113貴族令嬢は、ムリヤちゃんでバタヴィアへ行きます。 バタヴィアは今のインドネシア ジャカルタ市です。
第113章 貴族令嬢は、ムリヤちゃんでバタヴィアへ行きます
祝賀会の翌日も、ロンドンでは地図の話が続きました。
前夜に見ていたのは、清、ジュンガル、チベット、その西にある町や国をどうやって同じ席へ呼ぶかという話です。ところが、その日の昼前、宮殿へ別の報告が入りました。
もっと南の海です。
フランスがベトナム方面へ出していた部隊が、清側の介入を受けて後退を続けています。港も陸上の拠点も失い、残った船は南へ逃げている。ネーデルラント側がバタヴィアで受け入れているものの、ヨーロッパへ届く情報は古く、どこに何人残っているのかもはっきりしません。
アン女王は地図の端へ指を置きました。
「遠いですね」
「遠いです。だから、向こうで何が起きているのか分からないまま、こちらから行けと言い続けるのが一番怖いです」
どろちゃんは答えました。
戦争そのものより、情報が届かないことが怖い。
現地では兵が減り、船が壊れ、食料がなくなっているのに、本国では何か月も前の報告を見て、まだ戦えると思っている。人口の多い土地へ遠くから兵を送り続ければ、勝っても負けても人と金が減っていきます。
しかも、その海には英国側の問題もありました。
プロ・コンドール。
ベトナム沿岸から離れた島に、英国東インド会社の拠点があります。そこではマカッサル人の守備兵を雇っていますが、契約をめぐって揉めているという古い報告が残っていました。
アン女王は、英国側から一人を呼びました。
サー・ジョージ・ルーク提督です。
どろちゃんは名前を聞いたとき、少しだけ目を大きくしました。
どろちゃんも、海軍の話の中で何度も見た名前です。
「陛下、ずいぶん大きな人を出しますね」
「遠いところだからです。現地で決められる人を送ります。ロンドンと何度も往復していたら、それだけで半年単位になりますから」
ルーク提督には、島の英国人、契約、船、人員の移動まで現地で決められる権限が与えられました。
どろちゃんはムリヤちゃんでバタヴィアまで行きます。
そこから先は、状況を見て決めます。
*
ロンドンからいったんエルレンフェルトへ戻ると、滑走路ではもう積み込みが始まっていました。
今回の荷物は多いです。
零式三座水上偵察機。
翼を折りたたみ、燃料を完全に抜いた状態で台車へ載せています。ムリヤちゃんの機首から出し入れするためのレールと斜路も積みます。
20Lのアルコール系航空燃料缶も、満充填のものを多数積みます。
零式三座は燃料0のままムリヤちゃんへ載せます。20Lの燃料缶は別荷物として固定し、バタヴィア到着後に使う予備として持っていきます。
客席も増やしました。
チェブラーシカちゃんで使っている旅客用座席を何組か借り、パレットへ固定しています。ムリヤちゃんの貨物室床へそのまま緊締して、十人を超えるフランス側の一行が長時間座っていられるようにしました。
貨物室の側面には、小さな丸窓が左右に2個ずつあります。翼やエンジンの様子を目で確かめるための窓なので、客席の窓のように景色を眺める大きさではありません。大きな照明を点ければ室内は明るく、空調も効きますが、座席の周囲には壁と貨物、それに床へ固定されたレールや緊締具が並んでいます。
二階側の客室はそのまま使います。ルーク提督と、パリから乗るトルシー侯、それにフランス側の上級者の何人かはこちらへ案内する予定です。給仕さんも2人乗ってもらうことにしました。二階の客室だけでなく、貨物室のパレット席へも食事と飲み物を運んでもらいます。
冷蔵庫には長い飛行に必要な食料を入れました。
それから、ライデン大学で作った大きなメガホン。
ベトナム沿岸では、無線設備のないフランス船へ上空から知らせる必要もあります。そのために持っていきます。飛行中は空気抵抗になるので、外へ出る部分にはカバーを掛けました。
警備側はオイゲンさんと部下2人。
その部下2人は、ムリヤちゃんの航空機関士として養成している人でもあります。今回は長距離飛行なので、操縦席の後ろにある2つの航空機関士席へ入り、実際の飛行を見ながら系統を覚えてもらいます。到着後はそのまま護衛に戻れます。
