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第一話:『流氷の街を遠く離れて』

 その日も、俺の脳は限界を超えて焼き切れていた。

 北海道の網走市という、冬にはオホーツク海から白い流氷が押し寄せる極寒の街で育った俺は、大学を卒業してこの春、札幌の会社に「新卒」として入社した。大通公園のテレビ塔を見上げる札幌の街は、網走に比べれば遥かに都会で、人も情報も多すぎた。広汎性発達障害(ASD)を抱え、ただでさえ人間関係が苦手な俺にとって、誰も知り合いのいない札幌での一人暮らしと新生活は、それだけで毎日の生存限界を試されているようだった。

 さらに、待っていたのは地獄以外の何物でもない現代社会のシステムだった。

「一人の顧客の対応をしながら、電話の要件をメモして、さらに次の会議の資料の段取りを頭に入れろ」

 札幌のオフィスで要求される臨機応変なマルチタスク、そして言語化されない「空気を読む」という人間関係の暗黙の了解。他人の嘘や裏の意図、表情の微細な変化を読み取ることが決定的に苦手な俺にとって、オフィス内を行き交う言葉は、意味を持たない不快なノイズの嵐でしかなかった。

 マルチタスクの負荷がかかるたび、俺の身体は拒絶反応を起こした。

 急激な精神的パニックは、容赦なく自律神経を破壊する。前触れもなく内臓がねじ切れるような激痛が走り、トイレに駆け込んでは酷い下痢を繰り返した。背中や手のひらからは、冷たい多汗が滝のように噴き出し、ワイシャツの背中がぐっしょりと張り付いて不快感に脳がパニックを起こす。夜、薄い壁の札幌のアパートのベッドに入っても、日中の上司の叱責や「普通にできない自分」への恐怖が頭の中でリフレッシュされず、心臓がバクバクと鳴り響いて一睡もできない不眠の夜が何日も続いた。

 生きているだけで、すり潰される。

 そんな俺の唯一の救いは、自室の暗がりで、大好きな戦闘機『F-15(イーグル)』のプラモデルを眺め、その数値を脳内で完璧にトレースすることだけだった。

 全幅13.05メートル、全長19.43メートル。主翼の滑らかなストレーキ(翼面)のライン。チタン合金で成形された頑強な機体に、マッハ2.5の静寂を引き裂くF100-PW-220E型ターボファンエンジンの圧倒的な推力。コックピットを覆う、歪み一つない涙滴型の美しいキャノピー(天蓋)。そして、毎分6000発の圧倒的な高精度で20mm実包を吐き出す、M61A1ヴァルカン砲の洗練されたハイドロ(油圧)システム。

 数値化され、一切の曖昧さを排して完璧に統制された近代の航空メカニズムだけが、摩耗しきった俺の脳の避難所だった。

 その夜も、俺は人間関係のストレスに完全に参り、自暴自棄になって夜の街を彷徨っていた。

 吸い込まれたのは、サラリーマンたちが群れる、大衆的な赤提灯の店だった。

 カウンターの隅に座り、生ビールを注文する。喉を鳴らして流し込む冷たいビールの苦味だけが、熱を持った脳をわずかに冷ましてくれた。タレの焦げた香ばしい匂いとともに運ばれてきた焼き鳥を、無心で口に運ぶ。砂肝のコリコリとした正確な歯ごたえ、ネギ間の鶏肉の脂。数値のように裏切らない食べ物の質感だけが、俺の過敏な神経を解きほぐしていく。

 しかし、赤提灯のにぎやかな騒音すらも、次第に俺の聴覚過敏を刺激し始める。

 店を出た俺は、静寂を求めて、さらに夜の闇の奥へと歩いた。

 雑居ビルの狭い階段を降りた先にある、地下のバー。薄暗い店内には、落ち着いたジャズが静かに流れていた。

 俺はカウンターで、まず『ソルティドッグ』を頼んだ。グラスの縁に飾られた白い塩の結晶の、ザラザラとした舌触りと、グレープフルーツの強烈な酸味が、パニックで渇ききった喉を潤していく。続いて頼んだのは『バーボン』のロックだった。重厚なロックグラスの中で、丸い氷がカチャリ、と澄んだ音を立てる。琥珀色の強いアルコールを口に含むと、喉が焼けるような熱さと、特有のバニラのような芳醇な香りが鼻腔を抜けた。アルコールがじわじわと脳を麻痺死させ、ようやく、下痢と不眠でボロボロだった身体の緊張が解けていくのを感じた。

