119貴族令嬢は、第一回国際連盟会議に出ます。 国際連盟をつくりました。
第119章 貴族令嬢は、第一回国際連盟会議に出ます
その冬、エルレンフェルトの川沿いには朝になると薄い霧が出るようになりました。
ホテル棟の前から丘を見上げると、以前からある会議棟のガラス面が白い空を映しています。低い建物の壁はほとんど垂直なガラスで、外側は冷えていても、断熱された二重ガラスの内側にはほとんど結露がありません。暖かい廊下から外を眺めると、斜行エレベーターが低地のホテル棟まで斜面を往復し、その向こうには水玉船の乗り場が見えました。
そこまでは、いつもの景色です。
変わったのは南側でした。
旧会議棟の廊下の突き当たりに、昨日までなかった扉があります。扉を開けると、ガラスで囲まれた長い渡り廊下が丘の西側へ伸び、その先に大きな建物がありました。
「大きいね」
どろちゃんはガラス越しに見上げました。
石の壁が長く続き、縦に並んだ窓の間には太い柱があります。中央部はさらに高く、左右にも大きな翼のように建物が伸びていました。旧会議棟より二回りほど大きく、遠くから見れば王宮か官庁のようです。
ところが、今朝現れたばかりです。
ガラスと細い柱でできた旧会議棟の方が、どう見ても新しそうでした。
「新しい方が古そう」
どろちゃんが言うと、そばにいた技師さんが笑いました。
『そこは仕方ないねえ。こっちは国際連盟用だから』
「国際連盟って、もう名前まで決まってるの?」
『みんなが何度も同じ会議をするようになったら、建物も要るでしょう』
神様側では必要になると判断したらしいです。
渡り廊下を進むと、途中から景色が大きく開きました。右手には川、その下にホテル棟と水玉船の乗り場。左手には公園の木々と階段、その先には小さなエルレンフェルトの町が見えます。透明な廊下を抜けると、急に石と木の多い重厚な内部へ入りました。
最初の大会議場は、旧会議棟の一番大きな部屋よりはるかに広いものでした。
正面に議長席。その下に事務局の机。緩く弧を描くように代表席が並んでいます。後ろには随員と書記の席があり、さらに通路の外側にも人が入れる余裕があります。
これだけの席が必要になるのか、どろちゃんにはまだ分かりません。
けれど、隣の廊下へ出ると、中くらいの会議室がいくつもあり、その先には小部屋が並んでいました。代表団ごとの控室、委員会用の部屋、書記の仕事部屋。地下に近い階には文書庫があり、棚だけでも旧会議棟とは比較にならない量です。
通信室には、こちらの世界で使っている有線電信と短波通信をつなげられる端子が用意されていました。神様は室内をこの時代向けに整え、エルレンフェルトで実際に使っている設備をそのまま接続できるようにしています。
「これなら、紙が行方不明にならないね」
『そこが一番大事かもしれないねえ』
技師さんの返事に、どろちゃんも頷きました。
国境を決めた紙。
港を借りる紙。
船を返す約束。
誰がどこを治めているかを書いた紙。
最近は、飛行機で運ぶ荷物の中にも外交文書が増えています。ホータンから持ち帰る箱まで手紙で重くなりました。
会議をする場所より、決まったことを百年後まで残す場所の方が必要なのかもしれません。
*
第一回の会議が近づくと、町の交通も急に忙しくなりました。
エルレンフェルト駅へ長距離列車で着いた人は、駅前からピーチライナーへ乗れます。
この名前を最初に使ったのは技師さんたちでした。天国で見つけたVONAの車両と軌道を回収し、傷んだところを直し、使えるものはほとんど新品の状態まで整えてからエルレンフェルトへ持ってきています。軌道も以前のループ線から作り直されました。
車両は冷房付きで、扉は片側だけです。
両端は以前と同じようにループになっているので、終点で車両の向きを変える必要がありません。
駅前市街地を出ると、水玉船前、旧滑走路地下駅、新滑走路西、新滑走路地下駅、新滑走路南へ続きます。
