10空飛ぶじょろは、川を越えます。お姉様がレーィカちゃんで川の向こうまで飛行します。
第十章 空飛ぶじょうろは、川を越えます
お姉様は伯爵夫人です。
伯爵様の妻で、子どもたちのお母様で、町と畑と川沿いの倉庫を治める、ごく普通の貴族の奥様です。
ただ一つ普通でなかったのは――
今日、お姉様は、空飛ぶじょうろで飛ぶことになっていたのです。
◇ ◇ ◇
飛ぶ前には、座学があります。
伯爵夫人であっても、省略はできません。
できたばかりの格納庫に、長い机が置かれました。
机の上には、レーィカちゃんと同じ形をした小さな模型があります。
組み立てたときに余った薄い木片を使い、どろちゃんと家具職人が作ったものです。
主翼の補助翼、後ろの昇降舵、縦に立った方向舵が、どれも動くようになっていました。
机の周囲には、お姉様、伯爵様、領兵さんたち、職人さんたちが並びました。
飛ぶのはお姉様です。
けれど、ゴム索を引く人も、翼を支える人も、何が起きるのか知っておいた方が安全です。
どろちゃんは模型の操縦桿を引きました。
尾翼の後ろにある板が上がります。
「操縦桿を引くと、昇降舵が上がります。すると機首が上を向きます」
「引けば、高く飛ぶのね」とお姉様が言いました。
「速度があるうちはね」
どろちゃんは模型を前へ進め、それから機首を大きく上へ向けました。
模型は、どろちゃんの手の中で止まりました。
「上を向いたのに、上がらないわ」
「上を向きすぎると、速さがなくなります。翼へ当たる空気の流れも崩れます」
どろちゃんは模型の機首を下げました。
「こうして速度を取り戻します」
「地面へ向けるの?」
「高いところなら。でも、低いところで失速すると、取り戻す高さがありません」
お姉様は、模型と格納庫の外の草地を見比べました。
今日の最初の飛行は、高さ二メートルほどの予定です。
二メートルには、失敗を直すための空が、ほとんどありません。
どろちゃんは、次に操縦桿を右へ倒しました。
右の補助翼が上がり、左の補助翼が下がります。
「これで右へ傾きます」
右のペダルを押すと、方向舵が右へ向きました。
「こちらは、機首を右へ向けます」
「両方とも右へ行くためのものなの?」
「はい。でも、仕事が違います。手と足で相談させます」
「相談がまとまらなかったら?」
「横へ滑ったり、思ったところへ向かなかったりします」
伯爵様が、たいへんもっともな質問をしました。
「止まっているときにも、この板は働くのか」
どろちゃんは模型の方向舵を右へ向けました。
模型は机の上に置かれたままです。
どこへも曲がりません。
「働きません。舵は、空気の流れを曲げる板です。風が当たらなければ、向きを変える力は出ません」
格納庫の外から、弱い風が入ってきました。
どろちゃんは模型を風の中へ持ち上げ、方向舵を動かしました。
尾翼が手の中で少し押されます。
「飛び始めると、操縦桿やペダルに手応えが出ます。速くなるほど、舵はよく働きます」
「では、ゆっくり飛ぶ方が安全とは限らないのね」
「止まりそうなくらいゆっくりは、危険です」
お姉様は、もう一度模型の操縦桿を動かしました。
昨日までなら、動く板が面白かっただけです。
今日は、その板の動かし方を間違えると、自分も一緒に動きます。
模型は、とても軽いものでした。
座学は、少し重いものになりました。
◇ ◇ ◇
丘の斜面には、朝から弱い風が上っていました。
草の穂が、同じ方向へ少しだけ傾いています。
レーィカちゃんは、斜面の上ではなく、斜面が緩くなり、その先に平らな草地が続くところへ置かれました。
最初から高いところから発航する必要はありません。
今日は、地面を少し離れ、まっすぐ進み、地面へ戻るだけです。
機首の発航金具へ、二組のゴム索が掛けられました。
索は左右へ大きく開き、上から見ると長いV字形になります。
領兵さんたちは二組に分かれ、それぞれの索を持ちました。
後ろでは、別の領兵さんたちがレーィカちゃんを押さえています。
お姉様は操縦席へ座りました。
腰、両肩、股の革帯を締めます。
どろちゃんが、一つずつ手で確かめました。
「きつくない?」
「少し」
「抜けない方が大切です」
「それは分かっているわ」
お姉様は操縦桿を握り、左右の足をペダルへ載せました。
レーィカちゃんの小さな車輪と橇は、まだ草の上で静かにしています。
『どろちゃん、お姉様の手が少し硬いわ』
レーィカちゃんが言いました。
「お姉様、操縦桿を握りしめないで。指で持つくらいでいいよ」
「落としそうで怖いの」
