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106貴族令嬢は、女王様から侯爵位をもらいます。   ワンランクアップです。

第106章 貴族令嬢は、女王様から侯爵位をもらいます



 ロンドンで土地を整理した日の夕方。


 どろちゃんたちは、プレイストーの家へ戻っていました。


 家そのものは、どろちゃんが英国の伯爵として自分で買ったものです。


 ただし、この一帯の上位の荘園権は、チャールズ二世の王妃だったカタリナさんの終身財産に入っています。


 いまのカタリナさんはポルトガルにいます。


 そして、どろちゃんの中では、だいたい大家さんです。


「今日は、もう地図を見ない」


 どろちゃんは居間の椅子へ深く座りました。


 土地の会議は終わりました。


 三十平方キロメートルほどに整理した飛行場用地。


 返す土地。


 借りるのをやめる土地。


 鉄道へ移す土地。


 まだ相続関係を決められない土地。


 将来、列車が増えたときの車両基地候補。


 そして、ロンドン・ウェストミンスター駅の中に残った、合わせて百平方メートルほどの二筆。


 朝からずっと土地でした。


 ロバートっちも、持ち帰った書類の束を机の端へ置きました。


「今日はもう開かないことにいたしましょう」


「ろばーとっちも?」


「私も、しばらく地積表は結構です」


 フランソワさんは外套を脱ぎ、ようやく仕事の顔を少し緩めました。


「お茶をいただきましょう。夕食までには、まだ少し時間がございます」


「うん。今日はちゃんと何もしない」


 お茶が運ばれてきました。


 どろちゃんはカップを持ちました。


 まだ一口も飲んでいません。


 玄関の方で、人の声がしました。


 家の使用人さんが居間へ来ました。


「お嬢様。王室から使いの方がお見えでございます」


 どろちゃんはカップを持ったまま止まりました。


「……今日、まだ何かあるの?」


 使者は居間へ通されました。


 急使のように息を切らしてはいません。


 服装も整っています。


 持っているのは、きちんと封をされた王室の文書でした。


 使者はどろちゃんだけではなく、フランソワさんとロバートっちにも礼をしました。


「アン女王陛下より、本日中に宮廷へお越しいただきたいとのお言葉でございます」


「三人ともですか?」


「はい。ドロテーヤ伯爵閣下、フランソワ男爵閣下、フック男爵閣下、三名様にございます」


 土地会議の続きなら、ゴドルフィン男爵か担当官が来れば済みます。


 女王陛下が三人を呼ぶ理由が分かりません。


 使者は、もう一つ付け加えました。


「なお、正式な装いにてお越しくださいますよう、とのことでございます」


「正装ですか?」


 どろちゃんは、今度こそカップを置きました。


 フランソワさんとロバートっちが顔を見合わせます。


 仕事の相談で正装を指定されることは、あまりありません。


「何のお話ですか?」


 どろちゃんが聞きました。


「私から申し上げることは許されておりません」


「ご存じですか?」


「存じません」


 これは本当に教えてもらえないようです。


 ロバートっちは少し考えました。


「少なくとも、土地台帳をもう一度開くためのお呼び出しではなさそうですね」


「それならいいけど」


 フランソワさんは、もう立ち上がっていました。


「お嬢様。お召し替えをなさった方がよろしいかと存じます」


「いま帰ってきたところなのに」


「正装とのご指定でございます」


「フランソワさんもだよ」


「はい。ですので、わたくしも着替えます」


 ロバートっちは、自分の服を見ました。


「私は一度戻った方がよさそうです。会議へ出る服と、宮廷へ出る服は同じではありません」


「じゃあ、向こうで会おう」


「そういたしましょう」


 せっかく淹れてもらったお茶は、少し冷めることになりました。



          ◇ ◇ ◇



 宮廷へ着いたときには、外はもう冬の夕方でした。


 ただし、大きな祝宴が始まる様子はありません。


 楽団もいません。


 大勢の貴族が集められているわけでもありません。


 案内されたのは、もっと小さな部屋でした。


 そこにはアン女王陛下。


 ジョージ王配。


 ゴドルフィン男爵。


 それに、王室の文書を扱う人、法務を担当する人、紋章と爵位を扱う人がいます。


 人数は多くありません。


 けれど、机の上の書類は、すでに全部そろっていました。


 どろちゃんは、それを見て少しだけ嫌な予感がしました。


 今日になって急に思いついた話ではありません。


 何日も前から準備していた紙の量です。


