116貴族令嬢は、北の実力者を国賓にします。 清以外の国を見聞します。属国と独立国の違いを認識します。
第116章 貴族令嬢は、北の実力者を国賓にします
ベトナムを離れてから何時間かすると、地上の色が少しずつ変わり始めました。
チン・カンは何度か操縦席へ来ます。
最初は大きな川と水田が続き、その先では山が増え、さらに北西へ進むにつれて緑が減っていきました。どろちゃんには何度か見た変化ですが、チン・カンにとっては、地図の上でしか知らなかった土地が次々に窓の下へ現れてきます。
「この先にも人が住んでいるのか」
「住んでるよ。水があるところに町がある」
やがて北側に砂の色が広がり、南には雪を被った高い山並みが長く続くようになりました。
ホータンです。
乾いた大地の中へ、神様の5000m滑走路だけが不自然なくらいまっすぐ伸びています。
前にムリヤちゃんを見た商人たちは、六発の音を聞くと早くから集まり始めました。初めて来た人はまだ遠くを飛んでいるうちから空を見上げ、音が近づくにつれて馬や荷を積んだ動物を押さえる人が増えていきます。
ムリヤちゃんが接地して速度を落とし、機首が開くと、今度は中からベトナムの一行が降りてきました。
機内の空調から外へ出たチン・カンの頬に、冬の乾いた空気が当たります。
南には白い崑崙の山並み。
反対側には砂漠。
その間だけに水路と畑と人の暮らしがあります。
「同じ日のうちに、ここまで来たのか」
「まだ途中だよ」
どろちゃんが答えると、チン・カンは山からムリヤちゃんへ視線を戻しました。
商人たちは前回より近くまで来ます。干した葡萄や乾燥果物を持ってきた人の中には、どろちゃんが前に買った相手もいました。
機首を開けたまま貨物室から米袋を降ろし、その横へ南方の果物を並べると、見物に来ていた人たちの動きが変わりました。前回は巨大な飛行機そのものを見に集まっていましたが、今回はベトナムから商品が届いています。米の粒を手に取る人、果物の匂いを確かめる人、乾燥果物や布を持ってきて交換できる量を相談する人が現れ、滑走路の脇が短い時間だけ市場のようになりました。
「今度はちゃんと荷物を持ってきたよ」
どろちゃんが前に会った商人へ声をかけると、その人は笑いながら米袋を叩きました。
チン・カンは、飛行機が人を遠くへ運ぶだけでなく、数時間前まで自分の国にあった米や果物を、その日のうちに砂漠の縁へ持ってくるところまで見ています。
給油と荷下ろし、簡単な取引を終えると、ムリヤちゃんは再び空へ上がりました。
*
ヨーロッパへ入ると、チン・カンはまた操縦席へ来ました。
冬のフランスはベトナムともホータンとも違います。葉を落とした木、低い畑、村と村をつなぐ道、その間を流れる川や橋が、途切れず窓の下へ続いていました。
「町が多い」
「このあたりは特にね」
やがて大きな都市と宮殿のある地域へ近づきます。
ムリヤちゃんを降りたあとは、空から見ていた建物を地面から見る番でした。
揃った窓が何列も続く石造りの建物、広い庭、何台もの馬車が行き来できる道、制服を着た警備の兵。チン・カンは案内されながら建物を一つずつ見て、会談の作法も確かめていました。
自分がどこへ座るのか。
誰が先に話すのか。
どういう肩書で紹介されるのか。
清の使者や役人と会うときには、席順と呼び方だけでも政治的な意味があります。
ルイ十四世との会談室へ入ると、チン・カンはまず机を見ました。
双方の席は同じ床面に置かれています。
ルイ十四世は、ベトナム側の政治を代表する人物としてチン・カンを迎えました。
挨拶が終わり、互いに席へ着いたところで、チン・カンの肩から少し力が抜けたのを、隣にいたどろちゃんは見ています。
*
会談では、先にチン・カンがフランス人船員の件を取り上げました。
