一話 救済の日
春の陽気が降り注ぐ王宮の庭園で、私はティーカップを取り落とした。
ガシャン、という陶器の砕ける音が、周囲の貴族たちの談笑を切り裂く。
「あらあら、セシリア様ったら」
「手が滑ったのかしら?」
周囲の令嬢たちがクスクスと笑う声が遠くに聞こえる。けれど、今の私にはドレスにこぼれた紅茶の染みも、母様の咎めるような視線も、何一つ目に入っていなかった。
私の視線の先にいたのは、一人の少年だった。
黒曜石のように暗い髪に、血のように赤い瞳。
まだ十歳にも満たないその少年は、庭園の隅にある大きな樫の木の陰に、まるで世界から拒絶されたかのように一人で佇んでいた。
――カイン・エル・グランドール。
この国の筆頭公爵家の嫡男であり、そして……私が前世でプレイしていた乙女ゲーム『聖女と白銀の騎士』のラスボス。
(嘘……私、セシリアに転生したの?)
頭の中に奔流のように流れ込んでくる記憶。ここはゲームの世界で、私はヒロインの恋路を邪魔する高飛車な悪役令嬢セシリアだ。
そして、あの木陰にいる美しい少年は、将来ヒロインへの愛に狂い、禁忌の魔法に手を染め、最後には勇者に首を切り落とされて死ぬ運命にある。
「……あんなに、綺麗なのに」
私は震える声で呟いた。
ゲームの中の彼は、狂気的な愛に生きる悲劇の悪役だった。
幼い頃から両親に顧みられず、常に優秀であることを強いられ、誰からも愛されなかった孤独な魂。
だからこそ、初めて優しくしてくれたヒロインに異常なほど執着し、破滅したのだ。
今の彼はまだ子供だ。
遠目からでもわかる。彼の瞳は死んでいる。
煌びやかなパーティーの最中だというのに、誰も彼に話しかけない。彼も誰にも関心を示さない。その小さな背中が背負っている孤独の重さを、私は知っている。
―――ズキン、と胸が痛んだ。
前世の私は、彼を推していた。
攻略対象の王子や騎士たちが正義を語る中、ただ一人、愛のためだけに国さえ敵に回した彼の情熱に、どうしようもなく惹かれていたのだ。
(死なせたくない)
その感情は、衝動に近いものだった。
まだシナリオは始まっていない。今ならまだ間に合う。
彼がヒロインに出会って狂う前に、その孤独を埋めることができれば。誰かが彼を無条件に愛してあげれば、彼はあんな悲惨な最期を迎えなくて済むはずだ。
「セシリア? どうしたの、顔色が悪いわよ」
母様の呼びかけを無視して、私は歩き出した。
カツン、カツンとヒールの音が鳴る。
心臓が早鐘を打つ。
彼に近づくことは、破滅へのフラグを自ら踏み抜きに行くようなものだ。
それでも、あの凍えそうな瞳を放っておくことなんてできなかった。
私は、木陰に立つ少年の前で足を止めた。
彼はゆっくりと顔を上げ、私を見る。
その瞳には、何の感情もなかった。ただ、無機質な鏡のように私を映しているだけ。
「……何か用?」
鈴を転がしたような、けれど冷ややかな声。
私は深呼吸をして、精一杯の笑みを浮かべた。
これが、私たちの運命を狂わせる最初の会話になるとも知らずに。
「はじめまして、カイン様。私、セシリアと申します」
私はスカートの裾をつまみ、カーテシーをする。
「あちらは退屈でしょう? もしよろしければ……私とお話ししてくださらない?」
カイン様は怪訝そうに眉を寄せた。
自分に話しかけてくる人間など、媚びへつらう大人か、家柄目当ての令嬢しかいないと知っている目だ。
「僕と話しても、何の得にもならないよ」
「得なんていりません」
私は即答した。
驚いたように、彼の赤い瞳がわずかに見開かれる。
「私はただ、あなたが寂しそうに見えたから。……私もね、このパーティー、少し退屈だったんです」
それは半分嘘で、半分本音だった。
彼が孤独なら、私がその隣にいよう。
彼が誰からも愛されないなら、私が彼を肯定しよう。
そうすればきっと、彼は「国を滅ぼす悪魔」ではなく、ただの「幸せな青年」になれるはずだから。
「……変な子」
カイン様はふいと視線を逸らしたが、その頬がわずかに緩んでいるのを私は見逃さなかった。
彼は、私の差し出した手を、躊躇いながらも握り返してくれた。その手は氷のように冷たく、そして壊れ物のように震えていた。
私はその手を両手で包み込み、温めるように強く握りしめる。
「これから仲良くしてくださいね、カイン様」
私の言葉に、彼は小さく頷いた。
その瞳に、微かだが確かな「熱」が宿った瞬間だった。
私は知らなかったのだ。
渇ききった砂漠に水を注げば、砂は際限なく水を吸い込むように。
愛を知らない少年に愛を与えれば、彼がその愛以外、何もいらないと願うようになってしまうことを。
この瞬間の私はまだ、自分こそが彼を破滅させる「原因」になるとは、夢にも思っていなかった。




