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特別編 フランソワ温泉郷  時間軸がずれるので特別編です。

特別編 フランソワ温泉郷 第二稿


 冬の山は、上から見ると静かでした。


 葉を落とした木の枝に雪が残り、針葉樹の森はところどころ黒く沈んでいます。谷へ入る道は白く細く、川だけが雪の間に線を引いたように続いていました。


 フランソワさんは、コウノトリさんをエルレンフェルトの方角へ向けていました。


 急ぐ飛行ではありません。冬の日は短いので、暗くなる前に帰る。それだけは崩さないよう、少し早めに出ています。


 山を越えたところで高度を下げました。


 谷へ入ると風の流れが変わります。高度計だけを見ていても分かりません。尾根を越えた風が斜面へ沿って降りるところもあれば、谷の奥から吹き返すところもあります。フランソワさんは、木々の上を流れる細かな雪と、森の表面が揺れる場所を見ながらコウノトリさんを進めました。


 そのとき、森の中に白いものが見えました。


 最初は煙だと思いました。


 けれど、煙突がありません。


 家も見えません。


 炭焼きなら、人が通う道か、木を運び出した跡くらいはあるはずです。しかし、そのようなものも見つかりませんでした。


 フランソワさんは、その場へ真っ直ぐ近づきませんでした。


 少し離れたところまで飛び、大きく回ります。


 今度は横から見ました。


 白いものは一筋ではありませんでした。谷の底に近いところから、何か所にも分かれて上がっています。風に流されたあとで消えますが、下から次々に増えていました。


「煙ではなさそうでございますね」


 誰に言うでもなく、そう口にしました。


 もう一度回ります。


 雪が積もっていない場所が見えました。


 川沿いの一部だけ地面の色が出ています。岩が露出しているところもあります。そのあたりから白いものが上がっています。


 低く降りれば、もう少し分かるかもしれません。


 けれど、先に着陸できる場所を探しました。


 ありませんでした。


 木のないところはありますが、斜面です。別の場所には平らに見える草地がありますが、雪の下に何があるのか分かりません。石かもしれませんし、溝かもしれません。


 見たいから降りる、という理由で危険な場所へコウノトリさんを下ろす必要はありませんでした。


 フランソワさんは地図を開きました。


 川の曲がり。


 尾根の向き。


 谷の入口。


 近くを通る既存の鉄道。


 目印になる地形を確かめ、鉛筆で小さな印を付けます。


 そのまま帰りました。


     ◇ ◇ ◇


 エルレンフェルトへ着いたあと、フランソワさんは飛行の記録を片づけました。


 大きな事故があったわけではありません。


 急報でもありません。


 そのため、どろちゃんのところへ行ったのは、コウノトリさんを格納庫へ入れ、燃料と機体の状態を確認してからでした。


「お嬢様。今日、フランス側の山の中で、少し気になるものを見ました。最初は煙かと思ったのですが、家も煙突もなく、雪の積もっていない場所が何か所かございました。白いものも一筋ではありませんでしたので、もしかすると、お湯かもしれません」


 どろちゃんは、机の上の紙から顔を上げました。


 フランソワさんが地図を広げます。


 鉛筆の印は小さい。


 けれど、既存の鉄道線からは、それほど遠くありません。


「どれくらい出てた?」


 どろちゃんが尋ねると、フランソワさんはすぐに量を数字へしませんでした。


「上から見ただけですので、湧出量までは分かりません。ただ、冬の冷気で目立つことを考えても、一か所の小さな湧き出しではなさそうでした。谷の数か所から白いものが上がっておりましたので、もし温泉でしたら、調べる価値はあると思います」


 どろちゃんは地図を指でなぞりました。


 鉄道。


 谷。


 川。


 印。


 それから、フランソワさんを見ました。


「明日、もう一回見に行こう。降りなくていい。写真を撮って、もう少し低いところから見るだけ」


「はい。着陸できる場所は見つかりませんでしたので、偵察だけにいたしましょう。風が強ければ入らない方がよろしいと思います」


 翌日、二人でコウノトリさんに乗りました。


 今回は目的地が決まっています。


 燃料。


 天候。


 日没。


 帰投余裕。


 全部を見てから出ました。


 谷へ入る前に一度高度を取り、そこからゆっくり下げます。


 白いものは、今日もありました。


 晴れているので昨日よりよく見えます。


 森の斜面の下側。


 川の横。


 岩が露出した場所。


 その周辺だけ雪が薄い。


 どろちゃんは窓から下を見ながら写真を撮りました。


 一度通過します。


 旋回して、反対側からもう一度。


 さらに少し位置をずらして三回目。


 同じ谷を何度もなぞると、白いものが一つの穴から出ているのではないことが分かりました。


「一つの小さい湧き出しじゃないね。これだけ地表へ出てるなら、温泉を探すために、何百メートルも穴を掘って当たるかどうか試すところから始めなくてよさそう」


 どろちゃんは下を見たまま言いました。


 フランソワさんは操縦しながら、少し離れた斜面まで視線を動かしました。


「温度と量は、地上で測らないと分かりません。けれど、お湯そのものがあることは間違いなさそうでございますね」


「うん。そこが大きい。何もない山を掘るのとは違う」


 温泉地になるかどうかは、まだ誰にも分かりません。


 温度が足りないかもしれません。


 湧出量が季節で変わるかもしれません。


 成分が使いにくいかもしれません。


 けれど、地表へ出ている。


 その事実だけで、開発の最初にある大きな不確実性が一つ消えました。


 どろちゃんは写真を撮り終えると、今度は鉄道の方角を見ました。


「線路、近いね」


 フランソワさんは笑いませんでした。


「直線距離では、でございますね。地上を行きますと、かなり遠回りになると思います」


 そのときには、まだ鉄道を引くと決まっていません。


 ただ、どろちゃんが鉄道の位置を見たことだけは、フランソワさんも覚えていました。


     ◇ ◇ ◇


 土地の調査を始めると、山が放置されていた理由が分かりました。


 以前は、フランス海軍と関係の深い伯爵家の領地の一部でした。


 私掠船の運航停止が進められたころ、その家の海軍関係者にも異変が起きています。年齢を加えられた者が消え、そのあと誰が何を相続したのかが、簡単には決められなくなりました。


