111貴族令嬢は、図書館長さんを市長代理にします。 お父様が過労です。
第111章 貴族令嬢は、図書館長さんを市長代理にします
領主館へ戻ると、もうお昼です。
どろちゃんはダイニングルームへ入りました。
料理長さんが作ってくれた昼ご飯が運ばれてきます。
最初は、玉ねぎと根菜をよく煮た澄んだスープ。
主菜は鶏肉の白ワイン煮です。
やわらかく煮た鶏肉に、きのこと小さな玉ねぎ。
付け合わせには、バターを少し使った温野菜と焼いたパン。
最後に、小さく切ったリンゴのタルトもあります。
「いただきます」
朝から飛燕ちゃんと紫雲ちゃんを飛ばしていたので、よくお腹が空いていました。
どろちゃんはまずスープを飲みました。
向かい側を見ると、お父様の席は空いています。
「お父様は?」
給仕さんが答えました。
「本日は、丘の麓の庁舎にある領主室でお仕事をなさっております。お昼も、そちらへお運びいたしました」
「また向こうなんだ」
どろちゃんは鶏肉を1切れ食べました。
お父様の仕事が増えた理由を考えているうちに、どろちゃんはエルレンフェルトの変化を順に思い出しました。
最初は1つの集落。
そこから子爵領になり、いまは公国です。
「矢印が2本あるんだ」
集落から子爵領へ。
子爵領から公国へ。
帝国から滑走路用地を買ったとき、その土地についてきた集落が3つほど増え、人口はもとの子爵領のころから約1.5倍になりました。
最初の矢印で、領地として扱う仕事が増えました。
税。
道路。
工事。
裁判。
領地の中で決めること。
そして次の矢印で、今度は国としての仕事が増えました。
外国との文書。
通商。
条約。
国境。
郵便や鉄道の接続。
公国として返事をしなければならないこと。
人口は約1.5倍でも、行政の仕事は2段階で種類そのものが増えています。
「お父様、大変そうだね」
そこで、どろちゃんはサヴォさんを思い出しました。
エルレンフェルトは、この程度の拡大でも忙しくなっています。
サヴォさんのところは、国土そのものが何倍にもなりました。
新しく入った土地には、もともとの領主も役人もいます。
その全員を、そのまま使えるとも限りません。
新しい制度で仕事を続けられる人もいれば、領主を替えなければ回らない場所もあるでしょう。
道路も鉄道も増えています。
「……ロマノフさんたち連れていったの、やっぱりいい作戦だったんだ」
あのときサヴォさんは、ロマノフ家を王様としてではなく、地方を動かせる人として欲しがりました。
人が足りない。
そう言っていました。
自分のお父様の空いている席を見ると、ずいぶん実感のある言葉になりました。
どろちゃんはパンをちぎりました。
「でも、スウェーデン側の人たちはどうなったんだろう」
王家も旧貴族も、親戚や婚姻関係のある家、別の国、新しく与えられた領地へと散らばりました。
最初の移転では安全の確保を優先し、仕事の適性まで調べた配置はしていませんでした。ロシア側も、ロマノフ家以外は同じように各地へ移っています。
「今、どうしてるんだろうね」
考えても分かりません。
どろちゃんが知っているのは、移転が無事に終わったところまでです。
それより先は、いつもの人に聞くことにしました。
リンゴのタルトまで食べ終えると、便箋を出します。
宛先はベルサイユ。
トルシー侯です。
以前、ロシアとスウェーデンから共通語圏へ移った王族や貴族の人たちが、その後どうしているのか。
もし仕事をしているなら、どんなところへ入ったのか。
分かる範囲で教えてください。
最後に、急ぎの返事は要らないと添えました。
封をして、郵便へ回します。
鉄道郵便ができてから、エルレンフェルトからベルサイユまで、手紙ならおよそ4日です。
郵便の表示も、すっかり分かりやすくなっていました。
フランス側は、鮮やかな黄色を使った模様に、羽の生えた手紙の印。
ドイツ側は、それより少し山吹色に近い色で、郵便ホルンの印です。
この世界にはフランス語があるわけでもないのに、なぜかフランス側の郵便は鮮やかな黄色でした。
「分かりやすいからいいけど」
