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110貴族令嬢は、飛燕ちゃんと紫雲ちゃんを飛ばします

第110章 貴族令嬢は、飛燕ちゃんと紫雲ちゃんを飛ばします


 旧滑走路の芝生の上に、飛燕ちゃんがいました。


 格納庫へ入っているときより、外へ出した方がよく似合います。


 細い胴体。

 長い主翼。

 機首の先には4翅の定速プロペラ。


 見た目は三式戦闘機ですが、もう戦闘機として使うものではありません。


 機銃も機関砲もありません。

 弾薬もありません。

 防弾板も防弾ガラスもありません。


 その代わり、機首の中には戦争後期のドイツ製高高度型を基礎にした動力系が収まっています。


 燃料も昔のものではありません。


 日本の航空ガソリンでも、ドイツの航空ガソリンでも、アメリカの100オクタン級航空ガソリンでもなく、アルコール系の神様燃料です。


 どろちゃんは操縦席へ入りました。


「飛燕ちゃん、今日はよろしくね」


『うん。飛ぼう』


 操縦桿。


 昇降舵。


 補助翼。


 方向舵。


 動作を一つずつ確認します。


「全部動くね」


『大丈夫だよ』


 ブレーキをかけたまま、エンジン出力を上げました。


 4翅プロペラの音が大きくなります。


 でも、スロットルを動かしてから出力が付いてくるまで待たされる感じがほとんどありません。


「これ、フランソワさんのモーターグライダーみたいだね」


『小さい2サイクルみたいに、すぐ付いてくるでしょ』


「うん。大きなエンジンなのに遅れを感じない」


 回転。


 油圧。


 油温。


 冷却水温。


 過給機。


 異常はありません。


 一度出力を戻します。


 もう一度上げました。


「じゃあ行くよ」


『うん』


 ブレーキを解除。


 飛燕ちゃんが芝生の上を走り始めました。


 100m。


 さらに加速。


 200mほど走ったところで、主翼が機体の重さを持ち上げました。


 車輪が芝生から離れます。


「浮いたね」


『飛んだよ』


 どろちゃんはそのまま速度を上昇へ変えていきました。



          *



 地上を離れる前から、酸素マスクは用意してあります。


 高高度まで行ってから着けよう、とはしません。


 人間は低酸素になると判断力が落ちます。


 しかも、自分の判断力が落ちていることそのものに気づきにくくなります。


 高いところへ行ってから「そろそろ酸素を」と考える手順は、考える本人が先におかしくなれば役に立ちません。


 どろちゃんは上昇の途中で酸素マスクを着け、流量と接続を確認しました。


 高度計が5000mを示します。


 時計を見ました。


「5分ちょうど」


『まだ上がるよ』


「うん。そのまま」


 さらに上昇。


 10000m。


「12分ちょうど」


 高高度型の動力系は、まだ力を失っている感じがありません。


 11000m。


 12000m。


 13000m。


 そして13400m。


 昇降計の動きが、ほとんど止まりました。


「ここかな」


『まっすぐなら、まだいられるよ』


 どろちゃんは少しだけ飛燕ちゃんを傾けました。


 バンク角が増えます。


 すると、すぐに高度が落ち始めました。


 13000m。


 12500m。


 12000m。


 機体は素直に下がっていきます。


「ああ、分かりやすいね」


『翼の余裕がないんだよ』


「エンジンじゃないね」


 11000m付近まで下がると、同じようにバンクさせても今度は高度を保ちやすくなりました。


 操縦桿を少し引いても、速度が急に失われません。


「このへんなら普通に曲がれるね」


『うん』


 13400mは、上がれる高さ。


 13000m前後なら、翼を水平にして真っすぐ飛び続けることができます。


 でも、旋回まで含めて余裕を持って飛ぶなら11000m前後。


 どろちゃんは、その違いを覚えておきました。


 飛燕ちゃんの高高度性能を最後に決めたのは、エンジンではなく主翼でした。


 翼面積そのものは昔の飛燕ちゃんです。


 武装と防御装備を外した分だけ軽くなっていますが、高高度用の大きな動力系、過給機、補機、冷却系が増えています。


 減った質量と増えた質量は、おおむね相殺されていました。