 亡くなったと扱うのか。


 消えた時点をいつとするのか。


 直系が途絶えた場合、どの傍系へ移るのか。


 候補者が複数いる土地を、誰が管理できるのか。


 王室側でも処理は進めています。


 けれど、畑と村は先に扱われても、人の住んでいない山林は後回しでした。


 山林を一冬放っておいても、税を取り損なう額は大きくありません。


 道路を直しても、その道路を使う人がほとんどいません。


 だから、さらに道が悪くなります。


 いちばん近い本線の駅まで、地図の上では五十キロメートルほどしかありませんでした。


 しかし、馬車道は谷に沿い、川を渡れる場所まで回り込み、山を避けます。


 道路距離は百キロメートル近く。


 冬に平均時速五キロメートルほどなら、走行だけで二十時間です。


 一日十時間走って、一泊。


 翌日も十時間。


 鉄道の本線はあるのに、そこへ出るまでが二日でした。


 どろちゃんは、その数字を聞いたあと、いつもの人のところへ行きました。


 土地を買うとき、相手にこちらの目的を余計に知らせず、それでも正規の手続きを崩さずに話をまとめてくれる人です。


 机の上へ地図を置くと、いつもの人は温泉の場所より先に、そこから本線まで伸びた細長い線を見ました。


「山だけでなく、こちらまででございますか」


「うん。村と畑は要らない。人が住んでるところも、なるべく避けて。そのかわり、ここから本線まで、地形を見ながら細くつないでほしい」


 いつもの人は、すぐに理由を尋ねませんでした。


 地図を回し、現在の土地所有を確認します。


 村。


 畑。


 共有地。


 伯爵領として残っている山林。


 個人所有へ分かれているところ。


「この細い部分は、値段そのものより、持ち主の数が問題になるかもしれません。一本につなげるとなると、途中で一人だけ売らない方がいるだけでも形が崩れます」


「線路を引くって言わない方がいいよね」


 どろちゃんが言うと、いつもの人は少しだけ笑いました。


「言わなくても、細長く買えば何かを通すことは分かります。ただし、どこへ何を通すのかまでは分かりません。山側の広い土地と一緒にまとめて取得する方がよろしいでしょう。使い道のない山林を整理したい方には、むしろ歓迎されるかもしれません」


 フランソワさんも同席していました。


 彼女は温泉の位置を指しました。


「こちらは、まだ地上から十分に調査しておりません。ですから、温泉の価値を前提に高値で買う必要はございません。ただ、お湯が出ていることを知られてからでは話が変わると思います」