どろちゃんは手紙を預けました。
*
「いないものは仕方ないね」
返事を待っている間にも、お父様の仕事は減りません。
どろちゃんは午後から、丘の麓にある庁舎へ行くことにしました。
お父様が仕事をしている方の建物です。
庁舎の中には、お父様の領主室があります。
扉を開けてもらうと、やっぱり机の上には書類が何組も積まれていました。
「お父様、お昼食べた?」
「食べたよ。ここへ持ってきてもらった」
「やっぱり」
どろちゃんは空いている椅子を1つ引きました。
「午後、手伝うよ」
「飛行機はいいのか?」
「今日はもう飛ばさないよ。計算ならできるから」
お父様は少し考えてから、机の端にあった書類を分けました。
「では、こっちを頼めるか」
「うん」
税の集計。
工事費。
購入した物資の代金。
鉄道や庁舎に関係する支出。
どろちゃんが手伝うのは、すでに上がってきた数字の計算と照合です。合計を出し、繰越を確かめ、別の表と一致しているかを見ていきます。
午前中は飛燕ちゃんで13400mまで上がり、紫雲ちゃんでライン川へ着水しました。
午後は、お父様の隣で数字を足しています。
どろちゃんにとっては、どちらも今日の仕事でした。
*
手紙を出してから約4日。
手紙がベルサイユへ届くと、トルシー侯はまず電信で返事を寄こしました。
返事は、たいへん分かりやすいものでした。
――使えそうな人は、ほとんど残っていない。
スウェーデン側も、ロマノフ家を除くロシア側の旧貴族も、行政や領地経営の経験がある人はすでに各地の受け入れ先で仕事を得ていました。
「狩り場になったんだ」
人手の足りない国から見れば、経験のある人が一度に各地へ現れたようなものです。受け入れた側が、それぞれ使える場所を見つけていました。
電信の最後には、
――正確な一覧は書面で送る。
とありました。
「さすが、いつもの人」
それから鉄道郵便で、移転した人たちの行き先と現在の仕事を整理した一覧が届きました。
スウェーデン側。
ロシア側。
どこへ移ったのか。
その後、どこで何をしているのか。
電信で先に結論を送り、あとから確認できる書面を届ける。
いつもの人らしい返事でした。
そして一覧を見ても、サヴォさんのところへ今からまとめて送れそうな人材は、やっぱり残っていませんでした。
「サヴォさん、ロマノフさんたちを先に連れていって正解だったね」
どろちゃんは紙を畳みました。
どろちゃんが紙を畳んだ横で、お父様の机にはまた別の書類が増えていました。
集落から子爵領へ。
子爵領から公国へ。
2本の矢印で増えた仕事は、まだまだ続きそうでした。
*
それからも、どろちゃんは時間が空くと庁舎へ顔を出しました。
お父様の領主室に積まれている書類は、見れば見るほど種類が違います。
町の道路を直す話。
市場の排水を直す話。
共同井戸の石積みを直す話。
それとは別に、公国を通る鉄道の運賃や貨物の扱いについて外国から来た文書があります。
さらに、領主家が直接持っている土地の契約もあります。
今までは、担当の人が調べたあと、最後にお父様が見れば済んでいました。
でも、公国になった今は、その「最後に見るもの」が増えすぎています。
どろちゃんは、町の道路修理の書類を1組読んでから、お父様の机へ戻しました。
「これって、今も最後はお父様のところへ来るんだよね」
「そうだよ。工事をする場所も費用も担当の者が確認しているけれど、これまで町の仕事は最後に私が見る形だったからね」
お父様はそう答えながら、別の封書を開きました。
こちらは国外からです。
どろちゃんは、道路修理の書類と外国からの封書を見比べました。
「同じ机に来るの、変じゃない?」
お父様も手を止めて、2つを見ました。
「昔なら、それほど変ではなかったんだよ。領地も町も小さくて、私が見ていれば大体分かったからね。ただ、公国になってから同じやり方を続けるのは、確かに無理が出てきたな」
「お父様、今は公国の元首でしょう。それに領主さんの仕事も残ってるし、町のことまで最後に全部見てるよ」