「落とすものではないから、大丈夫」
領兵さんたちが、V字形のまま斜面を下り始めました。
ゴム索が地面を擦ります。
草の中を、ざあっ、ざあっ、と進みました。
やがて索がまっすぐになり、少しずつ伸び始めます。
太いゴムの束が、低い音を立てました。
ぎり、ぎり、と、革や布の覆いがこすれます。
引いている領兵さんたちの足が、草へ深く入りました。
一歩進むたびに、索はもう少し細く、長くなります。
後ろで機体を押さえている領兵さんの腕にも、力が掛かりました。
「まだです」
どろちゃんは風を見ました。
斜面の草。
格納庫の屋根へ付けた細い布。
レーィカちゃんの翼端に結んだ短い糸。
どれも同じ向きです。
「翼、水平」
左右の翼端を支えていた領兵さんが、高さを合わせました。
「お姉様、正面を見て。操縦桿は中立」
「はい」
「発航します」
後ろの領兵さんが、機体を離しました。
レーィカちゃんが前へ動きました。
最初に、小さな車輪が、ごとり、と地面のくぼみを越えました。
つぎに、ごろごろ、と鳴りました。
音はすぐに速くなりました。
ごろ、ごろ、ごろ、という一つずつの音が、続いた振動へ変わります。
お姉様の背中が座席へ押されました。
格納庫と人々が後ろへ下がります。
風が頬へ当たりました。
さきほどまで肩に掛かっていた髪の先が、後ろへ流れました。
操縦桿へ、初めて重さが現れました。
模型では分からなかった重さです。
翼と舵へ風が当たり始めています。
「そのまま!」
どろちゃんの声が、すぐ横からではなく、後ろから聞こえました。
機首の金具からゴム索が外れました。
ぱしん、と短い音がしました。
左右の索が草地へ落ちます。
引っ張られていた力が消えました。
それでもレーィカちゃんは止まりませんでした。
小さな車輪の音が、ふっと消えました。
お姉様は、何が起きたのか分からず、足元を見ました。
草が、少し下にあります。
地面から、ほんの二メートルほどです。
けれど、地面が自分を支えていない二メートルは、屋敷の二階から見る二メートルとは違いました。
レーィカちゃんは、飛んでいました。
お姉様は操縦桿を引きたくなりました。
空へ上がったのですから、もっと上へ行きたくなります。
けれど、どろちゃんが模型を上へ向けたまま止めたことを思い出しました。
「引きすぎない」
小さな声で、自分に言いました。
レーィカちゃんは、ほとんど地面と平行に進みました。
飛んだ距離は、二十メートルほどです。
けれど、お姉様には、丘の向こうまで行ったように感じられました。
前方の草が大きくなります。
緑色の面だった地面が、一本ずつの草へ戻っていきます。
草の流れる速さが急に増しました。
お姉様には、地面の方が上がってくるように見えました。
ほんとうは、お姉様が下りているのです。
「少し引く!」
どろちゃんの声が聞こえました。
お姉様は操縦桿を、ほんの少しだけ引きました。
とん。
小さな車輪が地面へ触れました。
一度だけ、また浮きました。
次には、ごろごろという音が戻ってきました。
橇が草を分け、レーィカちゃんはまっすぐ進み、止まりました。
お姉様は操縦桿を握ったままです。
「お姉様!」
どろちゃんが走ってきました。
お姉様は、ようやく息を吐きました。
「飛んだわ」
「うん」
「ほんとうに、地面がなくなったわ」
『きれいに飛べたわ』
レーィカちゃんの声は、どろちゃんにだけ聞こえました。
どろちゃんは右翼の下へ入り、金具と支柱を見ました。
車輪、橇、操縦索、舵面も確かめます。
飛べたから、すぐにもう一度飛ぶのではありません。
飛んだあとには、飛んだ機体を見る時間があります。
お姉様には、高さ二メートルがたいへん高く感じられました。
どろちゃんには、右の翼が最後に少し下がったことの方が気になりました。
同じ飛行を見ていても、姉妹の仕事は違いました。
◇ ◇ ◇
二回目は、三十メートルほど飛びました。
お姉様は、着地のときに目を閉じませんでした。
三回目は、五十メートルほど飛びました。
少し高く上がったので、お姉様は操縦桿を引きすぎました。
レーィカちゃんの機首が上を向きました。
風の音が、わずかに弱くなります。
お姉様は、模型のことを思い出し、操縦桿を戻しました。
四回目には、領兵さんたちがゴム索を引く距離を覚えていました。
飛んでいる人だけが上達するわけではありません。
翼端を支える人。
機体を押さえる人。
ゴム索を引く人。
外れた索を拾う人。
着陸した機体を、また斜面の上へ戻す人。
伯爵領で最初に熟練し始めた航空要員は、操縦者ではなく、何度も丘を往復する領兵さんたちでした。