フランソワさんも一緒です。
SVDKを2丁、TSV-1を2丁。必要なときだけ使えるようにケースへ入れてあります。
どろちゃんは積み込みを見てから、フランソワさんへ言いました。
「向こうでわたしが小さい飛行機に乗って出るときは、ムリヤちゃんのところに残ってね。もしフランソワさんに襲いかかってくる人がいたら、熊だと思って撃って。ためらって先に撃たれないでね」
フランソワさんは少し困った顔をしましたが、どろちゃんが冗談で言っていないことは分かっています。
相手が持つ大口径の銃は、一発でも当たれば危険です。こちらの銃の利点は、遠くから正確に当てられることにあります。
「承知いたしました。お嬢様も、無理に近づかないでくださいませ」
「うん。わたしもそうする」
ロンドンから来たルーク提督も荷物と座席の配置を見ています。巨大な貨物室の中に水上機があり、その横に人間用の座席が並んでいる光景を見て、何度か天井を見上げていました。
ムリヤちゃんの積み込みが終わりました。
*
パリでは、トルシー侯が待っていました。
事前に電信を入れてあったので、フランス側も人を選んでいます。
トルシー侯。
陸軍の上級者。
海軍の上級者。
兵站を扱う者。
医師。
フランス東インド会社の者。
交易と会計を担当する者。
書記と通訳。
現地で数字を見て、その場で判断できる人をまとめたので、十人を超えました。
そしてパンも来ました。
かなり多いです。
「こんなに?」
「長い旅だと伺いましたので」
どろちゃんは木箱を見ました。
「うれしいです」
乗客を二手に分けます。
ルーク提督、トルシー侯、陸海軍の上級者は二階側の客室へ。残りの人たちは貨物室へ入り、チェブラーシカちゃんから借りたパレット座席へ腰を下ろしました。
貨物室へ入った人たちは、しばらく周囲を見回していました。
目の前には、翼を折りたたんだ零式三座水上偵察機があります。
少し離れたところには燃料缶。
床にはレールと固定金具。
壁際には荷物。
壁の途中には、小さな丸窓が見えます。
座席そのものはきちんとした航空機用なので身体を固定できます。それでも、外を見ながら旅をする場所ではなく、大きな貨物と一緒に運ばれる席です。
「あの窓から外は見えるのですか」
フランス側の書記が、上を見ながら聞きました。
「見えるよ。でも小さいから、ずっと景色を見る感じじゃないね。途中でホータンに降りるから、そのとき外へ出られるよ」
答えると、何人かが顔を見合わせました。
長時間、巨大な貨物室の中で飛び続けます。
小さな丸窓へ行けば空や翼の一部は見えますが、座席から眺め続けるような窓ではありません。離陸や旋回では、身体にも機体の動きがはっきり伝わります。
*
どろちゃんは左席へ座りました。
右席はフランソワさん。
その後ろでは、オイゲンさんの部下2人が水色の航空機関士パネルの前へ座っています。これまで地上で何度も説明を受けていますが、飛行中に燃料の移り方や6発のエンジンの状態を追うのは今回が初めてです。
「今日は長いから、分からないところがあったらそのままにしないで聞いてね。ムリヤちゃんも見てくれてるから」
「承知しました」
2人は少し緊張しています。
どろちゃんには、ムリヤちゃんの方が楽しそうなのが分かりました。
『ちゃんと教えるよ』
「お願いね」
フランソワさんには声が聞こえないので、どろちゃんが笑った理由だけ分かりません。
出発準備を進めます。
6発のエンジンが順番に回り始めると、機体の奥から低い振動が伝わってきました。小さな飛行機なら一つのエンジン音が前から来ますが、ムリヤちゃんでは左右へ長く伸びた翼の下から何重にも音が重なります。
航空機関士席では、2人が計器を追っています。
ムリヤちゃんが自分で調整しているところも、表示としては全部出ます。
『右の内側、少し見てて』
「右の内側のエンジン、しばらく値を見ていて。異常じゃないよ」
どろちゃんが伝えると、一人がその計器へ目を移しました。
滑走路へ入ります。
どろちゃんは6本のスロットルを前へ進めました。
機体が動き始めます。
