六話 正義
入学から二ヶ月。季節は初夏を迎えようとしていた。
カイン様と私、そして「監視役」を自称するファティマの三人は、奇妙な均衡の中で学園生活を送っていた。
カイン様は、私の前では完璧な紳士だ。
授業は常に学年首位。魔術の実技では教師さえ舌を巻く成果を出し、周囲の生徒たちは彼を「氷の天才」と呼び、遠巻きに崇拝している。
彼が裏で、私に近づこうとした男子生徒を「実家の不祥事を暴いて自主退学に追い込んでいる」ことなど、知らないから。
そんなある日、教室に一枚の羊皮紙が届いた。
差出人は「王立学園生徒会」。会長は、王太子エドワード殿下だ。
「……『聖誕祭実行委員』への選出?」
手紙を受け取った私が眉をひそめると、隣で紅茶を飲んでいたファティマが鼻で笑った。
「来たわね、エドワード殿下の『引き剥がし工作』が。聖誕祭の実行委員は、各クラスから無作為に選ばれる……という建前だけど、明らかに恣意的な人事よ」
手紙には、こう記されていた。
『実行委員の活動は放課後に行う。委員以外の立ち入りは、警備上の理由により厳禁とする』
つまり、「カインを排除した状態で、セシリアを拘束する」という露骨な命令だ。
「……行かなくていい」
カイン様が、私の手から手紙を奪い取り、握りつぶした。
その瞳の奥に、暗い炎が揺らめいている。
「こんな紙切れ一枚で、君の時間を奪う権利は誰にもない。僕がねじ伏せてくる」
「待ってください、カイン様」
私は慌てて彼の手を抑えた。
ここでカイン様が生徒会室に乗り込めば、それこそ殿下の思う壺だ。
「公爵令息が学園の規則を乱した」という大義名分を与えてしまう。
「規則は規則です。私が断れば、カイン様の立場まで悪くなってしまいます。……大丈夫、ただの会議ですから」
「……セシリア。君は、あいつらが何を企んでいるか分かっていない」
カイン様は苦しげに顔を歪めたが、私の「あなたの為になりたい」という懇願に負け、しぶしぶ承諾した。
ただし、条件として「帰りは必ず迎えに行く」と約束させて。
❄❄❄
放課後。
実行委員会の会場である「白薔薇の温室」へ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
集められていたのは、私一人。
そして、私を待ち受けていたのは、王太子エドワード殿下と、彼の側近である数名の男子生徒たちだけだった。
「ようこそ、セシリア嬢。待っていたよ」
エドワード殿下は、温室の中央にあるティーテーブルで優雅に微笑んでいた。
西日が差し込む温室で、金髪の彼はまるで絵画のように美しい。背後にある状況さえ考えなければ乙女ゲームのメインヒーローに相応しいスチルに切り取られそうな場面だ。
「……実行委員会というのは、名ばかりですのね」
「人聞きが悪いな。もう一度話がしたかったんだ。……あの『猛犬』の鎖がついていない状態でね」
殿下が顎でしゃくると、側近たちが私の背後の扉に鍵をかけた。
密室。
私は警戒心を露わにせず、淑女の礼をして席についた。
「単刀直入に言おう。セシリア、僕が君を救ってあげる」
殿下は、まるで慈悲深い神のような口調で切り出した。
「救う、とは?」
「カインのことだ。彼は異常だ。幼い頃から見てきたが、彼の中には『他者への共感』が欠落している。今は君に執着しているようだが、それは愛じゃない。所有欲だ。……いずれ君は、彼に壊される」
殿下の瞳は、真剣そのものだった。
彼は本気で私を心配し、本気でカイン様を「悪」だと信じている。
それが彼の正義なのだ。「か弱き女性を、怪物から救い出すこと」こそが、王族たる自分の使命だと酔っている。
「君の生家であるシルヴェスタ伯爵家にも、王家から支援を約束しよう。カインとの婚約を破棄し、僕の側近……そうだな、そこにいる騎士団長の息子と新たに婚約を結ぶなら、君の安全は保障する」
側近の男子生徒が、値踏みするように私を見てニヤリと笑った。
まるで商品をやり取りするかのような会話。
彼らにとって私は、一人の人間ではなく「カインから取り上げるべきトロフィー」でしかないのだ。
私は、膝の上で拳を握りしめ、殿下を真っ直ぐに見据えた。
「……殿下の御恩情には感謝いたします。ですが、私の意思は変わりません」
「何?」
「カイン様は、殿下が仰るような怪物ではありません。彼は孤独なだけです。そして、その孤独を埋められるのは私だけです。……私は、誰かに『救われる』必要などございません」
きっぱりと告げた瞬間、殿下の優しげな仮面が剥がれ落ちた。
侮蔑と、苛立ち。
自分の差し伸べた手を拒絶されたことへの、子供じみた怒り。
「……愚かだな。洗脳されているのか? それとも、公爵家の権力がそんなに欲しいのか?」
殿下が立ち上がり、私に歩み寄ろうとしたその時。
―――ガシャン!!
