114貴族令嬢は、二十隻の船が消えるところを見ます。 どろちゃんの作戦勝ちですが英国貴族だけのことはあります。
第114章 貴族令嬢は、二十隻の船が消えるところを見ます
朝になると、どろちゃんは島の大きさをようやく実感しました。
昨日は海から桟橋へ入ったので、英国東インド会社の建物と湾の周囲しか見ていません。
プロ・コンドールは、岩が海から少し出ただけの小島ではありませんでした。
本島だけで50km²あまり。
端から端まで15kmほどあります。
周囲には小さな島がいくつもあり、海から見るとまとまった群島です。
島の中央から背後には、森に覆われた山が続いていました。花崗岩の山地が海の近くまで迫り、その間に平らな土地と湾があります。大きな川はありませんが、山から流れてくる小さな水を使えます。
大陸は近いようで遠いです。
メコン川の大きな河口の一つまでは約80km。
もっと北東のブンタウ方面なら約180kmあります。
海岸に立っても、大陸は水平線の向こうです。
泳いで帰れる距離でも、小舟で気軽に往復できる距離でもありません。
だから契約を終えた人に「帰ってよい」と言うだけでは足りません。
船が要ります。
どろちゃんは、昨日の話が少し違って見えてきました。
*
1月の島は乾季です。
朝から暖かく、気温は25℃前後。
昼にはもう少し上がります。
雨の多い季節より空は明るいのですが、海の島なので空気には湿り気があります。北東からの風が強く吹く時間もあり、湾の外では白い波が立っていました。
どろちゃんたちは英国側の宿舎を借りました。
ルーク提督には会社側の客室。
どろちゃんにも一室。
護衛さんはすぐ近く。
食事は英国側の台所で作ってもらい、島で手に入る魚や豚肉、果物に、貯蔵してある米やパンを合わせます。
朝食のあと、どろちゃんは建物の外へ出ました。
森の方から、樹脂を煮るような匂いがします。
島の人たちは、木から採った樹液を煮て船に使うタールやピッチを作り、大陸側へ運んでいました。海では魚を捕り、亀を捕って油を取る人もいます。豚を飼い、果物を持って英国側へ売りに来る人もいました。
この島は、英国人が来る前から人が暮らし、海と森から物を取って大陸側と行き来してきた場所です。
英国東インド会社の拠点が加わってからは、中国方面へ向かう船が寄り、命令や商業情報を受け取り、補給をして次の港へ出ていきます。
どろちゃんは港の方を見ました。
小さな桟橋。
沖に停める船。
倉庫。
宿舎。
守備兵の場所。
数日暮らしてみると、地図の点よりずっと具体的な場所になります。
*
マカッサル人の中で最も身分の高い人が来ました。
その人と、実際に守備兵をまとめている人は別でした。
ルーク提督は両方に同席してもらいます。
英国側からは島の責任者と、契約や給与の帳簿を扱っている者が入りました。
どろちゃんがマカッサルの言葉で挨拶すると、向こうの表情が変わりました。
まず契約の内容を確かめます。
契約は何年だったのか。
終わったあと、どうなる約束だったのか。
返ってきた答えは、英国側の契約書と同じでした。
3年。
その後は、契約を延長するか、帰るかを本人が選ぶ。
ところが3年を過ぎても、帰る船が用意されていません。
延長したい者もいます。
帰りたい者もいます。
そして、契約を終えたあと、自分で島を出た者もいました。
「その人たちは、どうしたの?」
どろちゃんが聞くと、マカッサル側の人たちは顔を見合わせました。
大陸側へ渡った。
戻ってこなかった。
だから、そのまま船を見つけて帰ったのだと思っていた。
どろちゃんが英国側の帳簿を見ると、何人かの名前には帰国手配の記録がなく、島からいなくなった者としてだけ残っていました。
「帰ってないかもしれない」
どろちゃんがそう言うと、部屋が静かになりました。
この海域で、英国の基地から出てきた外国人が、大陸側へ渡っただけでスラウェシまで送り届けてもらえるとは考えにくい。
しかも、いま大陸側では英仏勢力を海へ押し出す動きが続いています。
確認することにしました。
*
どろちゃんとルーク提督、それに護衛は、もう一度ミズスマシちゃんへ乗りました。
桟橋を離れ、海面を走って離水します。
