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12お母様も、空からお見舞いに行きます。

第十二章 お母様も、空からお見舞いに行きます


お母様は子爵夫人です。


夫と子どもたちの暮らしを整え、領地の人々の相談を聞き、遠くの実家をときどき思い出す、ごく普通の奥様です。


ただ一つ普通でなかったのは――


今日、お母様は、娘の飛行機の後ろ向きの席へ座り、百五十キロメートル離れたお父様のお見舞いへ行くことでした。


◇ ◇ ◇


出発の日は、よく晴れていました。


どろちゃんたちは、昼食を終えてから出発することにしました。


早く着くためではありません。


男爵領の東向き斜面が夕刻に日陰となり、斜面を下る風へ変わるころに到着するためです。


空の高いところには薄い雲がありますが、行く手を隠すほどではありません。


風は弱く、子爵家の丘をゆっくり上っています。


どろちゃんは、昼食の前から空を見ました。


昼食のあとにも見ました。


タドポール君を丘へ運んでからも見ました。


「三回見れば、風は変わらないの?」とお母様が尋ねました。


「変わるときは、四回目に変わるよ」


ですから、飛ぶ直前にも見ます。


お母様は、いつもの外出着ではなく、動きやすく、裾の短い服を着ています。


その上から飛行用の上着を着て、髪をまとめ、飛行帽をかぶりました。


鏡を見ると、子爵夫人というより、これから遠足へ行く人のようです。


「少し似合いすぎるわね」と、お父様が言いました。


「褒めているの?」


「心配している」


夫婦の言葉は、ときどき同じ場所から出てきます。


どろちゃんは、お母様を後席へ案内しました。


後ろ向きの座席です。


お母様が座ると、目の前には尾翼と、見送りに来たお父様、執事、使用人たちが見えました。


前方を見るための左右の鏡には、どろちゃんの肩、計器盤の一部、丘の下の草地が映っています。


「前より、後ろの方がよく見えるわ」


「後ろ向きだからね」


「着陸するときも?」


「鏡を見て。横も見えるよ」


お母様は左右の鏡を何度も確かめました。


革帯を腰、両肩、股へ通します。


どろちゃんが一本ずつ締めました。


「少しきついわ」


「抜けない方が大切です」


お姉様も、同じことを言われました。


子爵家の女性が飛行機へ乗るとき、最初に覚える言葉になりつつあります。


座席の横には、小さな魔法瓶が固定されています。


蓋付きの茶碗。


布袋に入ったビスケット。


「出発前に一枚」と、どろちゃんが言いました。


「昼食は食べました」


「緊張すると、昼食を食べたことを身体が忘れることがあるから」


「身体は、そんなに物忘れするの?」


「するよ」


お母様は一枚食べました。


温かいお茶も少し飲みました。


空腹ではありません。


喉も乾いていません。


緊張がなくなったわけではありません。


けれど、ビスケットを噛んでお茶を飲める程度の緊張になりました。


これは、たいへん大切な差です。


どろちゃんは前席へ乗りました。


計器盤の横には、昨日作った経路表があります。


最初の川。


二本塔の町。


長い森。


白い丘。


男爵領。


通信筒も投下容器もありません。


着替えは、もう男爵家へ着いています。


今日、空を運ぶ大切な荷物は、お母様です。


『二人で飛ぶのは初めてだね』


タドポール君が言いました。


「重さはどう?」


『一人より重い。でも、ちゃんと飛べるよ』


「失礼な言い方をしないでね」


『重いのは計算だよ』


タドポール君の声は、お母様には聞こえません。


どろちゃんは、伝える言葉を少し選びました。


「タドポール君は、二人でも大丈夫って」


「そう。それだけ聞けば十分です」


お母様は、たいへん賢明でした。


◇ ◇ ◇


操縦系統を確認します。


左補助翼。


右補助翼。


昇降舵。


方向舵。


ジェット。


燃料。


鏡。


伝声管。


魔法瓶。


ビスケット。


最後の二つは飛行機の操縦装置ではありません。


けれど、今日のお母様には必要です。


車輪止めが外されました。


タドポール君は、ゆっくり斜面を下り始めました。


一人のときより、加速が少し鈍く感じられます。


車輪が露の残る草を分けました。


ごとり。


ごろごろ。