「お呼びいただきました」


 どろちゃんたち三人が正式に礼をすると、アン女王は満足そうに頷きました。


「急にお呼びして申し訳ありません。祝賀の席は、また日を改めます」


「今日は祝賀会じゃないんですね」


「今日これから人を集めても、料理人も給仕も困るでしょう」


「それは困りますね」


「ですから、今日は決めてあったものをお渡しするだけです」


 その言い方で、どろちゃんはまた机を見ました。


「前から決まっていたんですか?」


「ええ」


 アン女王は少しだけ目を細めました。


 何かが予定どおり進んだときの顔でした。


 どろちゃんには、その顔の意味がまだ分かりません。



          ◇ ◇ ◇



「最初は、フランソワ男爵です」


 アン女王が名前を呼びました。


 フランソワさんが一歩前へ出ます。


「はい、陛下」


 王室の書記が一枚目を読み上げました。


 英国北部の航空測量。


 コウノトリさんによる連絡飛行。


 測量隊の前進拠点間の移動。


 現地での記録。


 土地使用に関する書類。


 飛行日誌。


 物資と人員の確認。


 どろちゃんが別の場所へ飛んでいる間にも、フランソワさんが自分でコウノトリさんを操縦し、必要な仕事を進めた記録が並びます。


 どろちゃんの横にいただけではありません。


 同じ仕事を分担して、自分の判断で飛び、自分の名前で記録を残しています。


 アン女王は書類ではなく、フランソワさんを見ました。


「あなたには、英国の世襲騎士爵を授けます」


 フランソワさんは、ほんの一瞬だけ目を上げました。


 驚いたようです。


 けれど、すぐに姿勢を整えました。


「身に余るお取り計らいにございます」


「一代限りにはいたしません。エルレンフェルトでも、あなたの身分は本人から始まる世襲のものなのでしょう」


「はい」


「では、こちらだけ一代で終える理由もありません」


 爵位を扱う人が、すでに作られていた文書を前へ出しました。


 つまり、そこも今決めたのではありません。


 世襲であることまで、前もって決まっています。


 どろちゃんは、フランソワさんを見ました。


 馬に乗って戦う人が騎士なら、フランソワさんはずいぶん騎士らしい仕事をしています。


 違うのは、乗っているものです。


「フランソワさん、馬が飛行機になっただけだね」


 正式な場なので、どろちゃんは小さな声で言いました。


 アン女王には聞こえました。


「私も、似たようなことを考えました」


 女王が答えました。


「馬を自分で扱えなければ騎士として困った時代があったのでしょう。今度は、空を飛ぶ機械を自分で扱える者が必要になるのかもしれません」


 フランソワさんは少しだけ笑いました。


「では、馬より速い騎士ということにしておきます」


 フランソワさんは、ほんの少し笑ってから、授与された文書を受け取りました。



          ◇ ◇ ◇



「次に、フック男爵」


 ロバートっちが前へ出ました。


「私は爵位ではないのですね」


 机の上の書類の形を見れば分かるようです。


「ええ。あなたには、別のものを用意しました」


 アン女王が合図すると、土地図が広げられました。


 今日の会議で見た地図とは別です。


 ロンドンの駅でもありません。


 北へ延びる鉄道用地でもありません。


 町から少し離れた土地。


 中央に屋敷。


 いくつかの付属建物。


 その外側に畑と草地。


 少し離れたところに、小さな集落があります。


 高いところには開けた場所もありました。


 ロバートっちは、まず方角を見ました。


 次に土地の傾斜。


 その次に建物。


 最後に周囲の集落を見ます。


 どろちゃんには分かりました。


 もう研究所として見ています。


「以前の所有者は、年齢を加えられた際に消えました」


 法務担当者が説明しました。


「この土地については、相続関係の処理がすでに終わっております。現在は王室側で処分可能な土地です。今日の会議で赤い札を付けた未解決の土地とは異なります」


「そこは大事ですね」


 ロバートっちが答えました。


 誰のものか分からない土地を、研究に便利だからともらうわけではありません。


 法的な処理が終わった土地です。


「建物も含めてですか?」


「含みます」


「集落も含まれますか?」


「領地の中にございます。ただし小さな集落です。従来の生活を続けられるよう、現在の管理の仕組みも残します」


 ロバートっちは、今度はかなり長く地図を見ました。


 アン女王が言いました。


「観測所に使ってください」


 そこで、どろちゃんも地図へ近づきました。