ムリヤちゃんは巨大ですが、今日の貨物は能力から見れば軽い方です。それでも加速の感触はタドポール君ともチェブラーシカちゃんとも違いました。長い胴体と大きな翼を引っ張って、地面そのものを後ろへ押していくように速度が増えていきます。
前輪を滑走路の中心へ置き続けます。
フランソワさんが速度と周囲を見ています。
後ろでは航空機関士2人が6発分の数字を追っています。
やがて操縦桿を引くと、機首がゆっくり上がりました。
少し遅れて主脚が地面を離れます。
『飛んだよ』
「うん。飛んだ」
大きな機体がパリの上空へ上がりました。
*
巡航に入ると、操縦席は少し静かになりました。
進路と高度を確認し、燃料の使い方を見ます。
ムリヤちゃん自身が各系統を管理してくれるので、どろちゃんは何時間も6発の状態を一人で監視し続ける必要はありません。それでも、数字を見なくてよいわけではありません。航空機関士の2人にも、今どのタンクから使い、左右の重量がどう変わっているかを追ってもらいます。
ひと区切りついたところで、どろちゃんは席をフランソワさんとムリヤちゃんに任せ、後ろを見に行きました。
二階側の客室では、ルーク提督とトルシー侯が地図を広げています。
給仕さんの一人が紅茶を置き、もう一人は下へ降りる食事を準備していました。
「下も見てくる」
貨物室へ降りると、雰囲気がまるで違います。
明るい照明は点いています。
温度も普通です。
小さな丸窓から外光は入りますが、貨物室の大半は照明の明るさで過ごします。窓のそばまで行けば翼や空をのぞけるものの、座席に戻ると、外で何千kmも景色が流れている感じは薄くなります。
フランスから来た人たちは、パレット座席で書類を読んだり、話をしたり、眠ったりしています。
給仕さんがパンを配っていました。
パリで積んだパンに、肉やチーズを合わせます。温かい紅茶もあります。膝の上へ載せられる小さなトレーを使うので、貨物室でも食事はできます。
「飛行機の中というより、倉庫で食事をしている気分ですな」
会計を担当する人が天井を見ながら言いました。
「倉庫ごと飛んでるようなものだからね」
どろちゃんが答えると、周囲で少し笑いが起きました。
そのあと操縦席へ戻ります。
前に座れば、今度は外がよく見えます。
何時間も続いた地上の色が、少しずつ変わっていきました。
*
ホータンへ近づくころ、景色はほとんど土と砂の色になっていました。
冬の乾いた大地です。
北側には砂の世界が広がり、南には雪を被った高い山並みが長く続いています。
その間にだけ、人の暮らす色がありました。
川から分かれた水路。
畑。
木の列。
土色の集落。
上空から見ると、オアシスは砂漠の中へ置かれた島のようです。畑の緑は冬なので濃くありませんが、水のある場所とない場所の境は空からでも分かりました。
「見えた。あそこだね」
『うん。滑走路も出てるよ』
ムリヤちゃんの航空地図には、見慣れない長い線があります。
ホータン。
5000m。
現在の気温は低く、空気も乾いています。それでも標高のある土地なので、神様はムリヤちゃんが季節を問わず使えるだけの長さを用意したようでした。
どろちゃんは降下を始めます。
航空機関士席では2人が着陸前の系統を追っています。
脚を下ろすと、機体の下で大きな装置が動く振動が伝わりました。
フランソワさんが滑走路を確認します。
「ずいぶん長く見えますね」
「5000mあるから。今日は余るよ」
乾いた平地へ、一本だけ不自然なくらい真っ直ぐな滑走路が伸びています。
どろちゃんは機首を合わせました。
接地。
何組もの主脚が順に滑走路へ乗り、逆噴射の音が砂漠へ広がります。
十分に速度を落としても、まだ滑走路が先まで続いていました。
*
機体を止めて扉を開けると、冷たく乾いた空気が入ってきました。
パリより日差しは強く感じるのに、風は冷たい。
貨物室で何時間も外を見られなかった人たちは、地面へ降りるとしばらく周囲を見ています。
巨大な青い空。
茶色い平地。
遠くの白い山。
その反対側には、砂の色が霞の中まで続いています。
二階から降りてきたルーク提督とトルシー侯も、飛行機の影から山の方を見ました。