「市長の仕事まで私のところに残っている、ということかな」
「たぶん、それ」
言ってしまえば簡単でした。
市長さんを置けばいい。
でも、どろちゃんは机の上をもう1度見て、すぐに首を傾けました。
「でも、市長さんを1人置くだけじゃ、たぶんだめだね。今のお父様の書類が、その人の机へ移るだけになる」
お父様も笑いませんでした。
「私もそう思うよ。道路なら道路を見られる者、会計なら会計を見られる者がいて、その人たちがどこまで自分で決めてよいのかも分かっていないと、市長のところで同じことが起きるだろうね」
町の仕事を抜き出し、その中で担当の役人が処理するものと、市長まで持っていくものを分ける。公国として決める仕事と、領主家の財産に関する仕事には別の流れを作る。
市長の下で、その仕分けを実際に回せる役人も要ります。
「優秀な公務員さん、たくさん要るね」
「そうなるね。今いる者を育てるだけで足りるか、新しく探した方がよいか、その判断も必要になる」
どろちゃんは少し考えました。
知っている人の顔を順番に思い浮かべます。
「オイゲンさんは違うね」
お父様は、今度は少し笑いました。
「軍政や兵站、防衛なら、とても頼りになる人だよ。ただ、町の会計を全部預ける役目をお願いする必要はないだろうね」
「本人も嫌だと思う」
「その可能性は高そうだね」
執事さんは領主館の人と物と予定を動かしています。そこから抜けば、領主館の方に大きな穴ができます。
新しく行政を担う人材が要りました。
しばらく考えていたどろちゃんは、机の端に置いてあった紙へ視線を落としました。
外国との文書。
法律。
家の歴史。
帳簿。
人の配置。
前にエルレンフェルトへ来たとき、機械の話をしていても、話題が制度や記録へ移ればすぐについてきた人がいます。
「ライプニッツ先生に聞いてみない?」
お父様は、どろちゃんを見ました。
「ハノーファーのライプニッツ先生に?」
「うん。しばらく相談役になってもらって、市長代理もお願いするの。どこまでが町の仕事か、誰が何をするかを整理して、正式な市長さんと役人さんへ渡せるところまで作ってもらいたい」
ライプニッツ先生なら、法律も行政も分かります。
しかも名前があります。
エルレンフェルトが「役人を探しています」と言うだけより、ライプニッツ先生が行政を組み直しているところへ人を募る方が、興味を持つ人も増えるはずです。
お父様は、机の上の書類を見ながらしばらく考えました。
「先生には本来のお仕事があるから、長く拘束することはできないね。それでも、期間を決めた相談役としてお願いするなら、話をしてみる価値はありそうだ。市長代理の権限も、来ていただく前にはっきりさせておいた方がよいだろうね」
「じゃあ、先に電信で聞いて、詳しいことは手紙にしようか」
「それがよさそうだね。どろちゃんも一緒に署名してくれるかな。先生とは直接お話をしているし、何をお願いしたいのかも伝わりやすいと思うよ」
「もちろんいいよ」
その日のうちに、まず短い電信を送りました。
エルレンフェルト公国で、市政と公国行政を分けるための整理を始めたいこと。
短期間、行政顧問兼市長代理として協力してもらえないか相談したいこと。
詳しい内容は書面で送ること。
電信には、それ以上を詰め込みませんでした。
続いて、お父様と2人で手紙を書きます。
今までの子爵領では、町の仕事と領地の仕事を同じところで処理しても大きな問題がなかったこと。
公国になり、国家としての外交、通商、鉄道、郵便などが加わったため、領主室へ集まる仕事の種類が増えたこと。
中心の町には独立した市政を置き、日常の行政をそこで処理できるようにしたいこと。
正式な市長を決めるまで、市長代理として実務を見ながら、役所の仕事の分け方、人員配置、記録や会計の扱いを整えてほしいこと。
将来は、ライプニッツ先生がいなくても回る仕組みにしたいこと。
最後に、お父様とどろちゃんが署名しました。
封をした手紙は、鉄道郵便へ回します。
*
最初の返事は電信でした。
詳しい手紙が届く前に、相談の趣旨には関心があること、期間を限るのであれば協力できそうだという返事が来ました。
