98貴族令嬢は、学食で鉄道とトンネルの話をします。 ライデン大学学食でのドロティア教授と学生の会話
第98章 貴族令嬢は、学食で鉄道とトンネルの話をします
お昼の鐘が鳴って少しすると、ライデン大学の学食は一気に混み始めました。
講義室からそのまま来た学生は、ノートや定規を抱えています。
工房から来た人には金属の粉が少し付いています。
地質の実習帰りらしい学生は、靴の泥を入口のところで落としていました。
入口の壁には、今日の食事を書いた板が掛かっています。
パンと豆のスープ。
根菜と肉の煮込み。
茹でた卵。
塩漬けの魚。
林檎。
チーズ。
紅茶。
値段は、その横です。
ここはライデンなので、値段はネーデルラントで普段使うお金です。
1グルデンが20ストゥイフェル。
1ストゥイフェルが8ドゥイト。
学食でグルデン金貨や大きな銀貨を出す人はあまりいません。
昼ごはんですから、ストゥイフェルとドゥイトの方をよく使います。
パンと豆のスープなら1ストゥイフェル。
根菜と肉の煮込みまで付けて2ストゥイフェル。
卵は4ドゥイト。
魚は1ストゥイフェル。
林檎は2ドゥイト。
チーズは4ドゥイト。
紅茶は大きなポットから1杯2ドゥイトです。
毎日食べる場所なので、町の食堂よりかなり安くしてあります。
学生向けの補助も入っています。
奨学金を受けている学生には食費の補助もあるので、お金がないから昼を抜く、ということを出来るだけ減らしていました。
「今日は煮込み、まだある?」
前に並んでいた学生が受取口の人へ聞きました。
「まだあります。ただし、次の鍋で終わりです」
「じゃあ2ストゥイフェル」
「卵は?」
「今日はいいです」
その後ろの学生はパンとスープだけでした。
1ストゥイフェルです。
さらに後ろでは、
「林檎を1個追加すると、夕方の実験まで持つかな」
「持たない。卵も付けろ」
「4ドゥイト増える」
「倒れるより安い」
そんな話をしています。
学食です。
パンを切る音。
木の椅子を引く音。
皿を置く音。
小銭を数える音。
向こうの卓では、誰かが数学のことで言い合っています。
別の卓では、午後の実験で誰が測定器を使うか相談していました。
わたしとフランソワさんは、窓際の長い卓に座りました。
わたしは煮込み付き。
パンとスープと煮込みで2ストゥイフェルです。
林檎も1つ取ったので、2ドゥイト追加。
フランソワさんも同じものを取りましたが、紅茶を2人分持ってきました。
「お嬢様。お2人分で5ストゥイフェルでございます」
「紅茶も入ってる?」
「はい」
「あとでまた飲むかも」
「その場合は、お2人で4ドゥイト追加でございます」
「学食でも会計が厳しい」
「皆様と同じでございます」
伯爵でも教授でも、学食の紅茶は1杯2ドゥイトです。
今日は2人だけではありません。
ライデン大学の学生が4人、一緒です。
専攻は少しずつ違います。
数学をやっている人。
地質を見ている人。
機械の方へ進みたい人。
それから、鉄道車両の連接構造をずっと追いかけている人。
学生たちも、それぞれ自分で小銭を出して昼食を持ってきました。
数学の学生はパンとスープと卵。
地質の学生は煮込み付き。
機械の学生は煮込みに卵まで追加。
連接車両をやっている学生はパンとスープだけでした。
「それだけ?」
わたしが聞くと、学生は少し困った顔をしました。
「夕方、町で食べる約束があるので」
「ほんと?」
「本当です。昼代を節約しているわけではありません」
「ならいいけど」
「先生に昼食まで確認されるとは思いませんでした」
「倒れたら困るから」
フランソワさんが隣で何も言わずに紅茶を飲みました。
食事の真ん中には、料理ではないものも広がっていました。
地図です。
「お嬢様、スープをこぼされませんように」
「大丈夫だよ」
フランソワさんが地図の端を少し持ち上げ、その下へ布を1枚入れました。