「承知しました。では、山林整理と交通路確保を一体として扱います。人が住んでいるところへ手を出さないのであれば、反発も少ないでしょう」


 交渉には時間がかかりました。


 相続人候補。


 王室側の管理担当。


 周辺の土地所有者。


 境界の曖昧な場所。


 一つずつ測量し直しました。


 けれど、売る側から見れば、管理しにくい山奥です。


 冬には行くだけで二日。


 木を切っても運び出しにくい。


 道を直す費用の方が高い。


 そんな土地を、正規の手続きでまとめて買う相手が現れた。


 最終的には、かなり広い範囲を取得できました。


 出来上がった土地の形を地図へ塗ると、妙でした。


 温泉のある山側が大きく丸い。


 そこから細長い土地が本線へ伸びています。


 途中で橋や曲線を置きたい場所だけ少し太くなり、また細くなる。


 どろちゃんは、しばらく見てから言いました。


「オタマジャクシみたい」


 いつもの人は地図を見直しました。


「頭が山で、尾が鉄道でございますね。土地を買う側としては、ずいぶん扱いにくい形でございましたが、そう言われますと納得してしまいます」


 フランソワさんも地図を見ました。


「これで、尾の先までこちらの土地でございますね」


「はい。線路を通すなら、途中で誰か一人に止められることはありません」


 どろちゃんは、その言葉には答えませんでした。


 もう、線路を引くつもりでした。


     ◇ ◇ ◇


 温泉の地上調査には、最初から大人数を入れませんでした。


 冬の悪路を通って機材を運ぶだけでも大変です。


 測量器。


 温度計。


 採水容器。


 流量を測る道具。


 簡単な仮設小屋。


 まず必要なものだけを送りました。


 湯は、本当にありました。


 一つではありません。


 岩の割れ目から出るもの。


 土の下から染み出すもの。


 小さな沢の一部を温めているもの。


 雪が積もらない理由は、すぐに分かりました。


 湧出量も一日だけでは決めません。


 何日も測ります。


 雨のあと。


 雪解け。


 乾いた日。


 季節が変わってからも測ります。


 その中に、泡を多く含む湧き出しがありました。


 水を採って調べると、炭酸が多い。


 飲用の検討ができるものもあります。


 どろちゃんは、すぐに全部を瓶詰めにしませんでした。


「お風呂に使うところ、飲むところ、そのまま残すところを分けよう。全部取ったら、温泉そのものを壊しちゃう」


 温泉として使える量がある。


 炭酸泉もある。


 深いボーリングをして探す必要がない。


 そこまで確証が得られたところで、鉄道の設計が本格的に始まりました。


     ◇ ◇ ◇


 既存の本線は複線です。


 温泉支線は単線にしました。


 距離はおよそ二十キロメートル。


 最短距離だけを追えば、もっと短くできます。


 けれど、山を真っ直ぐ抜くとトンネルが増えます。


 当時のエルレンフェルト側には、トンネルを掘る技術もあります。


 だからといって、何でも山へ穴を開ける必要はありません。


 谷へ沿う。


 斜面を回る。


 川は橋で越える。


 地形に合わせて線路を置く。


 その結果、曲線は増えました。


 列車側は、連接台車を使っているので、ある程度の曲線には強い。


 勾配は最大で二十五パーミルほどになりました。


 それも連続して二十キロメートル続くわけではありません。


 途中に緩い区間と平らな場所があります。


 本線からの入り方には、少し工夫が必要でした。


 パリ側から来る列車も、反対側から来る列車も、温泉支線へ直接入れたい。


 そのため、本線の両方向から分岐を取ります。


 一方はそのまま支線側へ寄せられます。


 もう一方は、本線を平面で横切らないよう高度を上げました。


 高架になり、複線の本線を越えます。


 その先で合流し、最初の駅へ入ります。


 一面二線。


 周辺人口は、ほぼゼロ。


 けれど、駅は必要です。


 ここで温泉へ向かう列車へ支線機を連結します。


 本線用の機関車は高速用。


 支線機は低速で大きな力を出すため、ギヤ比を変えた専用機です。


 温泉へ向かう列車は、本線機を外しません。


 その前へ支線機を一両連結します。


 支線機。


 本線機。


 客車。


 二両の電気機関車が一緒に山へ向かいます。


 途中の平坦部には、もう一つ一面二線の駅を置きました。


 ここも周辺人口はゼロです。


 列車交換。


 保線。


 冬の除雪。


 非常時の退避。


 人が住んでいないから駅が不要なのではなく、単線鉄道を安定して動かすために必要だから作ります。


 その先で再び登り、次の広い平地へ出ます。


 そこが終点。


 四線の終端ホームです。


 建設中、何度も「四線も要るのですか」と聞かれました。


 どろちゃんは、そのたびに同じ説明をしました。


「団体列車を一本ホームに置いたままでも、次の列車を入れたいもの。あとから山を削って増やす方が大変だよ」


 終端駅の横には、機関車の留置線を作りました。


 ここは、実際に列車を動かして初めて分かる部分が多い場所でした。


 試運転の日、本線機と支線機の重連が客車を引いて温泉駅へ入りました。


 行き止まりです。


 到着した二両の機関車は、客車の前、車止め側にいます。


 そのまま切り離しても、客車がポイントを塞いでいるので出られません。


 そこで、留置線に待機していた別の本線機を、客車の反対側へ連結します。


 ブレーキ系統を確認します。


 到着した本線機と客車の間を切ります。


 待機していた本線機が、客車を本線側へ引き出します。


 ポイントが空いたところで、ようやく到着した重連が動けます。


 本線機は留置線へ。


 支線機は単機で山を下り、麓の補機駅へ戻ります。


 繁忙期には、支線機の単機回送すら線路容量を使います。


 そのときは、温泉駅から下る営業列車の最後尾へ支線機を連結し、麓まで一緒に戻す運用も試しました。


 下りは、本線機だけで十分です。


 二十五パーミルが連続しているわけではなく、本線機の制動で安全に下れます。


 支線機は、山へ登る列車を助けるための機関車でした。


     ◇ ◇ ◇


 線路が出来るより少し前から、温泉側では土地の造成が始まっていました。


 ここには古い町がありません。


 古い道路もありません。


 畑もありません。


 人が住んでいるところを、ほとんど買わなかったからです。


 そのため、最初から区画を決められました。


 駅前広場。


 ホテル。


 浴場。


 教会。


 療養施設。


 食堂。


 倉庫。


 道路。


 上下水道。


 排水。


 建物が出来てから配管をねじ込むのではありません。


 先に地下を決めます。


 団体客を受け入れるホテルは、部屋数だけを増やしませんでした。


 何十人、何百人が同じ時刻に到着したとき、荷物をどこへ置くか。


 誰が部屋を割り当てるか。