 それでも高高度型の動力系が上まで出力を保つので、元の機体よりずっと高いところまで上がれます。


「もっと上へ行こうと思ったら、翼を大きくする話になるね」


『する?』


「しない。飛燕ちゃんじゃなくなっちゃう」


『じゃあ、このまま』


「このままでいいよ」



          *



 11000m。


 飛燕ちゃんを水平飛行へ戻しました。


「今度は速い方」


『うん』


 どろちゃんはスロットルを少しずつ開きます。


 4翅プロペラが高出力を受けます。


 エンジンは高高度でも素直に出力を増しました。


 空気が薄いので、低空で同じ真対気速度を出すより動圧を抑えられます。


 もちろん、高いところなら何km/h出しても安全という意味ではありません。


 フラッターは動圧だけで決まるものではなく、真対気速度、マッハ数、翼や尾翼の弾性、操舵面の状態にも関係します。


 どろちゃんは少し加速するたびに、補助翼と昇降舵をわずかに動かしました。


「振動は?」


『ないよ』


「尾翼は?」


『大丈夫』


 700km/h。


 720km/h。


 730km/h。


 740km/h。


 まだ加速は止まっていません。


 エンジンも苦しそうではありません。


 それでも、どろちゃんはそこでスロットルを戻しました。


「ここまで」


『まだ出るよ?』


「うん。でも機体の感じが、ここから先はやめた方がいいって言ってる」


『分かった』


 異常振動が出たわけではありません。


 フラッターが始まったわけでもありません。


 でも、操縦桿から伝わる機体全体の剛性の感触を見て、どろちゃんは初回試験の上限を740km/hにしました。


 壊れる速度を探しているわけではありません。


 敵から逃げる必要もありません。


 飛燕ちゃん自身が、まだ生まれて初めて飛んだばかりなのです。


 しかも今日は高高度試験をするため、燃料もあまり積んでいません。


「帰ろうか」


『うん』


 どろちゃんは速度を落とし、ゆっくり高度を下げました。



          *



 着陸後。


 飛燕ちゃんの最初の記録ができました。


 5000mまで5分00秒。


 10000mまで12分00秒。


 最高到達高度13400m。


 13000m前後は直線水平飛行なら維持可能。


 旋回を含めて余裕を持って使えるのは11000m前後。


 11000mで740km/hまで確認。


 740km/hで試験を打ち切った理由は、エンジン出力ではなく機体剛性側の安全余裕です。


 どろちゃんはそこまで記録して、飛燕ちゃんの初回試験を終えました。



          *



 次は水上機です。


 どろちゃんは斜行エレベーターで丘を下りました。


 ホテル棟を抜けます。


 そこから右側へ歩いていくと、工場群があります。


 さらに奥。


 町からライン川を約1km下ったところに、水玉船整備工場があります。


 金属を切り、削り、溶接する工場です。


 ライン川へ向かって、水玉船を上げ下ろしする大きなスロープもあります。


 その横に、新しい格納庫ができていました。


 天国の格納庫置き場から持ってきて、技師さんたちが直したものです。


 中には5機。


 水玉模様のAn-2が3機。


 零式三座が1機。


 そして紫雲ちゃん。


 今日は紫雲ちゃんだけです。


 零式三座とAn-2は、フランソワさんと一緒に飛ばすことになっています。


 そちらはまた別の日です。



          *



 紫雲ちゃんは、中央フロートごと専用台車へ載っていました。


 水へ下ろす前に、エンジンは一度始動してあります。


 台車上で機体を水平にし、輪止めを入れてR-2800を始動。


 十分に暖機しました。


 エンジン周り。


 二重反転減速機。


 内外の軸。


 軸受。


 前後のプロペラ。


 異音はありません。


 周期的な振動もありません。


 暖機が終わっても、エンジンは止めませんでした。


 アイドリングのままです。


 どろちゃんは操縦席へ乗ります。


 ウインチの操作は、いつも水玉船を整備している人に任せました。


 船を川へ下ろし、また引き上げるのは普段の仕事です。


「お願いします」


「はい、お嬢様」


 ワイヤがゆっくり送り出されます。