天国で見つかった元の駅には、高架のホームまで階段だけで上がるところもあったそうです。こちらへ移すとき、そこは作り直されました。ホームと車両の床はほぼ同じ高さに揃い、高い場所や地下へ移動するところにはエレベーターや緩い通路があります。
普段は、住民の足として走ります。
新滑走路西と新滑走路南の駅前には、ケールから移してきた屋敷がまとまっています。エルレンフェルトの古い中心街は、川と丘に挟まれて住宅を増やせる土地が少なく、新しく住む人の家はこの二つの駅前へ集まるようになりました。
朝のピーチライナーには、仕事へ向かう人が普通に乗っています。
その中へ、見慣れない服を着た外国の随員が大きな鞄を持って乗ってきます。
新滑走路へ到着した代表団も同じです。
ある朝、どろちゃんは新滑走路地下駅まで迎えに行きました。
ホームへ上がってきた車両の中には、エルレンフェルトの住民が何人も乗っています。新滑走路西で降りる人が先に立ち、そのあとへ外国から来た一行が続きました。荷物を持った書記も、脚の悪い年配の随員も、段差を越えるために誰かへ持ち上げてもらう必要がなく、そのままホームへ出てきます。
乗り換えの説明をしていた役人が、どろちゃんを見つけました。
「侯爵様、水玉船前まででよろしいでしょうか」
「うん。ホテルへ入る人はそこで降りてもらって。会議棟へ直接行く人も、いったんホテル側から斜行エレベーターを使った方が分かりやすいよ」
車両へ戻ります。
新滑走路西では、駅前の屋敷群から出てきた人が乗ってきました。仕事着の職人、帳面を抱えた人、買い物へ行くらしい親子。その向こうには、冬の低い空の下で3800m滑走路が長く伸びています。
代表団の一人が窓から外を見たあと、車内へ目を戻しました。
「これは、外国の客のために造った鉄道ですか」
「みんな使ってるよ。会議がない日の方が多いから」
質問した人は少し驚いていました。
どろちゃんには、その方が普通です。
旧滑走路地下駅を過ぎると、やがて水玉船前です。
降りた人たちは道を渡り、低地のホテル棟へ入ります。荷物は係の人が運び、代表と随員は部屋を確認してから、斜行エレベーターで丘へ上がっていきます。
その途中から新しい会議棟が見えます。
初めて来た人の多くは、先に見えるガラス張りの旧会議棟を新しい建物だと思いました。
ところが高台へ着いて南を見ると、その横にもっと大きな石造りの建物があります。
「こちらが新しい会議棟です」
案内役がそう言うたび、何人かはもう一度ガラスの建物を振り返りました。
*
会議の前日までに、代表席の札が揃いました。
エルレンフェルト。
グレートブリテン王国。
フランス。
ネーデルラント連邦共和国。
イタリア王国。
ドイツ連邦共和国。
オーストリア。
デンマーク。
ポルトガル。
スペイン。
ロシア共和国。
スイス。
サンマリノ。
アンドラ。
ベトナム社会主義共和国。
アユタヤ王国。
ブータン。
同じ大きさの机に、同じ大きさの札が置かれています。
常設事務局を作る案、条約を登録する案、国名や政体が変わったときの扱い、仲裁の手順については、何週間も前から電信と書簡で草案が回っていました。長距離通信の遅い国にはムリヤちゃんや船で文書を運び、各国は修正を書き込んで返しています。今回の会議では、その違いを同じ机の上で詰めていきます。
どろちゃんは端から見ながら歩き、グレートブリテン王国のところで少し止まりました。
つい前まで、書類にはイングランドと書いてありました。
今年の5月から、イングランドとスコットランドは一つの王国として扱われています。王様が同じだった時期より、文書の上では変化が大きいです。
国の名前が変わったから、昨日までの約束も全部消える。
もしそれを認めたら、国際条約は政変や王位継承のたびに役に立たなくなります。
ロシア共和国にも同じ問題がありました。以前の政体が結んだネルチンスク条約を、共和国が引き継いでいます。
ベトナムでは、もっと大きく仕組みが変わりました。
それでも、以前に外の国と交わした約束を一枚ずつ捨てて最初からやり直せば、交易も国境も混乱します。
第一回会議の議題には、もう答えが必要な問題が並んでいました。