高度を取ります。
地上ではバタヴィアとの短波がかなり苦しかったので、少しでも条件をよくするためです。
周波数を合わせ、ムリヤちゃんを呼びました。
何度か呼んだあと、弱い返事が来ました。
「ムリヤちゃん、聞こえる?」
『聞こえるよ。少し弱い』
「島から大陸へ渡ったマカッサル人がいるの。名前を送るから、そっちにいるフランスの人たちへ聞いてみて」
名前を一人ずつ送ります。
返事を待つあいだ、ミズスマシちゃんは島の沖をゆっくり回りました。
やがてムリヤちゃんから戻ってきました。
『分かったって。帰ってないよ。名前が分かった人たちは、大陸側で捕まってるって』
どろちゃんは隣のルーク提督を見ました。
提督はしばらく何も言いませんでした。
それから、ロンドンへ報告を送ります。
ムリヤちゃんがバタヴィア側の長距離通信へ載せ、ヨーロッパへ回します。
契約は3年で満了すること。
帰国希望者が残されていること。
自力で島を出た者は帰国しておらず、大陸側で拘束されていること。
現在のところ反乱は起きていないこと。
現地で契約と移送を整理すること。
ルーク提督自身の報告です。
この通信が成立したことで、もう一つ分かりました。
必要なら毎日、決めた時刻にミズスマシちゃんで高度を取ればいい。
ロンドンへ報告を送りながら島の仕事を続けられます。
その日から、島での生活には一つ日課が増えました。
朝は契約と荷物の整理。
昼は島側の人たちとの話し合い。
通信の時刻が近づくと、天気と海面を見てミズスマシちゃんを出します。
短波が通るだけの高度まで上がり、バタヴィアへ報告を送ってから戻る。
海面へ降りると、桟橋では英国側の人たちが次の書類を待っています。
数日続けるうちに、島の人たちも小さな水上機が毎日同じころ空へ上がることに慣れてきました。
どろちゃん自身も、湾の風の癖が少し分かってきます。
朝は比較的静かでも、北東からの風が強まると湾口の外側から波が入る。ミズスマシちゃんを出すなら、海面の様子を見て時間を少しずらした方がよい日もあります。
*
島へ戻ると、話は早く進みました。
契約を延長する者には、新しい期間と給与を確認して書面を作ります。
辞める者には、これまでの給与と未精算分を確認します。
「帰る」先は、一人ずつ違いました。
長く故郷を離れている者の中には、自分が島を出たころの南スラウェシの政治が、そのまま続いていると思っている人もいます。
実際には支配者も勢力関係も変わっています。
話を聞いてから、同じ土地へ戻りたいと言う者。
バタヴィアまで行って、その先を考えたいと言う者。
知人や親族がいる別の土地へ行きたいと言う者。
ルーク提督は、まず英国側の責任で安全なところまで運び、そこから本人の希望で行き先を決めることにしました。
大陸側で拘束されている者については別件です。
名前と契約満了日をまとめ、釈放と移動の交渉に使える書面を作りました。
最初はもっと揉めると思っていました。
けれど、問題の中心は単純でした。
3年働いた。
契約は終わった。
帰りたい人を帰す手段がなかった。
そこを実際に動かし始めると、空気は変わりました。
その晩、どろちゃんは宿舎の外で夕食を食べました。
昼の暑さが少し引き、海から風が来ています。
魚を焼いたものと米。
島で買った果物。
英国側の保存食も少し。
ルーク提督は食後も書類を読んでいます。
護衛さんは翌日の荷運びの順番を確認しています。
遠くでは、島の人の小舟が湾へ戻ってきました。
何日も滞在すると、ここが「事件の現場」だけではなくなります。
朝になれば仕事をする人が起き、舟が出て、食事を作り、子どもも歩いている島です。
その暮らしの横で、英国側だけが荷物をまとめて撤収していきます。
*
島へ大型船を寄せることになりました。
小型艇用の桟橋には大型船を寄せられないので、湾内のできるだけ近い安全な場所へ投錨し、島のボートで人と荷物を運びます。
やって来た英国船は、ずいぶん古い船でした。
辺境で長く使われてきたらしく、船体の補修跡も多い。
補修跡だらけの船体には、元戦列艦の砲門が残っています。
足は遅くても、至近距離で砲戦を挑めば相手にも大きな損害が出ます。