 食事の時間をどうずらすか。


 大浴場へ一度に何人入れるか。


 洗濯物はどう回すか。


 長く泊まる人と、一泊だけの団体を同じ棟に入れるか。


 そのようなことまで決めます。


 温泉の中心には、大きなローマ式浴場を作りました。


 カラカラ浴場を参考にします。


 けれど、遺跡をそのまま復元したわけではありません。


 大きな中央空間。


 温かい浴室。


 熱い浴室。


 冷たい浴室。


 休憩する場所。


 人が集まる場所。


 そうした構成を借ります。


 中身は新しい。


 給水。


 排水。


 湯の入れ替え。


 清掃。


 換気。


 温度測定。


 古代ローマを知るために、古代と同じ衛生条件まで再現する必要はありません。


 その隣には、温泉を使った屋内プールも作りました。


 冬でも入れます。


 外では雪が降っていても、中では大勢が湯へ入れます。


 療養施設は、ホテルとは分けました。


 病人や体力の落ちた人が、毎日団体客の騒ぎの中を通る必要はありません。


 食事も別に調整できます。


 滞在も一泊二泊ではなく、数週間から一か月単位を想定しました。


     ◇ ◇ ◇


 教会は、さらに別の考えで作りました。


 小さな観光用礼拝堂ではありません。


 教会堂の中には、複数の祭壇があります。


 一つの会だけが全部を使うのではなく、ローマ側から来る複数の聖職者が、それぞれ必要な時間に典礼を行えるようにします。


 周囲には、聖職者用の宿泊棟。


 巡礼者向けの宿。


 集会室。


 病人を受け入れる部屋。


 療養施設との連絡路。


 その一角には、大きな共用食事空間も作りました。


 何百人も来たとき、一軒の食堂だけでは捌けません。


 そこで、広い座席空間の周囲へ複数の厨房と売り場を置きます。


 肉。


 魚。


 煮込み。


 パン。


 軽食。


 病人向け。


 聖職者向け。


 同じ建物の中で、必要なものを選べます。


 どろちゃんは、それを特別な名前では呼びませんでした。


 後に旅行業者さんたちが見て、「大きな食堂というより、食べる店が一つの場所へ集まっていますね」と言いました。


     ◇ ◇ ◇


 温泉地の外れには、一二〇〇メートルの舗装滑走路が出来ました。


 最初にフランソワさんが湯気を見つけたときには、コウノトリさんを安全に降ろす場所すらありませんでした。


 数年後には、山の中に滑走路があります。


 そして、その近くへ神様のタンクまで現れました。


 どろちゃんは、しばらくタンクを見ていました。


「ここ、飛行場にするつもりだって、もう決まったみたい」


 神様由来の共通燃料を使う機体には便利です。


 ミツバチちゃんも来られます。


 チェブラーシカちゃんのような大きな輸送機も、必要なら使えます。


 ただし、コウノトリさんやフランソワさんのモーターグライダーはエタノールです。


 そちらは別系統です。


 飛行場が出来たからといって、燃料まで全部同じにはなりません。


     ◇ ◇ ◇


 ここまで出来たところで、どろちゃんはサヴォさんへ話を通しました。


 ローマへお願いしたいことが二つあります。


 一つは聖職者。


 もう一つは、壊れた彫像です。


 普通なら順序が逆です。


 教会を作りたいから人を送ってください、と頼みます。


 今回は、


 教会はもうあります。


 複数祭壇があります。


 宿舎もあります。


 療養施設もあります。


 鉄道もあります。


 温泉もあります。


 人も集めます。


 よろしければ来ませんか。


 という話でした。


 ローマ側では、かなり興味を持たれました。


 布教拠点を新しく作るなら、土地、建物、宿、食事、交通を一から考えなければなりません。


 その全部がすでにあります。


 しかも、巡礼だけでなく、療養のために長期間滞在する人も来る。


 複数の会が関心を示しました。


 どろちゃんは、さらにお願いを続けます。


 ローマで壊れたまま保管されている古い彫像を、数体ずつ貸してほしい。


 こちらで修復を研究したい。


 直ったら、しばらく展示したい。


 そのあと返す。


 また別の壊れたものを借りたい。


 所有権をこちらへ移してほしいとは言いません。


 その条件なら、ローマ側にも利益があります。


 大理石は重い。


 壊れていても重い。


 何体も馬車で山へ運ぶのは大変です。


 そこでチェブラーシカちゃんが使われました。


 一二〇〇メートルの舗装滑走路が、思わぬところで役に立ちます。


 聖職者さんたちと、木箱へ収められた壊れた彫像が、同じ時期に温泉郷へ到着しました。


 聖職者さんたちは教会へ案内されます。


 彫像は修復ラボへ運ばれます。


 ラボでは、最初に写真を撮りました。


 どこまでが本物か。


 どこが壊れているか。


 残っている破片が同じ像のものか。


 何を接合したか。


 何を支持のために追加したか。


 後から全部分かるようにします。


 勝手に新しい鼻や腕を作り、古代風に見える新品へ変えるためではありません。


 修復できたものは、本物です。


 それをローマ式浴場の空間や、その周囲へ期間を決めて展示します。


 札には、ローマ側の所有であることも書きます。


 しばらく飾ったら返す。


 そして、また別の壊れたものが来る。


 何度来ても展示が少しずつ変わる場所になりました。


     ◇ ◇ ◇


 一般の客を入れる前に、どろちゃんはいつもの人とパリへ行きました。


 ルイ十四世へ話をするためです。


 温泉そのものの報告は、すでに届いています。


 鉄道支線を作っていることも、教会を置くことも、フランス側の行政を通して知られています。


 ただし、何を売る場所にするのかは、王にはまだ細かく伝わっていませんでした。


 いつもの人は、王の前へ施設一覧と簡単な収支の見通しを出しました。


「陛下。温泉だけで採算を取るつもりではございません。宿泊、長期療養、巡礼、団体旅行、飲食、炭酸水、それぞれを別の商品として扱います。同じ列車で来る方でも、目的が違えば使う施設が違います」


 ルイ十四世は紙を見たあと、いつもの人へ視線を戻しました。


「私の国の山の中へ、町を一つ作ったという話は聞いている。だが、旅行を商品にするというのは、どういう意味だ」


 いつもの人は、そこで大げさな言葉を使いませんでした。


「これまでも、巡礼へ行く方、療養へ行く方、親族を訪ねる方はおります。ただ、多くは自分で馬車を手配し、自分で宿を探し、途中の食事を考えます。今回は、それを一つにまとめます。列車の座席、宿、食事、入浴、教会での予定まで、出発前に決めて売ります。二十人なら二十人、百人なら百人をまとめて動かせます」


「百人を、一度に温泉へ連れて行くのか」


「はい。それが難しいかどうかを確認するため、一般のお客様を入れる前に、旅行を扱う者だけを第一陣として招く予定です。売る側が、自分の客を連れて来られる場所かどうか、細かく見てもらいます」