*
当日の朝、大会議場が埋まりました。
国王本人が来ている国もあれば、外務を扱う大臣や全権を持った代表を送った国もあります。小さな国では、普段なら一人でいくつもの仕事をしている人が書記を一人だけ連れて座っています。国家元首、全権代表、大臣が同じ大会議場に集まりました。
アンドラの書類は少し変わっていました。
共同で権限を持つ二つの側から確認された文書が必要です。その一方にはフランス王の権利も関係します。同じ大会議場にフランスの代表席とアンドラの代表席が別々にあるので、書類を整理していた事務局の人たちは何度も封印と署名を確認していました。
開始時刻になると、どろちゃんの父が議長席の前へ立ちました。
ここはエルレンフェルトです。
会議棟を用意したエルレンフェルトの役目は、開催地として客を迎え、会議を動かすことです。父も領主として最初の進行役を務めます。各国が決める内容は、それぞれの代表が持ってきた権限の中で話し合います。
「皆様をお迎えできたことを、エルレンフェルトを代表して歓迎いたします」
大きな部屋に声が通ります。
「私たちは、すでに何度も同じ仕事をしてきました。国境を確認し、船の所属を調べ、通商の条件を決め、戦いを止めるために人を集め、政体が変わった国との条約をどう扱うかを相談してきました。そのたびに、前の会議の文書を探し、関係する国へ使者を送り、同じ説明を繰り返しています」
どろちゃんは自分の席から聞いていました。
とても父らしい始め方です。
困っている仕事が増えた。
だから常設にしたい。
話はそこから始まります。
「本日の最初の議題は、この会議を一度限りで終わらせず、常設の連絡、記録、仲裁の仕組みとするかどうかです」
フランス席からトルシー侯が立ちました。
彼はこの数年、飛行機にも列車にも乗り、ホータンの滑走路脇でも地図を広げています。臨時会議が増えたことを誰よりよく知っています。
「フランスは常設化に賛成いたします。外交には記憶が必要です。人の記憶だけでは足りません。王が代わり、大臣が代わり、国の名が変わっても、相手国が保管している文書と同じものを確認できる場所が必要です」
ネーデルラントの代表も続きました。
こちらは港と商売の話から入ります。
「船は、国境より頻繁に国をまたぎます。売られ、貸され、拿捕され、返されることもあります。どの時点で誰の船だったか分からなくなれば、港で毎回争いになります。条約、船舶、港湾利用、通商上の権利をまとめて記録できる事務局がある方がよいでしょう」
どろちゃんは文書庫を思い出しました。
空の棚が大量にありました。
たぶん、すぐ埋まります。
*
二つ目の議題は、国が変わったときの約束です。
最初の実例が、ちょうど目の前にあります。
グレートブリテン王国の代表が、イングランド時代の条約一覧を机へ置きました。
「本王国は、イングランド王国が正当に結んだ条約上の義務と権利を、原則として継承する用意があります。スコットランド側に既存の関係がある場合は、それとの調整が必要になりますが、国名が変わったという理由だけで相手国との約束が消えたとは扱いません」
続いてロシア共和国。
ネルチンスク条約の話が出ます。
以前の政府が清と結んだ国境の約束を、共和国も国家として引き継ぐ。その文書を国際連盟にも登録しておけば、後から「そんな約束は知らない」と言える余地が小さくなります。
ベトナム側の代表は、さらに簡単な言い方をしました。
「政府が変わるたびに港の契約も国境の約束も消えるなら、外国は誰とも長い契約を結べません。新しい政府が内容を確認し、変更が必要なら相手と話し合う。その手続を残す方が、こちらにも利益があります」
反対意見もありました。
前の王が不当に結んだ条約まで、永久に守らされるのか。
内戦の最中に一方が勝手に約束した場合はどうするのか。
国そのものが二つに分かれた場合は。
大会議場では、午前中だけで例外がいくつも出ました。
そこで、扱い方を三つにまとめました。
原則として継承する。