音が次第に速くなります。


ジェットの細い音が高くなり、背中を押す力が増えました。


お母様には、どろちゃんの背中が見えません。


代わりに、子爵家の人々が正面に見えます。


お父様が立っています。


執事が帽子を押さえています。


使用人たちが手を振っています。


屋敷が、ゆっくり後ろへ動き始めました。


後ろ向きに座るお母様には、前へ進んでいるというより、家の方が遠ざかっていくように見えました。


風が頬へ当たります。


飛行帽の布が震えました。


車輪の音が、まだ続いています。


一人で飛ぶときなら、もう少し早く地面を離れていた場所です。


『まだだよ』


「うん」


どろちゃんは操縦桿を急いで引きません。


二人分の重さを支えるには、二人分に近い速さが必要です。


斜面が少し急になりました。


風の音が大きくなります。


操縦桿へ、翼が風を受ける手応えが戻りました。


『もういいよ』


どろちゃんは静かに引きました。


ごろごろという音が消えました。


お母様は、音がなくなったことに気づきました。


鏡の中で、草地が下へ離れています。


正面では、お父様と使用人たちが小さくなっていきます。


「飛んだの?」


伝声管から、お母様の声が聞こえました。


「飛んでるよ」


「思ったより、急に飛ぶのね」


地面を離れる瞬間には、扉も階段もありません。


車輪の音がなくなり、地面が少し下にある。


飛行の始まりは、それだけです。


タドポール君は、丘の先へ出ました。


地面が大きく下がり、川と町が広がりました。


お母様の身体が、革帯の中で少し固くなりました。


「鏡ばかり見ないで、横も見てね」


「横を見ると、地面が遠いわ」


「遠いから飛べるの」


「近い方が安心すると思う」


「着陸するときは近くなるよ」


お母様は、それまで待つことにしました。


◇ ◇ ◇


最初の上昇が終わると、どろちゃんはジェットの出力を下げました。


笛のような音が弱くなります。


やがて止まりました。


残ったのは、翼を流れる風の音だけです。


タドポール君は静かなグライダーになりました。


お母様は、音が減ったので少し不安になりました。


「エンジンが止まったわ」


「止めたの。いまは滑って飛んでいます」


「止めても飛ぶのね」


「もともとグライダーだから」


『静かな方が、お茶を飲みやすいよ』


タドポール君が言いました。


「タドポール君が、お茶の時間だって」


「飛び始めて、まだそんなに経っていないでしょう」


「緊張している人は、時間を長く感じるから」


お母様は、自分が緊張していないとは言いませんでした。


座席の横から魔法瓶を外し、蓋付きの茶碗へ少し注ぎました。


タドポール君は、ほとんど揺れずに滑っています。


それでも茶碗は膝の上へ置きません。


片手で持ち、もう片方は座席横の握りへ置きます。


一口飲みました。


上空のお茶は、地上と同じ味でした。


景色だけが違います。


ビスケットも一枚食べました。


「おいしい?」


どろちゃんが伝声管で尋ねました。


「地上で食べたものと同じです」


「それなら大丈夫」


空の上で普通の味がすることは、たいへん安心できます。


お母様は茶碗を蓋で閉じ、留め金へ戻しました。


離陸、着陸、ジェットの始動中には、お茶を飲みません。


お茶は気持ちを落ち着けます。


けれど、熱いお茶を操縦席へ飛ばせば、別の種類の緊張が始まります。


◇ ◇ ◇


最初の川が見えました。


二つの流れが、細長いY字形に合わさっています。


どろちゃんは時刻を確認しました。


予定より一分早い。


風は昨日より弱く、横へ流される量も小さくなっています。


「最初の目印を通ります」


「下にある町は?」


「地図では、川の西側の小さな町」


お母様は横を見ました。


屋根、畑、橋、水車。


昔、実家と子爵領を行き来したとき、この橋を馬車で渡ったことがあります。


馬車では、橋の手前で順番を待ちました。


対向する荷車を通し、馬へ水を飲ませ、料金を払いました。


空では、橋の順番を待ちません。


ただし、橋を見つけたことで、自分が正しい道を進んでいると分かります。


空の旅でも、橋は役に立ちました。


次に、二本塔の町が見えてきました。


今日は町の南側を通ります。


お母様は、遠くに並ぶ二本の塔を鏡で見つけました。