五回目は、発航場所を斜面の少し上へ移しました。
今度は、高さ十メートル、距離百メートルほどを飛びます。
領兵さんたちは、朝より遠くまでゴム索を引きました。
息が上がっています。
疲れているのは領兵さんたちです。
飛ぶのは伯爵夫人です。
伯爵領では、そのような日もあります。
発航すると、レーィカちゃんは草地の上へ出ました。
一回目より地面が遠くなります。
お姉様は、遠くなった地面を見て、もう少し上へ行こうと思いました。
操縦桿を引きました。
ところが、途中から急に重くなりました。
思ったほど後ろへ動きません。
お姉様は、それ以上引くのをやめました。
レーィカちゃんは速度を保ち、百メートル先の草地へ降りました。
着陸後、どろちゃんは操縦桿を動かしました。
行きと帰りで、手応えが違います。
「レーィカちゃん、止めたでしょう」
『少しだけよ』
「お姉様が引きすぎたから?」
『ええ。あのままでは、高くなる前に速さがなくなったわ』
「自分で昇降舵を動かしたの?」
『上がりすぎないようにしただけ。飛ばしたのは、お姉様よ』
お姉様には、その会話が聞こえません。
「何を話しているの?」と尋ねました。
「最後に引きすぎたから、レーィカちゃんが少し止めたって」
お姉様は操縦桿を見ました。
「私の言うことを聞かなかったのね」
『危ないお願いは聞かないわ』
どろちゃんが伝えました。
お姉様は少し考えました。
「では、今日はレーィカちゃんの方が正しいわ」
初飛行の日に、自分より機体の方が正しいと認められる人は、たぶん上達します。
こうして一日目は、五回の飛行で終わりました。
最後の飛行は、高さ十メートル、距離百メートル。
一番上達したのは、お姉様です。
一番疲れたのは、領兵さんたちでした。
◇ ◇ ◇
二日目は、曲がる練習です。
まず、どろちゃんが飛びました。
高さ十メートル、距離百メートル。
昨日、お姉様が最後に飛んだのと同じ高さと距離です。
「どろちゃんも、ゴム索で飛ぶのね」とお姉様が言いました。
「レーィカちゃんの飛び方を見たいから」
『わたしも、どろちゃんに飛ばしてもらいたいわ』
タドポール君なら、もっと短く言ったでしょう。
レーィカちゃんは、自分の希望を少し丁寧に話します。
どろちゃんは座席へ収まり、革帯を締めました。
発航。
車輪が草地を走ります。
ぱしん、とゴム索が外れます。
風の音だけになったところで、どろちゃんは操縦桿を右へ少し倒し、右のペダルを踏みました。
右の翼が下がります。
地平線が傾きました。
地面が傾いたのではありません。
傾いたのは、どろちゃんとレーィカちゃんです。
どろちゃんは、頬へ当たる風の向き、操縦桿の重さ、ペダルへ返る力を確かめました。
補助翼だけを使えば、機首は素直に右へ付いてきません。
方向舵を合わせると、横へ押される感じが減り、レーィカちゃんは滑らかに右へ向きました。
『もう少し浅くてもいいわ』
「最初だからね」
どろちゃんは操縦桿を戻し、反対へわずかに当てました。
翼が水平へ戻ります。
直線へ戻ったときには、着陸地が正面にありました。
草が近づきます。
どろちゃんは、車輪が触れる直前に操縦桿を引きました。
ごろごろという音が戻り、レーィカちゃんは止まりました。
「簡単そうに見えたわ」とお姉様が言いました。
「見ているときはね」
次は、お姉様です。
右へ曲がろうとして、操縦桿だけを右へ倒しました。
右の翼は下がりました。
けれど、機首は思ったより外側を向いたままです。
お姉様の身体が、座席の左側へ押されました。
「町が横へ落ちそう」
町は落ちませんでした。
レーィカちゃんとお姉様が、横へ滑っていたのです。
お姉様は右のペダルを踏みました。
機首が旋回へ付いてきます。
身体を横へ押していた力が弱くなりました。
世界はまだ傾いています。
けれど、こんどはきれいに曲がっています。
「手と足で相談」
お姉様は、座学で聞いた言葉を口にしました。
二回目の旋回は、少し滑らかになりました。
三回目には、曲がったあと、着陸する方向へ早めに戻れるようになりました。
午前と午後を合わせ、どろちゃんとお姉様は十回ほど飛びました。
領兵さんたちは十回以上、ゴム索を引きました。
飛行回数より多いのは、張り方を直して引き直したことがあったからです。
夕方には、若い領兵さんの一人が、外れたゴム索を肩へ掛けながら、レーィカちゃんを見ていました。
「乗ってみたいの?」
別の領兵さんが尋ねました。
「いや、伯爵夫人の機体だ」