異議がある国は、理由と対象条約を文書で出す。
相手国と話し合い、まとまらなければ仲裁へ回す。
その三つを、最初の共通手続とします。
どろちゃんには、その方が長持ちしそうに思えました。
*
昼になると、代表たちは食堂へ移りました。
新会議棟の食堂は川側にあります。
窓から下を見ると、ホテル棟の屋根、その向こうに水玉船の乗り場が見えました。船が一隻入り、人が降りています。さらに少し離れたところをピーチライナーが走っていました。
世界中の国境を話し合っている建物の下で、住民が昼の買い物へ行っています。
食事は、エルレンフェルトの会議で以前から出しているものを少し増やした程度でした。
温かいスープ。
パン。
肉と魚。
野菜。
果物。
国ごとに特別な宴席を作ると、誰をどこへ座らせるかだけで時間がかかります。公式の晩餐は別に用意しますが、昼食は仕事の途中です。
どろちゃんは窓際で食べながら、下を走るピーチライナーを見ていました。
フランソワさんが隣に来ます。
「随分、人が増えましたね」
「うん。ホテルもいっぱい」
「新滑走路西と南の屋敷にも、随員の一部を泊めているそうです」
「住んでる人がびっくりするね」
「すでに慣れ始めているようでございます」
駅前の住宅地には、ケールから移ってきた家が集中しています。そこへ外国の書記や護衛が一時的に泊まり、朝になると住民と一緒にピーチライナーへ乗る。
どろちゃんは少し笑いました。
国際連盟という大きな名前が付いても、エルレンフェルトの朝の車内はあまり変わらないようです。
*
午後は、争いが起きたときの手順です。
ここは意見が割れました。
国境で兵が向かい合っているのに、遠いエルレンフェルトから返事が来るまで何週間も待てるのか。
海賊が港へ入ってきたときも会議を待つのか。
自国領へ侵入された側が守ることまで止めるのか。
実際に戦争を経験している国ほど、その点には慎重でした。
誰かが攻めてきたとき、自分を守る権利は残す。
一方で、報復のために国境を越え、そのまま相手の町を取るところまで自動的に認めると、戦争は止まりません。
以前に使った20日間の冷却期間も資料として出されました。
20日間は一つの参考例とし、「攻撃を受けていない側が新たに戦争を始める前には、相手国と国際連盟へ通告し、話し合いの機会を置く」という方向で多くの国が一致しました。
サンマリノの代表が手を挙げました。
「小さい国には、時間そのものが防壁になります」
会場が静かになりました。
「大国同士なら、兵を集める間にも相手が準備できます。私たちのような国では、隣国が軍を動かしたあとに話し合いを始めても間に合わないことがあります。戦争を始める前に第三者へ知らせるという手続は、大きな軍隊を持てない国ほど必要です」
ブータン側の代表も、水と道の問題を例に出しました。
山の境界では、一本の線を引いても生活は線どおりに動きません。峠を使う時期、放牧地、水場、通行税。先に役人同士で話せる窓口があれば、兵を送る理由を一つ減らせます。
どろちゃんは、ホータンで見た地図を思い出しました。
水場を夏に使う人。
冬に家畜を連れてくる人。
井戸を掘った人。
道を直した人。
ホータンでは、水場や季節ごとの利用まで確かめて線を決めました。
国際連盟の仕事も、たぶん同じです。
大きな原則を一枚書いたあとには、細かい話を延々と受け取る仕事が続きます。
*
夕方近くになって、清の扱いが議題へ上がりました。
会議場には清の代表はいません。
ベトナムとの戦いが続き、西側でも新しい政治単位が生まれています。ここにいる国だけで規則を作れば、清を囲む同盟にも見えます。
「清にも正式な招待を送るべきだ」という意見は、すぐに複数の席から出ました。
フランス、グレートブリテン、ネーデルラントが賛成します。
意外だったのは、ベトナム側も強く反対しなかったことです。
「戦っている相手だからこそ、話を持ってくる場所が必要です」
代表はそう言いました。
「参加するかどうかは清が決めます。席を閉じておけば、こちらも話す場所を一つ失います」