正式な返書は、そのあとです。
依頼を受けること。
市長代理として日常の市政を見ることにも異存はないこと。
任期中に制度を整え、後を任せられる人を探すところまでを仕事にしたいこと。
お父様とどろちゃんが考えていたことと、ほとんど同じでした。
「先生、来てくれるよ」
どろちゃんが返書を持って領主室へ行くと、お父様は最後まで読んでから丁寧に畳みました。
「ありがたいね。こちらで執務室を用意しておこう。住むところも必要になるけれど、長くホテル暮らしをしていただくより、家を1軒使っていただいた方が落ち着くだろうね」
「空いてる移築のおうち、あったよね。オイゲンさんのおうちの隣」
「あそこなら庁舎にも遠くないね。先生に気に入っていただけるか、先に見ておいてもらおうか」
準備が始まりました。
どろちゃんは別のことも準備します。
「迎えは私が行くね。ミツバチちゃんなら、荷物も本も積めるから」
「お願いしてもいいかな。先生も前に乗っているから、知らない機体で突然迎えに行くより安心していただけそうだね」
今度はどろちゃんが、お父様の仕事を減らすための人を迎えに行きます。
*
ハノーファーの草地は、前に使ったところです。
地上で状態を確かめてもらい、ミツバチちゃんはそこへ降りました。
後部扉を開けると、ライプニッツ先生は衣類と書類、それに何箱かの本を用意して待っていました。
見送りに来ていた人たちへ挨拶をしてから、どろちゃんは言いました。
「図書館長さん、しばらくお借りします」
見送りの人が少し笑いました。
「返していただけるのでしたら」
「正式な市長さんが決まるまでには返します」
横で聞いていたライプニッツ先生が、荷物の確認を終えてから口を挟みました。
「市長代理として伺います。正式な市長へ引き継ぐところまで、というお話でしたね」
「うん。先生が帰ったあとも回るようにしてほしいの」
「分かりました。それなら依頼状どおりです」
前にエルレンフェルトへ来たときは、飛行機も電車も、見るものが次々増えて質問が止まりませんでした。
今回は、行く場所も乗る機体も分かっています。
それでもミツバチちゃんが上昇すると、先生はしばらく窓から地上を見ていました。
「以前来たときより、また何か増えているのでしょうか」
「増えてると思うよ。だから先生を借りに来たの」
「それは、あまり安心できる答えではありませんね」
どろちゃんは笑いました。
*
エルレンフェルトへ着くと、最初に仮住まいへ案内しました。
戦争で人が離れた町から、持ち主と正式に売買したうえで解体し、部材に番号を振って運び、エルレンフェルトで組み直した家です。
オイゲンさんの家も同じ方法で移してきたものでした。
ライプニッツ先生に使ってもらう家は、その隣です。
客を迎えられる部屋と寝室、本や書類を広げられる部屋、台所がそろった家で、1人でしばらく暮らすには十分でした。
どろちゃんが鍵を渡そうとしたところで、隣の門が開きました。
オイゲンさんが出てきます。
ライプニッツ先生も、すぐに気づきました。
「お久しぶりです。こちらへ移られたとは聞いていましたが、まさか隣とは思いませんでした」
「私もです。先生がエルレンフェルトへ来られるという話は聞いていましたが、住まいまで隣になるとは知りませんでした」
2人は顔を合わせるなり、そのまま昔からの知り合いとして話し始めました。
どろちゃんは2人の間で鍵を持ったまま待っていました。
「先生は、しばらく市長代理をしてくれるの」
オイゲンさんは少し目を丸くしてから、すぐに納得したようでした。
「なるほど。公国になってから、ラインハルト公の仕事が増えすぎているとは聞いていました。先生なら、軍を増やすより先に書類の通り道を整理されそうですね」
「私が来た初日に戦争の相談をされるよりは、その方がありがたいです」
「それなら隣人としても安心しました。夕食の相手が必要な日なら、こちらへ声をかけてください。母もおります」