「それ、大丈夫って言ってる人にすること?」
「念のためでございます」
学生の1人が笑いました。
「先生、前にも図面の上へソースを落としましたよね」
「1回だけ」
「1回あれば十分です」
味方がいません。
わたしはパンをちぎって、地図の方を見ました。
「じゃあ、いま走ってるところから書こうか」
学生が鉛筆を持ちます。
「フランスは全部ですか」
「全部って言うと広すぎるよ。まず環状線」
パリから西へ。
ル・マン。
ナント。
ボルドー。
そこから南へ下り、トゥールーズ。
モンペリエ。
マルセイユ。
リヨン。
ディジョン。
そしてパリへ戻る。
大きな輪が1本、地図の上にできました。
「これはもう全線開通済み」
「かなり大きいですね」
「大きいよ。だから儲かる」
学生が顔を上げました。
「先生が、そういう言い方をするのは珍しいですね」
「だって儲かるもの」
わたしはボルドーから南西の方へ指を動かしました。
「ここも。ボルドーからサン・セバスティアン、ビルバオ、ブルゴス、マドリードまで開いてる」
「マドリードからリスボンもですね」
「うん。だからパリからマドリードまで列車が走る。リスボンまでもつながってる」
別の学生が、東側へ線を引きました。
「カルカソンヌからバルセロナも開通済み」
「そう。パリからバルセロナ行きも走るよ」
「スペインの中では、まだ南が工事中でしたね」
「バルセロナからセビリアは工事中。セビリアからマドリードも工事中。その先、セビリアからラゴスを通ってリスボンまではまだ計画」
学生は線の種類を変えました。
開通済みは実線。
工事中は二重線。
計画中は点線。
「見やすいね」
「最初からそうすればよかったのでは」
「ごはん食べながら思いついたの」
フランソワさんが何も言わずにお茶を飲みました。
たぶん、それ以上は言わない方がいいと思ったのでしょう。
そのころには、入口の列が少し短くなっていました。
代わりに席が埋まっています。
6人掛けの卓へ7人座っているところもあり、後から来た学生が空いた椅子を探して歩いています。
受取口の方から声がしました。
「煮込み、あと12です」
「11!」
近くの学生がすぐに訂正しました。
いま1皿受け取ったところでした。
「12って聞いてから並んだのに」
「まだ11あるだろ」
「午後の講義が同じ人数だけ終わったら負ける」
学問とは関係のないところでも、学生は真剣です。
わたしは林檎を半分食べてから、地図を少し中央へ寄せました。
隣の卓の人が椅子を引いたとき、紙の端へ当たりそうになったからです。
◇ ◇ ◇
「北はどうします?」
「ユトレヒト」
地図の上で、学生の鉛筆が北へ動きました。
「ユトレヒトからバーゼルまで列車が走ってる。途中でドイツ側の幹線に入る」
「では、アムステルダムへ行くなら?」
「パリからユトレヒトまで行って、そこで乗り換え」
「ウィーンへは?」
「それも行けるよ」
今度は東へ。
パリ。
ストラスブール。
ケール。
バーデン=バーデン。
カールスルーエ。
シュトゥットガルト。
ミュンヘン。
リンツ。
ウィーン。
「マンハイムへは上がらないんですね」
「パリからウィーンへ行く列車はね。三角線でそのまま東へ抜ける」
学生は地図の上で線をつなげました。
「先生。こうして見ると、もうかなり国際鉄道ですね」
「そうだね」
「まだ鉄道が出来始めて、そんなに時間が経っていないのに」
「競争相手がいないからね」
「馬車は?」
「同じだけ運べない」
「船は?」
「海と川から離れられない」
わたしはマルセイユを指しました。
「ここで地中海から荷物を上げて、カレーまで鉄道で持っていける」
次にストラスブール。
「こっちへ持っていけばライン川」
ユトレヒト。
「こっちでも水運へつなげられる」
学生が少し考えました。
「鉄道と船が競争するというより、船の届かないところを鉄道がつなぐんですね」