拿捕された船へ若い船員を残し、帰国を許さず、操船や修理を教えさせていたこと。十分に技術を覚えたあとには、その人たちを生かしておくつもりがなかったという証言まで出ていること。
ベトナム側の国家として調査し、死亡者、行方不明者、奪われた財産を確認したうえで補償する。
そこまで話してから、チン・カンは謝罪しました。
どろちゃんは、責任の範囲が今回確認された行為から広がりすぎないよう、言葉を足さず慎重に訳します。
次にルイ十四世が話しました。
フランス軍がベトナムへ入り、土地を取り、植民地として支配しようとしたこと。
それはフランス側が自分で始めたことです。
ルイ十四世も謝罪しました。
会談室が静かになります。
チン・カンは、少し意外そうに王の顔を見ました。
フランス王から、ベトナムへの侵入について謝罪の言葉が返ってくるとは予想していなかったようです。
そのあとに残ったのは、これから処理する仕事でした。
死亡者と行方不明者を調べ、捕らえられている人を返し、補償を整理する。港を使う条件を決め、土地が必要なら5年ごとに借り、治安はベトナム側が担当する。フランス軍を置くための場所は作りません。
「これなら、商売できますね」
どろちゃんが最後に言うと、ルイ十四世がこちらを見ました。
「結局そこへ戻るのか」
「戦争より儲かる方がいいでしょう」
「それはそうだ」
チン・カンは二人のやり取りを見ながら、少しだけ笑いました。
*
フランスからネーデルラント連邦共和国へは、特別列車で移動しました。
チン・カンが列車へ乗るのも初めてです。
駅へ入ると、最初に線路を見ました。鉄の道が二本、遠くまで平行に続き、その上へ何両もの車両がつながっています。
「馬はどこにいる」
「いないよ」
「これだけの車を?」
「全部一緒に動く」
どろちゃんが答えました。
発車時刻になると床の下から振動が伝わり、長い列車がゆっくり動き始めます。
馬車なら馬の身体が先に動き、御者の声がして、車輪が道の凹凸を拾います。列車は線路に沿って進み、速度が上がると窓の外の木や家が同じ方向へ流れていきました。
チン・カンはしばらく窓枠へ手を置いたまま外を見ています。
最初の停車駅では貨物車から荷が降ろされ、別の荷物が積まれました。次の駅では待っていた客が乗り、その向こうの倉庫では人足が荷車を押しています。
線路脇の工場。
農地。
川を渡る橋。
遠くへ延びる別の線路。
飛行機から一度に見渡した景色とは違い、列車では一つ一つが目の高さで流れていきます。
「これは軍隊を運ぶために作ったのか」
「軍が使うこともあるけど、毎日は人と荷物を運ぶ方が多いよ」
何駅か過ぎたところで、チン・カンは時刻表を手に取りました。
紙に書かれた時刻と、実際に列車が止まる駅が一致しています。
「これで、荷物がいつ着くか分かるのか」
「遅れなければね」
チン・カンは時刻表を畳まず、そのまましばらく持っていました。
*
ネーデルラントへ入ると、最初に驚いたのは港より水でした。
川、運河、堤防、その間に低い畑があり、場所によっては水面の方が人のいる土地より高く見えます。
「ここは、水を外へ出し続けているのか」
「そういう場所が多いよ」
橋を渡るたびに別の水路が見え、畑の横を小さな船が通って、その先の倉庫へつながっています。
ベトナムにも水路は多い。
けれど、水の使い方も、土地の守り方も違います。
チン・カンは窓の外を長く見ていました。
港へ着くと、今度は人と荷物の量が増えます。
どろちゃんには、バタヴィアで見覚えのある旗や商人の服がありました。同じネーデルラントの人々が、こちらでは本国の港を動かしています。チン・カンがこの国を見るのはもちろん初めてで、倉庫の帳簿、船の修理、荷役、保険、借地、市の役所まで順に見せてもらいました。
土地を外国人へ貸すときは期間と地代を決める。