撤収には何日かかかりました。
最初に重要書類をまとめます。
契約書。
給与の帳簿。
本国や会社との往復書簡。
地図。
航海記録。
現金と価値の高い物。
武器と弾薬も数量を確認しながら船へ運びました。
そのあと各人の荷物や、持ち出す価値のある道具を運びます。
建物は扉と窓を閉め、残置物を記録して、そのまま使える状態で残します。
ここを今後どうするかは、状況が変わってから決めればいい。
島には、もともとの島民が暮らし続けます。
どろちゃんは作業の合間に島民のところへ挨拶へ行きました。
英国側の建物から少し離れると、雰囲気が変わります。
木陰には小さな家があり、浜には舟が上げられています。
魚を干しているところ。
豚を飼っているところ。
木から集めた樹液を木の容器へためているところ。
煮詰めたピッチは船底や木部の補修に使えるので、島の外へ持ち出す商品になります。
どろちゃんは作業を見せてもらい、果物も買いました。
自分たちで食べる分。
船へ持っていく分。
ミズスマシちゃんへ載せられる分。
英国側から持ち込んだ銀貨だけでなく、島の人が欲しがる物との交換もあります。
荷物を運ぶボートの横で果物の籠まで増えていくので、英国側の人が少し笑っていました。
数日いただけですが、どろちゃんは島の人の顔を何人か覚えました。
撤収するのは英国側の拠点です。
この人たちの暮らしは、そのあとも続きます。
*
建物を閉める前、どろちゃんは一か所だけ余計なことをしました。
エルレンフェルトから持ってきた、普通のオオホウセンカです。
お姉様のところのものより、ずっと穏当な方ですが、熟した果実が弾けて種が当たればちゃんと痛い。
誰かがあとで建物へ入ったとき、一度だけ驚くようにしておきました。
「何をしておられるのです」
ルーク提督に見つかりました。
「ブービートラップです。やってみたかったんです。ベトナムですし」
提督はしばらくどろちゃんを見ました。
それ以上は何も言いませんでした。
*
もう一つ、どろちゃんが何となく期待していたものも現れました。
浜辺から少し離れたところに、見覚えのないドラム缶があります。
側面には大きく、
C₂H₅OH
と書いてありました。
「あった」
頭の中で技師さんたちが喜んでいます。
『日本の水上機には、浜辺とドラム缶がよく似合うんですよ』
「それでお願いしたの?」
『ええ。せっかくですから』
給油自体は必要です。
持参した手回しポンプがあります。
何百Lも手で送り続ければ、かなりの重労働です。
護衛さんたちに手伝ってもらい、ドラム缶を少し高いところまで転がして、倒れない場所へ立てました。
ホースを下のミズスマシちゃんまで引きます。
最初だけ護衛さんに手回しポンプを動かしてもらいました。
流れ始めれば、あとは落差が仕事をします。
「もう回さなくていいよ」
護衛さんが手を離しました。
どろちゃんは燃料の量を見ながら、浜辺のミズスマシちゃんと高いところに置かれたドラム缶を見ました。
技師さんたちは満足そうでした。
*
ルーク提督は当初、大型船で帰りながら撤収書類を処理するつもりでした。
契約問題が整理され、定期通信も使えるようになると、現地からロンドンへ報告しながら最後の撤収まで確認できます。
「それなら、最後まで見ていきましょう」
提督がそう決めました。
どろちゃんたち3人も島へ残ります。
毎日必要な報告をまとめ、決めた時間になるとミズスマシちゃんで少し上がる。
ムリヤちゃんとの短波通信を成立させ、バタヴィアとロンドンへ送ります。
そしてまた島へ戻る。
大型船と島の間では、ボートが何度も往復しました。
数日後。
最後の人員が船へ移ります。
書類も武器も弾薬も載りました。
英国側責任者は建物の扉を閉めます。
島民には挨拶をしました。
マカッサル人も乗っています。
英国人も乗っています。
船は錨を上げました。
どろちゃんたちも、少し先にミズスマシちゃんで桟橋を離れています。
海面を走り、離水しました。
高度を取り始めます。
その下で、古い英国船が湾口へ向かっていました。
*
最初に気づいたのは、ルーク提督でした。
「船が多い」
湾の外に、何隻もの船がいます。