「そう。それがいちばんおいしい」
「また儲かる話になりました」
「今日はそういう日なの」
機械の学生が煮込みの皿をきれいにしてから、まだ残っているパンを見ました。
「もう1個買ってきます」
「パンだけ追加でも2ドゥイトだよ」
「2ドゥイトです」
「覚えてるんだ」
「毎日来ていますから」
学生は2ドゥイトを持って立ち上がりました。
すぐ隣では、2人の学生が1皿のチーズを半分にしていました。
昼代を節約しているのかと思いましたが、話を聞くと単に両方とも少しだけ欲しかったようです。
高価な研究機械や1,000km単位の鉄道の話をしていても、追加のパンは2ドゥイトです。
パンを持って戻ってきた機械の学生が、手の中の小銭を見ました。
「先生。国際列車って、運賃は何で払うんです?」
「乗るところのお金」
「共通のお金じゃないんですか」
「ないよ」
わたしは地図の端へ、今度はお金の名前を書き始めました。
「ここ、ライデンならグルデン、ストゥイフェル、ドゥイト。フランスならリーブル・トゥルノワ。イングランドならポンド、シリング、ペニー。スペインならレアルやマラベディ。ポルトガルもレアルって呼ぶお金があるけど、スペインのレアルと同じお金じゃない」
「同じ名前なのに?」
「そういうの、あるんだよ」
数学の学生が鉛筆を持ちました。
「では、パリからマドリードまでの切符は?」
「会社どうしでは区間ごとに計算して清算する。お客さんには買った場所の通貨で値段を出せるようにする。換算率はずっと同じじゃない」
「毎日変わるんですか」
「毎日とは限らないけど、変わる。特にスペインはいま大変」
「戦争のせいですか」
「それだけじゃないよ。英国のお金が入りすぎてる」
4人とも少し黙りました。
「入りすぎる、ということがあるんですか」
「あるよ」
わたしはスペインの上へ、さっきより太い線を何本か引きました。
「マドリードからブルゴス、ビルバオ、サン・セバスティアンを通ってボルドーまで、もう開いてるでしょう。マドリードからリスボンも開いた。それとは別に、バルセロナからセビリアを造ってる。セビリアからマドリードも造ってる」
「全部、英国資金」
「かなり大きい。英国から見れば投資だから、儲かると思えばお金を入れる。でも、お金だけ今日2倍に入ってきても、石工さんや測量屋さんや家やパンが、明日2倍に増えるわけじゃないでしょう」
地質の学生が先に気づきました。
「人を取り合う」
「そう。鉄道工事が給料を上げれば、ほかの仕事からも人が来る。工事の近くでは宿も足りない。家賃も上がる。食べる人が急に増えれば、食料も上がる」
「でも、英国からレールや機械を買えば、その分は増やせますよね」
「輸入できるものはね。だから何もかも同じように上がるわけじゃない。英国との契約で持ってくるレールや機械より、現地でしか用意しにくい家、土地、人、馬車、食べ物の方が先に上がりやすい」
数学の学生が地図の横へ書きました。
「お金が増える速度が、物と仕事を増やす速度より速い」
「だいたいそう」
「ではスペインの人は、みんな豊かになるわけではない?」
「鉄道へ行って給料が上がる人はうれしいよ。でも給料が同じままの人まで、パンと家賃が上がる。だから同じ国の中でも全然違う」
連接車両の学生が言いました。
「それで、スペインの通貨で資産を持ちっぱなしにするのも危ない」
「そういうこと」
ちょうど、次に話そうとしていたところでした。
◇ ◇ ◇
「フランスの鉄道は、全部ルイ14世陛下のものではないんですよね」
今度は経済の話になりました。
「ストラスブール線はサン・ルイの個人資産」
「個人なんですか」
「うん。あれは最初に自分でお金を出したから」
学生が少し驚いた顔をしました。
「では、環状線も?」
「それをやろうとしたら、いつもの人に止められた」