税を取るのは誰か。
治安を守るのは誰か。
その境目を契約へ書く。
チン・カンは、借地と税と治安の仕組みを何度も尋ねました。
「この港に外国人の店があっても、その国の兵はいないのか」
「ここの治安は、ここの役所が守るよ。ベトナム人がここに住んでも、ベトナムの兵を一緒に置く必要はないでしょう」
チン・カンは港を見ました。
外国の商品があります。
外国の船もあります。
言葉の違う人が同じ岸壁を歩いています。
それでも、港そのものを守っているのはネーデルラント側です。
「外国人が多くても、土地まで外国になるわけではないのだな」
「うん。その形にしたい」
チン・カンは、同じことをもう一度別の言い方で確認してから頷きました。
*
ネーデルラントを出た列車は、そのままドイツ連邦共和国を通ってエルレンフェルトへ向かいました。
国境を越えたあとも、窓の外には町や畑が続いています。駅では役人が人と荷物の書類を確認し、列車はまた次の町へ走り出します。チン・カンは、地図の線と実際の駅や道を結び付けるように外を見ていました。
やがてエルレンフェルトへ入りました。
フランスやネーデルラントでは、列車に乗っても町と農地が長く続きましたが、ここでは国境を越えてから中心の町へ着くまでが驚くほど短く感じられます。駅を降り、会議棟まで馬車で移動しているうちに、チン・カンは周囲の町、川、工場の位置までおおよそつかめてしまいました。
「本当に、これくらいの国なのか」
「うん。小さいよ」
その小さな国の会議棟には、アン女王が来ています。サヴォ公ヴィットーリオ・アメデーオも到着しており、トルシー侯も同じ廊下を歩いていました。
会議室へ入ったチン・カンは、そこで一度足を止めました。フランスで見た大きな宮殿とも、ネーデルラントの港の人波とも違う小さな場所へ、それぞれの国を代表する人々が、自分と同じ机を囲むために集まっています。
領土の広さと、会議で使う椅子の高さは別の話でした。
*
チン・カンにはスイートが用意されました。
長い移動のあとに食事を取り、翌朝、会議棟の廊下を歩きます。
壁には、これまでここで行われた会議の写真が並んでいました。
停戦。
国境。
船。
神様から届いた文書。
過去の会議に出た人々。
どろちゃんは写真を一枚ずつ説明しました。
「ここ、うちの国すごく小さいんだよ」
「それはもう分かった」
「でも、アン女王もここまで来てるでしょう」
アン女王が少し笑いました。
「必要な話があるなら参ります」
チン・カンは、その返事を覚えました。
*
最後に交易条約を読み合わせます。
土地は5年ごとの賃貸とし、主権はベトナム側に残す。治安は滞在先の政府が担当し、外国軍や外国警察の常駐拠点は置かない。ベトナム人が4か国へ行ったときも同じ原則を使い、交易条件を土地取得の根拠にはしない。
署名欄まで読み終えると、どろちゃんは別の紙を出しました。
「これ、20日待つよ」
「署名しても、すぐ始まらないのか」
「うん。20日間は、どっちも理由なしでやめていいの」
その場の雰囲気で署名して、帰ってから翻訳の違いや不都合に気づくこともあります。
国内の役人へ見せる。
反対意見を聞く。
数字を確認する。
その時間を最初から条約の中へ入れました。
「あなた方も撤回できるのか」
「もちろん」
チン・カンはしばらく紙を見たあと、署名しました。
*
エルレンフェルトを出る朝、ムリヤちゃんの貨物室は往路より狭くなっていました。
北側の一行と随員に加えて、帰国後の実務に必要な人たちが乗り、書類箱、港や倉庫で見せてもらった帳簿の見本、農具、測定器、印刷物まで増えています。往路でホータンへ降ろした米や果物の場所は空いているので、帰りにはそこへ何を積むことになるのか、どろちゃんにもまだ分かりません。
*