温室のガラス屋根が、突然の突風によって砕け散った。
降り注ぐガラスの破片。
側近たちが悲鳴を上げて頭を抱える中、殿下だけが咄嗟に私を庇おうと手を伸ばしたが――その手は空を切った。
「……迎えに来たよ、セシリア」
ガラスの雨の中に、黒いコートを羽織ったカイン様が立っていた。
いつの間に入ってきたのか。いや、最初から結界の隙間に潜んでいたのか。
彼は私の肩を抱き寄せると、埃ひとつ払うような仕草で私の髪を撫でた。
「カ、カイン! 貴様、実行委員会の最中に……!」
「会議? どこで行われているんだい? ここにいるのは、僕の婚約者を囲んで脅迫している男の群れだけに見えるけれど」
カイン様の声は平坦だった。怒鳴りもしない。ただ、絶対零度の視線だけが殿下を射抜いている。
「エドワード。言ったはずだ。『次はない』と」
「……ふん。学園内で私的制裁でも加えるつもりか? そんなことをすれば、公爵家といえどただでは――」
「制裁? まさか。僕は何もしていないよ」
カイン様は薄く笑った。
「ただ……最近、学園内で『不運な事故』が多いそうだね。階段から落ちたり、実験中に爆発が起きたり、実家の不正が新聞にリークされたり。……君の側近たちも、気をつけた方がいい」
その言葉に、側近たちの顔色が青ざめた。
脅しではない。事実、ここ数日で王太子派の生徒数名が、原因不明の体調不良や家庭の事情で休学に追い込まれていたからだ。
カイン様は、直接手を下してはいなかった。
ただ、圧倒的な魔力と知略を使って、環境そのものを操作し、敵を「自滅」させていただけだ。
「行こう、セシリア。……ここは空気が悪い」
カイン様は私を抱きかかえると、呆然とする殿下たちを残して温室を出て行った。
廊下に出た瞬間、カイン様が小さく息を吐き、私の肩に額を押し付けてきた。
強い、震えるような抱擁。
「……ごめん。遅くなった」
「いいえ、カイン様。助けてくださってありがとう」
「あいつらに何か吹き込まれた? 婚約破棄か それとも……」
「何も響いていませんわ。私はあなたのものですもの」
私がそう告げると、彼は安堵したように、けれどどこか泣きそうな顔で笑った。
「そうだよ。君は僕のものだ。……いっそ、君を小さくしてポケットに入れて持ち歩けたらいいのに。そうすれば、誰の目にも触れさせずに済む」
その言葉に、背筋が凍るような感覚を覚えた。
冗談に聞こえなかったからだ。
殿下の干渉が強まれば強まるほど、カイン様の「守る」という行動は、徐々に「閉じ込める」という方向へシフトしている。
(私がしっかりしなきゃ。カイン様を殺人鬼にさせないために)
しかし、この日の出来事は、両者の対立を決定的なものにした。
エドワード殿下は「カインは危険だ、排除しなければならない」という確信を強め、カイン様は「王家は敵だ、滅ぼさなければならない」という決意を持ってしまった。
その狭間で、まだ無邪気な「聖女ルミナ」が、新たな火種を持ち込もうとしていることを、私たちはまだ知らなかった。