 天文。


 気象。


 測地。


 時計。


 光学。


 力学。


 外へ漏れたからといって、人へ感染するものではない研究はいくらでもあります。


「細菌の研究はどうしますか?」


 どろちゃんが聞きました。


「持ち込みません」


 ロバートっちがすぐ答えました。


 アン女王も頷きます。


「そのために分けました。細菌や病原体を扱う研究は、現在の隔離された施設で続けてください。こちらは、もっと普通の研究をする場所です」


「普通の範囲が、ろばーとっちだとかなり広いですけどね」


「危険でない範囲なら広くても構いません」


 屋敷には住めます。


 付属建物は器械室や工作室へ変えられます。


 開けた土地には観測器を置けます。


 小さな集落があるので、建物、道、水、畑、日常の維持を全部研究者だけで抱える必要もありません。


 反対に、人口の多い町を丸ごと領地として渡され、ロバートっちが行政ばかりすることにもなりません。


「これは、かなりありがたいです」


 ロバートっちが言いました。


 その言葉が、今日いちばん素直でした。


 ロバートっちは窓の外を見ました。


 冬の日はもう落ちています。


「明日の朝、現地を見に行ってもよろしいでしょうか?」


「もちろんです。もうあなたの土地です」


「では、測量図と既存建物の記録を持って、朝から見てまいります」


 研究所として使う前に、まず自分の目で土地と建物を確かめるつもりのようです。



          ◇ ◇ ◇



 アン女王は、最後の書類へ手を置きました。


「そして、ドロテーヤ伯爵」


「はい」


「あなたです」


 どろちゃんは前へ出ました。


 ここまで二人が何かをもらっています。


 自分にも何かあることくらいは、もう分かりました。


 でも、内容は分かりません。


 書記が文書を開きます。


「ドロテーヤ伯爵に、新たにウェストミンスター侯爵位を授けます」


 どろちゃんは、しばらく動きませんでした。


「……侯爵ですか?」


「ええ」


「伯爵の上なんですね」


「ええ。公爵の下です」


「お父様より一つ下ですね」


「英国で、です」


「伯爵位はどうなりますか?」


「残ります」


 どろちゃんは少し首を傾げました。


 アン女王は、そこを説明するのを待っていたようでした。


「ウィリアム三世陛下から授けられた伯爵位は、そのままです。取り上げません。それとは別に、私から侯爵位を授けます」


「爵位を二つ持つことになるんですか?」


「持てます」


 ここで初めて、どろちゃんにも少し分かってきました。


「もしかして、伯爵位をくださったのがウィリアム三世陛下だからですか?」


 アン女王は、すぐには答えませんでした。


 ジョージ王配が、横で少し笑っています。


 ゴドルフィン男爵は書類を見たままです。


 女王は、ほんの少し目を細めました。


「あなたの功績に対するものです」


「それは分かりますけど」


「鉄道の建設と運用、航空測量、医療、学術、海外との連絡。理由は十分にございます」


「はい」


「ですから、侯爵位です」


 どろちゃんは、まだ女王を見ています。


「もしかして、ウィリアム三世陛下に少し嫉妬なさってます?」


 今度は、ジョージ王配がはっきり笑いました。


 ゴドルフィン男爵は咳を一つしました。


 アン女王は表情を変えません。


「功績に応じた授与です」


「そういうことにしておきます」


「そうしてください」


 否定は、少し弱いものでした。



          ◇ ◇ ◇



「でも、どうしてウェストミンスターなんですか?」


 どろちゃんが尋ねました。


 アン女王の目が、また少し細くなりました。


 今度は、明らかに何かを待っていた顔です。


「本日の土地整理について、私は事前に担当官から説明を受けております」


「今日の会議より前にですか?」


「もちろんです。王室に関係する土地整理ですから」


 飛行場。


 鉄道。


 返還地。


 借地。


 相続未確定地。


 その概要は、会議前に女王のところへ上がっていました。


 そして、その中に妙なものが二つあります。


 ロンドン・ウェストミンスター駅構内。


 合計約百平方メートル。


 所有者、ドロテーヤ伯爵。


「……あ」


 どろちゃんは、ようやく気づきました。


「ピロシキ屋さんのところですか?」


「もう一店もです」


「アクセサリー屋さん」


「その二筆です」


「百平方メートルくらいしかありませんよ」


「存じています」


「駅の屋根の下ですよ」


「それも存じています」


「元はボーリングするために買っただけですよ」