近づくと、一度重なって一本に見えます。


さらに進むと、また二本へ分かれました。


「塔が増えたり減ったりするわ」


「見る角度が変わるからね」


「地上では、そんなことを気にしなかったわ」


地上では、道が町へ連れていってくれます。


空では、自分で町を見つけなければなりません。


お母様は、地図と景色を見比べ始めました。


最初は、どろちゃんに運ばれている人でした。


二本塔の町を過ぎるころには、自分も道を探す人になっていました。


長い森の手前で、どろちゃんはジェットを再始動しました。


細い音が戻り、機体がゆっくり上昇します。


「また音がしたわ」


「森の上へ入る前に、高さを取ります」


「森へ降りられないから?」


「うん」


お母様は下を見ました。


畑が終わり、木々が続いています。


地上では、森の中にも道があり、小屋があり、空き地があります。


上空からは、木の梢が一枚の濃い布のように見えます。


もし、その布へ降りれば、翼は木へ引っ掛かります。


高く上がると、森の向こうの草地まで見えました。


高さは、落ちる距離ではありません。


行ける場所を増やすための蓄えでもあります。


お母様は、革帯を少し緩めたいと思いました。


どろちゃんは、緩めてはいけないと言いました。


ですから、思うだけにしました。


◇ ◇ ◇


森を越えると、白い丘が見えました。


日光を受けた岩肌が、遠くからでも明るく光っています。


男爵領まで、あと四十キロメートルほどです。


お母様は、街道を探しました。


森を回り、谷へ下り、白い丘の北側を通る細い道があります。


「この道を、嫁いだときにも通ったわ」


「覚えているの?」


「雨が降って、車輪が泥へ沈んだの。丘の宿で一晩余計に泊まったわ」


空から見れば、街道はずいぶん曲がっています。


森を避け、急な坂を避け、川を渡れる場所へ向かうためです。


どろちゃんの経路は、もっとまっすぐです。


けれど、お母様には、曲がった街道の方が、自分の人生の線に見えました。


その道を通って、実家を離れました。


同じ道を通って、何度か里帰りしました。


子どもを連れて通ったこともあります。


今日は、そのすべてを上から見ています。


遠回りにも、人の暮らしが通っています。


お母様は、しばらく話しませんでした。


どろちゃんも、話しかけませんでした。


タドポール君も静かに飛びました。


言葉を増やさない方がよい景色もあります。


◇ ◇ ◇


やがて、畑が少なくなり、広い牧草地が増えました。


白や茶色の点が動いています。


牛と羊です。


男爵領へ入りました。


どろちゃんは、昨日落とした通信筒の手紙どおり、北牧草地を探しました。


長い白布が、草地の端で風を受けています。


夕刻になり、東向き斜面はすでに日陰へ入っていました。


谷間にはまだ明るさが残っていますが、斜面の地面は冷え始めています。


その上の空気も冷え、高い方から斜面を下っていました。


タドポール君は、その風へ向かって斜面を上る向きへ着陸します。


向かい風です。


昨日の計画どおりでした。


牧草地から牛も羊も移されています。


途中の柵は外され、大きな石には白い布が掛けられていました。


人々は、草地の端へ離れて待っています。


「お母様、着陸します。お茶とビスケットは固定して」


「もうしています」


「革帯」


「きついままです」


「鏡で前を見て。最後は横も見てね」


お母様は、蓋付きの茶碗と魔法瓶を確かめました。


ビスケットの袋も閉じています。


着陸のときに、飛行機の中をビスケットが飛び回ってはいけません。


どろちゃんは牧草地を一度通過しました。


風向き。


人。


家畜。


荷車。


柵。


石。


全部を確認します。


次に大きく旋回し、上り斜面へ向けて進入しました。


二人乗りなので、一人の偵察飛行より少し速い対気速度を保ちます。


けれど向かい風がありますから、地面に対する速さは、その分だけ小さく見えました。


地面が近づきました。


お母様には、前方の景色が鏡の中にあります。


横を見ると、草地が下から近づいてきました。


風の音が少し強いままです。


「思ったより、地面の流れが速くないわ」


「向かい風だからね。空気に対する速さは、この重さならこれくらい必要です。上り斜面でも止めます」


どろちゃんは操縦桿を急に引きません。