 王は少し考えました。


「その者たちに、私が先に行ったと言わせたいのか」


 いつもの人は、そこで初めて少し困った顔をしました。


「陛下のお名前を勝手に看板へ書くつもりはございません。ただ、もし陛下が実際にご利用になり、施設として問題がないとお考えになったのであれば、その事実は強い信用になります。こちらから作った話ではなく、実際に陛下が入られた浴場である、というだけで十分でございます」


 どろちゃんは黙っていました。


 ルイ十四世は、その方を見ました。


「お前も、そのつもりか」


 どろちゃんは、少し首を振りました。


「最初のお客様になってください、というより、フランスの中に何を作ったのか見ていただきたいです。温泉に入るかどうかは、見てからでいいと思います」


 王は笑いました。


「もう浴場まで作っておいて、見てから決めろというのか。よい。鉄道で行こう。馬車で二日かかるところへ、わざわざ馬車で行く理由もない」


 珍しく、ルイ十四世の鉄道旅行が決まりました。


     ◇ ◇ ◇


 王の列車は、本線を走って山の入口の駅へ着きました。


 そこで停車します。


 前へ支線機が連結されます。


 本線機を外しません。


 支線機。


 本線機。


 王の客車。


 二両で山を登ります。


 ルイ十四世は、連結作業を窓から見ていました。


「機関車を交換するのではないのだな」


 いつもの人が答えました。


「本線機は、そのまま温泉まで参ります。こちらの機関車は、山を登るためだけに加えるものでございます。最高速度は要りませんので、力を出す方へギヤ比を変えております」


 列車が動き始めました。


 窓の外には、ほとんど家がありません。


 やがて一面二線の駅を通ります。


 ホームはあります。


 しかし、その周りに町がない。


 王は、それを不思議に思いました。


「ここで誰が乗る」


「ほとんど誰も乗りません。単線ですので、列車同士を行き違わせるための駅でございます。保線と冬の作業にも使います」


「客のためではない駅か」


「列車を動かすための駅でございます」


 王は、窓の外を見たまま少し笑いました。


「人のいないところへ駅を作る話は初めて聞いた」


 さらに登ります。


 橋を渡ります。


 山腹を回ります。


 そして、次の平地へ出たところで、景色が急に変わりました。


 四線の終端駅。


 大きなホテル。


 駅前広場。


 教会。


 その向こうには、温泉の湯気があります。


 ルイ十四世は、列車を降りたあと、しばらく駅前から町を見ていました。


「私は、山の湯へ来るのだと思っていたのだが、町が一つ出来ているではないか」


 どろちゃんは、すでに何度も言われたような顔をしました。


「人に来てもらうなら、泊まるところと食べるところが要ります。長く療養する人もいますし、巡礼に来る人もいます。温泉だけ作っても、馬車で二日かけて来てもらうわけにはいきません」