「その経緯も報告を受けました」


 何もかも知っています。


 どろちゃんはアン女王を見ました。


「もしかして、前から狙っていたんですか?」


 アン女王は、また少しだけ目を細めました。


「爵位名には、使える地名が必要です」


「エジンバラではだめなんですか?」


「使いません」


 答えが速い。


 この時点では、イングランドとスコットランドは、まだ一つの連合王国になっていません。


 どろちゃんが北へ鉄道を通し、エジンバラへ何度も行っているからといって、イングランド女王としてその中心都市の名を軽々しく新しい侯爵位へ使うのは、余計な意味を持ちます。


「それでウェストミンスターなんですか?」


「あなたが実際に土地を所有しています。しかも、本日の整理でも手放しませんでした」


「お店がありますから」


「ええ。ですから都合がよろしいのです」


 どろちゃんは、少し考えました。


 朝から何十平方キロメートルもの土地を整理しました。


 その最後に、たった百平方メートルを残しました。


 ピロシキとジャム入りミルクティーを売る店。


 エルレンフェルトのアクセサリーを売る店。


 客単価は千倍くらい違います。


 その二店の地面が、今度は侯爵位の名前になりました。


「ウェストミンスター侯爵の領地、ピロシキの匂いがしますよ」


「構いません」


 アン女王は平然としていました。


「アクセサリーも売っていますよ」


「存じています」


「そこまで全部調べたんですね」


「侯爵位を授ける相手の土地ですから」


 どろちゃんは、今度こそ分かりました。


 今日、土地整理会議が終わってからアン女王が思いついたのではありません。


 会議資料を前もって読み、使える地名を見つけ、法務を確認させ、爵位状まで用意していたのです。


 そして今日、どろちゃんがその二筆を本当に残すことまで確認した。


 全部、予定どおりです。


「陛下、かなり前から決めていらしたんですね」


「ええ」


 今度は、否定しませんでした。



          ◇ ◇ ◇



 書類への署名が終わります。


 フランソワさんには、英国の世襲騎士爵。


 ロバートっちには、観測所と安全な研究に使える土地、屋敷、付属建物、それに小さな集落。


 どろちゃんには、ウィリアム三世からの伯爵位を残したまま、アン女王から新しいウェストミンスター侯爵位。


 大きな祝宴はありません。


 今日は準備が間に合いません。


 正式な祝賀会は、日を改めて行うことになりました。


「今日は、これだけです」


 アン女王が言いました。


 どろちゃんは机の上を見ました。


「これだけ、という量ではない気がします」


「祝宴がない、という意味です」


「そちらの意味ですね」


 ロバートっちは、もう自分の新しい土地の図面を見ています。


 フランソワさんは、英国側の爵位文書を丁寧に確認しています。


 どろちゃんの前には、侯爵位の文書があります。


 朝にはありませんでした。


 伯爵位は残っています。


 だから、英国の爵位が一つ増えました。


 帰りの馬車へ乗ったところで、どろちゃんはようやく今日一日を思い返しました。


「今日、土地を減らしに来たんだよね」


「はい」


 フランソワさんが答えました。


「三十平方キロメートルくらいまで減った」


「はい」


「なのに、ろばーとっちは土地が増えた」


「増えましたね」


「フランソワさんは爵位が増えた」


「いただきました」


「私も増えた」


 ロバートっちが、暗い窓の外から地図へ目を戻しました。


「土地整理というものは、減らすだけではないようです」


「今日のは、だいぶ変だよ」


 どろちゃんは侯爵位の書類を見ました。


 ウェストミンスター。


 その名前の元になった自分の土地では、今ごろ列車を待つ人がピロシキを食べ、ジャム入りミルクティーを飲んでいるはずです。


 隣では、ずっと高いアクセサリーも売られています。


 侯爵領としては、たいへん小さい。


 でも、駅の中なので人はたくさん来ます。


「明日、ピロシキ屋さんに言った方がいいかな」


「何をでございますか」


「この土地が、ウェストミンスター侯爵の名前の元になったって」


「それは、お店の方も驚かれるでしょうね」


 爵位が増えても、ピロシキの味は変わりません。


 土地の広さも変わりません。


 ただ、その百平方メートルに、たいへん大きな名前が一つ増えただけでした。



          ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 ロンドンで決まったことは、電信で海峡を越えていました。