「いつもの人?」
「トルシー侯でございます」
フランソワさんが補いました。
「さすがに国中の幹線を全部王様の個人資産にするのはまずいって」
「それでSNCFですか」
「そう。でもサン・ルイは株をかなり持ってる」
「結局、儲かるのでは?」
「儲かる」
学生たちが笑いました。
「先生、今日それしか言っていませんよ」
「だって本当に儲かるから」
「ドイツ側はDBでしたね」
「そこがちょっと変」
わたしは地図の横へ数字を書きました。
66.7。
16。
17.3。
「4か国共同銀行が66.7%」
「2/3ですね」
「わたしが16%」
「先生個人ですか」
「うん」
少し間が空きました。
「……先生、鉄道会社の株まで持ってるんですか」
「持ってるよ」
「教授なのに」
「伯爵でもございます」
フランソワさんが言いました。
「それもそうでした」
学生がもう1度数字を見ます。
「残りの17.3%は?」
「カナリアの人たちの資産」
「カナリア?」
「残っていた資産を、そのままスペイン側だけへ置いておくと、スペインの財政が悪くなったときに一緒に困るでしょう。いまみたいに物価がどんどん上がる時期なら、同じ額のお金を持っていても買えるものが減ることもある」
わたしはパンを1口食べました。
「だからお父様が、外にも収益資産を持たせたの。DBの株にしてある。ドイツ側の鉄道が働いて出した利益なら、スペイン国内だけの景気に全部引っぱられない。配当はたまったところで、ときどきカナリアへ回す」
学生が数字を見ながら言いました。
「ドイツで貨物列車が走ると、カナリアへお金が行く」
「そうなるね」
「変なつながりですね」
「でも、国の財政だけに生活を預けるよりいいでしょう」
フランソワさんは静かにうなずきました。
紅茶がなくなりました。
「もう1杯いる?」
わたしが聞くと、4人のうち3人が手を上げました。
「では、わたくしが」
フランソワさんが立とうとしました。
「自分の分は自分で払うよ」
学生の1人が小銭を出しました。
「先生に毎回おごってもらったら、教授と昼を食べる学生だけ得になります」
「それもそうだね」
結局、みんな自分の2ドゥイトを出しました。
受取口では、昼の混雑がひと段落して、今度は皿を洗う音の方が大きくなっています。
奥では次の講義へ急ぐ学生が、残ったパンを紙に包んでもらっていました。
◇ ◇ ◇
「では、オーストリア国鉄は?」
地質をやっている学生が聞きました。
「持株会社はわたしが100%」
また卓が静かになりました。
「先生」
「なに?」
「さっきから個人資産の規模がおかしくないですか」
「わたしもそう思う」
正直に答えました。
「ただし、関連会社まで全部100%って意味じゃないよ。現地の人や会社が入っているところもある」
「100%なのは?」
「トンネル関係」
その瞬間、地質の学生の顔が変わりました。
「そこだけは手放さないんですか」
「うん」
「なぜです?」
「掘りたいから」
「どこを?」
「いっぱい」
地図の別の紙を引っ張りました。
アルプスです。
「まず、ミラノからバーゼル」
コモ。
キアッソ。
ルガーノ。
ベリンツォーナ。
そこから山の下を抜け、ルツェルン方面へ出て、バーゼル。
「既存の鉄道がないから、昔の線形に付き合わなくていい。最初から貨物列車が楽な線にする」
「その鉄道も先生の会社ですか」
「違うよ」
わたしは首を振りました。
「スイス側に新しい私鉄を作る。お金を出すのはサヴォさんとサン・ルイ。会社の自己資本で造る予定」
「先生は?」
「穴の方」
「また穴ですか」
「また穴」
「マルセイユからジェノヴァの海岸線は改良しないんですか」
「しない。もう走ってるから」
「でも、海岸の細いところを曲がりながら走る線ですよね」
「使えてるなら、いまは使う。何でも新しく掘り直してたら、お金がなくなるよ」