 台車がスロープを下り始めました。


 中央フロートがライン川へ触れます。


 さらに水へ入ると、浮力が増え、台車へ載っていた重量が抜けていきました。


 やがて紫雲ちゃんが浮きました。


『水の上だよ』


「紫雲ちゃんは、こっちが本来の姿だね」


『うん』


 R-2800はアイドリングのまま、滑らかな音を続けています。



          *



 まず低速で動きます。


 紫雲ちゃんの中央フロートには、小さな水中舵が付けられていました。


 ごく低速では垂直尾翼の方向舵へ当たる空気が少ないので、翼面の方向舵はあまり効きません。


 その代わり、水中舵が水を直接押します。


「右は?」


『曲がれるよ』


 どろちゃんが右ペダルを踏みます。


 紫雲ちゃんの機首がゆっくり右へ向きました。


「左」


『大丈夫』


 左へ。


 流れに対して斜め。


 上流側。


 下流側。


 一項目ずつ確認します。


「低速旋回、問題なし」


『問題なし』


「じゃあ本流へ出よう」


『いこう』


 ライン川本流へ入ります。


 水面と船の位置を確認しました。


「離水滑走するよ」


『うん』


 スロットルを開きます。


 R-2800の音が大きくなりました。


 前後のプロペラが互いに反対方向へ回転し、紫雲ちゃんを押します。


 速度が上がります。


 水中舵は、まだ水の中。


 さらに加速。


『水中舵、しまうね』


 一定の速度を感知すると、水中舵が自動的に引き上げられました。


 小鳥ちゃんの可変後退翼と同じです。


 飛行状態を機体自身が見て、必要な位置へ装置を動かします。


 そのころには垂直尾翼へ十分な空気が当たり、普通の方向舵が効き始めています。


「方向舵」


『効いてるよ』


 中央フロートがステップへ乗りました。


 水の抵抗が少し軽くなります。


『もう少し速度』


「この姿勢?」


『うん。そのまま』


 どろちゃんは紫雲ちゃんの指示を聞きながら、速度と姿勢を合わせます。


『もういいよ』


 操縦桿を引きました。


 昇降舵が上がります。


 機首がわずかに上を向きました。


 中央フロートが水面を離れます。


「浮いた」


『まだ上げすぎないでね』


「このまま?」


『うん。速度を作って』


 水面から少し離れたまま加速。


『今』


 もう少し操縦桿を引きます。


 紫雲ちゃんは、はっきり上昇へ入りました。



          *



 中央フロートと翼端フロートから、水滴が少しずつ後ろへ流れていきます。


『翼端、しまうよ』


「お願い」


 左右の翼端フロートが動き始めました。


 史実の紫雲では難物だった部分です。


 技師さんたちは、元の引込機構をそのまま修理しませんでした。


 天国の部品置き場にあった、アメリカ製の自転車式降着装置を持つ航空機用の翼端補助輪引き上げ機構を流用しています。


 地上で翼を支える翼端車輪を飛行中に収納するための装置です。


 車輪の代わりにフロートを動かせばよい。


 作動機構そのものは、すでに別の目的で実用化されたものです。


『右、固定』


 少しして、


『左も固定』


「左右ロック確認」


『大丈夫』


 フロートそのものも、昔のズック張り構造をそのまま再現していません。


 羽布だった部分はカーボンで作り直され、飛行中に抵抗の少ない形へきれいに納まります。


『やっぱり、こういう機械はドイツ製かアメリカ製だね』


 紫雲ちゃんが言いました。


「エンジンだってアメリカ製だよ」


『そうだった』


 前ではPratt & Whitney R-2800が回っています。


「二重反転といえばソ連だけどね」


『そこは技師さんたち』


「羽布だったところはカーボンらしいよ」


『知ってる』


「風防の隙間風もないでしょ」


『ないよ。快適』


 風防の合わせ目も、昔のままではありません。


 ガラスの取り付けとシール材を新しくして、冷たい空気が隙間から吹き込む理由まで保存することはやめました。


「エンジンはアメリカ。翼端フロートの機械もアメリカ。二重反転はソ連。材料はカーボン」


『紫雲ちゃんです』


「そこは変わらないね」


『変わらないよ』



          *



「燃料も昔と違うよ」


『日本の87オクタン?』