中央アジアから届いている文書についても同じ扱いになりました。
ホータンをはじめ、名前、代表者、境界、交易路を整理し始めた小さな政治単位があります。全部を今日から加盟国にすることはできません。誰が代表権を持つのか、隣との境界がどこまで合意されているのか、確認する仕事が残っています。
そこで、加盟申請を受け付ける窓口を常設事務局へ置くことになりました。
大国も小国も、同じ条件で申請を確認します。
政府があり、外へ代表を出せて、条約を結び、守る能力を示せること。
隣国と揉めている部分があれば、それも隠さず書くこと。
条件を一つずつ確認します。
どろちゃんはそこで初めて、大きな会議場の空席が無駄ではない気がしました。
*
最後に、常設事務局をどこへ置くかという話になりました。
候補はいくつか出ました。
大国の首都なら人も物もあります。
港の大都市なら船で来やすいです。
けれど、どこか一つの大国の首都へ置けば、その国の役所の一部に見えます。
結局、すでに建物と通信設備があり、各国の列車が入り、3800m滑走路も使え、巨大なムリヤちゃんまで降りられるエルレンフェルトを当面の所在地とする案が残りました。
父は少し困った顔をしました。
領地の人口と比べると、建物だけが大きすぎます。
それでも事務局員が住む場所は、新滑走路西と新滑走路南の駅前へ増やせます。中心街を無理に広げるより、ピーチライナー沿線へ分けた方が生活もしやすい。
ここで、もう一つ実務的な問題が出ました。
毎回、会議のたびに世界中から代表を集めるのは大変です。
ヨーロッパの国なら列車で来られますが、ベトナム、アユタヤ、ブータンのような遠い国ではそうはいきません。大きな会議のたびに船で何か月もかけて往復していては、常設の組織を作った意味が薄くなります。
そこで各加盟国は、エルレンフェルトに常駐の代表を置くことになりました。
普段の条約登録、照会、仲裁の申し込み、委員会への出席は、その人たちが担当します。本国から大臣や特別な全権代表が来るのは、年に一度の通常総会や、大きな問題が起きたときです。
遠い加盟国については、通常総会に合わせて年に一度、ムリヤちゃんなどを使った送迎便を組みます。臨時会議や緊急の仲裁で人を運ぶ必要が生じたときは、その都度別に飛ばします。
常駐する人が本国から何か月も離れたままでは困るので、通信の仕組みも一緒に決めました。
加盟国の政府所在地には、国際連盟との連絡に使える無線電信設備を順に取り付けます。エルレンフェルトの常駐代表は、通信室を通して本国へ電文を送れます。
ただし、ここには神様とのお約束があります。
暗号通信は禁止です。
文字を別の文字へ置き換える暗号も、数字に意味を割り当てた符号も、読んだ人に内容が分からないよう加工した通信も使えません。無線でも有線電信でも同じです。秘密にして運びたい内容は、封をした紙の手紙にして人が運びます。
「これは最初に大きく書いておかないと危ないね」
どろちゃんが言うと、通信担当の人たちもすぐに頷きました。
加盟するときに全員へ説明しておけば、暗号禁止を知らずに使う事故を防げます。
初日の採決が終わるころには、外はもう暗くなっていました。
そのあとも会議は数日続きました。大会議場で全部を話すと時間が足りないので、条約登録、国家承継、通商、仲裁、加盟手続に分かれ、中くらいの会議室へ代表と書記が散っていきます。午前にまとまった文章が午後に修正され、翌朝には別の国から条件が付きました。事務局の机には紙が積み上がり、できたばかりの文書庫にも最初の箱が入り始めます。
最後の全体会議で積み上がったのは、地味な実務ばかりでした。
常設の会議を続けること。
事務局と文書庫を置くこと。
各加盟国がエルレンフェルトに常駐代表を置くこと。
通常総会は年に一度とし、遠方の国にはその時期に合わせて送迎を用意すること。臨時の会議や緊急案件は別に扱うこと。
加盟国の政府所在地へ無線電信設備を整え、常駐代表と本国が連絡できるようにすること。