地質の学生が笑いました。
「その割には、アルプスには大きな穴を掘るんですね」
「そこは、新しく通す意味があるから」
機械の学生が地図の横へ別の線を書きました。
「電気はどうするんです?」
「新しい長距離線なら、単相交流25,000ボルト、60ヘルツを基本にしたい」
「直流1,500ボルトじゃなくて?」
「列車が多いところなら直流もいいよ。機関車が簡単になる。でも1,500ボルトだと電流が大きいから、地上の変電所をたくさん置かないといけない」
「交流は反対ですか」
「機関車が高い。変圧器を積んで、それからタコさん」
「タコさん?」
「水銀整流器」
「ああ」
「25,000ボルトを車内で下げて、整流して直流電動機を回す。機関車は重くなるし高くなる。でも、列車本数の少ない長距離線なら、地上設備を減らせる方が効く」
数学の学生が言いました。
「では、列車本数の多い都市近郊は直流。長い山岳線は交流」
「だいたいね。何でも1つの方式に揃えればいいわけじゃない」
「境目では?」
「機関車を替える」
「両方走れる機関車は作らないんですか」
「いまは作らない。高圧交流の設備と1,500ボルトの大電流設備を1両へ詰め込むと、高いし複雑だし、間違えたときが怖い」
「では客車はそのまま」
「うん。機関車だけ替える。半導体がずっと進めば、そのうち考えてもいいけど」
「半導体?」
「そっちは、また別の話」
「ベーストンネルですか」
「そう」
「長くなりますよ」
「蒸気じゃないから、長さそのものはそれほど怖くない」
「でも水と地熱は?」
「怖い」
「破砕帯は?」
「もっと怖い」
「測量誤差は?」
「すごく怖い」
学生は満足そうにうなずきました。
「安心しました」
「何が?」
「先生が何でも簡単だと言わなくて」
「簡単じゃないもの」
わたしは地図の上を指でたどりました。
「だからウィーンで研究してる。TBMもNATMも、機械だけ持っていけば使えるってものじゃないから」
「先生」
機械の学生が手を上げました。
学食なので、別に上げなくてもいいのですが。
「TBMは分かります。丸い刃物を前で回して、山を削りながら進む機械ですよね」
「だいたい合ってる。でも、前に大きな円盤が付いていて、それを回せば全部終わり、ではないよ」
わたしは紙の端に丸を描きました。
「前のカッターヘッドで岩を壊す。後ろから機械そのものを押す。硬い岩なら坑壁へグリッパーを押し付けて反力を取る方式もあるし、崩れやすいところなら機械の外側を筒みたいなシールドで守りながら進む方式もある。掘ったものは後ろへ出さないといけないし、刃は減るし、軸受も熱を持つし、水が出たらそれも処理する」
「列車みたいに、後ろへ設備が続くんですか」
「そう。掘る頭だけがTBMじゃないの。電気、排水、換気、掘った岩を運ぶ設備、部品、測量。長くなればなるほど、後ろ全部が工場みたいになる」
機械の学生は、さっそく紙へ何か書き始めました。
今度は地質の学生が聞きます。
「ではNATMは機械の名前ではない?」
「違うよ」
「何をする方法なんですか」
わたしは、さっき描いた丸の外側に、もう1つ線を描きました。
「山を全部敵だと思って、最初からものすごく頑丈な筒を入れて支えるんじゃなくて、掘ったあとの地山そのものにも支えてもらう方法」
「岩に?」
「岩にも、土にも。その代わり、信用しっぱなしにはしない」
地質の学生が笑いました。
「そこが先生らしいですね」
「だって動くもの」
少し掘る。
すぐに地山を見る。
必要なら吹付けをする。
ロックボルトを入れる。
鋼製の支保を足す。
そして、壁や天井がどれくらい動いたかを測る。
紙の上へ順番に書きました。
「最初から『この山なら全部この厚さ、この本数』って決めて終わりじゃない。掘って、観察して、測って、その場所に合わせて支え方を変える」
数学の学生が口を挟みました。