「乗りたいかと聞いた」
若い領兵さんは、少し考えました。
「乗ってみたい。自分の村が、上からどう見えるのか見てみたい」
一日中ゴム索を引いていれば、空を嫌いになる人もいるでしょう。
ところが、反対に、自分も引かれる側へ行きたくなる人もいたのでした。
◇ ◇ ◇
三日目の朝、丘の上には、前の二日より少し強い風がありました。
斜面に沿って上る風と、川の方へ流れる風が、ゆっくり入れ替わっています。
どろちゃんは何度も草を見ました。
細い布を見ました。
遠くの煙を見ました。
川面の細かな波も見ました。
丘から対岸の草地までは、約千二百メートルあります。
発航地点から川面までは、高さがおよそ百五十メートル。
対岸の着陸地までは、およそ百四十メートル低くなっています。
数字の上では届きます。
けれど、空の数字は、風向きが変わるだけで簡単に減ります。
午前中は、どろちゃんが先に飛ぶことになりました。
対岸では、領兵さんと職人さんが荷車を用意して待っています。
着陸する草地には、人も家畜も荷車も入れません。
もし風が悪ければ、どろちゃんは飛びません。
飛ばないことも、飛行の判断です。
『いまなら、いいと思うわ』
レーィカちゃんが言いました。
「川の上は?」
『少し押してもらえそう。向こうの畑の上では、空気がゆっくり上がっているわ』
どろちゃんは、お姉様へ言いました。
「午前中に私が渡ります。同じ風が続けば、午後にお姉様です」
「私も午前に行けるわ」
「先に私が確かめます」
姉妹でも、ここは譲りません。
頭の中の技師さんたちも、同じ意見でした。
――試験飛行を先にする。
――着陸地、風、回収経路を確認。
――一回成功したからといって、午後も同じ空だと思わない。
作業中の声は、いつもどおり硬くなっています。
領兵さんたちがゴム索を引きました。
今日は、これまでより長く引きます。
レーィカちゃんは丘の斜面を走り、車輪の音を速めました。
ぱしん、と索が外れます。
どろちゃんは速度を保ったまま、斜面の先へ出ました。
地面が急に下がりました。
さきほどまで十メートルだった高さが、丘を離れただけで何倍にもなります。
町の屋根が、一度に下へ広がりました。
どろちゃんは、浅く向きを変えました。
丘の近くを上っていた風が翼を支えます。
高度は、すぐには減りませんでした。
町は、地上から見るより整っていました。
曲がった路地も、上から見れば、城門から市場へ続く道の一部です。
赤茶色の屋根が重なり、その間から、朝の煙が細く立っていました。
教会の塔は町の中心を示しています。
川沿いには倉庫が並び、船着場には小さな舟が集まっていました。
荷車は、道の上をゆっくり動く点になっています。
人の暮らしは、地上では複雑です。
空から見ると、きれいに並んでしまいます。
けれど、どろちゃんは長く見とれませんでした。
見ているのは、屋根の美しさだけではありません。
煙の倒れる向き。
川面の色。
岸辺の木の揺れ方。
対岸の草が波打つ場所。
レーィカちゃんの翼から伝わる、小さな振動。
ロシアで暮らしていたどろちゃんは、空から地面を見ることを知っていました。
ナーロッパのどろちゃんは、自分のお姉様が暮らす町を、初めて上から見ていました。
二人分の記憶が、一つの景色を見ています。
『少し機首を下げて。速さを残しましょう』
「うん」
川が近づきました。
太陽の光が水面で細かく跳ねています。
畑の上には、木や道や畦があり、高さを測る目印になります。
川面には、それがありません。
水の模様は遠く、ゆっくり動きました。
レーィカちゃんが空中で止まったように見えます。
けれど、対岸の木は少しずつ大きくなっています。
川の中央を越えました。
戻るより、進む方が近くなります。
どろちゃんは対岸の着陸地を見ました。
上から見た草地は、どこへでも降りられそうな大きな緑の板です。
高度が下がると、畦が現れました。
浅い溝が現れました。
草の色が違う場所も見えました。
広いと思っていた場所は、地上へ近づくほど、きちんと選ばなければならない場所へ変わっていきます。
『左の明るい草地が滑らかよ』
「見えてる」
どろちゃんは少し左へ向けました。
高度は、もう二十メートルほどです。
風の音が一定になるよう、機首を保ちます。
草が一本ずつ見えました。
地面の流れが速くなります。
どろちゃんは、接地する少し前に操縦桿を引きました。
小さな車輪が草へ触れました。
とん。
少しだけ浮きます。
次には橇も草を分け、ごろごろという音と、ざあっという音が一緒に聞こえました。