「違う」


『ドイツの95オクタン?』


「違う」


『アメリカの100オクタン?』


「それも違う」


『じゃあ何?』


「アルコール」


『神様燃料だね』


「そう」


 エタノール系の燃料は、もともとノッキングには強い側の燃料です。


 燃料流量、点火、過給条件は、このアルコール系神様燃料へ合わせて調整されています。


 昔の有鉛航空ガソリンを再現する必要はありません。


「あんなの使ったら、世界中に重金属をばらまいちゃうからね」


『鉛はいらないね』


「いらない」


 どろちゃんはスロットルをさらに開きました。


 ノックしません。


 回転数がきれいに上がります。


 元の火星より振動も少なく、失火もほとんど感じません。


「いいエンジンだね」


『滑らかでしょ』


 もう一つ、飛ばしてみるとよく分かる違いがありました。


 二重反転プロペラです。


 前後の大きなプロペラが反対方向へ回るので、プロペラ同士の角運動量はかなり打ち消し合います。


 残るジャイロ効果は、R-2800内部のクランクシャフトなどの回転質量と、減速機内部の回転部によるものが中心です。


 どろちゃんは少しだけ機首を振ってみました。


「大きなエンジンなのに、飛ばすと癖が少ないね」


『二重反転だからね』


「ギヤは?」


『異音なし。油温も大丈夫』


「振動は?」


『小さいよ』


 エンジン、減速機、内外軸、前後のプロペラが、一つの動力装置としてきれいに回っています。



          *



 高度5000m。


 時計を見ます。


「6分ちょうど」


『飛燕ちゃんより1分遅い』


「フロート重いからね」


『これ全部持って上がってるもの』


 R-2800の出力は大きくても、紫雲ちゃんには中央フロートとその支持構造があります。


 水上では必要ですが、空へ上がれば重量と抵抗です。


 それでも5000mまで6分なら十分でした。


 速度試験をするため、いったん水平飛行へ移ります。


 中央フロートは収納できません。


 そこで、低空で大きな動圧を受けながら無理に高速を出すのではなく、空気の薄い高度を使います。


「さて、加速するよ」


『うん』


 スロットルを開きます。


 R-2800はノックせず、滑らかな音のまま出力を上げました。


 550km/h。


 580km/h。


 600km/h。


 610km/h。


「ここまで」


『まだ平気だよ』


「初回だからね」


 610km/hまで確認。


 中央フロートを付けたままです。


 エンジンも二重反転減速機も異常なし。


 史実の紫雲でよく引用される約469km/hより、ずっと速くなりました。


 でも、水上機が高速だから不思議というわけではありません。


 シュナイダー・トロフィーの時代にも非常に高速な水上機はありました。


 水上機の大変なところは、空へ上がってからだけではありません。


 水面から飛び上がるまでに長い距離を必要とすることがあります。


 紫雲ちゃんも、離水するときにはかなり長くライン川を走りました。



          *



「次は高さを見るよ」


『上がろう』


 どろちゃんは、上昇を始める前から酸素マスクを着けています。


 高くなってから思い出すつもりはありません。


 低酸素で判断力が落ちれば、「酸素を着けなければ」と考える能力そのものが先に悪くなるからです。


 流量。


 接続。


 密着。


「酸素、正常」


『じゃあ上がるね』


 紫雲ちゃんは上昇へ入りました。


 7000m。


 9000m。


 11000m。


 大きな主翼が、空気の薄いところでも働き続けます。


 紫雲ちゃんの翼面積は約30m²級。


 雷電の約20m²級と比べれば、およそ1.5倍あります。


 機体が軽くなった現在は、この大きな翼が高高度で効きます。


 12000m。


 13000m。


 まだ昇降計は上を向いていました。


 13500m。


「ここまで」


『まだ上がれるよ?』


「分かってる。でも今日はここまで」


『はーい』


 13500mは上昇限度ではありません。


 その高度まで実際に上がり、なお上昇余力があることを確認したところで試験を打ち切りました。


 高度記録を作るのが目的ではありません。