電信と無線では暗号を使わず、秘密にする必要のある文書は封をした紙で運ぶこと。
条約を登録すること。
国名や政体が変わったときの継承手続を作ること。
戦争になる前に連絡と仲裁を試すこと。
新しく参加したい国の書類を受け付けること。
そして、この仕組みを「国際連盟」と呼ぶこと。
明日の朝にも、国境ではまた揉め事が起こるでしょう。常設事務局には、その次の揉め事から仕事が待っています。
港では船の所属をめぐって言い争いが起き、どこかの役所では古い条約が見つからないかもしれません。
その紙を持ってくる場所と、続きを話す机ができました。
*
会議が終わったあと、どろちゃんは旧会議棟へ戻りました。
石造りの新会議棟からガラスの渡り廊下へ出ると、時代が急に変わったように見えます。その先の旧会議棟は、夜になるとガラスの壁から室内の明かりが外へ漏れ、ますます新しい建物に見えました。
小会議室では、トルシー侯がまだ書類を読んでいます。
「もう一つ、作ってみたんだけど」
どろちゃんは紙を一枚置きました。
これから参加国を増やすための案内です。
トルシー侯は最初の一行を読み、そこで止まりました。
「私たちと国際連盟の契約をして、魔法使いにならない?」
しばらく紙を見ています。
「……お嬢様」
「目立つでしょ」
その下は普通です。
国境や条約を記録したい国。
通商や通行について他国と話したい国。
争いを戦争にする前に仲裁を求めたい国。
王や政府が変わったあとも、以前の条約をどう扱うか確認したい国。
国際連盟へ代表を送ってほしいこと。
トルシー侯は最後まで読み、もう一度一行目へ戻りました。
「本文は、大変まじめでございますな」
「一行目もまじめだよ」
「その点については、各国で判断していただきましょう」
却下はされませんでした。
どろちゃんは少し満足しました。
窓の外には、今朝できたばかりの大きな国際連盟会議棟があります。
その手前を、ガラスの渡り廊下が明るく横切っています。
丘の下では水玉船が最後の便を出し、もう少し向こうではピーチライナーが駅へ入っていきました。
明日の朝も、住民と外国の人が同じ車両に乗ります。
国際連盟の仕事も、たぶんそこから始まります。
◇◇◇◇◇
作中の新しい国際連盟会議棟は、後世のジュネーブにあるパレ・デ・ナシオンのうち、旧国際連盟本部として最初に建てられた中核部分を基礎にしています。神様がこの世界で使える設備へ調整して移設しました。旧会議棟はそれよりずっと後の時代を思わせる、垂直なガラス面を多用した低層建築で、断熱二重ガラスになっています。そのため「新しく現れた国際連盟会議棟の方が古く見える」という逆転が起きています。
VONAは Vehicle Of New Age の略で、ゴムタイヤを使い案内軌条に沿って走る新交通システムです。急な勾配に強く、自動運転にも対応しています。技師さんたちが天国で見つけた小牧市由来のピーチライナーは廃止後の残骸でしたが、造られてから使われなくなるまでの期間が短く、車両や設備は年数の割に傷みが少ないものでした。技師さんたちが徹底的に整備したため、エルレンフェルトではほとんど新品のような状態で走り、冷房も使えます。元の設備に残っていた階段中心の駅構造はエルレンフェルト向けに作り直し、ホームの段差、高架・地下への移動を含めてバリアフリー化しています。新滑走路西と新滑走路南の二つの駅前にはケールから移した屋敷群が集中し、土地の狭い旧市街に代わる住宅地となっています。会議参加者と住民が一緒に使う日常の公共交通です。
国際連盟では各加盟国がエルレンフェルトに常駐代表を置き、通常総会は年に一度開きます。遠方の加盟国には総会に合わせて送迎を行い、臨時会議や緊急の仲裁が必要な場合は別便を用意します。加盟国の政府所在地には無線電信設備を整備し、常駐代表と本国が直接連絡できるようにします。ただし神様との約束により、紙の手紙以外で暗号を使うことは禁止されています。無線・有線電信は平文で送り、秘密文書は封をした紙として運びます。