「ありがとうございます。ただ、毎日伺うと、本当に居候のようになってしまいますから、ときどきにしておきましょう」
オイゲンさんは一瞬だけ黙って、それから笑いました。
「その言葉には、私から反論しにくい事情があります」
ライプニッツ先生も意味が分かったようで、声を立てずに笑いました。
どろちゃんは、ようやく鍵を渡しました。
*
住む家があっても、知らない町で急に暮らせば、細かなことで困ります。
食事をどうするか。
洗濯をどこへ頼むか。
必要なものをどこで買うか。
家の中で何か壊れたとき、誰へ言えばいいのか。
オイゲンさんが来たときにも、最初はそこからでした。
どろちゃんはハンナさんに相談しました。
「ハンナさん、ライプニッツ先生のおうちを手伝ってくれそうな人、誰か紹介してもらえないかな。先生が仕事に行っている間に、掃除や洗濯をお願いできる人」
「先生のお宅を手伝える方をご紹介すればよろしいのですね」
「うん。ハンナさんには今のお仕事を続けてもらいたいから」
ハンナさんは少し考えて、心当たりのある人へ聞いてくれました。
その人にも仕事の内容を説明し、本人が引き受けてくれることを確かめます。
数日もしないうちに、暮らしの方は落ち着きました。
朝は庁舎へ出ます。
帰れば家が整っています。
必要なら食事も用意してもらえます。
隣へ行けばオイゲンさんと話せます。
ライプニッツ先生は、仮住まいのつもりで来た割には、かなり楽しそうに暮らし始めました。
*
庁舎にも執務室を用意しました。
お父様の領主室から離れすぎない部屋です。
机と椅子。
書類棚。
エルレンフェルトの町と周辺が分かる地図。
会計や工事の書類を広げても困らないだけの場所があります。
どろちゃんは机の上へ、CASIOと書かれた関数電卓を置きました。
「これは貸し出しです。先生がここで仕事をしている間、使ってください」
ライプニッツ先生は手に取って、すぐに見覚えがあることに気づきました。
「ライデン大学で見たものと同じですね」
「同じ種類だよ。説明書もあるから、計算に使って。税とか工事費とか、いっぱい数字を見るでしょう」
「ありがたいですね。機械式計算機を机へ置くより、ずいぶん場所も取りません」
どろちゃんは、先生が裏側まで見始めたところで付け加えました。
「ただし、分解は禁止です。これは貸したままの形で返してください」
ライプニッツ先生は裏蓋を見ていた手を止めました。
「そこまで先に言われるということは、私が開けると予想されていたのですね」
「先生なら見たくなるでしょう。でも、外したらこっちでは直せないところがあるから」
「分かりました。中身への興味はありますが、借り物を壊してまで確かめるつもりはありません」
「それなら安心」
筆記用具は、特別に新しい一式を抱え込ませませんでした。
お父様の領主室には、普段から紙や鉛筆、JETSTREAM、定規などが置いてあります。
必要になった分を持っていき、使ってもらいます。
お父様からも、
「私の部屋にある筆記具や紙は、仕事で必要な分を自由にお使いください。毎回こちらへ確認していただかなくても大丈夫です」
と伝えました。
これで、生活する家と仕事をする部屋がそろいました。
その日の午後から、ライプニッツ市長代理は本当に仕事を始めました。
*
先生はまず、お父様のところまで上がっている書類を見せてほしいと頼みました。
領主室から何組か持ってきます。
道路工事。
市場の修繕。
井戸。
市街地の清掃。
鉄道。
国外郵便。
領主家の土地。
先生は書類を読みながら、担当の人も呼んでもらいました。
「この道路修理は、工事の必要性を誰が確認されていますか」
「道路を担当する者が現地を見ています。石材と人夫の費用は会計でも確認し、そのあと領主室へ上げています」
「修理する場所は、すべて町の中ですか」
「はい。町の中だけです」
「でしたら、公爵閣下まで毎回お持ちする必要はなさそうですね。ただし、いくらまでなら担当者と市長で決められるかは、先に決めておいた方がよいでしょう」
先生は、その場で命令を書きませんでした。
次の書類を見ます。
市場の排水。
