十話 決壊
レオンとの決闘から数日。学園の空気は表面上、平穏を取り戻したかのように見えていた。
戻ってきたカイン様は以前よりもさらに穏やかになり、私への接し方も、まるで壊れ物を扱うように繊細で優しいものへと変わっていた。
けれど、それは嵐の前の静けさだったのだ。
「セシリア、明日は授業が休みだね。僕の家が管理している湖畔の別邸へ行かないか? 珍しい青い薔薇が咲いたんだ」
金曜日の放課後、馬車の中でカイン様が微笑みながら私に告げた。
その瞳はどこまでも澄んでいて、何の疑いも抱かせない。
私は、最近の彼の落ち着きぶりに安心しきっていたこともあり、「ええ、楽しみですわ」と答えてしまった。
翌朝、迎えに来た馬車に乗り込んだ私は、微かな違和感を覚えた。
いつもなら同乗するはずのカイン様の姿がなく、御者も見たことのない無口な男だったからだ。
「カイン様は、後からいらっしゃるのかしら?」
問いかけに答えはなく、馬車は静かに、けれど通常よりも速い速度で走り出した。
窓の外の景色が、見慣れた王都の街並みから、深い霧の立ち込める森へと変わっていく。
気づいた時には、馬車の扉には内側から鍵がかけられていた。
「……カイン様?」
私の震える声に応えるように、座席に置かれた小さな魔導具から、彼の愛おしい声が響いた。
「おはよう、セシリア。驚かせてごめんね。……でも、学園はもういいんだ。あそこには君を狙う男たちが多すぎる」
「何を……おっしゃっているのですか?」
「静かな場所を用意したよ。誰の目も届かない、僕と君だけの場所。……そこで、二人だけで暮らそう。王太子も、騎士も、聖女もいない……誰も君を『道具』にしない世界だ」
馬車が止まったのは、深い森の奥にある湖のほとりだった。
湖の中央には、古びているが手入れの行き届いた離宮が佇んでいる。岸と離宮を繋ぐのは一本の長い橋だけ。
離宮の玄関で私を待っていたカイン様は、馬車から降りた私を迷わず抱き上げた。
「さあ、入ろう。君の部屋は一番眺めの良い場所にしたよ」
「カイン様、離してください! こんなこと、許されるはずがありません。お父様も、学園も、皆が心配します!」
「いいんだ。シルヴェスタ伯爵には『君は急病で、公爵家の静養所で療養する』と伝えてある。……学園も、僕の権力でどうにでもなる。誰も君を捜しには来ない」
彼の腕は鉄のように固く、逃げる隙を与えない。
連れて行かれた部屋は、豪華な家具やドレスで埋め尽くされていた。けれど、窓には美しい装飾の施された鉄格子が嵌められ、扉の向こうからは厳重な閂の音が響いた。
「ここで、僕だけを見て。セシリア。……君が言っただろう? 『私はあなたのもの』だって。僕はそれを実行に移しただけなんだ」
❄❄❄
カイン様は毎日、私の食事を運び、髪を梳き、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
まるで、私という人形を愛でる子供のように。
彼は幸せそうだった。邪魔者のいない世界で、私を独占できていることに。
けれど、私は。
「……セシリア、今日は一口も食べていないね。何が不満だい? 宝石が欲しい? それとも、もっと別の本を……」
「……自由が、欲しいです」
私が絞り出した声に、カイン様の動きが止まった。
「自由? ここにあるじゃないか。僕の愛も、地位も、富も。すべて君に捧げている」
「それは、違います。……私が愛したのは、孤独に耐えながらも、誇り高く前を向こうとしていたカイン様です。……今のあなたは、ただの臆病な子供ですわ」
私は彼を真っ直ぐに見た。
彼が一番恐れているのは、私に嫌われること。けれど、それを恐れるあまり私を壊そうとしている矛盾を、私は突きつけなければならなかった。
「……臆病? 僕が?」
カイン様の瞳に、冷たい怒りと、それ以上の絶望が宿る。
「君を守るために、どれだけの敵を排除してきたと思っているんだ! エドワードが君を誘惑し、レオンが君を監視し……君を奪おうとする奴らから守るには、こうするしかなかったんだ!」
「守るために、私から光を奪うのですか? 私が笑うことも、友人と話すことも、外の空気を吸うことも……。そんな場所で私を生かして、あなたは何が楽しいのですか?」
私は初めて、彼の前で涙を流した。
悲しいからではない。彼をここまで追い詰めてしまった、自分の「甘やかし」への後悔からだった。
「……セシリア、泣かないで……。僕は、ただ……」
カイン様が私の頬に触れようとした時、私はその手を、はっきりと拒絶するように振り払った。
その瞬間、離宮の窓ガラスが外側から激しく砕け散った。
「――そこまでだ、グランドール。……貴殿の『静養』は、いささか度が過ぎている」
砕け散ったガラスの向こう。月明かりを背に、剣を抜いたレオン・フォン・ブレイズが立っていた。
そしてその後ろには、険しい表情のファティマの姿も。
カイン様とレオン。
再び、刃と魔力が交錯する。
けれど今回のカイン様は、以前とは違う「致命的な脆さ」を抱えていた。