レーィカちゃんは対岸の草地で止まりました。
『着いたわ』
「うん。ちゃんと届いたね」
対岸で待っていた領兵さんたちが走ってきました。
丘の上では、伯爵様とお姉様が、小さな白い布を見つめています。
どろちゃんが無事に降りると、対岸の領兵さんが大きな旗を振りました。
丘の上からも旗が振り返されました。
飛行には、数分しかかかりませんでした。
ところが、レーィカちゃんを丘へ戻すには、午前中いっぱい掛かりました。
主翼を外します。
翼と胴体を長い荷車へ載せます。
町へ続く橋を渡ります。
狭い曲がり角では、荷車を何度も切り返しました。
丘の道は、馬にゆっくり上ってもらいました。
グライダーというものは、空では近道をします。
地上へ降りると、橋と道を使わなければなりません。
格納庫へ戻ったころには、もう昼でした。
職人さんたちはすぐに主翼を取り付け、金具と操縦索を点検しました。
お姉様は昼食を食べました。
食べないで飛ぶことは許されません。
食べすぎて飛ぶことも、あまり勧められません。
ですから、いつもより少しだけ少ない昼食になりました。
伯爵夫人にも、飛行前の決まりがあります。
◇ ◇ ◇
午後になっても、風は大きく変わりませんでした。
太陽に温められた対岸の畑から、弱い上昇気流も続いています。
どろちゃんは、朝より長く空を見ました。
レーィカちゃんとも話しました。
頭の中の技師さんたちとも話しました。
そして、ようやく言いました。
「飛べます」
お姉様は操縦席へ座りました。
伯爵様が、革帯を一つずつ確かめました。
「きつくないか」
「少し」
「なら、よい」
夫婦は、その点では同じ意見でした。
子どもたちは、格納庫の前から見ています。
お母様が飛ぶことには、二日で少し慣れました。
川を越えることには、まだ慣れていません。
「向こうへ着いたら、旗を振ってね」と子どもの一人が言いました。
「私ではなく、待っている領兵さんが振ってくれるわ」
「お母様も振って」
「降りてからね」
伯爵様は、機首の前へ立ちました。
「今朝、どろちゃんが飛んだ道を、そのまま行くのだな」
「はい。大きく曲がりません」
「途中で戻れるのか」
お姉様は川を見ました。
「途中からは、戻らない方が近いわ」
伯爵様は、その答えを気に入りませんでした。
けれど、正しい答えでした。
「無理だと思ったら、発航する前にやめるのだぞ」
「分かっています」
どろちゃんは、最後に操縦桿とペダルを動かしました。
舵面が正しい向きへ動きます。
『お姉様を、きちんと向こうへ連れていくわ』
「お願いね。でも、飛ぶのはお姉様だよ」
『ええ。危ないお願いだけ、少し断るわ』
領兵さんたちがゴム索を引き始めました。
二日間で、動きはすっかりそろっています。
左右の組が同じ速さで斜面を下り、同じところで止まりました。
翼端を支える人も、機体を押さえる人も、もう合図を待てます。
若い領兵さんは、索を握りながら思いました。
今日も、自分は引く側です。
けれど、二号機ができたら、模型の前へ座ってみよう。
自分の村の屋根が、空からどんな形に見えるのか知りたい。
戦いのためではありません。
高いところから、自分の暮らしている土地を一度見てみたいのです。
「発航!」
レーィカちゃんが走り始めました。
ごとり。
ごろごろ。
車輪の音が速くなります。
お姉様の身体が座席へ押されました。
風が頬と額へ当たります。
格納庫、家族、伯爵様、領兵さんたちが後ろへ流れました。
ぱしん。
ゴム索が外れました。
車輪の音が消えました。
風の音だけになりました。
レーィカちゃんは斜面の先へ出ました。
地面が下へ遠ざかります。
昨日までの十メートルではありません。
町全体が見える高さです。
お姉様は操縦桿を強く握りそうになりました。
「指で持つだけ」
どろちゃんに言われたことを思い出しました。
力を抜くと、レーィカちゃんの小さな動きが手に伝わりました。
風が少し強くなると、操縦桿がわずかに重くなります。
翼が上る空気へ入ると、座席が下から身体を押します。
空気は見えません。
けれど、レーィカちゃんを通せば、手と背中で感じられました。
別邸が小さくなりました。
庭に伯爵様がいます。
子どもたちがいます。
領兵さんたちが、V字形に落ちたゴム索の間から空を見上げています。
お姉様は、自分がその人たちを地上へ残して飛んできたことに、ようやく気づきました。
地上では、伯爵夫人です。
町の書類へ署名し、倉庫の帳簿を見て、子どもたちの服が小さくなっていないか確かめる人です。
