第二話:『硝煙のスコール、錆びたバケツ』
天が割れたかのような、凄まじい鉄の嵐だった。
大本営が「霊底」と名付けたこの島は、大卒新卒の俺――いや、大日本帝国陸軍歩兵第十六連隊の最底辺、大道寺太一二等兵の五感を、容赦ない暴力で破壊し尽くそうとしていた。
頭上を覆うジャングルの天蓋は、米軍のM1A1 155mm榴弾砲が放つ猛烈な砲撃によってズタズタに引き裂かれ、凄まじい金属片の雨となって降り注いでいる。熱帯特有のスコールが激しく大地を叩いているが、それはただの水ではない。火薬の硫黄臭と、燃え盛るガソリンの黒煙が混ざり合った、どす黒い『硝煙の雨』だ。足元の粘土質の赤土は、血と雨水を吸って底なしの泥濘と化し、一歩進むたびに九八式夏服の裾を容赦なく汚していく。
周囲を見渡せば、そこにあるのは一切の綺麗事を排した戦場の真実だった。爆風でへし折れた椰子の木の根元には、蛆の湧いた戦友たちの死体が、泥に半ば埋もれたまま放置されている。内臓をぶちまけ、鉄帽の拉げた無残な姿。普通の人間なら一瞬で発狂するであろうその凄惨なディテールを、広汎性発達障害(ASD)の俺の脳は、感覚過敏のフィルターを通じて、毛穴の数まで数えられるほどの異常な高解像度で克明に焼き付けてしまっていた。
(下痢が、また始まる……。背中の汗が冷えて、気持ち悪い、頭が割れそうだ……)
札幌のオフィスでマルチタスクに潰されたときと同じ、あの猛烈な自律神経のパニックが身体を駆け巡る。冷たい多汗が滝のように噴き出し、防暑衣の背中が皮膚にベタベタと張り付いて気が狂いそうになる。ふくらはぎを締め付けるゲートルの圧迫痛と、底に鉄鋲がびっしり打たれた軍靴の重みが、太一の肉体をさらに疲弊させていた。
「――何をもたもたしている! 撃て! 撃ち続けろッ!」
「馬鹿者が! 退くな! 一歩でも退く者はその場で叩き斬るぞッ!」
耳を聾する砲撃の轟音の隙間を縫って、鼓膜に突き刺さるのは、泥まみれの上官たちの狂気じみた怒鳴り声だった。
「第二小隊は前方の敵陣地へ突撃せよ! 大元営の兵隊ならば、最後の一兵になろうとも戦い抜くのだッ!」
それは叱咤激励という名の、死の宣告に等しい不条理な命令だった。敵の姿も見えないジャングルの奥へ、ただ弾除けとして飛び出していけと叫ぶ上官の歪んだ顔。凄まじい金属片の雨を降らせる米軍の榴弾砲火のなか、日本兵たちが血と泥にまみれてバタバタと倒れていく。
ハッと目を覚ましたとき、俺――大道寺太一の口内を汚していたのは、先ほどまで楽しんでいたバーボンの余韻など微塵も残っていない、生臭い、鉄の味のする本物の泥だった。
視界を埋め尽くしたのは、地下バーの薄暗がりではない。不気味なほど青々と茂る、見たこともない熱帯の緑の葉。激しく大地を叩くスコールは、火薬の硫黄臭と、燃え盛るガソリンの黒煙が混ざり合った、どす黒い『硝煙の雨』だった。
(な、なんだこれ……。ここはどこだ? 僕は一体、どうしちゃったんだ……!?)
