました。
「前にハンナさんに助けてもらったから、今度はこちらの番だそうです」
「お金は?」
「受け取らない、と書いてあります」
「それは困ります」
ハンナさんが言いました。翌日、本人が布屋さんへ行きました。帰ってきたとき、布も一緒でした。
「返せなかった?」
「返せませんでした」
「お金は?」
「受け取ってもらえませんでした」
サラさんが笑いました。
「では、使うしかありませんね」
ハンナさんは大きな布包みを見ました。まだ外からは何も分からない時期です。それなのに家には、もうずいぶん小さな服の材料があります。以前、ハンナさんがサラさんに仕事をつないだことがあります。手が足りない日は、サラさんがハンナさんの家まで手伝いました。今度はサラさんが、もっと長くこの家を支えます。布屋さんも、自分たちが助けてもらった分を持ってきました。マリー=ジャンヌさんは、長い治療を受けて元気になり、今はハンナさんを手伝っています。どろちゃんは、それを見ながら少し考えました。
「大きなカブみたい」
「何でございますか?」
フランソワさんが聞きました。
「一人で引っ張らなくても、後ろにどんどん人がつくやつ」
「カブを抜く予定はございませんよ」
「赤ちゃんも抜かないよ」
「それは先生として、ぜひお願いいたします」
ハンナさんが笑いました。オイゲン伯爵の家では、まだ誰も赤ちゃんの顔を知りません。男の子か女の子かも分からず、生まれるのはずっと先です。それでも、赤ちゃん一人分の場所だけは、もう少しずつ家の中にでき始めていました。
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第120章の小さな説明
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【オイゲンさんの伯爵位】
この章では、妊娠が分かる約二週間前に、プリンツ・オイゲンへエルレンフェルト公国の世襲伯爵位を授けています。
叙爵の理由は、それまでの勤務実績です。オイゲンさんはすでに帰化して長く、軍の指揮官として働き、国際会議でもエルレンフェルト側の上位者として活動しています。
お父様は叙爵前にサヴォイア側へ電信で確認し、出生によるサヴォイア家の身分や家法との間に思わぬ問題がないことを確かめています。
伯爵位は世襲ですが、軍の指揮官職は世襲しません。
【妊娠が分かる時期】
この章のハンナさんは妊娠初期で、おおむね妊娠二か月を過ぎたころを想定しています。
現代の妊娠検査薬や超音波検査は登場させず、月経の時期、吐き気、匂いへの反応、疲れやすさなどの変化と診察を合わせて判断しています。外見は普段とほとんど変わらない時期です。
【サラさん】
サラさんは、以前ライプニッツ先生がエルレンフェルトで市長代理をしていたとき、日常生活を手伝っていた女性です。
もともとハンナさんの知人で、ライプニッツ先生の家が主な仕事先だった時期にも、ハンナさんとオイゲンさんの仕事が重なって手が回らない日は、オイゲン家の仕事を手伝っていました。
サラさんはすでにオイゲン家の仕事を知っているため、今回もそのまま仕事に入れます。ライプニッツ先生の帰国後、オイゲン伯爵が正式な雇用主となり、給金もオイゲン家から支払います。
【マリー=ジャンヌさん】
プリンツ・オイゲンの妹マリー=ジャンヌ・バティスト・ド・サヴォワ=ソワソンは、史実では1705年にスイスのモルジュで亡くなった人物です。死因を結核とする資料があります。
本作では、家族とともにエルレンフェルトへ移ったあと、長引く咳、発熱、寝汗、体重減少などからどろちゃんが結核を疑い、検査と治療を行った設定にしています。感染性のある患者試料は薬品の製造区域へ持ち込まず、薬品工場に隣接して設けた負圧の検査室で扱います。
作中ではすでに、ストレプトマイシンなどの抗菌薬を持ち、結核は短期間の単剤治療で終わらせず、複数の薬を組み合わせて長く治療する必要があることを、どろちゃんが経験しています。
どろちゃん本人は、マリー=ジャンヌさんが史実で1705年に亡くなる人物だとは知りません。本人にとっては、家族の一人を診察し、必要な治療を続けた結果、元気になった患者さんです。
そのためこの世界では1705年を越えて生き、1707年にはオイゲン家で普通に暮らし、妊娠したハンナさんを手伝っています。
なお、参照できる史料・資料では死亡日の記載に食い違いがあるため、本作では「1705年にモルジュで死去」という範囲だけを小さな説明に使い、月日までは固定しません。