「測るのは、どのくらいの変位ですか」
「そこも場所で違うよ。大事なのは、何ミリだから安全、何ミリだから危険って数字1個だけを見ることじゃない。時間に対して動きが収まっているのか、まだ増えているのか。左右で違うのか。掘り進んだあとに急に変わったのか」
「変位の速度も見る」
「そう。記録を取らないNATMは、ただ穴を掘って吹付けしただけになっちゃう」
学生がうなずきました。
「なるほど」
「ストラスブール線の山のトンネルでも使ったよ」
4人とも地図を見ました。
「ファルスブールの方へ抜けた、あのトンネルですか」
「うん。最初はもっと時間がかかると思ってた」
「でも、線路より先に出来ましたよね」
「出来ちゃった」
わたしはスープを1口飲みました。
「NATMを使って、地山を見ながら支保を変えて掘ったら、予定より早く抜けちゃった。柔らかいところはネーデルラントの人たちの地盤と排水の知識も使ったし、硬いところは岩そのものに働いてもらえた」
「それで、最後に待ったのが」
「レール」
全員が笑いました。
「トンネル出来てる。路盤も先まで出来てる。でもレールが来ない」
「工事としては、ずいぶん変な詰まり方ですね」
「100m単位で組んだ軌道をどんどん持っていく方式にしても、そもそも圧延して検査したレールがなければ運べないもの」
連接車両をやっている学生が、パンを持ったまま言いました。
「つまりストラスブール線は、NATMの実地訓練にもなった?」
「なった。でも1回うまくいったから、次も同じようにやればいい、にはしないよ」
「地質が違うから」
「そう。アルプスはもっと嫌なものがいっぱい出てくる」
「高い地圧、破砕帯、湧水、地熱」
「そのへん全部」
わたしはウィーンのところを指しました。
「だから研究部門を置いてる。TBMを運転できる人、壊れたところを直せる人、カッターを交換できる人。NATMで切羽を見て支保を変えられる人。先進ボーリングをする人、測量する人、水を読む人」
「1つの専攻では足りませんね」
「足りないよ。だから、あなたたち4人みたいに散ってる方がちょうどいい」
「私たち、いま採用面接を受けています?」
「まだごはん」
フランソワさんが口を挟みました。
「お嬢様の場合、お食事をしながら採用のお話になることは十分あり得ます」
「まだ勧誘してないよ」
「『ウィーンで研究している』までは、すでにお話しになっております」
学生たちが笑いました。
「トンネル会社が学校みたいになるんですね」
「学校というより、現場付きの学校かな」
フランソワさんが続けました。
「宿舎も食堂もございます」
「給料もいいよ」
「お嬢様」
「大事でしょう」
「否定はいたしません」
学生が笑いました。
「募集するとき、なんて言うんです?」
「にいちゃん、けえへんかー。給料ええで、とまるとこあるで、めしもうまいで」
「先生」
「ほんとだよ」
「その言葉はどこの言葉ですか」
「前に、アジアの人に聞いた言葉」
「アジア?」
「うん。ちょっと面白かったから覚えてたの」
それ以上は説明しません。
「なんやったら、エルレンフェルトの国籍も取れるで」
「そこまで?」
「腕のある人に、工事が終わるたび逃げられたら困るもの」
地質の学生が少し真面目な顔になりました。
「家族も連れて来られるなら、来る人は多そうですね」
「うん。坑夫だけじゃないよ。測量、電気、機械、鍛冶、医療、資材、料理。長いトンネルは穴だけ掘ってても出来ないから」
◇ ◇ ◇
「先生」
連接車両をやっている学生が、今度は地図ではなく紙の端へ貨車の絵を描き始めました。
「海上コンテナの方は、どうします?」
「まだ試験中」
「有蓋車のままでは、港で積み替えに時間がかかります」
「だから箱ごと運びたいの」
ライデン大学では、海上コンテナそのものと、それを持ち上げるクレーン、それから2段積みに使う貨車を一緒に試作しています。