さらに外まで数えると、およそ20隻。
英国船が島を離れる時刻を知っていたような位置でした。
清側の船です。
何隻かは船型が少し違います。
フランスから奪った船が混じっている可能性もありました。
20隻は古い英国船を囲むように動き始めました。
動きは拿捕を狙う包囲でした。
船を止め、近づき、そのまま奪うつもりに見えます。
英国船は古いとはいえ、もとは戦列艦です。
砲を撃ち合えば、囲む側にもかなりの損害が出ます。
だから数で動きを止め、船そのものを取る。
そういう動きでした。
どろちゃんはメガホンを思い出しました。
今回、フランス船へ上空から知らせるために持ってきたものです。
飛行中はカバーを掛けていました。
「これ使う」
カバーを外します。
ミズスマシちゃんを船団の上へ回しました。
最初は、この海域で通じやすい当時のベトナム語で警告します。
英国船への攻撃をやめること。
船から離れること。
この船は英国女王の命令で撤収中であること。
次は、漢民族側の言葉。
同じ内容を伝えます。
最後は満洲民族の言葉です。
そして付け加えました。
英国女王アン陛下の特命全権、サー・ジョージ・ルーク提督がこの飛行機に乗っている。
あなたたちの行動を上空から見ている。
警告は届いたはずです。
警告のあとも船団は接近を続けました。
やがて、何隻かから銃声がしました。
上空のミズスマシちゃんへ向けたマスケット銃です。
弾はミズスマシちゃんの高度まで届かず、白い煙だけが甲板の上へ残りました。
その直後です。
一隻目が消えました。
一瞬前まで帆船が占めていた空間が、そのまま海と空へ変わりました。
帆も船体も、甲板にいた人間も消えています。
どろちゃんは初めて見ます。
ルーク提督も初めてです。
船がなくなった場所には、ほんの一瞬だけ、船体が押しのけていた形が残りました。
周囲の海水がそこへ戻ります。
細長い空間が崩れるように埋まり、そのあと丸い波が外へ広がりました。
次の船も消えます。
また海水が戻ります。
その次も。
一隻ずつ。
順番に。
20隻ほどいた船が全部なくなるまで、それが続きました。
最後に残ったのは、湾から出てくる英国船と、海面へ広がる20組の丸い水紋でした。
どろちゃんはしばらく下を見ていました。
神様が船をどこかへ送るという話は知っています。
実際に消えるところを見たのは、これが初めてです。
「ルークさん」
提督もまだ海を見ています。
「イギリスって、清と宣戦布告した?」
「しておりません」
「清から宣戦布告された?」
「それもありません」
「だよね」
どろちゃんはもう一度、水紋を見ました。
人間の法律で何と呼ぶのかは、神様には関係ありません。
戦争をしていない相手の船を取り囲み、奪おうとした。
分かる言葉で何度も停止を警告されたあとも包囲を続け、最後には警告している飛行機へ発砲した。
「ちゃんと、やめてって言ったよ」
「ええ。私も聞いておりました」
水紋は少しずつ小さくなっていきました。
*
そのころ、ヴェルサイユでも別のことが起きていました。
庭園へ、船が戻ってきました。
アジアで失ったはずのフランス船です。
現在掲げていた旗が何であっても、神様は船がもともとどこから奪われたものかを見ています。
以前から何度か起きていたのと同じ返却でした。
船には武器も積荷も航海日誌も、その時点の状態のまま残っています。
乗員は、神様が一人ずつ扱いを分けています。
拿捕されたあと、逃げられずに操船させられていたフランス人は、そのままフランスへ帰れます。
今回の襲撃側として乗っていた者には、神様の年齢加算が行われます。
年を取った状態で残る者もいる。
本来の寿命を越えるほど加えられ、姿そのものがなくなる者もいる。
軍人として命令を受け、警告後も拿捕と攻撃を続けた者については、ヴェルサイユ側が人数を数えるより先に、神様の判定が終わっていました。
この時点で、南の海にいるどろちゃんとルーク提督には、ヴェルサイユの出来事はまだ届いていません。
見えているのは、静かになった海と、古い英国船だけです。
ミズスマシちゃんはその上を一度回りました。
それから、バタヴィアへ向けて機首を向けました。




