二話 毒の芽
あの日、王宮の庭園でカイン様の手を取ってから、五年の月日が流れた。
私たちは十四歳になり、社交界では「グランドール公爵令息とセシリア嬢」の仲睦まじさは周囲にも知れ渡り、微笑ましい噂をキッカケに深く残る根を生やし始めている。
私の計画は順調だった。いや、順調すぎるほどだった。
カイン様は、私が知るゲームの中の「陰鬱な悪役」とはかけ離れた、穏やかで博識な紳士へと成長していたからだ。
「セシリア、この前の君の言葉だけど」
公爵家の温室。色とりどりの薔薇が咲き乱れる中、カイン様は紅茶のカップを置き、優雅に微笑んだ。
「君が勧めてくれた治水工事の件、父上に進言したら採用されたよ。君は本当に賢いね」
「まあ! カイン様が素晴らしいプレゼンをなさったからですわ」
私は心から嬉しくなって拍手をした。
本来の歴史では、彼は父親に認められようと軍事力強化ばかりを提案し、疎まれていたはずだ。だが、私が現代知識を少しだけヒントとして与えることで、彼は「賢帝」としての才覚を発揮し始めていた。
「父上も母上も、最近は僕を見る目が変わった。……でも、そんなことはどうでもいいんだ」
カイン様は立ち上がり、私の隣に腰を下ろす。
至近距離で見つめる彼の赤い瞳は、宝石のように美しく輝いている。かつての死んだような濁りはもうない。
「僕が頑張るのは、君が褒めてくれるからだ。君が笑ってくれるなら、僕はなんだってできる」
彼は私の髪を一房すくい取り、愛おしげに口づけた。
その仕草があまりに自然で、私は頬が熱くなるのを感じる。
「カイン様は、大袈裟ですわ」
「大袈裟じゃないよ。君は僕の光だ」
ああ、よかった。
彼はもう孤独じゃない。私が彼を肯定し続けたことで、彼は自己肯定感を取り戻したのだ。
これならきっと、ヒロインが現れても彼は狂ったりしない。
そう信じていた。
その日の帰り際、あの光景を見るまでは。
❄❄❄
馬車を待つため、私は屋敷の玄関ホールへ向かっていた。
ふと、廊下の角から話し声が聞こえた。カイン様の声だ。
「……それで? 君はセシリアに触れたのかい?」
いつもの甘い声とは違う。氷点下まで冷え切った、底冷えするような声色。
私は思わず足を止めて、陰から様子を窺った。
カイン様の前には、見知らぬ使用人の少年が青ざめた顔で土下座をしていた。
少年は震えながら言った。
「も、申し訳ございません! セシリア様が転びそうになったのを、支えようとしただけで……!」
「支える? 君ごとき汚らわしい人間が、彼女の体に触れたと言うのか?」
カイン様は無表情で見下ろしている。
その手には、護身用の短剣が握られていたわけではない。けれど、彼の纏う空気そのものが凶器のように鋭利だった。
「彼女は僕のものだ。髪の一本、指先の一つに至るまで、僕だけの聖域なんだよ。それを汚されるのが、僕が何より嫌うことだと知っているよね?」
「ひっ、お許しを、お許しください……!」
「……次はないよ。その手が彼女に触れるくらいなら、いっそ切り落としてしまった方が君のためだ」
カイン様は、虫でも追い払うように手を振った。
使用人の少年は、転がるように逃げ出していった。
私は息を呑んだまま動けなかった。
今のカイン様の表情。それは、私が恐れていた「悪役」の顔そのものだったからだ。
いや、ゲームの中の彼はもっと激情型だった。今のように、理性的かつ静謐に「排除」を宣言する姿は、もっと異質で恐ろしい。
「……あれ? セシリア?」
ふいに、彼が振り返った。
私と目が合う。
その瞬間、彼の顔から氷のような冷酷さが消え失せ、花が咲くような笑顔に変わった。
「どうしたの? そこで何をして――」
彼は駆け寄ってくると、私の顔を覗き込む。
私が怯えていることに気づいたのか、彼は悲しげに眉を下げた。
「ごめんね、怖い顔を見せちゃったかな。でも、わかってほしいんだ」
彼は私の両手をとり、自分の頬に押し当てた。
その肌は、かつてと同じように冷たかった。
「僕はね、世界中の人間が敵になっても構わないし、誰がいなくなっても何も感じない。……でも、君が汚されることだけは耐えられないんだ。君を守るためなら、僕は悪魔にだってなるよ」
「カイン、様……」
「ねえ、セシリア。僕を怖がらないで。僕を捨てないで。君がいなくなったら、僕はまた暗闇に戻ってしまう」
縋るような、子供のような瞳。
その瞳を見ていると、私の恐怖心は不思議と霧散していった。
彼はただ、不器用なだけなのだ。
幼い頃に愛されなかった反動で、私への依存心が少し強くなっているだけ。
私が彼を正しく導いてあげれば、きっと大丈夫。
「……捨てたりしません。私はずっと、あなたの味方です」
私がそう告げると、彼は安堵の吐息を漏らし、私を強く抱きしめた。
その腕の力は痛いほど強く、まるで私を自分の中に埋め込もうとしているかのようだった。
「ありがとう。……ああ、早く大人になりたいな」
私の耳元で、彼が恍惚とした声で呟く。
「そうすれば、誰にも邪魔されずに、君を僕だけの鳥籠に閉じ込めておけるのに」
その最後の言葉は、あまりに甘く囁かれたせいで、私には愛の言葉のように聞こえてしまった。
それが、彼にとっての「理想の未来図」そのものであるとも気づかずに。
私たちの運命の歯車は、この時すでに、決定的に狂い始めていたのだ。