 パリでは、トルシー侯のところへ英国からの報告が届きました。


 ドロテーヤ伯爵に、ウェストミンスター侯爵位が新たに授けられたこと。


 ウィリアム三世から授けられた伯爵位は、そのまま残ること。


 フランソワ男爵には、英国の世襲騎士爵。


 ロバート・フック男爵には、観測所と研究に使う土地、屋敷、付属建物、それに小さな集落。


 祝賀会は後日。


 トルシー侯は、一通り確認してからルイ十四世のところへ持っていきました。


 英国の爵位や土地の話です。


 フランスが決めることではありません。


 それでも、どろちゃんたちはフランスでも仕事をしています。


 科学院。


 医療。


 鉄道。


 都市の整備。


 ロンドンで身分が変わったからといって、フランス側での扱いをどうするか、念のため確認しておく必要はありました。


「ドロテーヤ伯爵は、英国で侯爵位を加えられました。以前の伯爵位も残るとのことです」


 ルイ十四世は報告書へ目を落としました。


「アンが与えたのか」


「はい」


「そうか」


 トルシー侯は、フランソワさんとロバートっちの分も続けました。


 ルイ十四世は最後まで聞きました。


「フランス側でも、何か改めますか」


 トルシー侯が尋ねました。


 ルイ十四世は少し考えました。


「いや。このままでよい」


「承知いたしました」


「英国で働いたことを、英国が評価したのだろう。こちらまで同じ形にする必要はない」


 それで終わりました。


 どろちゃんが次にパリへ来れば、これまでどおり科学院へ行きます。


 必要ならルイ十四世のところへも来ます。


 フランソワさんも一緒です。


 ロバートっちも、研究の話を始めれば今までと変わりません。


 英国で肩書が一つ増えても、フランスでやる仕事まで変える必要はありませんでした。



          ◇ ◇ ◇


 ほぼ同じころ。


 イタリアにも、ロンドンから電信が届いていました。


 サヴォさんは、三人についての報告を最後まで読みました。


「フランソワ男爵には、英国の世襲騎士爵ですか」


「はい」


「自分で飛行機を飛ばして、測量や連絡までしているのでしょう。よく合っていますね」


 次はロバートっちです。


「フック男爵には観測所用地。細菌を扱うところとは別にする、と」


「そのように聞いております」


「それも良いですね」


 最後に、どろちゃんです。


 伯爵位を残したまま、ウェストミンスター侯爵。


 サヴォさんはそこで少し考えました。


「こちらから爵位を増やす必要はありません」


 側近が頷きます。


 サヴォさんは、別の書類を手元へ寄せました。


「ただ、前から決めた方がよいと思っていた仕事があります」


「どの件でございますか」


「古代ローマの遺跡です」


 発掘されたものをどう残すのか。


 崩れかけた建物を、どこまで直すのか。


 石材を別の建物へ持ち出してよいのか。


 碑文や古い文字をどう記録するのか。


 教会や修道院の土地にあるものをどう扱うのか。


 ローマやバチカンと相談しなければならないこともあります。


 これまでも一つずつ処理していました。


 でも、担当する人によって判断が変わるより、責任を持つ役職を一つ置いた方が便利です。


「古代ローマ遺跡修復担当大臣を作ってください」


 側近の筆が止まりました。


「大臣職を新設なさるのですか」


「はい」


「どなたを」


 サヴォさんは、届いたばかりの電信を指しました。


「ドロテーヤ侯爵です」


 英国で侯爵になった翌朝。


 どろちゃんがまだロンドンにいる間に、今度はイタリアで大臣職が一つ増えました。


「遺跡についての知識があります。構造も材料も分かる。測量も出来る。古い文字もずいぶん読めるようです」


 サヴォさんは、それだけでは終わりませんでした。


「それに、大臣なら自分で決められる範囲が増えます。バチカンとの折衝も、毎回別の人を通すよりやりやすいでしょう」


「確かに、その方が実務は早くなります」


「ただし、一人で全部やらせるつもりはありません」


 サヴォさんは、もう一人の名前を出しました。


「フランチェスコ・ビアンキーニ殿にも連絡してください」


「ローマのビアンキーニ殿に、でございますか」


「はい。ドロテーヤ侯爵と共同で進めていただきたい、と」


 遺跡や碑文を長く扱っている人と、異常なくらい広い知識を持っている人。