          *



 帰りは急ぎません。


「ゆっくり帰ろうか」


『うん』


 スロットルを低めに戻し、紫雲ちゃんは滑空に近い状態で高度を下げていきました。


 大きな主翼があります。


 中央フロートの抵抗はありますが、急降下する必要はありません。


 12000m。


 10000m。


 酸素マスクはまだ着けたままです。


 さらに降下。


 十分に高度を下げてから、ライン川へ戻ります。


 速度が落ちると、紫雲ちゃん自身が翼端フロートを水上姿勢へ戻しました。


『右、出たよ』


「確認」


『左も固定』


「確認」


 水中舵はまだ収納されています。


 あれは水へ入り、十分に速度が落ちてからです。


 ライン川本流。


 船。


 風。


 流れ。


 水面。


 一つずつ確認します。


『もう少し機首を上げて』


「このくらい?」


『うん。そのまま』


 中央フロートが水面へ触れました。


 シュッ。


 水しぶきが後ろへ伸びます。


 そして、


「わっ、減速早いね」


『水だからね』


 どろちゃんは身体が前へ持っていかれないよう、シートベルトへしっかり預けました。


「気をつけないと、身体がつんのめるよ」


『ちゃんと座っててね』


「座ってます」


 離水のときは、飛べる速度になるまで水の抵抗と戦いながらかなり長く走りました。


 でも着水したあとは逆です。


 中央フロートが水をつかむと、水そのものが強いブレーキになります。


 着水後の滑走距離はずっと短くなりました。


「離水はたくさん走ったのに、着水はちょっとだね」


『止まるの早いでしょ』


「早すぎるくらい」


 さらに速度が落ちると、水中舵が自動的に下りました。


『水中舵、出たよ』


「確認」


 低速になった紫雲ちゃんは、水上の飛行機から、もう一度小さな船のような動きへ戻ります。



          *



 水玉船整備場へ戻る途中、どろちゃんは聞きました。


「あと、燃費かな」


『分かるよ』


「巡航の?」


『うん。巡航高度でどれくらい使うか分かるから、今のアルコールでどれくらい飛べるか計算できるよ』


「あ、そうか」


 そこまでは、どろちゃんも思いついていませんでした。


 紫雲ちゃん自身が燃料流量を知っています。


 現在の燃料搭載量も知っています。


 巡航高度と巡航出力も分かります。


 ならば、今のアルコール系神様燃料での航続距離も計算できます。


 数字を聞いて、どろちゃんは少し意外に思いました。


「前より5%くらい良くなってる?」


『うん』


「エンジン大きくなったのに」


 最初は、燃費は悪くなると思っていました。


 R-2800は高出力です。


 しかもアルコール系燃料は、単位体積あたりの発熱量だけを見ればガソリンより小さい側です。


 それでも飛行機全体では、昔の日本製航空ガソリンを使っていた状態より、航続距離が約5%伸びていました。


 理由は一つではありません。


 失火がほとんどありません。


 燃料を送っているのに燃焼で仕事をしないサイクルが減っています。


 燃料供給と点火は、現在の神様燃料へ合わせて調整されています。


 二重反転減速機とプロペラも、振動を抑えてきれいに回ります。


 そして翼端フロート。


 昔のズック張り構造より、カーボンで作り直した現在の形の方が、収納時の表面も形状もきれいです。


 小さな損失を一つずつ減らした結果が、全部足されました。


「高出力になったから燃費が悪い、だけじゃないんだね」


『飛行機全部で見るんだよ』


「そうだね」


 そこで、どろちゃんは飛燕ちゃんを思い出しました。


「あっちも、あとで聞いておこう」


『飛燕ちゃん?』


「うん。巡航燃費、聞くの忘れてた」


『あとで聞けば分かるよ』


「そうする。巡航高度も少し上がってるから、どうなってるか楽しみ」


 飛燕ちゃんの航続距離については、まだ記録表の空欄のままです。



          *



 紫雲ちゃんの初回記録も埋まりました。


 5000mまで6分00秒。


 610km/hまで確認。


 13500mまで上昇し、なお上昇余力あり。


 R-2800にノック、目立つ失火なし。


 二重反転減速機に異音、異常振動なし。


 翼端フロートの自動収納、展開、固定とも正常。