「パリから、もうここですか」
トルシー侯が地図を見ます。
「まだ半分くらいだよ」
どろちゃんが言うと、今度はそちらを見ました。
給油作業を始めます。
神様の燃料設備は滑走路の脇にそろっていました。
その間に給仕さん2人が食べ物と飲み物を出します。機内で食べ続けるより、地面へ降りて身体を動かした方が楽です。
人が集まり始めたのは、その少しあとでした。
最初は数人。
やがて馬や荷を運ぶ動物を連れた人も来ます。
巨大な飛行機を遠巻きに眺めるだけの人もいれば、降りてきた人間の服や荷物を先に見る人もいました。商人らしい人は特に目が速く、何を売れそうか考えているのが分かります。
どろちゃんは町まで出かけず、滑走路へ来た人から果物を買いました。
干した葡萄やほかの乾燥果物。
保存してあった果物。
そして西瓜もありました。
真冬なので畑から採ったばかりではありません。貯蔵していたものを持ってきたようです。
「これ、切ってもらおう」
給仕さんが西瓜を受け取りました。
冷たい空気の中で食べる西瓜は少し妙ですが、長い飛行の途中では水分の多い果物がうれしい。
フランス側の一行にも切り分けます。
商人たちは、今度は空になっていく皿と、飛行機の中へ運ばれていく果物を見ていました。
出発準備が整うころ、どろちゃんは商人たちへ言いました。
「帰りも寄るよ。たぶん今度は、もっと人がいる」
帰路にもここを使う予定です。
今は十数人程度の客ですが、バタヴィアから誰を連れて戻ることになるのか分かりません。
ムリヤちゃんへ戻る前、どろちゃんはもう一度南の山を見ました。
砂漠の向こうに、白い壁のような山並みが続いています。
今まで地図で何度も見た場所を、今日は自分の目で上から見て、地面にも立ちました。
*
ホータンからの離陸でも、どろちゃんが左席です。
航空機関士の2人は、休憩中に見たことを話しながらも、席へ着くと表情が戻りました。
「今度は離陸時の燃料の動きも見ていてね」
「はい」
6発の推力がそろいます。
5000mの滑走路を使い始めると、長さの余裕がよく分かりました。
ムリヤちゃんは速度を上げます。
どろちゃんは機首をまっすぐ保ち、必要なところでゆっくり引き起こしました。
乾いた大地が下へ離れていきます。
オアシスの水路と畑が小さくなり、その外側の砂色が一気に広がりました。
貨物室の乗客も、小さな丸窓のところへ行けば砂漠や翼の一部をのぞけます。
離陸の振動が消え、座席が水平に戻ると、また貨物と照明に囲まれた長い旅が始まります。
給仕さんは二階と貨物室を往復します。
パン、果物、飲み物。
途中で食事の時間が来れば、冷蔵庫から出したものも配ります。
どろちゃんも巡航中に一度下へ行きました。
さっきまで砂漠にいたはずなのに、貨物室へ降りると景色が全部消えます。
「今はどのあたりですか」
「かなり南へ来てるよ。外はさっきより雲が増えた」
それだけでも、外を広く見渡せない貨物室では大事な情報になるようでした。
操縦席へ戻ると、地表の色は少しずつ変わっていました。
乾いた茶色が減り、山を越え、川の多い土地が増えます。
さらに南へ進むと雲が厚くなり、その下は緑が濃くなっていきました。
ホータンで感じた乾いた冷気とは、まったく別の空気が待っていそうです。
*
次に航空地図へ現れた滑走路は、バタヴィアの郊外でした。
海が見えました。
その向こうに低い陸地が広がっています。
上空から見るバタヴィアは、ホータンとは色の量がまるで違いました。
濃い緑。
水田らしい区画。
蛇行する川。
海へ近づくと、水路を何本も通した町が見えてきます。直線的な街路と運河が区画を作り、その中に屋根が密集していました。城壁や大きな倉庫も見えます。
港の周囲には船が多いです。
沖に停泊している大きな帆船。
岸と船を行き来する小舟。
河口へ出入りする船。
その中に、帆や船体の様子が明らかに悪い船も混じっていました。
「フランスの船、もう見えるね」
どろちゃんは進入方向を取りながら言いました。
雲の下には雨の筋も見えます。
滑走路の一部は濡れていました。
ホータンの乾いた空気から数時間で、今度は海に近い湿った土地です。