斜面がゆっくり上がってきます。


地面すれすれで、静かに機首を起こしました。


とん。


主輪が草へ触れました。


一度だけ軽く浮きます。


次には、ごろごろという音が戻りました。


上り斜面が速度を減らします。


橇が長い草を分けました。


機体は牧草地の中央で止まりました。


お母様は、正面に遠ざかっていた人々が、今度は走って近づいてくるのを見ました。


「止まるまで近づかないで」という通信筒の指示を、みんな守っていました。


タドポール君が止まると、最初におじさまが歩いてきました。


現在の男爵です。


その後ろに、おばあさまと使用人たちがいます。


おばあさまは疲れ切った姿ではありません。


看病は一人で背負わず、使用人さんたちと交代しています。


けれど、空から帰ってきた娘を見た顔には、驚きと喜びが一緒にありました。


「ほんとうに空から来たのね」


「はい、お母様」


お母様は革帯を外し、後席から降りました。


地面へ立つと、少し膝が揺れました。


一時間半、座っていただけです。


ただし、空の上で座ることは、地上の椅子に座るより身体へ力が入ります。


おばあさまは、お母様を抱きしめました。


おじさまは、どろちゃんとタドポール君を交互に見ています。


「昨日、手紙と衣装箱が空から降ってきた」


「衣装箱ではなく、投下容器です」


「中身は妹の寝間着だった」


「無事でしたか」


「たいへん無事だった。妹より一日早く帰ってきた」


着替えは、きちんと屋敷へ運ばれていました。


パラシュートも畳まれています。


男爵家では、嫁いだ娘の寝間着が空から先に里帰りしたことを、どう記録するかまだ決めていませんでした。


◇ ◇ ◇


おじいさまは、二階の部屋で休んでいました。


お母様は飛行帽を外し、上着を脱ぎました。


使用人さんが、昨日空から届いた着替えを持ってきました。


お母様は、空から届いた自分の服へ着替えてから、おじいさまの部屋へ入りました。


どろちゃんも一緒です。


おじいさまは、以前より小さく見えました。


寝台の上で身体を起こし、枕へ背を預けています。


顔色はよくありません。


けれど、目ははっきりしていました。


「来たか」


「はい、お父様」


お母様は寝台の横へ座り、おじいさまの手を取りました。


馬車なら、知らせを受けてから何日も後になったでしょう。


今日は、手紙が届いてから間もなく、娘が目の前にいます。


「空から来たと聞いた」


「この子に乗せてもらいました」


お母様は、どろちゃんを見ました。


おじいさまも見ました。


「飛ぶものを作った孫か」


「作ったのは、アントノフの技師さんたちと神様と、こちらの職人さんです」


「ずいぶん大勢だな」


「私の頭の中にいます」


おじいさまは少し考えました。


病気のときには、孫の話を全部理解しようとしない方が楽な場合があります。


「外にあるのか」


「はい」


「見たい」


「お見舞いが先です」と、お母様が言いました。


「私は見舞われている。次は飛ぶものだ」


おじいさまは病人ですが、好奇心まで寝込んではいませんでした。


窓からは北牧草地が見えます。


タドポール君の白い翼が、草の上にあります。


おじいさまは窓の方へ顔を向けました。


「鳥より大きい」


「二人乗れます」


「お前も乗ったのか」


お母様は、少し誇らしそうに答えました。


「一時間半、後ろ向きに」


「なぜ後ろ向きだ」


「その方が面白いと思った方々がいたそうです」


おじいさまは笑いました。


笑うと少し咳が出ました。


使用人さんが水を持ってきました。


おばあさまも部屋へ入りました。


看病の段取りは整っています。


薬の時刻。


食事の量。


医師が次に来る日。


夜に付き添う使用人。


お母様が急に来たからといって、おばあさまの仕事が急に増えるわけではありません。


お母様は看病を交代するためではなく、娘として会いに来たのです。


その日の午後、お母様はおじいさまと昔の話をしました。


子どものころ、牧草地で馬から落ちたこと。


川へ帽子を流したこと。


嫁ぐ日の朝、荷物が多すぎて馬車が一台増えたこと。


おじいさまは、覚えている話と、少し違って覚えている話がありました。


家族の昔話は、全員の記憶を集めても一つにはならないことがあります。


