三十七話 悪役救済BADEND
まどろみの中で聞いた、本来のセシリアの嘲笑。
「自分一人が消えて世界を戻すのか、彼と共に地獄へ堕ちるのか」
その問いに答える暇もなく、私の意識は急激な浮遊感と共に引き戻された。
まぶたを開けると、そこは王城の最上階。
かつてダンスを踊った美しいバルコニーは、いまや黒い魔力の結晶に侵食され、異界のような姿に変貌していた。
私がその光景を受け止める前に、私を抱きしめる腕の熱が背後から回ってきた。どこからか現れたカイン様に私はかつて無いほどの恐怖を覚えた。
「ねえ、セシリア。見てごらん。とても綺麗だ」
カイン様は、窓の外を指さしながら、うっとりとした声で私に囁いた。
彼の細くしなやかな指の先、王都の空は、かつてないほど鮮やかな紅蓮に染まっている。
それは夕焼けではない。燃え盛る王城と、逃げ惑う人々の悲鳴が作り出した、地獄の業火だった。
「どうして……どうして、こんなことに……」
私は震える手で口元を覆う。
本来のシナリオなら、彼はヒロインである聖女を奪うためにクーデターを起こし、そして勇者に討たれて死ぬはずだった。
だから私は奔走した。彼が聖女に執着しないよう、私が彼の一番になり、彼の心の闇をすべて愛で埋めたはずだった。
私の努力は報われた。彼は聖女になど目もくれなかった。彼が彼女のために犠牲になるのとは回避された。彼の瞳には私しか映っていなかったから。
「どうしてって、君が言ったんじゃないか」
カイン様は、血のついた手袋を外し、私の頬を優しく撫でる。その瞳は、宝石のように美しく、そして底が見えないほど濁っていた。
「『カイン様と一緒にいられるなら、他には何もいらない』って」
ドクン、と心臓が跳ねる。
言った。確かに言った。
彼が公爵家の重圧に押しつぶされそうになっていた夜、彼を励ますために。彼を肯定するために。
「だから、要らないものは全部消したんだよ」
彼は無邪気な子供のように笑った。
その足元には、本来のヒーローであった王子と、ヒロインであった聖女の変わり果てた姿が転がっている。彼を断罪するはずだった者たちは、もう誰も息をしていない。
「セシリア、君を僕から奪おうとする国も、君を惑わせる正義も、僕たちの時間を邪魔する民衆も、全部邪魔だった。君が僕だけを見てくれるには、世界は広すぎたんだ」
違う。私が最初に望んだのは、あなたが誰からも愛される立派な当主になり、穏やかに生きることだった。こんな、血塗れのハッピーエンドじゃない。
けれど、私の言葉は喉で詰まって出てこない。
彼の頬に返り血がついている。それを拭ってあげたいと思ってしまう自分自身が、何よりも恐ろしかった。
「泣かないで、僕の可愛いセシリア。救われたよ。君のおかげだ」
彼は私を強く抱きしめる。鉄の味がするキスが降ってくる。
背後で、王都が崩れ落ちる轟音が響いた。
「これで、もう誰も僕たちを邪魔できない。永遠に、二人きりだ」
私の視界が涙で滲む。
彼を「死」から救った結果、私は彼を「人」ではない何かに変えてしまった。
(ああ、これが私の望んだ救済の結果なの?)
燃え落ちる世界の中で、私は彼に抱かれながら、諦めにも似た笑みを浮かべる。
これは間違いなくバッドエンドだ。
けれど、愛する彼がこれほどまでに幸せそうに笑っているのだから、私はもう、この地獄で彼と踊り続けるしかないのだ。




