八話 騎士の登場
学園の喧騒が、少しだけ遠くに聞こえる午後。
私は図書室の窓際で、ファティマから借りた古い歴史書を捲っていた。
カイン様は今、剣術特待生の講義に出ていてここにはいない。入学から数ヶ月、私の生活は常に彼を中心とした円の中にあったけれど、こうしたわずかな「空白の時間」が、最近の私には必要だった。
(……カイン様との時間は幸せ。でも、時々、息の仕方を忘れてしまいそうになる)
彼が私に向ける、祈りにも似た重い執着。それを「愛」だと信じて疑わずにきたけれど、学園という社会の中で彼が他者と衝突するたび、私の心には小さな、けれど消えない波紋が広がっていた。
「――そこ、空いているだろうか」
不意に頭上から降ってきたのは、低く、硬い声だった。
顔を上げると、そこには見覚えのある赤い髪の少年が立っていた。
「……ブレイズ様?」
「ああ。レオン・フォン・ブレイズだ。……驚かせてすまない。他が埋まっていてね」
彼は私の返事を待たず、向かいの席に座った。
レオン。前世の私がプレイしていたゲームでは、聖女を支える「鉄壁の騎士」として描かれていた人物。けれど今の私にとって、彼は「北の演習から戻ってきたばかりの、少し近寄りがたい上級生」でしかない。
彼は黙って本を開いた。
カイン様のような、射抜くような視線はない。エドワード殿下のような、探るような熱量もない。ただ、そこには静謐な時間が流れていた。
しばらくして、彼が顔を上げずに呟いた。
「……君は、いつも彼と一緒にいるな」
「……カイン様のこと、でしょうか」
「そうだ。学園では有名だ。公爵家の天才と、その美しい影。……だが、今日のように一人でいる時の君は、随分と……頼りなげに見える」
彼はようやく本を閉じ、私を真っ直ぐに見た。その瞳は、何かを糾弾するものではなく、ただ純粋な「疑問」を述べているようだった。
「……頼りない、ですか?」
「ああ。まるで、自分の足で立っているのではなく、誰かの腕の中に浮いているような……そんな危うさだ。……シルヴェスタ嬢。君は、彼に守られることを、本当に望んでいるのか?」
「それは……」
私は言葉に詰まった。
望んでいる。救いたかった。彼が寂しくないように、私がそばにいようと決めたのだ。
けれど、レオンの問いは、私の心の奥底にある「セシリア自身としての意志」を問いかけているようだった。
「カイン様は、私を大切にしてくださっています。私は、彼の力になりたいだけですわ」
「力に、か。……だが、強すぎる光は、時に影を焼き切るぞ。……君が彼を想うように、彼が君を想っているとは限らない。それは愛ではなく、依存という名の……」
そこまで言いかけて、レオンが口を噤んだ。
図書室の扉が、静かに、けれど威圧感を持って開かれたからだ。
「――セシリア。迎えに来たよ」
入り口に立つカイン様の姿。
逆光で表情は見えないが、彼が纏う空気が一瞬で図書室の温度を奪ったのがわかった。
カイン様は迷いのない足取りでこちらへ歩み寄り、私の肩に手を置く。その指先が、微かに震えている。
「……ブレイズ家の人間か。何の用があるんだい?」
「……単なる読書だ、グランドール。邪魔をしたなら失礼した」
レオンは淡々と本をまとめ、立ち上がった。
彼は去り際、カイン様の隣で俯く私に、一言だけ残した。
「……また、本の話でもしよう。シルヴェスタ嬢」
レオンが立ち去った後、カイン様は私の肩を強く抱き寄せた。
「……何を話していたの、セシリア」
「……ただ、本の内容を少し。それだけですわ、カイン様」
「嘘だ。彼は君を……君の瞳を、見ていた。……僕以外の人間が、君に触れることも、言葉を交わすことも、僕は許したくないんだ」
カイン様の声が、私の耳元で湿っぽく響く。
その執着は、以前よりもずっと、鋭利な形を帯び始めている。
レオンという新しい「異物」の登場によって、学園の均衡は少しずつ、けれど確実に軋みを上げ始めていた。
それは、誰が意図したものでもない。ただ、彼らの持つ「正義」と「愛」が、あまりにも真っ直ぐで、不器用だからこそ生まれる不協和音。
私は、カイン様の冷たい手に自分の手を重ねながら、窓の外に広がる曇り空を見つめていた。