「だから鉄道まで作ったのか」


「はい。線路から近かったので」


 その「近い」が二十キロメートルであることを、王はもう知っています。


 ルイ十四世は浴場へ入りました。


 この日は当然、一般客はいません。


 ただし、王専用の小さな風呂を別に作って終わりにはしませんでした。


 これから一般の客にも使わせる予定のローマ式大浴場そのものを使います。


 大きな空間。


 石。


 湯気。


 温度の違う浴室。


 冷たい水。


 休憩する場所。


 けれど、床や壁の向こうには、新しい配管と排水があります。


 見た目だけ古代へ戻しても、衛生まで戻すつもりはありません。


 入浴を終えたあと、王は飲泉用に用意された炭酸を含む水も試しました。


 泡が残っています。


「酒ではないのだな」


 いつもの人が答えました。


「水でございます。こちらは瓶詰めにして、持ち帰れるようにもいたします。温泉へ来られない方へ売る商品にもなります」


 王は瓶を見ました。


「温泉へ来なくても、温泉のものを買わせるのか」


「はい。来た方には土産になりますし、来られない方には広告にもなります」


 いつもの人は、そこでも売る話をしました。


 王は、そのあと教会を見ました。


 複数の祭壇。


 聖職者の宿舎。


 巡礼者の宿。


 療養施設。


 さらに修復された彫像。


 建物は新しい。


 像は本物。


 ローマから借りたものです。


 帰るころには、王が見たものは「温泉」だけではありませんでした。


 温泉駅では、列車の反対側へ待機していた本線機が連結されました。


 その機関車が客車を引き出します。


 到着時に先頭だった本線機は留置線へ。


 支線機は山を下ります。


 王は、行きと帰りで本線機が入れ替わるところまで見ました。


「ここは、客を風呂へ入れるだけの場所ではないのだな」


 帰りの列車が動き始めてから、ルイ十四世が言いました。


 いつもの人は、少し間を置いて答えました。


「はい。人が何日も滞在し、また別の人を連れて来る場所にしたいと考えております。陛下がお入りになったことも、十分その助けになります」


「結局、私を使うのではないか」


 王はそう言いましたが、怒ってはいませんでした。


     ◇ ◇ ◇


 温泉郷の名前は、どろちゃんが決めました。


「フランソワ温泉郷でいいよね」


 フランソワさんは、すぐには賛成しませんでした。


「お嬢様。わたくしは、湯気を見つけただけでございます。温泉を調べたのも、土地を買ったのも、鉄道を引いたのも、建物を造ったのも、わたくしではございません」


 どろちゃんは、最後まで聞きました。


「でも、見つけなかったら何も始まってないよ。雪の中で湯気を見たの、フランソワさんだもの。私は同じところを飛んでも、見落としてたかもしれない」


「それでも、駅にまで名前が付くとは思っておりませんでした」


「じゃあ、温泉だけフランソワで、駅は別の名前にする?」


 どろちゃんがそう言うと、フランソワさんは少し考えてから首を振りました。


「それでは、かえって分かりにくうございますね」


 駅名も決まりました。


 フランソワ温泉郷。


     ◇ ◇ ◇


 一般の旅行客を入れる前に、第一陣が招かれました。


 いつもの人が集めた旅行業者さんたちです。


 ただし、みんな同じ商売をしているわけではありません。


 巡礼団を扱う人。


 長期療養の客を手配する人。


 裕福な家族や貴族家の旅行を世話する人。


 商人組合や職人組合の団体を動かす人。


 鉄道を使った大人数の移動そのものに関心を持つ人。


 一般客は一人もいません。


 今日は楽しんでもらう日ではなく、欠点を見つけてもらう日です。


 本線から来た列車が補機駅へ入ると、最初から質問が出ました。


 大きな団体を扱う商人は、支線機の連結を見ながら、駅員へ何分かかるかを聞きました。


「百五十人を連れてきたときも、同じ時間で終わりますか。人数が多いから連結が遅くなる、ということはございませんね」


 駅員は、客の人数より列車の長さとブレーキ確認の方が関係すると説明しました。


 その男は、すぐに帳面へ書きました。


「それなら、乗客を降ろさない方がいい。ここで全員をホームへ出したら、人数確認だけで時間を失います。客車へ乗せたまま補機を付けて、そのまま上げる方が商品にしやすい」


 巡礼団を扱う人は、別のところを見ていました。


「老人が多い団体もございます。途中で乗り換えがないのは助かりますが、山へ上がる途中で具合が悪くなった場合、こちらの交換駅で降ろせますか」


 いつもの人は、途中駅にも最低限の待機室を置き、緊急時には温泉側または麓側から救護を向かわせる運用を説明しました。


 その人は、駅の周囲に何もないことをむしろ気に入りました。


「巡礼者が途中で勝手に町へ出て行かないのは、団体を預かる側には楽でございます。ですが、冬に列車が止まった場合の食料と毛布は置いてください。百人を雪の中で待たせるわけにはまいりません」


 その意見は、その日のうちに記録されました。


 温泉駅へ着くと、業者さんたちは景色より先にホームを見ました。


 四線。


 屋根の長さ。


 客車から荷物を下ろす場所。


 荷車の通路。


 団体を一度に集める場所。


 商人組合の旅行を扱う男は、ホーム端から駅前広場まで歩き、時間を測りました。


「百人が同じ扉から出ると詰まります。列車を何か所かで開けて、宿ごとに降りる場所を分けた方がよろしいでしょう。荷物札も必要です。人はホテルへ行ったのに、荷物だけ別の宿へ行く事故が必ず起きます」


 別の業者は、そこへ反対意見を出しました。


「札を増やしすぎると、読めない人が困ります。色も使った方がよいと思います。赤は第一ホテル、青は療養棟、白は巡礼宿という具合にすれば、文字を読めない方でも荷物を追えます」


 フランソワさんは、その話を聞きながら、駅係の人へ何か書き留めてもらいました。


 どろちゃんは口を出しません。


 今日は、売る人が見る日です。


     ◇ ◇ ◇


 最初にホテルへ入りました。


 裕福な家族の旅行を扱う人は、玄関の広さより、裏側を見たがりました。


「ご主人と奥様だけで来る家は少ないのです。侍女、従者、場合によっては子どもの乳母まで一緒です。良い客室を一つ作っても、使用人の部屋が離れすぎていれば売りにくい。続き部屋にできますか」


 ホテル側は、二室または三室を一組にできる区画を案内しました。


 その人は扉を開けたり閉めたりして、廊下からどこまで音が聞こえるかまで見ました。


「長期滞在なら、衣類を置く場所が足りません。旅行鞄を床へ置いたまま一か月暮らす方はいません。収納を増やした部屋を何室か作った方がよろしいでしょう。それと、貴族家の方は食堂へ毎回出るとは限りません。部屋へ食事を運べる動線も必要です」


 療養客を扱う人は、同じ部屋を見ても違う質問をしました。


「階段を上れない方は、どこへ入れますか。浴場までの距離は。冬に外へ出なければ浴場へ行けない部屋は、病人には売れません」


 ホテルの一般客室ではなく、療養施設側へ案内されます。


 そこでは温泉への移動距離を短くし、食事も別に出せます。


 その人は寝台の高さ、窓の開き方、暖房、洗濯物の回収まで見ました。


「一週間ではなく、一か月泊まる方を扱うなら、洗濯の回数と値段を最初に決めてください。食事も毎日同じ豪華なものでは困ります。病人は食べられないことがあります。付添人だけ別のものを食べたい場合もあります」


 いつもの人は、その場で値段を約束しませんでした。


「そのために今日は来ていただいております。必要な区分を出していただければ、宿泊側と原価を計算いたします」


「でしたら、七日、十四日、三十日で料金表を分けた方がよろしいでしょう。一泊料金を三十倍されると、療養客は来ません」


 どろちゃんは、その言葉を聞いて少し笑いました。


 旅行業者さんは、温泉を見ても最初に値段を考えます。


 それでよいのです。


     ◇ ◇ ◇


 巡礼者宿では、巡礼団を扱う人が急に細かくなりました。


 寝台の数。


 男女をどう分けるか。


 家族単位で泊まりたい人をどうするか。


 夜遅く到着した場合の食事。


 朝早く典礼へ行く人の朝食。


 荷物を預ける場所。


 靴を乾かす場所。


「巡礼者は裕福な方ばかりではありません。宿泊費を下げるために一室の人数を増やすことはできますが、荷物まで寝台の間へ置くと通れなくなります。荷物室を別にしてください。それと、教会から戻った人が濡れた外套を百枚持ち込んだら、どこで乾かしますか」


