十六話 透明な壁
図書室での一件以来、カイン様は驚くほど物静かになった。
離宮の時のように私を閉じ込めることはもちろん、声を荒らげることもない。けれど、彼が私を見つめる瞳には、以前のような盲目的な熱はなく、代わりに何かを値踏みするような、凍てついた冷徹さが混じるようになった。
「おはよう、セシリア。今日は少し肌寒いね。このショールを羽織るといい」
中庭でのティータイム。カイン様は穏やかな微笑みを浮かべながら、私の肩にショールを掛けた。
指先が、ほんの一瞬だけ私の首筋に触れる。その感触は、まるでもう自分の知っている人肌ではない何かを確認するかのようだった。
「……ありがとうございます、カイン様」
「どういたしまして。……ねえ、セシリア。さっき、何を考えていたんだい?」
「え……?」
「一瞬だけ、君の目が遠くを見ていたから。……僕の知らない、どこか遠い場所のことを思い出していたのかな?」
彼は私の顔を覗き込み、私の表情のわずかな変化も逃さないように見つめる。
これまでなら「心配してくれている」と思えたその言葉が、今は「私の内側を暴こうとする尋問」のように聞こえてしまう。
「いいえ、ただ少し……今日の授業のことを考えていただけですわ」
「そう。……君は、嘘が上手になったね」
カイン様は短く笑い、ティーカップを口に運んだ。その言葉に心臓が凍りつく。
「セシリア様、最近……カイン様と何かあったの?」
放課後、魔法薬学の準備室。ファティマが心配そうに私に小声をかけてきた。
「ええ……少し、先生とのお話で誤解があって」
「……あいつのあの目、普通じゃないわ。今までが『狂犬』だったなら、今は『獲物を仕留める前の蛇』よ。……ねえ、もし何かあったら、本当にすぐに逃げて。私の実家の方に、身を隠せる伝手ならあるから」
親友の忠告が痛いほど胸に刺さる。
カイン様を救いたくて、彼が誰からも恐れられない世界を作りたくて、私はずっと「善いセシリア」を演じてきた。
でも、その私の「善性」そのものが、今の彼には「自分を欺くための仮面」に見えているのだ。
私が彼に注いできた「愛」は、彼にとっては「計算された救済」だったのではないか。
私が彼にかけた「言葉」は、彼にとっては「物語をハッピーエンドに導くための台詞」だったのではないか。
その不信感は、私と彼の間に、監禁の壁よりもずっと高く、透明な壁を築きつつあった。
❄❄❄
自室に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。
差出人の名はない。けれど、封蝋に使われた紫色の蜜蝋と、独特な紙の香りで、それが誰からのものかはすぐにわかった。
『君の中に眠る「別の理」について、少し興味深い資料が見つかりました。明日の放課後、地下書庫まで。……彼には内密に。それが、君のためでもあります。』
ヴィンセント様。
彼は、私が「物語の結末」を知っていることを確信している。
そしてカイン様も、私が何かを隠していることに絶望している。
私は手紙を握りしめた。
カイン様の不信を解くには、正直にすべてを話すべきなのか。
でも、「ここはゲームの世界で、あなたは破滅する運命だった」なんて話して、今の彼が納得するはずがない。
ふと、背後に気配を感じて振り返る。
そこには、いつの間にか開いていた扉の影に、カイン様が立っていた。
「……誰からの手紙だい? セシリア」
彼の声は、凪いだ海のように静かだった。
けれど、その背後にある影が、蛇のように不気味にうごめいているのを、私は見てしまった。