いまの貨物列車は、基本的には有蓋車です。
荷物を車内へ入れて、到着したらまた出します。
箱ごと運べれば、その作業が大きく減ります。
「貨車の床は、もっと下げられます」
「連接だからね」
学生が描いた貨車は、車両と車両の間に車輪があります。
「普通の台車なら、車輪の直径とサスペンションの動く分だけ、どうしてもその上へ床を上げないといけない。でもうちの連接なら、車輪は車体の間」
「荷物を載せるところには車輪がない」
「そう。だから荷台はもっと下へ落とせる」
学生が線を1本引き直しました。
「このくらいまで?」
「台枠の強度と最低地上高が取れれば」
「2段積みでも、上に余裕が出ますね」
「そのためにトンネルも最初から大きくしてる」
フランスの環状線。
パリからカレー。
パリからストラスブール。
パリからユトレヒトへ向かう幹線。
そのあたりは、最初から現代の海上コンテナを2段積みした列車が通れる大きさを考えて、トンネルや橋の下の空間を取っています。
「まだコンテナ列車は走ってないのに、穴だけ先に大きいんですね」
「あとから掘り直す方が嫌でしょう」
「それは嫌です」
「じゃあ大きくしよう」
「先生の設計、だいたいそれですね」
「あとで困るよりいいよ」
◇ ◇ ◇
地質の学生が、アルプスの地図へ戻りました。
「ミラノ―バーゼルの次は?」
「レッチュベルクベースとか、シンプロンベースとか」
「まだ掘るんですか」
「掘る」
「最終的には?」
わたしは少しだけ考えました。
フランソワさんは、たぶん答えを知っています。
「ドーバー」
学生の鉛筆が止まりました。
「海の下ですか」
「海の下」
「カレーから英国まで?」
「いつかね」
「それでアルプスでTBMを?」
「TBMだけじゃないよ。NATMも、先進ボーリングも、湧水の処理も、長距離の測量も。人の方を先に育てておかないと、海の下へ機械だけ持っていっても掘れないでしょう」
「アルプスそのものが訓練現場なんですね」
「営業する鉄道を本当に造りながらね」
「まずミラノからバーゼルまで仕上げる。シンプロンも、時間をかければ掘れると思う。その次がドーバー」
「海の下へ行く前に、山の下で一通り経験する」
「そういうこと」
「練習という規模ではありません」
「本番も大きいから」
「建設費は、どうするんです?」
「ピロシキで貯める」
4人とも止まりました。
「……先生?」
「全部は無理だよ。地質調査代くらい」
「それでも、海峡トンネルの調査費がピロシキなんですか」
「売れればね」
別の学生が笑いました。
「その前に、ピレネーもありますね」
「英国がお金出してくれるなら、新線に切り替えたい」
「カルカソンヌ―バルセロナ?」
「うん。今の線も使えるけど、貨物が増えたら低勾配の新線が欲しくなる。シエラネバダの方も同じ」
「またトンネルですね」
「仕事なくならないでしょう」
今度は学生全員が笑いました。
◇ ◇ ◇
「就職先として、本当にありですね」
機械の学生が言いました。
「どこ?」
「ウィーンです。トンネル研究部門」
「来る?」
「給料次第です」
「ええで」
「先生、それで勧誘するんですか」
「泊まるとこあるで」
「食事は?」
「うまいで」
「国籍は?」
「条件満たしたら、取れるで」
学生が隣の学生を見ました。
「ちょっと本気で考える」
「おい」
「だって、大学出てからTBM触れるところなんて、ほかにないだろ」
「それはそうだけど」
フランソワさんが、そこで初めて少し大きく笑いました。
「お嬢様。勧誘は成功しているようでございます」
「まだ卒業してないよ」
「卒業後のお話でございます」
「じゃあ予約?」
「先生、勝手に予約しないでください」
「じゃあ候補」
それならいいらしいです。
学食の周りでは、別の学生たちがまだ普通に昼ごはんを食べています。