 水中舵の低速操舵と自動収納、再展開も正常。


 離水、着水とも問題なし。


 アルコール系神様燃料での実用航続距離は、昔の日本製航空ガソリンを使った状態より約5%改善。


 どろちゃんは水玉船整備場へ戻りました。


 格納庫には、まだ4機が待っています。


 水玉模様のAn-2が3機。


 その横に零式三座。


 でも、そちらへ今日一人で乗るつもりはありません。


 フランソワさんと一緒に飛ばします。


 水上機の練習も始まります。


 そのお話は、また次の章です。



          *


第110章の小さな説明


【今回の飛燕ちゃん】


 本章の飛燕ちゃんは、キ61-II改系の機体を基礎にした新生機です。


 武装、弾薬、防弾板、防弾ガラスなどの戦闘用装備を外しています。


 一方、動力系には戦争後期のドイツ製高高度型を基礎としたエンジン、過給機、燃料噴射装置、補機、冷却系を組み込みました。


 プロペラは4翅定速式です。


 軽くなった戦闘装備分と、高高度型動力系の重量増加分がおおむね相殺されるため、「武装を外したので極端に軽い機体」という扱いにはしません。


 操縦はどろちゃん専用です。



【飛燕ちゃんの初回実測値】


 5000m到達 5分00秒


 10000m到達 12分00秒


 最高到達高度 13400m


 13000m前後 直線水平飛行なら維持可能


 11000m前後 旋回を含めて余裕を持って飛行可能


 11000m水平飛行 740km/hまで確認


 740km/hで加速が止まったわけではありません。機体剛性側の感触から、どろちゃんがそれ以上の速度試験を打ち切っています。


 したがって本作では「最高速度740km/h」ではなく、「初回試験で740km/hまで確認」と記録します。



【上昇限界と翼面積】


 飛燕ちゃんは13400mまで上昇しましたが、そこで旋回すると11000m付近まで高度を失いました。


 高高度型の動力系は、13400m付近でもまだ出力を保っています。


 一方、主翼面積は元の飛燕系のままです。


 直線水平飛行では13000m前後を維持できますが、バンクを付けると必要揚力が増え、誘導抗力も増えます。そのため高高度では急に余裕がなくなります。


 本章では、エンジン出力が先に尽きるのではなく、機体側、とくに主翼面積と翼面荷重が実用的な高高度性能を決める形にしています。



【飛燕ちゃんの燃料】


 本章の飛燕ちゃんはアルコール系神様燃料を使います。


 史実の日本、ドイツ、アメリカの航空ガソリンを再現して使用するわけではありません。


 四エチル鉛などを使う有鉛航空ガソリンは、この世界では最初から使わない絶対条件です。


 高オクタン有鉛燃料を大量に航空機で使えば、排気を通じて広い地域へ鉛化合物を放出することになります。


 そこで、レシプロ航空エンジンはアルコール系神様燃料へ合わせ、燃料流量、噴射、点火、過給などを調整します。



【紫雲ちゃんの水上運用】


 紫雲ちゃんは水玉船整備場横の格納庫に収容します。


 格納庫内では中央フロートごと専用台車へ載せます。


 進水時は、水玉船整備場で普段から船を上げ下ろししている作業者がウインチを操作し、台車をゆっくりスロープへ下ろします。


 どろちゃんは操縦席へ乗ったまま、R-2800をアイドリングで運転しています。


 エンジンは進水前に台車上の水平状態で一度始動し、暖機と異音確認を済ませています。



【水中舵】


 紫雲ちゃんの中央フロートには小型の水中舵があります。


 ごく低速の水上滑走では垂直尾翼の方向舵へ十分な空気が当たらないため、水中舵で水を直接押して機首を左右へ動かします。


 離水滑走で速度が上がると、機体が速度を検出して水中舵を自動収納します。


 そのころには通常の方向舵が十分に効きます。


 着水後、速度が十分に落ちると再び自動展開します。


 この自動化は、小鳥ちゃんの可変後退翼と同じく、飛行状態を機体自身が判断して装置位置を変える仕組みです。



【翼端フロート】


 史実の紫雲では翼端フロートの引込機構が大きな難点の一つでした。


 本作では元の機構を忠実に復元していません。


 天国の部品置き場にあった、アメリカ製の自転車式降着装置を持つ航空機で翼端補助輪を引き上げるために使われた機構を、アントノフ技師さんたちが流用しています。