 建物を案内していた担当者は、一度答えに詰まりました。


 その場にいた別の旅行業者が笑いました。


「そこまで考えるのですか」


 巡礼団の人は真面目でした。


「考えます。百人の濡れた外套は、百人分の問題でございます。晴れている日だけ団体を連れて来ることはできません」


 いつもの人は、その意見も記録させました。


 教会堂へ入ると、複数の祭壇を見て今度は満足しました。


「これなら同じ日に別の団体を入れられます。ですが、時間を売ってください。『午前』だけでは困ります。何時からどの祭壇を使えるのか、旅行を売る前に確定したい。列車の到着時間と典礼の時間がずれると、百人が教会前で待つことになります」


 聖職者側の担当者とも話をします。


 宗教側には宗教側の都合があります。


 旅行業者が勝手に祭壇を時間貸しするわけにはいきません。


 そこで、一定の時間帯を巡礼団用として事前予約できる仕組みを作ることになりました。


     ◇ ◇ ◇


 ローマ式浴場へ入ると、みんな少しだけ旅行者の顔になりました。


 広い。


 湯気があります。


 新しい建物なのに、古代ローマを思わせる石の空間があります。


 修復された彫像もあります。


 けれど、視察なので、すぐ仕事へ戻りました。


 商人団体を扱う人が尋ねました。


「一度に何人入れますか」


 浴場側が定員を答えると、その人はさらに聞きます。


「それは、入れる最大人数でしょうか。それとも、気持ちよく使える人数でしょうか。最大人数だけで百五十人を入れたら、次から客が来なくなります」


 担当者は、実際の運用人数を少なめに設定する予定だと説明しました。


「でしたら、団体を二つに分けます。半分は浴場、半分は食事か彫像。時間で入れ替える。百人を一か所へ押し込む必要はありません」


 裕福な旅行を扱う人は、別の点を見ました。


「一般の大浴場へ入りたくない方もおります。完全な王侯用施設でなくて結構ですが、小人数で使える時間帯か小さな浴室はありますか。貸し切れるなら、その分は高く売れます」


 どろちゃんは、その意見には少し考えました。


 全部を階級ごとに分けるつもりはありません。


 けれど、病気、宗教上の事情、身体の都合などで大浴場を避けたい人もいます。


 最初から数室だけ小浴室を置いていたので、時間貸しの扱いを検討することになりました。


 療養客を扱う人は、湯の温度表を見ていました。


「療養という言葉を使うなら、何でも効くとは書かないでください。温泉へ入れば病気が治る、と売る業者が必ず出ます。こちらで認める説明を決めておいた方がよろしいでしょう」


 どろちゃんは、そこではすぐに答えました。


「それは絶対に必要です。治るって勝手に言わせない。入浴してよい人、よくない人も療養施設側で見ます」


 旅行業者さんは、どろちゃんの答えを帳面へ書きました。


 商品を売る側にとっても、あとで事故が起きるより、その方がよいのです。


     ◇ ◇ ◇


 フードコートでは、視察が一番にぎやかになりました。


 全員が同じ料理を食べる必要はありません。


 巡礼者向けの安い食事。


 肉料理。


 魚。


 煮込み。


 パン。


 病人向け。


 軽食。


 いくつかの厨房から選べます。


 団体旅行を扱う男は、皿より列を見ました。


「百人が一度に来た場合、入口で詰まります。食券のようなものを先に持たせられませんか。旅行代金に食事を含めるなら、現金を一人ずつ払わせる時間が無駄です」


 いつもの人が興味を持ちました。


「宿泊券と一緒に食事券を渡す、ということでございますか」


「そうです。肉、魚、軽食で券を分けてもいい。旅行代金の中に含めるなら、こちらは団体分をまとめて支払います。店は客一人ずつから銭を受け取らなくて済む」


 別の業者が、今度は業者側の取り分を尋ねました。


「団体を百人集めた者へ、どのくらい戻りますか。客へ同じ値段で売るのに、こちらの利益がなければ、わざわざ遠くの町で募集する者はおりません」


 いつもの人は笑いました。


「ようやく、その話が出ましたね。人数と滞在日数で手数料を変えるつもりです。一泊の二十人と、一か月の五十人を同じ扱いにはいたしません」


「でしたら、早く表をください。良い場所でも、売る値段が分からなければ商品にはできません」


 ここでも、観光の感想より商売の話が先でした。


     ◇ ◇ ◇


 最後に、駅へ戻りました。


 売店ではピロシキとジャム入り紅茶を出していました。


 まだ一般営業前なので、今日は視察の人たちに試してもらいます。


 肉。


 キャベツ。


 きのこ。


 じゃがいも。


 寒いホームで食べるには都合がよい。


 巡礼団を扱う人は、一つ食べてから言いました。


「これは、列車へ乗る前に配れますね。帰りの客に持たせれば、途中で食堂車へ全員を入れなくて済みます」


 商人団体を扱う男は、別のことを考えました。


「百個、二百個を同じ時刻に出せますか」


 売店の担当者が、事前注文なら可能だと答えます。


「なら、団体券に一個付けてもいい。温泉へ来た人が、帰りにこれを持つようになれば名物になります」


 裕福な旅行を扱う人は、ジャム入り紅茶の方を見ました。


「駅で飲むものとしてはよいですが、列車へ持ち込むなら容器を考えてください。揺れた車内で熱い紅茶をこぼす方が出ます」


 誰も、「おいしい」で終わりません。


 どこで売るか。


 何人へ出すか。


 誰が払うか。


 列車へ持ち込めるか。


 そういう話になります。


 いつもの人は、最後に全員を駅の会議室へ集めました。


「今日は、褒めていただくためにお呼びしたのではございません。皆様が実際にお客様を連れて来るとき、困るところを出していただくためです。今日出た内容はこちらで整理し、直せるものは直します。そのうえで、宿泊、巡礼、療養、団体、それぞれの料金と条件をお送りします」