ホータンへ降りると、前より人が多くいました。
往路から来ている商人たちは、六発の音が近づいても慌てません。滑走路の外で待ち、機体が止まる位置まで目で追っています。一方、今回初めて来た人は馬の手綱を短く持ち、地域の支配者側から来た人々も、機体が止まってからしばらく翼とエンジンを見上げていました。
往路で降ろした米と果物は、すでに町の中で話題になっていました。商人たちは今度、乾燥果物や葡萄、織物を持ってくるだけでなく、次の便で欲しい米の量や果物の種類まで紙へ書いています。前回はその場で交換する商売でしたが、帰りには次の取引を決める話へ進んでいました。
どろちゃんが紙を見せてもらう横では、ベトナムへ持っていく乾燥果物や織物が秤にかけられ、往路で空いた貨物室へ少しずつ積み込まれていきます。
*
少し離れたところでは、トルシー侯が地域の支配者と地図を広げています。
相手の表情には、はっきり警戒が残っていました。
巨大な飛行機で来る外国人。
ヨーロッパの王たちと直接話す外交官。
遠い南から米まで運ぶ人々。
何を求めているか分からないうちは、期待だけで近づけません。
「まず、あなた方自身のことを教えてください」
トルシー侯が聞きます。
この土地を誰が治めているのか。
どこまでがその支配者の範囲なのか。
隣には誰がいるのか。
商人はどの道を通るのか。
税は誰が取るのか。
戦争になったとき、誰が兵を出すのか。
書記は質問を聞くたびに隣の者と相談しました。
境界を紙へ書けば、隣との争いも紙に残ります。外国と条約を結べば、清との関係にも影響します。
一方で、自分たちの交易路を外の国へ認めてもらえるかもしれない。
自分たちの名前で外国と話せるかもしれない。
不安と期待が、同じ机の上にありました。
チン・カンは少し離れたところから、その会話を聞いています。
数日前まで、自分がヨーロッパで同じような質問を受ける側でした。
今度は、ホータンの支配者が、自分たちを誰として外へ示すのかを考えています。
最初の会談で出来上がった紙は簡単なものでした。
名前。
地域。
隣の集団。
交易路。
「次に来たとき、続きができますね」
トルシー侯が言いました。
「また来るの?」
「お嬢様が飛ばしてくだされば」
「じゃあムリヤちゃんに聞いて」
『来るよ』
「来るって」
トルシー侯は、もう驚きませんでした。
*
ベトナムへ戻ると、出発したときと同じ滑走路が残っていました。
地上には摂政を務めていた後継者が待っています。
チン・カンは自分の足で機体を降りました。
期限よりずっと早い帰国です。
後継者と向き合って最初の挨拶を終えたあと、チン・カンは何度も振り返りました。
フランス王との会話。
初めて乗った列車。
水の中に土地を作っているようなネーデルラント。
地図では驚くほど小さいエルレンフェルト。
そこへ自分と同じ机を囲むために来たアン女王とサヴォ公。
全部、自分で見てきました。
20日の猶予期間はまだ残っています。
「今日決めなくていいよ」
どろちゃんは、出発前と同じことをもう一度言いました。
「帰ってから考えるための20日だから」
今度は紙を空から撒かなくても、返事を持ってくる人がいます。
◇◇◇◇◇
チン・カンのこの旅行は、ベトナムからホータンを経由してフランスまでムリヤちゃんで飛び、フランスからネーデルラント連邦共和国、ドイツ連邦共和国、エルレンフェルトまでは鉄道で移動しています。帰路は再びムリヤちゃんでホータンを経由してベトナムへ戻ります。
チン・カン自身はバタヴィアへ行っていません。ネーデルラントの港でバタヴィアを思い出しているのは、先に現地を見ているどろちゃんの側です。初めて飛行機と鉄道を経験するチン・カンには、空から見る土地と、地上を連続して走る鉄道の両方を体験してもらいました。