それでも、同じ時間を過ごしたことは分かります。


どろちゃんは、窓辺で二人の話を聞きました。


自分が空を飛ぶことで、間に合った時間でした。


◇ ◇ ◇


夕方、どろちゃんとおじさまは北牧草地へ行きました。


タドポール君は、大きな納屋の横へ移されています。


主翼を外すほどではありません。


風上側へ機首を向け、翼と胴体を太い帯で地面の杭へ固定しました。


夜露を避けるため、操縦席とジェットの吸入口には覆いを掛けます。


家畜は別の牧区へ移したままです。


「明日の朝は、この斜面を下るのだな」とおじさまが尋ねました。


「朝、風が斜面を上る向きなら」


「違ったら?」


「待ちます」


「急がないのか」


「いつでも来られますから」


その言葉を聞き、おじさまは少し驚きました。


この家から嫁いだ妹は、今まで、来るにも帰るにも何日も必要でした。


いまは、天気が悪ければもう一晩泊まり、よくなれば一時間半で帰れます。


距離そのものは変わっていません。


けれど、家族のあいだにある時間は、ずいぶん短くなりました。


夜の食卓には、男爵家の家族がそろいました。


おじいさまは部屋で軽い食事を取りました。


おばあさま、おじさま、お母様、どろちゃんは食堂で食べます。


使用人さんたちも、空から来た客人のために特別な料理を増やしすぎませんでした。


明日の朝、二人が飛ぶからです。


お母様は、昔使っていた部屋へ泊まりました。


もっとも、家具は入れ替わり、壁紙も変わっています。


嫁いだ娘の部屋を、何十年もそのまま保存する必要はありません。


窓から見える牧草地と、遠くの林だけは変わっていませんでした。


どろちゃんは隣の客室です。


寝る前に、お母様がやってきました。


「明日も、あれに乗るのね」


「帰るからね」


「行きより怖くないと思うわ」


「ビスケットもあるよ」


「それは安心ね」


お母様は、もう子どもではありません。


それでも、明日のビスケットがあることを確認してから、自分の部屋へ戻りました。


◇ ◇ ◇


翌朝、牧草地には薄い霧がありました。


日の出直後、長い風向き布は斜面を下る方向へ伸びていました。


夜のあいだに冷えた空気が、まだ斜面を下っています。


この風のまま下り斜面へ走れば、追い風です。


二人乗りの離陸には使えません。


「まだ飛ばないの?」とお母様が尋ねました。


「日の出から四時間くらい待ちます」


朝食を食べ、おじいさまの部屋でもう一度話をし、どろちゃんは一時間ごとに牧草地へ出ました。


一時間後も、風は下っていました。


二時間後には、布がときどき垂れました。


三時間後、東向き斜面は谷間より明るく温まり、草の先が下から上へ揺れ始めました。


四時間ほどたつと、長い風向き布は斜面を上る方向へ安定して伸びました。


どろちゃんは布を見ました。


草を見ました。


遠くの煙を見ました。


タドポール君にも尋ねました。


『斜面を上る風だよ。今度は、きちんと正面から来る』


「離陸できるね」


『二人でも大丈夫』


男爵家の使用人さんたちは、外しておいた柵をさらに脇へ寄せました。


斜面の先にも、十分な草地があります。


お母様は、飛行服へ着替えました。


着替えは男爵家へ置いていくことにしました。


「また来るときに使います」


いつでも来られるなら、実家へ服を一組置いておくこともできます。


帰りの荷物が減りました。


おじいさまは外へ出られません。


二階の窓辺に座り、白い布を持っています。


おばあさま、おじさま、使用人さんたちは、牧草地の端へ離れました。


お母様は、待っているあいだにもおじいさまとゆっくり話しました。


離陸時刻が遅くなったのではありません。


安全に飛べる時刻まで、家族と過ごす時間が増えたのです。


出発前には、温かいお茶を飲みました。


ビスケットも一枚食べます。


「今日は、自分から食べたね」


「飛行前の決まりなのでしょう」


「うん。いま決まりました」


家族の習慣は、このようにして増えることがあります。


お母様は後席へ座りました。


革帯を締めます。


鏡を調整します。


魔法瓶とビスケットを固定します。


どろちゃんは前席へ乗りました。


――下り勾配、確認。


――風、正面。弱い向かい風。


――前方、人員なし。


――柵、開放。


――ジェット、始動。


技師さんたちの声が、作業の声になります。


