十三話 偽りの静寂(2)
魔術棟の最上階。ヴィンセント・ディアス講師の私室は、放課後だというのに遮光カーテンで閉ざされ、魔導ランプの青白い光だけが揺れていた。
「失礼いたします、ディアス先生。お借りしていた文献を返しに参りました」
私が差し出した本を、ヴィンセントは受け取ろうともせず、じっと私の手元を見つめた。正確には、カイン様が私の指に刻んだ「誓約の魔法」の刻印を。
「……やはり素晴らしい。この術式。一見すれば守護、しかしその本質は『所有権の主張』だ。あなたの感情の起伏に合わせて、この魔力ラインが脈動している。まるで、生きている寄生虫のように」
ヴィンセントは恍惚とした表情で、私の指先に触れようとした。
「先生……?」
「ああ、失礼。研究者としての知的好奇心が抑えられなくてね。シルヴェスタ嬢、君は気づいていないのか? 彼はこの術を通じて、君の居場所、体温、果ては魔力の消費量まで、すべてを手元で把握している。……君は今、目に見えない糸で操られたマリオネットだ」
ヴィンセントの言葉は、鋭いメスのように私の平穏を切り裂く。
カイン様が「自由にする」と言ったあの日の誓い。それは嘘ではなかったはずだ。でも、この刻印が彼にすべてを伝えているのだとしたら――。
「もし望むなら、私がこれを『解体』してあげてもいい。君という個体を、このおぞましい執着から分離してあげたい。……純粋な興味としてね」
「――その『興味』、僕が買い取ってあげようか。代価は、君の命でどうだい?」
凍りつくような声が、部屋の入り口から響いた。
振り返ると、そこにはいつの間にかカイン様が立っていた。
以前のような激昂はない。しかし、その瞳の奥には、ドロドロとした暗い泥のような感情が沈殿していた。
「おやおや、公爵令息。生徒が講師の部屋に入る時は、ノックをするのが礼儀ですよ」
「君がセシリアに触れようとした時点で、礼儀などという概念は消滅した。……セシリア、おいで。その男は、君を人間として見ていない。ただの『サンプル』として見ている薄汚い目をしている」
カイン様が私を自分の隣に引き寄せる。その力は、以前よりもずっと静かで、逃げられない強さを持っていた。
「……カイン様、先生はただ、魔法の解説を……」
「わかっているよ、セシリア。君は悪くない。……悪いのは、君という美しい真理を、無機質な知識で汚そうとする、この不潔な男だ」
カイン様はヴィンセントを睨み据えた。
二人の間に、目に見えない魔力の火花が散る。ヴィンセントは不敵に笑い、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「否定はしませんよ。ですが、守護と称して彼女の魂を塗りつぶしている貴方よりは、私の方がまだ『誠実』だ。彼女がいつか、その重さに耐えきれず、自ら解体を望む日が来るのが楽しみです」
「……その日は来ない。僕が、死んでもさせない」
魔術棟を出た後、カイン様は私の手を引いて、夕暮れの回廊を歩いた。
沈黙が重い。
彼は一度も私を叱らなかった。けれど、彼の手から伝わってくる微かな震えが、何よりも雄弁に彼の不安を物語っていた。
「……セシリア。あの日、僕は君を縛らないと決めた。……でも、世界はこんなにも、君を僕から引き剥がそうとする悪意に満ちている」
「カイン様……」
「エドワードは正義で君を飾り立てようとし、レオンは秩序で君を管理しようとし、あの男は知性で君を解体しようとする。……。誰も、僕のように、君という『命』そのものを愛してはいないんだ」
カイン様は立ち止まり、私を強く抱きしめた。
それは、離宮の時のような物理的な監禁ではなかった。けれど、彼の言葉が、彼の情熱が、私の周囲に見えない壁を築いていく。
「ねえ、セシリア。僕たちが卒業するまで、まだ二年以上も残っている。……その間に、君を傷つけるすべての要素を、僕がこの手で片付けておく。……君はただ、僕の隣で笑っていて欲しいんだ」
それは、甘い毒を含んだ約束だった。
カイン様は「我慢」することをやめたわけではない。
「私を嫌われない方法で、敵を排除する」という、より洗練された、より逃げ場のない狂気を手に入れてしまった。
私は守護の誓約として彼に施されたはずの執着の呪いについて何も言うことが出来ないままこの日も過ぎていってしまう。




