三十一話 錯乱の境界線
視界が白く弾け、次に意識が戻ったとき、僕の指先には「虚無」だけが残っていた。
「……セシリア?」
崩落した展望台の縁。埃が舞い、瓦礫が音を立てて奈落へ落ちていく。
数秒前までそこにいた彼女の体温も、僕の袖を掴んでいた柔らかな感触も、すべてが消えていた。
「セシリア! セシリアッ!!」
喉が裂けるほど叫んだ。だが、返ってくるのは塔の深淵から響く不気味な反響だけだ。
胸の奥が、氷を詰め込まれたように冷たくなっていく。
1年生のあの時、死を覚悟した彼女の瞳を見た時以上の、形容しがたい絶望が脳髄を駆け抜けた。
「……落ち着け、カイン。まだ気配は消えていない。彼女は生きている」
背後からエドワード殿下の声が聞こえた。見れば、彼もまたルミナを失い、青ざめた顔で瓦礫の底を覗き込んでいる。
……「落ち着け」だと?
「黙れ」
僕は立ち上がり、殿下を振り返った。
その時、僕がどんな顔をしていたのかは分からない。ただ、殿下が息を呑み、剣を構え直したのが見えた。
「……僕から彼女を奪っておいて、よくそんな言葉が吐けるな。貴様らが、聖女だの正義だのと浮ついた小芝居を繰り広げなければ、彼女がこんな目に遭うことはなかった」
「……っ、それは……!」
「……ああ、そうだ。ヴィンセントも、この塔も、ユリウスも……そして、守りきれなかった僕自身も。すべてが不愉快だ。すべてを消し去ってしまいたい」
指先から漏れ出した闇の魔力が、制御を失って周囲の石壁を腐食させ、黒い結晶となって侵食していく。
僕の魔力は、彼女が隣にいて初めて「愛」という名の形を保っていられたのだ。彼女がいなくなった今、それはただ世界を飲み込もうとする純粋な暴力へと退行していく。
「カイン、待て! 今ここで魔力を暴走させれば塔が完全に崩れる! 二人を助け出す道まで閉ざす気か!」
殿下の叫びが、辛うじて僕の理性を繋ぎ止めた。
……そうだ。彼女を助けるのが先だ。
「……殿下。今すぐこの瓦礫を退ける。貴様は聖剣の出力で、この下層へ続く障壁を焼き切れ。1秒でも遅れたら、僕は迷わず貴様をこの穴に蹴り落とす」
「……あぁ、承知したよ。つくづく強情な男だ。レオンは近くにいなかった、あの二人と同じ方へ落ちたのだろうか。彼が一緒なら安心だが……」
僕は両手をかざし、数トンの重さがある瓦礫の山を、魔力による「斥力」で強引に跳ね除けた。
血管が浮き出し、魔力回路が焼けるような痛みが走る。だが、そんな痛みはどうでもよかった。
ただ、怖い。
彼女がいない世界。
彼女が僕以外の「誰か」の名前を呼んで助けを求めているかもしれないという想像。
あるいは――僕の知らない「本来の彼女」が、一人で戦っているかもしれないという予感。
「――早く行くぞ」
僕は、暗闇に閉ざされた竪穴へと、迷わず身を投げ出した。
風を切る音の中、僕は心の中で何度も彼女の名を呼んだ。
待っていてくれ、セシリア。
君を傷つけるすべてのものを、僕がこの世から消し去ってあげる。
たとえ、それが君が守ろうとした「平和な日常」そのものであったとしても。