空の上では、木の座席へ革帯で留められた、一人の女の人でした。
町の屋根が広がりました。
市場の広場は、思っていたより狭く見えます。
川沿いの倉庫は、思っていたよりきれいに並んでいます。
いつも荷車が詰まる曲がり角は、上から見ても、やはり狭い形でした。
「あそこは、道を広げた方がいいわね」
初めて川を越えて飛んでいる途中でも、お姉様は伯爵夫人でした。
屋敷の西側の屋根には、色の違う一角があります。
去年、雨漏りを直したところです。
教会の裏の小さな家には、新しい藁屋根が載っています。
市場の端では、洗濯物が風に揺れていました。
どろちゃんは朝、風と着陸地を見ました。
お姉様は午後、領地で暮らす人々を見ました。
同じ高さから同じ町を見ても、見えるものは同じではありません。
川が近づきました。
畑の上には、まだ道があります。
もし降りるなら、選べそうな場所もあります。
川の上へ出ると、その考えはなくなりました。
水面は、太陽を映してきれいです。
きれいだからといって、降りてもよい場所ではありません。
お姉様は向こう岸を見ました。
まだ遠く見えます。
振り返れば、丘も遠くなっています。
川の中央では、どちらの岸も同じくらい遠く感じました。
風の音が少し弱くなりました。
お姉様は機首を上げたくなりました。
高くいれば、安全な気がするからです。
けれど、高さは、速さを使い切って作るものではありません。
操縦桿を引こうとしたところで、少し重くなりました。
レーィカちゃんが、危ないお願いを断っています。
お姉様は手を止めました。
機首をほんの少し下へ向けます。
風の音が戻りました。
『それでいいわ』
声は聞こえません。
けれど、操縦桿から返ってくる穏やかな重さが、急がなくてよいと教えていました。
対岸の木が大きくなります。
川の向こうの草地に、人と荷車が見えました。
朝、どろちゃんを迎えた人たちです。
一人が白い布を振っています。
レーィカちゃんは、川を越えました。
お姉様は、そこで初めて小さく笑いました。
まだ着陸が残っています。
飛行は、川を越えただけでは終わりません。
高度は、少しずつ減っていました。
お姉様は、もう少し高いままでいたいと思いました。
けれど、飛行の終わりには、高さを全部地面へ返さなければなりません。
対岸の草地が広がります。
上からは一枚の緑に見えた場所へ、畦と溝と石が現れました。
白い布を振っていた領兵さんが、草地の端へ走ります。
着陸方向が分かりました。
お姉様は機首を合わせました。
右の翼が少し上がりました。
操縦桿をわずかに右へ当て、左のペダルを軽く戻します。
手と足が相談しました。
レーィカちゃんは、まっすぐになりました。
草が一本ずつ見えます。
緑の面だった地面が、無数の草の集まりへ戻りました。
地面の流れる速さが急に増します。
お姉様は、地面が上がってくるように感じました。
「少し引く」
声に出して、自分へ命じました。
操縦桿を静かに引きます。
とん。
小さな車輪が草へ触れました。
一度だけ、軽く跳ねました。
次には、ごろごろという音が、風の音の下から戻ってきました。
橇が長い草を分けます。
速度が落ちます。
流れていた地面が、ゆっくりになります。
そして、止まりました。
お姉様は前を見たままです。
川を越えるのには、数分しかかかりませんでした。
お姉様が息を吐くまでには、もう少しかかりました。
対岸の領兵さんたちが走ってきました。
「伯爵夫人!」
「無事です」
お姉様は革帯を外しました。
立ち上がると、膝が少しだけ震えました。
飛んでいるあいだは、震える暇がなかったのです。
お姉様は白い旗を受け取り、自分でも大きく振りました。
丘の上で、小さな白い点が動きました。
すぐに、向こう側からも旗が振られました。
伯爵様と子どもたちと領兵さんたちが、成功を知りました。
お姉様は、約千二百メートルを飛びました。
この世界の伯爵夫人としては、たいへん長い飛行です。
橋を渡れば、もっと長い道になります。
◇ ◇ ◇
レーィカちゃんは、もう一度主翼を外されました。
荷車へ載せられ、橋を渡り、町を通り、丘へ戻ります。
お姉様も荷車と一緒に戻りました。
帰りは空を飛びません。
同じ日にゴム索をもう一度引かせれば、領兵さんたちが食事会の前に眠ってしまいます。
夕方、できたばかりの格納庫に長い食卓が並びました。
まだ新しい木の匂いがします。
天井の梁には、主翼を吊るための帯が掛けられています。
壁際には、二号機を作るための型板と治具が、番号順に並んでいます。