こちらの卓だけ、パリからマドリードへ線路が伸び、ユトレヒトからバーゼルへ線が引かれ、アルプスの下に長いトンネルが増え、最後にはドーバー海峡まで穴が開きました。
でも、授業ではありません。
みんな食事の途中です。
いつの間にか、煮込みの鍋は空になっていました。
受取口の板にも、小さく「終了」と書き足されています。
遅く来た学生は、パンと豆のスープ、それにチーズを取っていました。
安い組み合わせですが、午後を過ごすには十分です。
遠くで午後の講義を知らせる鐘が鳴りました。
「あ」
数学の学生が時計を見ました。
「次、何時?」
「もう移動した方がいいです」
「じゃあ、この地図だけ畳もう」
「先生、それを言いながら新しい線を書かないでください」
「1本だけ」
「1本が長いんです」
慌てて食べ終える学生。
まだ紅茶を飲んでいる学生。
皿を返しに立つ人。
午後の講義を諦めたわけではなく、廊下の向こうへ走っていく人。
学食が昼から午後へ切り替わっていきます。
「お嬢様」
「なに?」
「地図の上へパンくずが落ちております」
「あ」
フランソワさんが、最初に敷いておいた布を少し持ち上げました。
「やっぱり必要でございましたね」
「……うん」
学生たちが笑いました。
わたしも笑いました。
たぶん、こういうのが大学なのだと思います。
【小さな説明】
■ 1704年末の通貨
この世界では共通言語があっても通貨統合はしていません。ライデンではネーデルラントのグルデン、ストゥイフェル、ドゥイトを使います。フランス、イングランド、スペイン、ポルトガルなども、それぞれ当時の現地通貨を使います。
国際列車では、乗客へは購入地の通貨で運賃を示し、鉄道会社どうしは区間ごとの金額を換算して清算します。スペインでは英国からの巨大な鉄道投資に対して、住宅、土地、熟練労働、生鮮食品など現地供給が追いつかず、作中では強い物価上昇が起きています。
なお、本章のライデン大学食堂の個々の価格は、作中で学生食堂として設定した価格です。史実の1704年ライデン大学の価格表を再現したものではありません。
■ 鉄道の電化方式
本作の鉄道では、直流1,500Vと単相交流25kV・60Hzを線区条件によって使い分けます。
直流1,500Vは車上機器を比較的簡単にできますが、大電流になるため地上の変電設備が重くなります。列車本数の多い区間に向きます。
交流25kV・60Hzは機関車に変圧器と水銀整流器などを積むため車両価格は高くなりますが、長距離・低頻度の線区では地上設備を減らせます。初期の交流機関車は、変圧器で降圧したあと水銀整流器「タコさん」で直流にし、直流主電動機を駆動します。
この時点では交流・直流両用機を常用しません。方式の境界では客車・貨車をそのままにして機関車を交換します。複電源車は、半導体技術が十分進んだ後の課題です。
■ アルプス新線とトンネル
マルセイユ―ジェノヴァの既存沿岸線は、現時点では大規模改良をせず、そのまま使用します。
一方、新しいスイス私鉄はサヴォさんとルイ14世の投資で設立し、自己資本を中心に建設します。ミラノ―バーゼルを結ぶ新線では、既存鉄道の線形に縛られないため、長大トンネルを含む低勾配の新線を計画できます。
ウィーンのトンネル部門は、NATM、TBM、先進調査、湧水処理、長距離測量などを研究し、実際の工事で人材を育てます。ミラノ―バーゼルを完成させた後の大目標が、ドーバー海峡トンネルです。
■ 低床連接貨車
ライデン大学の鉄道研究は連接車両から始まっています。車輪と支持点を車両間へ置く方式では、貨物を載せる中央部分を車輪径やサスペンションのストローク分だけ高くする必要がありません。
そのため、海上コンテナ用の低床貨車と相性がよく、大学ではコンテナ、クレーン、2段積み低床連接貨車をまとめて試験しています。営業貨物はまだ有蓋貨車が中心です。