ジェットの笛が高くなりました。


車輪止めが外されます。


タドポール君は、緩い斜面を下り始めました。


ごとり。


ごろごろ。


朝露の乾いた草が、車輪の左右へ分かれます。


二人乗りなので、すぐには浮きません。


けれど、斜面が重力を貸してくれます。


風は、斜面の下から機体の正面へ上ってきます。


地面に対する速さがまだ低いうちから、翼には空気が当たり始めます。


それでも二人乗りですから、どろちゃんは急いで機首を上げませんでした。


ジェットと下り斜面、それに向かい風を使って、必要な対気速度まで加速します。


やがて操縦桿へ、翼が十分に風を受けた手応えが戻りました。


お母様は後ろ向きの席から、男爵家を見ています。


おばあさま。


おじさま。


使用人さんたち。


二階の窓には、おじいさまの白い布があります。


みんなが少しずつ遠ざかります。


お母様は、鏡ではなく、正面を見続けました。


実家から離れるとき、後ろ向きの席は、少しだけよい場所でした。


『もういいよ』


どろちゃんは操縦桿を静かに引きました。


車輪の音が消えました。


タドポール君は、柵を外した場所より手前で地面を離れました。


斜面の先の草地が下へ流れます。


お母様は窓の白い布が見えなくなるまで、手を振りました。


男爵家の人々も振り返しました。


おじいさまが見ているかどうかは、もう分かりません。


けれど、お母様には見ていると思えました。


◇ ◇ ◇


帰りの飛行では、お母様の手から力が抜けていました。


最初の上昇が終わり、ジェットを止めると、自分から魔法瓶を取りました。


「お茶にするの?」


「安定した滑空中なのでしょう」


「よく覚えたね」


「昨日、教わりました」


お母様はお茶を飲み、ビスケットを食べました。


空の景色も、二度目になると少し普通になります。


普通になったから、よく見えるものもあります。


白い丘。


長い森。


二本塔の町。


川の合流点。


昨日は、見つけるたびに安心した目印です。


今日は、一つずつ子爵領へ近づいている印になりました。


「次に来るときも、同じ道?」


「風によって少し変えるよ」


「では、地図は毎回見るのね」


「うん。山は動かなくても、風は毎回違うから」


お母様は、昨日の大きな地図を思い出しました。


地図は完成品ではありません。


飛ぶたびに書き足し、次の飛行へ使うものです。


長い森の手前で、どろちゃんは予定どおり高度を取りました。


二本塔の町では、塔が一本に重なる場所をお母様も見つけました。


川の合流点を過ぎるころには、子爵領の丘が遠くに見え始めました。


「帰ってきたわ」


「まだ着陸があるよ」


「川を越えたお姉様も、同じことを言われたでしょう」


「うん。飛行は止まるまで終わらないからね」


お母様は魔法瓶を固定し、ビスケットの袋を閉じました。


革帯を確かめます。


もう、どろちゃんに言われる前にできました。


タドポール君は子爵家の丘を一度回りました。


地上では、お父様と使用人たちが待っています。


風は朝と同じ向きです。


どろちゃんは着陸する草地へ進入しました。


二人乗りの速度を残します。


主輪が草へ触れました。


ごろごろという音が戻ります。


少し長く走り、丘の平らな場所で止まりました。


お父様が走ってきました。


お母様は後席から降りました。


今度は膝がほとんど揺れません。


「どうだった」


お父様が尋ねました。


お母様は飛行帽を外しました。


「お父様に会えました。思っていたよりお元気に話せました」


「飛行は?」


「後ろ向きでした」


「それは出発前から分かっていただろう」


「お茶とビスケットがありましたので、大丈夫です」


飛行の感想として、それで十分な場合もあります。


お母様は、おじいさまの様子、おばあさまが元気だったこと、おじさまが男爵家をきちんと守っていることを話しました。


服は実家へ置いてきました。


また行くためです。


お父様は、タドポール君の後席を見ました。


「次は、私も乗れるのか」


お母様は、どろちゃんより先に答えました。


「まず座学です」


伯爵領で領兵さんたちが言われたことと同じでした。


空を飛びたい人は、身分に関係なく、最初に机の前へ座ることになりそうです。