 最初に巡礼団の人が答えました。


「私は巡礼だけで一つ商品を作れます。鉄道、宿、食事、教会の時間が一つにまとまるなら、今までよりずっと扱いやすい。ただし、安い宿の定員と、典礼の予約方法を先に決めてください」


 療養客を扱う人は、もっと慎重でした。


「私は医師側とも相談します。長期料金と食事、それから、温泉の効能を誇張しない説明が必要です。それが整えば、冬でも客を送れます。むしろ、何週間も滞在する客は季節の穴を埋めます」


 裕福な家族の旅行を扱う人は、ホテルの部屋割りを気にしていました。


「私は少人数ですが単価が高い客を扱います。使用人部屋と荷物、それから小浴室の予約が整えば売れます。ローマの本物の彫像が入れ替わるなら、二度目の旅行にも理由ができます」


 商人組合の団体を扱う男は、すでに人数を考えていました。


「私は百人単位で試します。列車一編成を押さえる条件と、食事券、荷物札、駅での誘導を決めてください。そこまで揃えば、温泉そのものを知らない人へでも売れます」


 最後に、鉄道利用の商品を組む人が言いました。


「私が売るのは、目的地だけではありません。乗り換えなしで山へ上がること自体が商品になります。本線の列車へ支線機を付け、そのまま温泉駅まで行く。途中の無人駅も珍しい。往復の列車時刻が固定できれば、出発地ごとに団体を作れます」


 いつもの人は、一人ずつの話を聞き、最後に帳面を閉じました。


「では、次は皆様のお客様を連れて来てください。こちらも、それまでに今日見つかったところを直しておきます」


 第一陣は、観光客ではありませんでした。


 けれど、この人たちが帰ったあとから、温泉郷には本当の旅行客が来るようになります。


     ◇ ◇ ◇


 フランソワ温泉郷駅の売店では、ピロシキがよく売れました。


 温泉へ来たら食べる。


 帰る前にも買う。


 ジャム入り紅茶と一緒に買う。


 何年かすると、温泉へ行ったことのある人が、まだ行ったことのない人へ説明するとき、浴場や教会の話に混じって駅のピロシキまで話すようになりました。


 長野のおやきのように、その場所へ行くと食べるものになっていきます。


 売れれば、油を使います。


 フードコートでも油を使います。


 油は、いつまでも食用にはできません。


 古くなれば交換します。


 その油は捨てません。


 容器へ集めます。


 食べ物のかすを除き、水分を抜き、エルレンフェルトへ送ります。


 そこから先は工場の仕事です。


 小鳥ちゃんが使う固体燃料の、燃料側の原料になります。


 温泉客が増えます。


 ピロシキが売れます。


 古い揚げ油が増えます。


 油が鉄道で戻ります。


 ピラジョーク君になります。


 小鳥ちゃんが飛びます。


 温泉地の売店でピロシキを買った人は、自分の食べたものの油が、あとで空のずっと上まで行くとは知りません。


     ◇ ◇ ◇


 フランソワさんが最初に湯気を見た冬から、もう何年も経っていました。


 同じ季節。


 今度は列車で温泉郷へ向かいます。


 本線から支線へ。


 麓の駅で低速用の支線機が前へ付きます。


 列車は二両の機関車に引かれて山へ入りました。


 途中の交換駅には、相変わらず町がありません。


 雪の斜面。


 橋。


 谷。


 曲線。


 そして、四線の終端駅が見えます。


 ホームには人がいました。


 巡礼団。


 長く療養する人。


 旅行業者の旗を見ながら集まる団体客。


 聖職者。


 ホテルの係。


 荷物札は色分けされています。


 第一ホテル。


 療養施設。


 巡礼宿。


 視察のときに出た意見が、そのまま駅で使われています。


 売店からは、揚げ物の匂いがしました。


 遠くには教会の屋根。


 その向こうには、冬の空へ白い湯気が上がっています。


 何年か前と、同じものです。


 けれど、周りは何も同じではありません。


 どろちゃんが隣で窓の外を見ました。


「最初は、あれだけだったんだよね」


 フランソワさんは、湯気の方を見ました。


「はい。森の中に白いものが見えただけでございました。そのときは、地上へ降りる場所すらありませんでした。まさか、こちらへ鉄道が上がり、教会やホテルまで出来るとは考えておりませんでした」


「私も、最初から全部考えてたわけじゃないよ。お湯がありそうだから見に来て、土地が買えたから線路を考えて、線路を引くなら人を呼ぼうってなって、それなら泊まるところもいるし、ローマのお風呂も作りたいし、教会もあった方がいいし」


 フランソワさんは、少し笑いました。


「その結果が、こちらでございますね」


 列車が止まります。


 ホームの駅名が見えました。


 フランソワ温泉郷。


 フランソワさんは、もう名前を変えてほしいとは言いませんでした。


 ホームの向こうでは、次の列車を引く本線機が留置線で待っています。


 麓から上がってきた支線機は、到着列車の前で仕事を終えます。


 教会の鐘が鳴りました。


 売店では、ピロシキを何十個も並べています。


 修復ラボには、次にローマへ返す彫像があります。


 療養施設には、何週間も滞在する人がいます。


 旅行業者さんたちは、今では自分たちの商品としてこの温泉郷を売っています。


 雪の山からは、今も湯気が上がっています。


 最初にあったのは、その湯気だけでした。


 それを見つけた人の名前が、今は駅に書かれています。


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