十七話 透明な壁(2)
「……誰からの手紙だい? セシリア」
カイン様の問いかけが、しんと静まり返った部屋に響く。
私は無意識に、ヴィンセント様からの手紙を背後に隠そうとしてしまった。その一瞬の躊躇こそが、今の彼にとっては何より雄弁な「裏切り」の証拠になるというのに。
「……いえ、ただの、次回の演習の通知ですわ」
「そう。……。僕に見せてくれないか。君の助けになれるかもしれないし」
カイン様はゆっくりと歩み寄ってくる。
その足音は驚くほど軽い。以前の彼なら、嫉妬に任せて手紙を奪い取っていただろう。けれど、今の彼は、ただ静かに手を差し出して待っている。
拒絶すれば、不信が深まる。
渡せば、ヴィンセント様との密会を、私の秘密を知られてしまう。
「……。申し訳ありません。これは、女性生徒向けの個人的な……その、ファティマとのやり取りなのです」
私は、ありふれた嘘をついた。
カイン様は差し出した手を止め、数秒間、私をじっと見つめた。その瞳には、かつての熱烈な愛着ではなく、ひどく冷めた「傍観者」としての光が宿っている。
「……わかった。無理にとは言わないよ」
彼はふっと微笑んで、私の頭を優しく撫でた。
その手は温かいはずなのに、氷の塊を押し当てられたような寒気が走る。
「君を信じているからね、セシリア」
その言葉が、今の私にはどんな呪縛よりも重く感じられた。
翌日の放課後。私は約束通り、地下書庫へと向かった。
カイン様には「図書委員の仕事がある」と告げてある。
学園の敷地内。守護の刻印を通じて、私の居場所は彼に筒抜けだ。けれど、この地下書庫は古くから強力な防音・防魔法の結界が張られており、会話の内容までは彼に届かない。
地下へ続く階段を下りる間、ずっと背中に視線を感じていた。
振り返っても誰もいない。けれど、この学園の影すべてが、カイン様の目になっているような錯覚に陥る。
「……遅かったですね。彼を撒くのは骨が折れたでしょう?」
書庫の奥、ランプの光の中にヴィンセント様が立っていた。
彼は手に、一冊のひどく古びた手記を持っている。
「先生……。私の正体を知って、どうするつもりですか? 私は、ただ……」
「君が何者であるかに興味はありません。私が興味があるのは、君という存在が、この世界にどのような『歪み』を生んでいるかだ」
ヴィンセント様は手記を開き、あるページを私に見せた。
そこには、この王国の建国神話と共に、「聖女と騎士が、滅びの運命を繰り返す」という予言のような記述があった。
「本来、カイン君は君を憎み、聖女に救われるはずだったのでしょう。……だが、君という異物が混入したことで、彼は救いではなく、より深い『執着という名の地獄』に落ちた。……。君が彼に与えた愛は、彼という人間を美しく作り替えたが、同時に、彼が持つべき『抗体』をも奪ってしまった」
ヴィンセント様は、眼鏡を押し上げ、私を冷酷に見つめた。
「カイン君は今、君という薬がないと生きていけない廃人だ。……そして、その薬が『偽物』かもしれないと疑い始めた時、彼は自分ごと世界を壊すだろう。……。君が本当に彼を救いたいなら、今の『嘘の献身』を続けるか、あるいは……」
「あるいは?」
「すべてを打ち明けて、彼と共に壊れるか。どちらかです」
❄❄❄
ヴィンセント様との会話を終え、重い足取りで地上へ戻った。
地下書庫の扉を開けた瞬間、私はそこに立っていた人物に息を呑んだ。
カイン様だ。
彼は、扉のすぐ脇の壁に寄りかかり、暗闇の中で私を待っていた。
「……お疲れ様。図書委員の仕事は、そんなに時間がかかるものだったんだね」
「カイン、様……」
「地下書庫は、魔力が届きにくいから心配したよ。……。中には、ヴィンセント先生もいたのかい?」
彼は私の表情を、ミリ単位で見逃さないように凝視している。
私は嘘を重ねるか、真実を話すかの瀬戸際に立たされた。
「……ええ。偶然、お会いしましたわ。先生から、魔法の歴史についての資料を……」
「……。そう。……。セシリア、君の服に、紫色の蜜蝋の香りが付いているよ」
カイン様が、私の肩に顔を寄せて、深く息を吸い込んだ。
ヴィンセント様が手紙に使っていた、あの香調だ。
「……僕に嘘をつく時、君はいつも、左に少しだけ視線を逸らす。……。知っていたかい?」
カイン様の腕が、私の腰に回される。
逃げ場のない密室のような廊下で、彼の低い声が耳元で囁かれた。
「僕を、救済の対象としてしか見ていないのなら、せめて最後まで完璧に演じ切ってほしい。……。君の嘘が崩れる瞬間、僕は……僕自身を、どうしていいか分からなくなるから」
彼の抱擁は、以前よりもずっと、絶望に近い温もりを持っていた。
ヴィンセント様が植え付けた「疑念」と、私が守ろうとした「秘密」。
それらが、私たちの純粋だったはずの愛を、内側から確実に腐食させていた。