こうして、お母様は娘の飛行機でおじいさまのお見舞いへ行き、一晩泊まり、翌日には家へ帰りました。


往復三百キロメートル。


飛行時間は、合わせておよそ三時間。


けれど、お母様にとって大切だったのは、速さではありません。


遠くへ嫁いでも、もう、会いに行くまで何日も待たなくてよいことでした。


そして男爵家には、次の里帰りに使う着替えと――空から降りてきた白と青のパラシュートが残ったのでした。


◇ ◇ ◇


第十二章の小さな説明


初めての二人乗り


タドポール君は、もともと前後二座へ改造された架空のモーターグライダーです。


後席へお母様が乗ると、機体の総重量が増えます。同じ速度では、翼が支えなければならない重さが大きくなるため、一人乗りより高い速度が必要になります。


その結果、離陸滑走は長くなり、上昇は緩くなり、着陸進入でも少し高い速度を保ちます。失速速度は重量そのものに比例するのではなく、重量比の平方根におおむね比例して増えます。


本作では正確な重量を固定していませんが、二人乗りであることを理由に、どろちゃんは一人乗りより長く加速し、早く機首を上げず、着陸でも速度を残しています。


重心


人や荷物を載せるときは、総重量だけでなく、重心位置も重要です。


重心が前過ぎれば操縦桿を引く力が増え、後ろ過ぎれば機体が不安定になりやすくなります。


タドポール君の後席は、前後方向の重心変化が大きくなりすぎない位置にあります。お母様の着替えなどは先に男爵領へ送り、機内へ余分な荷物を積まないようにしました。


後ろ向きの後席


後ろ向きの座席は、本作のタドポール君に与えた架空の特徴です。


左右の鏡で前方を確認し、横を直接見ることができます。前席との会話には、電気を使わない伝声管を追加しました。


後ろ向きのため、出発時には家や見送る人々が遠ざかる様子を長く見られます。一方、着陸方向は鏡で確かめる必要があります。


お茶とビスケット


初めて飛ぶ人は、緊張で食事や水分を取りにくくなることがあります。


本作では、離陸前に少量のビスケットと温かいお茶を取り、機内にも固定した魔法瓶と蓋付き茶碗を用意しました。


飲食するのは、ジェットを止めた安定した滑空中だけです。離陸、着陸、旋回、乱れた空気の中では、茶器と食べ物を固定します。


お茶とビスケットは飛行性能を上げません。


けれど、乗っている人が落ち着き、身体の状態を保つことは、安全な飛行に役立ちます。


斜面と一日の風


斜面に沿う風の向きは、日射、周囲の地形、谷を流れる風、上空の風などによって変わります。


本章の牧草地は東向き斜面です。


夕刻には太陽が西へ回り、東向き斜面は谷間より早く日陰となります。地面とその上の空気が冷え、斜面を下る風が生じます。タドポール君は、その風へ向かって斜面を上る方向へ着陸します。


翌朝の日の出直後には、夜間からの斜面下降風がまだ残っています。この状態で下り斜面へ離陸すると追い風になるため、離陸しません。


日の出から約四時間待ち、日射を受けた東向き斜面が谷間より十分に温まり、空気が斜面を上る風へ変わったことを確認します。その後、風へ向かって斜面を下る方向へ離陸します。したがって、着陸も離陸も向かい風です。


向かい風着陸では、必要な対気速度を保っていても対地速度を小さくできます。上り斜面も停止を助けます。向かい風離陸では、地面に対する速度が低いうちから翼へ十分な空気を当てやすくなり、下り斜面とジェットも加速を助けます。


ただし、風向きが逆になったり、乱れが強かったりすれば、この計画は使いません。


これは毎日必ず起きる現象ではありません。実際の出発判断は、その朝の風向き布、草、煙、タドポール君が感じる空気の流れを確認して行います。


一泊する理由


往復三百キロメートルを同じ日に飛ぶことは、タドポール君の能力だけを考えれば可能です。


しかし今回は、おじいさまのお見舞いが目的です。同日中に帰る予定を組めば、訪問そのものが慌ただしくなり、操縦者の疲労も増えます。


一泊すれば、お母様は家族とゆっくり過ごせます。どろちゃんも休み、翌日は日の出直後に急いで出発せず、斜面風が上り方向へ変わるまで待てます。天候が悪かったり、四時間待っても風向きが整わなければ、さらに泊まることもできます。


速い乗り物を持つことは、いつも急ぐことではありません。


急がなくてよい時間を増やすことにも使えるのです。

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