周囲のあまりの狂気と、飛び交う上官の怒号に、太一の脳は一瞬でパニックを起こしていた。札幌のオフィスでマルチタスクに潰されたときと同じ、あの猛烈な下痢の痛みが容赦なく内臓をねじ切り、手のひらからは冷たい多汗が滝のように噴き出す。
呼吸をしようとして、胸元が異様に息苦しい。着ているのは安物のリクルートスーツではなかった。汗と雨を吸ってずっしりと重くなった、木綿製の、大日本帝国陸軍・九八式軍服の夏服。首筋には、湿気の中でベタベタと容赦なく皮膚に張り付く4枚の略帽垂布(帽垂れ)が、不快な感触でまとわりついている。
足元を見れば、膝下から足首にかけて、泥水を吸ってガチガチに固まった布製の帯――ゲートル(巻脚絆)が幾重にも強固に巻き付けられ、ふくらはぎを激しく圧迫していた。その先にあるのは、革の焼けたような独特の臭いを放ち、鉄鋲が靴底にびっしりと打たれた焦げ茶色の軍靴(編上靴)。
そして両手は、一本の『鉄と木』を本能的に握りしめていた。
全長1276ミリ。重量4.1キロ。三十八式歩兵銃。
F-15のヴァルカン砲の20mm実包が1発わずか250グラムだというのに、なぜこの6.5mm口径の歩兵銃が、これほどまでに重く、俺の身体を地面に縛り付けるのか。
泥が詰まり、ボルト(遊底)を引こうとすると「ガリガリ」と不快な音を立てる、鉄製の埃覆。その隙間から覗く薬室の天面には、不条理なほど燦然と輝く、金色の「十六弁の菊花紋章」が、強烈な木漏れ日を浴びて鈍く光っていた。
「嘘だろ……。イーグルのフライ・バイ・ワイヤの足元にも及ばない、こんな旧式小銃を、僕が握ってる……?」
恐怖を少しでもほぐそうと、太一は本能的に九八式軍服の胸ポケットへ手を伸ばした。
指先が探しているのは、札幌での孤独な新卒生活の中で、唯一の気付け薬として愛飲していたアメリカ製のタバコ――『ラッキーストライク』だった。火をつけた瞬間に広がる、トーストされた上質なタバコ葉の香ばしく、濃厚な甘み。煙を肺の奥深くまで吸い込み、ゆっくりと吐き出すときの、脳の芯が解けていくあの完璧な感覚。
だが、泥で汚れたポケットから出てきたのは、くしゃくしゃに潰れた陸軍支給品の『ほまれ』の空箱だけだった。
「……クソ。ラッキーストライクなんて、あるわけないか……」
乾いた唇から漏れた呟きは、米軍の12.7mm重機関銃の「ダダダダダッ!」という鋭い連続音にかき消された。
狂った上官たちの命令の声を背に、太一は三八式歩兵銃を抱えて、ゲリラすら避けるという鬱蒼とした禁忌の密林へと這うようにして逃げ込んだ。不気味なほどにしんと静まり返った、光の届かないシダ植物の迷宮。
その薄暗い泥濘のなかに、場違いな『鉄の塊』がぽつんと佇んでいた。
「……え?」
太一のミリオタとしてのスペック脳が、その異形を至近距離で捉え、凍りついた。
背丈は175センチほど。自分と全く同じ目線。
シルエットは、あの四角いバケツをひっくり返したような頭部、ドラム缶のような寸胴の胴体、金属のジャバラで繋がれた腕。手先は不気味な二本爪のハサミ(マジックハンド)の形をしている。
その表面は、初代メカゴジラそのものの重厚さと無骨さに満ちていた。防弾鋼板の継ぎ目には剥き出しのリベット(鋲)がびっしりと打ち込まれ、胸部にはメカニカルな冷却格子が細かく刻まれている。ピカピカしたシルバーではなく、鈍く酸化した真鍮色。時計のようなパーツなど最初から一切存在しないその胸板には、「陸軍技術本部」の小さな錆びた銘板だけが打たれていた。
動かない。ロボットは琥珀色の真空管の目を消したまま、泥の中で物言わぬ案山子のように眠っていた。
「おい、陸軍の二等兵。そこで何をしている。……待て、貴様、その胸の名札は……」
頭上から降ってきた鋭い声に、太一はハッとして振り返った。
そこに立っていたのは、泥まみれの、しかし緑がかった青褐色の海軍第三種軍装に身を包んだ20代前半の若き将校だった。開襟の胸元には、スコールで濡れて歪んだ黒いネクタイが、きっちりと結ばれている。腰には軍刀。
男の目は完全に驚愕に見開かれ、太一の胸元にピンで留められた布製の名札を凝視していた。そこには、日本に数十軒しかない、網走の彼らの家系を示す珍しい苗字――『大道寺』の文字が、墨で力強く書かれていた。
「大叔父……さん……?」
実家の古い写真で、回天特攻で死んだと聞いていた、あの若き日の大叔父(大道寺少尉)が、175cmのメカゴジラ風ロボットのすぐ横に、確かに生きて立っていた。
「お前、なぜ俺の名を……。いや、まさか網走の兄貴の倅か!?」
大叔父が慌てて歩み寄ろうとした瞬間、ジャングルの蔦に軍靴を引っ掛け、派手にバランスを崩した。軍刀のストッパーを留め忘れていたせいで、鞘ごと刀を泥の中にすっ飛ばし、「うわっとと!」と声を上げてロボットのドラム缶のような胴体に思いきり頭をぶつけた。
ゴン、と、密林の中にマヌケな金属音が響き渡る。
「痛たた……! おいブリキ、少しはクッションの役割をせんか!」
頭を押さえて黒ネクタイを泥で汚しながら、慌てて刀を拾い上げようとしている大叔父の姿を目の当たりにして、太一の脳内ツッコミが炸裂した。
(嘘だろ……。実家じゃ英雄って言われてた大叔父さん、ただの致命的なおっちょこちょいじゃないか……! っていうか、ここ、本当にどこなんだよ!?)
三八式歩兵銃を抱えた大卒新卒の二等兵と、黒ネクタイを泥にした海軍少尉、そして乾電池の切れた175cmの時計のないロボット。
周囲から響く上官たちの不条理な怒号を遠くに聞きながら、大道寺一族の「仁義なき出会い」のディテールが、泥濘の中で完全に重なり合った。