『こっちは低いよ。長さも大丈夫』
「見えてる。雨のあとだから、ゆっくり止めよう」
脚を下ろします。
フランソワさんが滑走路と風を確認します。
航空機関士席では、2人が着陸前の系統を見ています。
どろちゃんは大きな機体を滑走路へ合わせました。
緑の地面が近づきます。
接地すると、濡れた舗装の上を何組もの車輪が走りました。
速度を十分落とし、誘導路へ入ります。
ムリヤちゃんを止めてから、どろちゃんはようやく肩を動かしました。
パリからホータン。
ホータンからバタヴィア。
左席に座っていた時間だけでもかなり長いです。
*
扉を開けると、外気の違いがすぐに分かりました。
30℃近い湿った空気です。
さっきまでいたホータンでは、風が冷たくて口の中まで乾きました。ここでは服がすぐに肌へまとわりつきます。
雨上がりの土。
潮。
木を燃やす煙。
港の方から来る魚や船の匂い。
その中に香辛料のような匂いも混じっていました。
貨物室の人たちも降りてきます。
何時間も貨物と照明に囲まれていたので、地面へ降りると周囲の景色が一気に広がります。
「これは……暑い」
フランス側の一人が上着を緩めました。
給仕さんも、ホータンで使った上着を完全に片づけています。
神様の仮設飛行場には長い滑走路と燃料設備があります。航空燃料に加えて、アルコール系の燃料も用意されていました。
ムリヤちゃんの周囲を整えたあと、どろちゃんたちはバタヴィアの町と港の方へ向かいました。
*
町へ近づくと、空から見た運河が今度は目の高さへ来ます。
水路に沿って建物が並び、橋を渡るたびに別の水面が見えました。
倉庫の前には荷物が積まれています。
小舟で荷を動かす人。
荷車を押す人。
VOCの服を着た人。
ヨーロッパから来た人だけでなく、顔立ちも服装も言葉も違う人が入り混じっています。
どろちゃんが旅してきたヨーロッパの港町とも、ホータンの商人たちとも違いました。
水が多い。
人が多い。
荷物が多い。
そして暑い。
運河の水面は空の明るさを返していますが、流れの弱いところでは水の色が重く見えます。雨季の湿気も加わり、町全体が水と一緒に呼吸しているようでした。
港へ出ると、さらに船が増えます。
帆を直している船。
荷を下ろしている船。
長い航海から着いたばかりの船。
その間に、明らかに戦場から逃げてきた船がいました。
帆がそろっていない。
舷側を応急修理している。
甲板に負傷者を運ぶ人がいる。
傾いたまま曳かれてきた船まであります。
その日の午後にも一隻入ってきました。
翌朝にも来ました。
フランス側の代表団は、到着した船を一隻ずつ調べ始めました。
聞き取りは、船ごと、人ごとに分けました。
船長。
航海を担当した者。
陸軍部隊を載せていれば、その指揮官。
兵站担当。
医師。
下士官や水兵にも別に聞きます。
いつ、どこの港を出たのか。
その時点で残っていた兵は何人か。
食料と弾薬はどれくらいあったのか。
病人は。
どこで船が損傷したのか。
後から出た船が、同じ場所をどう見たのか。
大きな地図へ日付を書き込みながら重ねると、最初はばらばらだった報告が一つにつながっていきました。
フランス側が使える陸上拠点は、もう残っていません。
地図の上に引いていた前線が消え、部隊の位置は海側へ縮んでいます。
陸から海へ押し出されている形でした。
フランスから来た人たちは、自分たちで一つずつ確認して、その結論に達しました。
「この数字を、今日パリへ送りたいです」
トルシー侯が言いました。
「それをしようと思って来たんです」
ムリヤちゃんに積んできた長距離用の短波無線機を、バタヴィアの仮設飛行場へ設置しました。
アンテナは広い場所へ張ります。パリへの大圏方向を見て、使う帯域を変えながら受信を探しました。
最初は届きません。
別の周波数。
さらに別の帯域。
日が傾くにつれて条件が変わります。
やがて、弱い返事が来ました。
それからは数字を送ります。
到着した船。
失った港。
確認できた人員。
病人。
損傷。
食料。
そして、陸上拠点が残っていないこと。
パリ側が内容を受け取り、ヴェルサイユへ回します。
返事は一日もかかりませんでした。