 離水後、速度条件が整うと翼端フロートが自動的に抵抗の少ない位置へ移動し、左右それぞれ機械的に固定されます。


 着水前には水上姿勢へ戻ります。


 羽布を使っていた部分も、現在はカーボン系材料で新しく作り直しています。


 昔の弱点や表面の粗さまで保存する復元機ではありません。



【R-2800と二重反転】


 紫雲ちゃんにはPratt & Whitney R-2800系エンジンを搭載します。


 二重反転減速機は、元の紫雲の装置をそのまま修理したものではありません。


 アントノフの技師さんたちが、ソ連・ロシア系で長く使われてきた二重反転機構の知識を使い、ギヤ、内外軸、軸受、ハウジング、潤滑、シールなどを作り直しています。


 前後の大きなプロペラが反対方向へ回るため、プロペラ同士の角運動量はかなり相殺されます。


 残るジャイロ効果は、R-2800内部のクランクシャフトなどの回転質量と、減速機内部の回転部によるものが中心です。


 そのため、大きな星型エンジンを積んでいても、単一の大型プロペラを一方向へ回す場合より、機首を動かしたときの癖を小さくできます。



【紫雲ちゃんの初回実測値】


 5000m到達 6分00秒


 水平速度 610km/hまで確認


 到達高度 13500m


 13500m到達時点でも上昇余力あり


 R-2800 目立つノック、失火なし


 二重反転減速機 異音、異常振動なし


 翼端フロート 自動収納・固定・展開正常


 水中舵 低速操舵・自動収納・再展開正常


 離水・着水 正常


 13500mは上昇限度ではありません。


 安全上、どろちゃんがその高度で試験を打ち切った数字です。



【紫雲ちゃんの大きな主翼】


 紫雲ちゃんの主翼面積は約30m²級です。


 雷電の約20m²級と比べると、およそ1.5倍あります。


 本章の紫雲ちゃんは武装、弾薬などを外しているため、中央フロートとR-2800を抱えていても、高高度では大きな主翼の効果がはっきり出ます。


 飛燕ちゃんでは動力系に余裕があっても翼面積側が先に高高度性能を制限しましたが、紫雲ちゃんは13500mでもまだ上昇を続けられました。



【610km/hの水上機】


 フロート付き水上機が600km/hを超えることそのものは、物理的に異常な設定ではありません。


 シュナイダー・トロフィー用の競速水上機では、1930年代初頭には500km/hを大きく超える速度へ到達し、その後のMacchi M.C.72は700km/hを超える速度記録を残しています。


 ただし、それらは高速競技へ特化した機体です。


 紫雲ちゃんは中央フロートを残した実用的な水上機なので、同じ設計思想ではありません。


 水上機では空中速度だけでなく、離水時に水の抵抗を受けながら飛行速度まで加速するための長い水面も重要です。


 本章の紫雲ちゃんも、着水後は短い距離で急速に減速しますが、離水にはかなり長い滑走距離を使っています。



【紫雲ちゃんの実用航続距離が約5%伸びた理由】


 紫雲ちゃんは高出力のR-2800へ換装しているため、単純には燃料消費が増えるように見えます。


 さらにアルコール系燃料は、単位体積当たりの発熱量だけを比較すればガソリンより小さい側です。


 それでも新生後の実用航続距離は、昔の日本製航空ガソリンを使った状態より約5%伸びています。


 これは燃料そのものが魔法のように高エネルギーになったからではありません。


 失火が減ったこと。


 燃料噴射、点火、過給を現在の燃料へ合わせたこと。


 二重反転プロペラと減速機の損失を減らしたこと。


 翼端フロートの形状と表面をカーボンで滑らかに作り直し、収納時の空気抵抗を減らしたこと。


 こうした多数の小さな改善を合計した結果です。


 本作では、エンジン単体の燃料消費率だけではなく、機体全体として同じ燃料量からどれだけの距離を飛べるかで比較しています。


 飛燕ちゃんについては、この章ではどろちゃんが巡航燃費を聞き忘れています。そのため航続距離はまだ未記入です。紫雲ちゃんとの会話で思い出したあと、改めて飛燕ちゃんへ確認します。



【次章】


 零式三座と水玉An-2は、この章では飛ばしません。


 フランソワさんが水上機の操縦を覚える機体でもあるため、次章でどろちゃんとフランソワさんが一緒に試します。


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