三十六話 深淵
王城の地下深く。
代々の王族と選ばれた魔導士しか知らぬはずの聖域を、カインは黒い靴音を響かせて進んでいた。
彼の外套の裾は、上層で繰り広げられた激闘の証か、それとも王城の騎士たちのものか……赤黒い飛沫で汚れている。
「――酷い顔だね、カイン君。かつての輝かしい秀才の面影もない」
暗闇の先、巨大な魔力結晶が鎮座する『礎の間』の前で、ヴィンセントが両手を広げて彼を歓迎した。
「……黙れ、ヴィンセント。約束通り、城の防衛機構は全て麻痺させた。殿下もレオンも、僕の闇の中に閉じ込めてある。……一時しのぎだが、邪魔は入らない」
カインの声は、枯れた木々が擦れ合うように低く、生気がない。
その瞳はただ、目の前にあるこの国の心臓――『礎』だけを見つめていた。王国の繁栄を支え、因果を安定させているこの巨大な魔導具。それが、彼にはセシリアを絞め殺そうとする絞首台の支柱に見えていた。
「さあ、始めよう。君の魔力をこの結晶に流し込み、システムの権限を奪うんだ。君の闇なら、この国の『正しい歴史』を塗り潰す墨汁になれる」
ヴィンセントが狂気じみた笑みを浮かべ、カインの背を押す。
カインは迷うことなく、冷たい結晶に両手を触れた。
「……ああ。書き換えてやる。彼女が死ぬはずだった結末も、彼女を悪役として定めた運命も。……たとえ、この大地から全ての光が消え去ることになろうとも」
カインの全身から溢れ出したドス黒い魔力が、純白だった『礎』を侵食していく。
王城が、王都が、大地そのものが悲鳴を上げるような地鳴りが響き渡る。
カインは、自身の魂が削り取られるような激痛に顔を歪めながらも、ただ一点――眠るセシリアの姿だけを脳裏に描き、因果の糸を強引に引きちぎり始めた。
❄❄❄
カイン様のかけた魔法によって、私は深い、深い眠りの淵に沈んでいた。
けれど、そこは暗闇ではない。
真っ白な、何も存在しない空間。そこに、一人の女性が立っていた。
「……貴女は」
それは、鏡を見ているようだった。
私と同じ顔、同じ髪。けれど、その瞳には今の私にはない「絶望」と「憎悪」が渦巻いている。
それは――『ゲーム本来のセシリア・シルヴェスタ』だった。
『無駄よ、もう一人の私。貴女がどれだけ足掻いても、物語の結末は変わらない』
本来のセシリアが、冷たい声で私に語りかけてくる。
『カイン・グランドールは、世界を恨むほど憎い私を殺しても、世界を捨ててまで愛おしい貴方を救っても幸せにはなれない。二つの一つに繋がる道しか選べない。……だって、彼は「そう作られた」のだから。彼の愛は、対象を破壊することでしか完成しない呪い。独りよがりの決して成就しない愛』
「違うわ……。カイン様は変わった。彼は私のために、あんなに優しく……」
『その「優しさ」が、彼を怪物に変えたのよ。貴女という光を失いたくないと願った瞬間、彼は世界を闇に染めることを選んだ。……見て。貴女が望んだハッピーエンドの成れの果てを』
彼女が指差した先。
白い空間に、ヒビが入るように「真実」が映し出されました。
世界という大きな歯車が、異物である私を排除しようと軋みを上げている。カイン様がそれを無理やり止めようとするたび、歯車は粉々に砕け、その破片が罪のない人々を切り裂いていく。
「……私の生存そのものが、この世界を壊しているの?」
『そうよ。貴女が生きることは、カインを狂わせること。貴女が愛されることは、この国を滅ぼすこと。……救済なんて、最初から存在しなかったの』
本来のセシリアの影が、私の体に重なっていく。
冷たい感触。心臓の鼓動が、世界の終焉を告げるカウントダウンの音と重なる。
『さあ、選んで。自分一人が消えて世界を戻すのか。それとも、彼と共に地獄へ堕ちるのか。……まあ、あの執着の塊のような彼が、貴女を逃がすはずもないけれど』
そうして本来のセシリアが消えた時に意識が急速に引き戻された。
爆ぜるような魔力の奔流。熱い空気。
目を開けた瞬間、私の視界に入ったのは、美しい夕焼け――ではなく。
カイン様が作り出した、王都を焼き尽くす「紅蓮の業火」だった。