今日は、そこへ料理が運び込まれました。
ただし、作業台の上ではありません。
頭の中の技師さんたちも、それなら止めませんでした。
食卓には、焼きたてのパン、何種類ものソーセージ、焼いた肉、川魚、煮込んだキャベツ、根菜、果物、焼き菓子が並びました。
伯爵家の家族。
ゴム索を引いた領兵さんたち。
機体を組み立てた家具職人、馬車職人、鍛冶職人、薄板職人、馬具職人。
対岸で待っていた人。
荷車を動かした人。
橋で通行を止めた人。
みんなが同じ格納庫に集まりました。
お姉様は一人で川を越えました。
けれど、一人だけで飛んだわけではありません。
伯爵様が立ち上がりました。
「今日、わが妻は空を飛び、川を越えた」
領兵さんたちと職人さんたちが拍手しました。
「私は橋を渡って迎えに行った。夫婦で同じ場所へ向かうのに、ずいぶん違う道を選んだものだ」
格納庫に笑い声が広がりました。
お姉様が言いました。
「飛んだのは私です。でも、飛ばせてくれたのは、ここにいるみんなです」
領兵さんたちが静かになりました。
「翼を作った人がいて、金具を作った人がいて、革帯を作った人がいました。ゴム索を引いた人がいて、対岸で待った人がいて、荷車で連れて帰ってくれた人がいました」
お姉様は、格納庫の中央に置かれたレーィカちゃんを見ました。
「それから、私が引きすぎた操縦桿を、少しだけ止めた子もいました」
『危なかったもの』
レーィカちゃんが言いました。
どろちゃんは笑いました。
伯爵様は杯を上げました。
「全員の仕事に感謝する。そして、次に飛ぶ者についても話しておこう」
若い領兵さんが顔を上げました。
伯爵様は、その顔を見ていました。
「二号機が完成したら、領兵にも飛行を学ぶ機会を与える」
今度は、領兵さんたちから大きな声が上がりました。
ただし、伯爵様は続けました。
「勝手に乗ってはならない。まず座学。つぎに模型。地上で操縦装置を覚え、どろちゃんと夫人が認めた者だけが短い飛行へ進む」
若い領兵さんは、ゴム索を引くより座学の方が楽だと思いました。
まだ、どろちゃんの座学を受けていません。
お姉様も言いました。
「ゴム索をたくさん引いた順番ではありません。きちんと学んだ順番です」
領兵さんたちは、少しだけ残念そうな顔をしました。
飛ぶためには、また机の周りへ並ばなければなりません。
けれど、誰もやめるとは言いませんでした。
若い領兵さんは、自分の村の屋根を思い浮かべました。
年長の領兵さんは、城壁の外を上から見れば、見張りの配置がよく分かるだろうと思いました。
別の領兵さんは、ただ風の音だけを聞いてみたいと思いました。
空へ行きたい理由は、一人ずつ違います。
伯爵様は、お姉様へ小さな声で言いました。
「今日で終わりではなさそうだな」
「ええ。二号機を作ることにしてよかったでしょう」
「三号機の話は、まだ聞かないことにする」
伯爵様は、たいへん賢明でした。
食事が始まりました。
領兵さんたちは、飛行の話をしながら、いつもよりたくさん食べました。
朝からゴム索を引いています。
そのくらいは食べてもよいでしょう。
職人さんたちは、二号機の主翼桁に使う木材の話を始めました。
馬具職人は、次の革帯をもう少し調整しやすくすると言いました。
鍛冶職人は、発航金具の摩耗を見て、同じものを二つ余分に作ることにしました。
お祝いの席でも、ものづくりは続きます。
レーィカちゃんは格納庫の中央で、長い翼を休ませていました。
『みんな、飛びたくなったのね』
「レーィカちゃんが、きれいに飛んだからだよ」
『お姉様が飛ばしたのよ』
「レーィカちゃんも助けたでしょう」
『少しだけね』
お姉様には、その声は聞こえません。
けれど、どろちゃんが笑っているので、レーィカちゃんも喜んでいることは分かりました。
こうして、お姉様は空飛ぶじょうろで川を越えました。
そして、ゴム索ばかり引いていた領兵さんたちは、次には自分が空へ行きたいと思うようになりました。
二号機は、まだ完成していません。
ところが、乗る人の希望だけは、もう一機分では足りなくなりそうです。
伯爵領に、世界で最初のグライダー訓練場ができ始めるお話は――また次回です。
◇ ◇ ◇
第十章の小さな説明
プライマリーグライダー
プライマリーグライダーは、長距離飛行や長時間の滞空を第一の目的とする高性能機ではありません。
地上滑走に近い短い発航から始め、数メートル浮くこと、直線を保つこと、機首の上下を抑えること、着陸すること、浅く旋回することを順番に覚えるための初等練習機です。