こちらも町の中だけで終わる話です。
次は鉄道貨物です。国外から来た荷物が、そのまま別の国へ抜けていきます。
「これは公国側で扱いましょう」
さらに、領主家が直接持つ土地の貸借契約が出てきました。
「こちらは領主家の財産として分けましょう。公金とは帳簿も分けた方が、あとで誰が見ても分かりやすいでしょう」
お父様もその場にいました。
「そこは私も分けているつもりだったけれど、書類の通り道まで完全には分かれていなかったようだね」
「最終的な財布が別でも、途中まで同じ机を通っていれば、担当する側には区別が見えにくくなります。まず、どこからどこへ書類が動いているのかを見た方がよさそうです」
どろちゃんは横で聞いていました。
先生は、毎日動いている書類を1件ずつ追いました。現地を確認した人、数字を確かめた人、決裁できる人、使う財布、記録を残す場所まで確かめます。
同じ種類の仕事が次に来たときには、担当者が迷わず処理できる形にしていきました。
関数電卓も、すぐに使われました。
税収に対する工事費の割合。
区画ごとの支出。
前年との比較。
市場から入る使用料と、維持費の関係。
数字を出すたびに長い筆算をしなくてよいので、先生は出てきた数字の方をじっくり見ています。
「計算に使う時間を減らして、その結果を考える時間を増やせますね」
「そういう使い方がいいと思う」
「ますます中を見たくなりますが、約束は守ります」
どろちゃんは笑いました。
*
次にライプニッツ先生は、今いる人たちの仕事を見始めました。
帳簿を正確につける人、現場を見て工事の必要を説明できる人、契約文を読み過去の記録を探せる人。さらに、自分の担当なら理由をつけて判断できる人には、少しずつ仕事を任せていきます。
足りない分については、外からも人を探すことになりました。
大学や商業の仕事をしている人。
裁判や契約文書に慣れている人。
他の領邦や都市で役所の実務を経験した人。
必要な職から少しずつ人を探します。
エルレンフェルトで市政の仕組みを作っていて、ライプニッツ先生がしばらくそこにいるという話が広がると、問い合わせも来るようになりました。
先生の名前は、こういうところでも役に立ちました。
「先生を呼んだだけで人が来るね」
どろちゃんが言うと、ライプニッツ先生は少し困った顔をしました。
「名前だけで採用してはいけませんよ。実際に何ができるかを見てください」
「そこは先生に見てもらう」
「私の仕事がまた1つ増えましたね」
「でも、楽しそう」
「否定はしません」
仕事は増えているのに、先生は本当に楽しそうでした。
*
何日かすると、庁舎の廊下で聞こえる声が変わってきました。
以前なら、書類を持った人は領主室を目指しました。
今は途中で声を掛けられます。
「その道路工事でしたら、ライプニッツ市長代理のところで先に見ていただけます」
「市場の修繕も市長代理へお願いします。規定の額に収まっています」
「公国をまたぐ鉄道の件は、領主室へお願いします」
最初のうちは行き先を間違える人もいましたが、その場で理由まで教えてもらいます。次に同じ種類の書類が来たときには、自分で行き先を選べます。
「ライプニッツ市長代理、こちらを確認していただけますか」
「市長代理は今、会計担当の方と市場の費用を見ておられます。急ぎでなければ、こちらへ置いてください」
「この契約は領主家の方ですね。領主室へ回します」
そんな声が、庁舎の中で普通に聞こえるようになりました。
お父様の机には、公国の元首として決めること、領主として見ること、領主家の財産に関わる契約が残りました。
一方、町の排水や井戸の修理、市場の小さな支出は市長代理や担当者のところで処理されます。担当者が自分で決められる範囲も少しずつ広がり、お父様へ集まっていた用件が1件ずつ別の場所へ分かれていきました。
*
ある日の昼前。
どろちゃんが庁舎へ行くと、お父様の机の上は、最初に手伝いに来た日よりずいぶんすっきりしていました。
「減ったね」