ルイ十四世は怒っていました。
届いた命令は、損切りそのものでした。
新規上陸は中止。
残っている人間と船を回収する。
損害を全部数える。
植民地は儲けるために作る。損が膨らむなら、そこで止める。
返ってきた命令を読んだトルシー侯は、しばらく黙っていました。
「陛下らしいお言葉です」
「うん。わたしも、その方がいいと思う」
この日のうちに、フランス側の仕事は攻勢の相談から撤収と回収へ変わりました。
*
英国側にも、行かなければならない島があります。
翌朝も、空気は朝から湿っていました。
夜の雨が滑走路脇の草に残り、ムリヤちゃんの外板にも細かな水滴がついています。
機首が開きました。
零式三座水上偵察機を載せた台車を、レールに沿ってゆっくり外へ出します。折っていた翼を戻し、各部を確認しました。
エルレンフェルトからここまで、燃料は0です。
バタヴィアに現れたアルコール系燃料設備から給油します。
機内へ持ち込む予備は20L缶を2つ、計40Lです。
3人乗るので、これだけを客室へ積みます。
乗るのは、どろちゃん。
護衛1人。
サー・ジョージ・ルーク提督。
フランソワさんはオイゲンさんたちと一緒にムリヤちゃんへ残ります。
どろちゃんが操縦席へ入り、計器を確認しました。
「ミズスマシちゃん」
初めて、その名前で呼びました。
フランソワさんと一緒に考えた名前です。
頭の中へ、すぐに返事が来ます。
『どこに行くの?』
「ベトナムの近くにある島だよ。2000kmもないけどかなり遠いよ。でも行ける」
『こっちね』
風防には、どろちゃんにだけ見える矢印が出ています。
まだ地上にいる間は、2本がほとんど重なっていました。
離水して高度を取り、風の影響が出始めると、少しずつ分かれます。
一方は島の方向。
もう一方は、実際に機首を向ける方向です。
技師さんたちが神様から受け取った、この先の風向と風速まで使って補正されています。
どろちゃんは表示に合わせて機首を置きました。
*
海の上は長かったです。
バタヴィアで積んだビスケットを食べ、保温容器の紅茶を飲みました。
紅茶にはジャムが入っています。
ルーク提督も最初は少し不思議そうに見ましたが、長い飛行の途中では甘いものがありがたいようでした。
何時間も飛べば、食事以外にも休みたくなります。
一度、島影に波の静かな湾を見つけました。
ミズスマシちゃんを着水させ、少し休憩します。
用を済ませ、水を飲み、機体のまわりも見ました。
それからまた海へ出ます。
再び離水すると、風防の2本の矢印が少し開きました。
海面だけを見て飛んでいた時間が長かったので、前方に島影が見えたときは、どろちゃんも少しうれしくなりました。
『あれだよ』
「ほんとだ。ぴったりだね」
長い距離を飛んできたのに、ほとんど狙ったところへ出ています。
まず英国側施設と集落を上空から確認して、いつもの通信筒を出しました。
書面には、これから上陸する3人の氏名と身分、訪問の目的が書いてあります。
英国女王陛下特命全権、サー・ジョージ・ルーク提督。
ウェストミンスター侯爵、ドロテーア・フォン・エルレンフェルト。
護衛1名。
そして、これから水上へ降り、小型艇用の桟橋へ向かうこと。
通信筒を落とします。
拾われたことを確認してから沖へ回りました。
ミズスマシちゃんは静かな水面へ降り、速度を落として小さな桟橋へ近づきます。
島の小舟や連絡艇をつなぐための、低い桟橋です。
護衛が先に降り、ロープを取ります。
機首側と後ろ側を杭へ係留して、潮と風で動かないことを確かめました。
それからルーク提督が桟橋へ上がります。
最後に、小銃を背負ったどろちゃんが降りました。
通信筒で3人の名前と身分を伝えてあるので、待っていた人たちは誰が来るのか知っています。
英国側の責任者が前へ出ました。
ルーク提督は挨拶を受けると、最初に一つだけ頼みました。
島にいるマカッサル人の中で、身分が最も高い人を呼んでほしい。
それから、実際に人をまとめている者が別にいるなら、その人にも来てもらいたい。
どろちゃんは桟橋の向こうを見ました。
ここで何が起きているのか。
まず、本人たちから聞くことにします。




