七話 聖女
王立学園のカリキュラムには、男女が別れて学ぶ時間が存在する。
それが『聖魔法学』の実技演習だ。男子は屋外で結界術の訓練、女子は屋内で治癒魔法と薬草学を学ぶことになっている。
つまり、一週間の中で唯一、カイン様が私の隣にいない90分間だ。
(大丈夫。ただ授業を受けるだけよ)
私は自分に言い聞かせ、調合室の席についた。
カイン様は離れる際、「誰とも話さなくていい。終わったら0.1秒で迎えに行く」と過保護なことを言っていたけれど、さすがに授業中に誰かが危害を加えてくることはないだろう。
……そう思っていた私の甘さは、開始五分で打ち砕かれた。
「あの、セシリア様。お隣、よろしいですか?」
鈴を転がすような、愛らしい声。
顔を上げると、そこには輝くばかりの笑顔を浮かべた聖女ルミナが立っていた。
教師が「今日は二人一組でポーションを作ります」と告げた直後だ。
「……ええと、私は……」
「私、ずっとセシリア様とお話ししてみたかったんです! 他の方はみんなペアが決まっているみたいで……ダメ、ですか?」
彼女は小首を傾げる。その瞳に悪意は微塵もない。
周囲を見渡すと、頼みの綱であるファティマは、すでに別の令嬢に捕まってしまっていた。彼女が「ごめん、断れない」という顔でこちらに合図を送っている。
「……いいえ。どうぞ、ルミナさん」
私は淑女の仮面を貼り付け、彼女を受け入れた。
拒絶すれば、それこそ「悪役令嬢による聖女いじめ」という噂が立ち、王太子派の格好の餌になりかねないわ。
ポーション作りが始まると、ルミナは楽しそうに薬草を刻みながら、口を開いた。
「セシリア様って、とってもお綺麗ですね。でも、少し顔色が悪いみたい。……やっぱり、無理をなさっているんですか?」
「無理、とは?」
「その……グランドール様のことです」
ルミナは声を潜め、同情たっぷりの瞳で私を覗き込んだ。
「私、見ました。彼が廊下で、セシリア様の腕をすごく強く掴んで引っ張っているところ。……痛くありませんでしたか? それに、いつも彼、怖い顔でセシリア様を睨んで……じゃなくて、見張っているじゃないですか」
彼女の目には、カイン様の執着が「恐怖による支配」に見えているのだ。
いや、一般的にはそう見えるのかもしれない。けれど、私にとってはその束縛こそが安心感であり、愛の証なのだ。
「誤解ですわ、ルミナさん。カイン様はお優しい方です。私を大切にしてくださっているだけです」
「優しい……? 彼が?」
ルミナは信じられないという顔をした。
そして、私の手の上に、自分の温かい手を重ねてきた。
「セシリア様、隠さなくていいんです。公爵家が怖いんですよね? 王太子殿下も仰っていました。『彼女は囚われている姫君だ』って」
「……」
「私、平民だから貴族のしきたりとかはよく分からないんですけど……でも、好きな人が苦しそうな顔をしているのを放っておくなんて、間違ってると思います!」
彼女の言葉は、正論だ。
一点の曇りもない、眩しいほどの正義。
だからこそ、私にとっては息が詰まるような暴力だった。
私がカイン様を愛しているという事実を、彼女は「洗脳」や「恐怖」として処理し、私の言葉を一切聞き入れようとしない。
「あなたが不幸なのは、カインのせいだ」。その決めつけが、私という人間を否定していることに気づいていない。
「私、聖女の力に目覚めてから、人のオーラが見えるようになったんです。……セシリア様、あなたの周りには、真っ黒な鎖みたいなものが絡みついています。それはきっと、彼の呪いです」
ルミナはポケットから、小さな小瓶を取り出した。
中には、キラキラと光る聖水が入っている。
「これ、私が祈りを込めた聖水です。これを飲めば、精神干渉系の呪いは解けるはずです。……お願いです、セシリア様。勇気を出して、自由になってください!」
彼女は本気で、私を救おうとしている。
まるで汚れた野良犬を拾うような、無邪気な慈悲の心で。
私は、差し出された小瓶を見つめ、静かに、けれど明確に拒絶の言葉を紡いだ。
「……結構です」
「え?」
「その『黒い鎖』が彼の愛だというのなら、私はそれを喜んで受け入れています。他人が勝手に解かないでくださいまし」
私は彼女の手をそっと押し返した。
「ルミナさん。あなたのその『正しさ』が、時として人を傷つけることもあるのだと、知っておいた方がよろしいかと思いますわ」
ルミナはぽかんとしていた。
善意を拒絶されたことが、理解できないようだった。
彼女が何か言い返そうとしたその時、終業のベルが鳴り響いた。
教室を出ると、廊下の壁に寄りかかっていたカイン様が、弾かれたようにこちらへ歩み寄ってきた。
予定通り、0.1秒の遅れもない。
「セシリア!」
彼は私の肩を掴み、頭のてっぺんからつま先まで視線で検分する。
怪我はないか、泣いていないか、誰かに汚されていないか。
「カイン様、そんなに慌てなくても……」
「……臭う」
カイン様の表情が険しくなった。
「え?」
「嫌いな臭いがする。あの目障りな聖女と一緒だったのか?」
彼の嗅覚は、もはや野生動物の域に達しているらしい。
彼は不快そうに顔を歪めると、廊下の真ん中であることも構わず、私を強く抱きしめた。
「カイン様!?」
「動かないで。……消毒するから」
彼は私の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込み、そして自分の額や頬を私の肌に擦り付ける。
まるで、自分の匂いを上書きするマーキングのように。
通りがかる生徒たちが悲鳴を上げて逃げていくが、彼には見えていない。
「……不愉快だ。君に別の匂いがついているだけで、吐き気がする」
「ごめんなさい、実習でペアになってしまって……でも、何もされていませんわ」
「会話をしたんだろう? 君の声が、君の視線が、あの女に向けられたというだけで許せない」
彼の腕の力が強まる。
痛いほどだ。けれど、その痛みこそが「ああ、私は愛されている」という実感を与えてくれる。
先ほどのルミナの「聖水」などより、よほど私を癒やしてくれる劇薬。
「ねえ、セシリア。やっぱり君を学校に通わせるなんて間違いだったのかもしれない」
カイン様は私の耳元で、甘く、低い声で囁いた。
「家に閉じ込めてしまえば、変な虫もつかないし、君も嫌な思いをしなくて済む。……そうした方が、君も幸せだろう?」
ドキリとした。
以前よりも、その言葉に「本気度」が増している。
エドワード殿下の干渉、そして今日のルミナの接触。これらが積み重なり、カイン様の理性という堤防は決壊寸前まで来ている。
「……もう少しだけ、頑張ってみましょう? カイン様」
私は彼の背中に腕を回し、宥めるように言った。
「私がここにいたいのは、カイン様と一緒に『普通の青春』を送りたいからですもの」
「普通の青春……」
カイン様は困ったように笑った。
「君がそう望むなら、我慢するよ。……でも、次はない。次、あの聖女が君にその汚らわしい光を近づけたら、僕は学園ごと焼き払ってしまうかもしれない」
彼は私の髪に口づけを落とす。
その瞳は笑っていなかった。
雨脚が強くなる窓の外。
私たちの歪な学園生は、終わりが近づいているのではないかと、そんな不安を誤魔化すようにカイン様の手を握った。