「ずいぶん助かっているよ。市長代理のところへ移った仕事もあるけれど、それ以上に、担当の者たちが自分のところで終わらせられる仕事が増えたのが大きいね」
お父様は、読んでいた紙を脇へ置きました。
「先生は、書類がここまで来た経路を毎回確かめているよ。そのおかげで、担当のところで終えられる仕事がよく分かるようになった」
「じゃあ、お昼は帰れる?」
どろちゃんが聞くと、お父様は時計を見ました。
「今日は大丈夫そうだね。午前中に見ておきたいものは、もう終わっているから、久しぶりに領主館で食べられそうだよ」
「じゃあ、一緒に食べよう。お母様にも言ってくるね」
「そうしてもらえると嬉しいよ。私も少ししたら戻るね」
*
領主館のダイニングルームには、料理長さんが作った昼ご飯が並びました。
豆と野菜を煮た温かいスープ。
白身魚のバター焼きには、少し酸味のあるソースが添えられています。
付け合わせは、じゃがいもと柔らかく煮たにんじん。
焼いたパンもあります。
食後には洋梨を使った小さなお菓子です。
どろちゃんが席へ着くと、お母様も来ました。
「今日は、お父様もこちらで食べられるそうです」
「まあ。それは久しぶりですね」
「ライプニッツ市長代理のおかげ。庁舎で『市長代理へ』って言う声が、ほんとに増えてきたよ」
「先生ご自身も、お忙しくなったのではありませんか」
「忙しいけど楽しそう。関数電卓もずっと使ってる」
「どろちゃんが貸したものね」
「うん。分解しない約束も守ってるよ」
お母様は笑いました。
「そこまで確認しているのね」
廊下から足音が聞こえ、給仕さんが扉を開けました。
お父様です。
「間に合ったかな」
「ちょうどだよ。まだ食べてない」
「それならよかった」
お父様は、いつもの席へ座りました。
少し前、同じようにお昼を食べたときには空いていた席です。
今日は、そこにお父様がいます。
「いただきます」
お父様とお母様とどろちゃんの3人で、料理長さんの昼ご飯を食べ始めました。
お父様は温かいスープを口にしてから、少し息をつきました。
「庁舎で食べると、どうしても書類を見ながらになってしまうからね。こうして戻って食べられるのはありがたいよ」
「料理長さんも、その方がうれしいと思います」
お母様が言いました。
どろちゃんも白身魚を1切れ口へ運びました。
「これ、おいしいよ」
「本当だね。温かいうちに食べると、なおさらおいしい」
庁舎の仕事は、午後も続きます。
正式な市長さんを探す仕事も残っています。
でも今は、お父様が向かいの席で、料理長さんの昼ご飯を温かいうちに食べています。
どろちゃんはもう1口、魚を食べました。
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第111章の小さな説明
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【ライプニッツ先生の役目】
ライプニッツ先生は、短期間の行政顧問兼市長代理として招かれています。
市政、公国行政、領主家の仕事を整理し、担当者ごとの権限を定め、正式な市長と役人へ引き継げる仕組みを作ります。
【ライプニッツ先生の住まい】
滞在中の家は、戦乱で住民が離れた町から、持ち主との正式な売買を済ませたうえで解体、運搬、再建した移築住宅です。
住まいはオイゲンさんの家の隣で、2人はここで再会します。
日常生活を手伝う人は、ハンナさんから紹介してもらっています。
【執務室と関数電卓】
庁舎には市長代理用の執務室を用意しています。
神様から届いたCASIOの非プログラム型関数電卓は有限品のため、ライプニッツ先生には1台を貸与しています。分解は禁止です。
紙、鉛筆、JETSTREAM、定規などの日常的な筆記用具は、お父様の領主室にあるものを必要に応じて共用します。
【市政を分けた効果】
お父様は、公国の元首、領主、領主家の代表として必要な案件を扱います。
町の道路、市場、井戸などは、市長代理や担当者が処理できるようになりました。
その変化を、章末では家族3人の昼食として描いています。