本章のレーィカちゃんは、オレグ・アントノフが設計したUS-4/A-1をもとにしています。アントノフ社の公式略歴では、US-4は、一九三三年から一九三八年にアントノフが設計した訓練用グライダー群の一機として挙げられています。
一九三七年のソ連の設計要求では、単座の初等練習用グライダーは、ゴム索による発航と地上曳航で最初の飛行訓練を行う機体として分類されていました。
その要求には、安定していること、操縦が極端に敏感でも鈍くもないこと、速度を失ったときに機首を下げる性質を持つこと、最大滑空比が十以上であること、最低速度が時速四十五キロメートル以下であることなどが含まれます。
また、空虚重量六十キログラム以下、翼幅十メートル以下、四人で運べること、量産と修理が容易であること、組立三分以内、分解二分以内という要求もありました。
これはUS-4一機だけの実測値ではなく、当時の「初等練習用グライダー」という種類に対する設計要求です。本作では、レーィカちゃんの能力を、この要求のおおむね上側に置いています。
ゴム索発航
ゴム索発航では、機首の発航金具へ二本の弾性索をV字形に掛け、左右の組が斜面の下方へ引き伸ばします。
機体を後ろから押さえ、翼を水平に保ち、合図で離すと、縮もうとするゴム索の力で機体が加速します。機体が索の先へ進み、張力と角度が変わると、索は機首の金具から外れて地面へ落ちます。
本作では、発航の反復と草地での短距離着陸を行いやすくするため、レーィカちゃんの橇の下へ小さな車輪を追加しています。車輪の音が消えることで、初めて飛ぶお姉様にも、地面を離れた瞬間が分かります。
舵と空気の流れ
昇降舵、補助翼、方向舵は、板そのものが機体へ命令を出すものではありません。
動いている空気の流れを曲げ、その反作用で機体の姿勢を変えます。そのため、停止中や速度が極端に低いときには、舵を大きく動かしても十分な力が生まれません。
操縦桿を引いて機首を上げすぎると、速度が低下します。迎角が限界を超えると翼上面の流れが大きく剥がれ、揚力が減る失速状態になります。
高いところなら機首を下げて速度を取り戻せますが、高度二メートルでは、そのための余裕がほとんどありません。したがって最初の短い飛行では、高く上がることより、速度と姿勢を保つことが重要です。
本作のレーィカちゃんは、操縦者が危険なほど操縦桿を引いた場合、昇降舵が上がりすぎないよう手応えを重くできます。全面的な自動操縦ではなく、危険な操作だけを弱める補助です。
滑空比と川越え
滑空比は、静かな空気の中で、高度を一だけ失うあいだに水平方向へどれだけ進めるかを表します。
本章では、丘の発航地点から対岸の着陸地までの距離を約千二百メートル、高度差を約百四十メートルとしています。
必要な平均滑空比は、
一二〇〇 ÷ 一四〇 = 約八・六
です。
滑空比が十なら、高度百四十メートルを使って、無風の理論上は約千四百メートル進めます。
ただし、最大滑空比は、最もよい速度を正確に保ち、旋回や横滑りがなく、静かな空気を飛んだ場合の値です。発航直後の姿勢、進路変更、向かい風、操縦のずれ、着陸のための余裕を考えると、二百メートルの差は大きな余裕ではありません。
そこで物語では、午前中にどろちゃんが同じ経路を飛び、風向き、上昇気流、着陸地を確認しています。発航地点の斜面上昇風と、対岸の温められた畑から生じる弱い上昇気流、進行方向へ少し押す風、レーィカちゃんの補助を加えて成立させています。
今回確認できた公開一次資料本文には、US-4/A-1個別機の最大滑空比の確定値が明記されていません。そのため本作では、同時代の初等練習機に求められた「最大滑空比十以上」を目安として使っています。
三日間の訓練
一日目に二十メートルから百メートル、二日目に旋回、三日目に千二百メートルの単独飛行へ進むのは、現実の初等訓練としては非常に速い進み方です。
本作では、どろちゃんが飛行経験と多数の技師の知識を持ち、飛行前に模型を使った座学を行い、毎回の飛行後に機体を点検しています。また、レーィカちゃん自身が風と機体の状態を感じ、危険な操作を弱められます。
この三つがそろっているために成立する、物語の中の特別な訓練です。
飛行そのものは数分でも、機体を対岸から回収し、主翼を外して荷車へ載せ、橋を渡り、丘へ運び、再組立と点検を行えば半日かかります。
グライダーは、空では川をまっすぐ越えられます。
けれど、地上へ降りたあとは、ほかの荷車と同じように橋を渡らなければならないのです。