 どちらか一人へ全部任せるより、その方がよい。


「正式な書状を用意いたします」


「お願いします。大臣への任命通知も、ロンドンへ電信で先に知らせてください。書類はあとから正式に送ればよいでしょう」


「承知いたしました」


 側近は、新しい紙を用意しました。


 昨日まで存在しなかった大臣職です。


 その本人は、まだ任命されたことを知りません。


 サヴォさんは、もう一度英国からの電信を見ました。


「ほかにもっと適任の人がいるなら、教えてもらいたいくらいです」


 側近は少し考えましたが、名前は出しませんでした。


「では、この人で進めましょう」


 こうして、ロンドンで爵位と土地を受け取った話は、翌朝にはパリとイタリアへ届きました。


 フランスでは、何も変えないことになりました。


 イタリアでは、仕事が一つ増えました。


 どろちゃんがそれを知るのは、もう少しあとです。



          *


第106章の小さな説明


【どろちゃんの二つの英国爵位】

 どろちゃんが以前ウィリアム三世から授けられた英国の伯爵位は、そのまま残ります。今回アン女王が授けるウェストミンスター侯爵位は、伯爵位を消して置き換えるのではなく、別の爵位として追加されます。そのため、どろちゃんは英国側で伯爵位と侯爵位の両方を持ちます。通常の呼称ではより上位の侯爵位が前面に出ますが、以前の伯爵位がなくなったわけではありません。


【ウェストミンスターの名前】

 アン女王は、土地整理会議の前に担当官から資料の説明を受けていました。その中に、ロンドン・ウェストミンスター駅構内に残るどろちゃん所有の二筆、合計約百平方メートルがありました。駅の位置が決まる前、ボーリング調査を拒まれたため、どろちゃんが元所有者から現金で買った土地です。駅完成後も所有権が残り、現在はピロシキとジャム入りミルクティーの店、エルレンフェルト・アクセサリー店として使われています。本作では、この実在するどろちゃん所有地の地名を、新しい侯爵位の名に使います。


【エジンバラを使わない理由】

 この時点では、イングランドとスコットランドは、まだ一つの連合王国になっていません。どろちゃんはエジンバラとの鉄道建設や航空測量に深く関わっていますが、イングランド側からエジンバラの名を新しい侯爵位に使うと、単なる褒賞以上の政治的意味を帯びやすくなります。そのため、アン女王はロンドン側でどろちゃん自身が土地を所有しているウェストミンスターを選びます。


【フランソワさんの英国世襲騎士爵】

 フランソワさんは、どろちゃんの随行者として乗っているだけではありません。自分でコウノトリさんを操縦し、英国北部の航空測量や連絡飛行を分担し、土地使用、記録、物資、人員などの事務作業も継続して担当しています。本作では、その本人の功績に対して英国側の世襲騎士爵を授けます。エルレンフェルト側でも本人を初代とする世襲身分を持っているため、英国側も一代限りではなく世襲とします。


【ロバート・フックの観測所用地】

 ロバート・フックには、年齢加算によって旧所有者が消えた後、相続その他の法的処理がすでに完了して王室側へ帰属していた小領地を与えます。屋敷と付属建物、小さな集落があり、天文、気象、測地、時計、光学、力学などの観測・研究に使います。病原菌や細菌を扱う研究は既存の隔離された施設から移さず、新しい土地では外部への感染危険を伴わない研究を中心に行います。


【祝賀会は後日】

 今回の呼び出しは、爵位と土地を正式に与えるための小規模な場です。三人には正装が指定されますが、大勢を集めた祝賀会を当日急に開くことはせず、準備を整えて別の日に行います。アン女王側では爵位や土地の処理そのものは事前に決まっており、急だったのは三人への呼び出しだけです。


【翌日のフランスとイタリア】

 ロンドンでの授与内容は翌朝には電信でパリとイタリアへ伝わります。フランスではトルシー侯がルイ十四世へ報告しますが、英国での功績を英国が評価したものとして、フランス側の地位や仕事はこれまでどおりとします。一方サヴォさんは対抗して爵位を増やさず、以前から整理の必要があった古代ローマ遺跡の保存・修復行政を担当する「古代ローマ遺跡修復担当大臣」を新設し、どろちゃんを任命します。遺跡、碑文、構造、材料、測量などを一人で独占して判断させるのではなく、ローマのフランチェスコ・ビアンキーニ殿にも共同で進めてもらうよう正式に連絡します。



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