 バーを出たとき、俺の頭はすっかり心地よいほろ酔い状態になっていた。

 帰宅途中、夜の帳が下りた路地裏。いつもは通らない薄暗い隘路の突き当たりに、奇妙な店があった。

 紫色の薄暗いベールが掛けられた小さな机の前に、一人の老女が座っていた。顔中に深い皺を刻んだ、占い師のおばあさんだった。

「そこの若いの。ずいぶんと生きづらそうな、不器用な魂をしているね」

 おばあさんの声は、カサカサと乾燥した落ち葉が擦れ合うような不気味な響きを持っていた。ほろ酔いの俺は、普段なら絶対に無視するはずのその怪しげな佇まいに、藁をも掴む思いで吸い込まれた。

「今の現実から、消えたいかい?」

 おばあさんが、古びた懐中時計の鎖を指先で揺らした。

 チク、タク、チク、タク。

 規則的な金属音が、ほろ酔いの俺の脳裏に、一定のテンポで刻み込まれていく。

「お前のその頑固なこだわりも、数字への強さも、もっと剥き出しの命が試される場所なら、牙になるかもしれないねぇ……。さぁ、目を閉じな。お前が本当に生きるべき地獄へ、連れて行ってやろう」

 おばあさんの呪文のような言葉とともに、懐中時計の銀色の光が、俺の視界のすべてを覆い尽くした。

 下痢で痛む腹も、多汗で冷えた背中も、すべての感覚が急速に遠のき、意識が深い真っ暗闇へと滑り落ちていく――。

 ――ズドォォォォンッ!

 耳が破裂するかと思うほどの、大気を引き裂く爆鳴。

 ハッと目を覚ましたとき、俺の口内には、先ほどまで楽しんでいたバーボンの余韻など微塵も残っていなかった。

 代わりに舌を汚していたのは、生臭い、鉄の味のする本物の泥だった。

 視界を埋め尽くしたのは、地下バーの薄暗がりではない。不気味なほど青々と茂る、比島のジャングルの、狂暴なまでの緑の葉。

 そして、俺の感覚過敏が、自分の身体の『異常な変化』を容赦なく捉えた。

「う、あ……っ」

 呼吸をしようとして、胸元が異様に息苦しいことに気づく。着ているのは、札幌のオフィスで着ていた安物のリクルートスーツではない。汗と雨を吸ってずっしりと重くなった、木綿製の、大日本帝国陸軍・九八式軍服の夏服だった。

首筋には、強烈なスコールの湿気の中で、ベタベタと容赦なく張り付く4枚の木綿布。略帽垂布(帽垂れ)が、不快な感触で皮膚を撫でまわしている。

さらに視線を下に向けると、俺の足元は、見たこともない無骨な装備で固められていた。

膝下から足首にかけて、緑褐色の布製の帯が幾重にも、驚くほど強固に巻き付けられている。帝国陸軍のゲートル(巻脚絆)だ。泥水を吸ってガチガチに固まったゲートルの締め付けが、ふくらはぎの血流を圧迫し、独特の鈍い痛みを伝えてくる。

その先にあるのは、革の焼けたような独特の臭いを放つ、鉄鋲が靴底にびっしりと打たれた焦げ茶色の軍靴(編上靴)だった。現代の軽いスニーカーとは対極にある、歩くたびに大地の泥を重々しく踏みしめる、冷酷なまでに頑丈な鉄と革の塊。

そして、俺の両手は、一本の『鉄と木』を本能的に握りしめていた。

全長1276ミリ。重量4.1キロ。

前世のミリオタとしてのスペック脳が、その数値を一瞬で弾き出す。三十八式歩兵銃。

F-15のヴァルカン砲の20mm実包が1発わずか250グラムだというのに、なぜこの6.5mm口径の歩兵銃が、これほどまでに重く、俺の身体を地面に縛り付けるのか。

湿気を含んだ木製銃床(じゅうしょう)の、ざらついた冷たい手触り。泥が詰まり、ボルト(遊底)を引こうとすると「ガリガリ」と不快な音を立てる、鉄製の埃覆(ダストカバー)。その隙間から覗く薬室の天面には、不条理なほど燦然と輝く、金色の「十六弁の菊花紋章」が、比島の強烈な木漏れ日を浴びて鈍く鈍く光っていた。

銃口の先には、着剣用の不気味な突起。

「嘘だろ……。イーグルのフライ・バイ・ワイヤの足元にも及ばない旧式小銃を、僕が握ってる……?」

手汗で滑る三八式歩兵銃の安全子の凹みに、俺は震える親指を押し当てた。

前世の知識が、周囲の悲惨なディテールから最悪の答えを導き出す。昭和20年、レイテ島の最前線。所属部隊は全滅。現代の生きづらさから逃げ出した大卒新卒の俺が放り込まれたのは、1秒後に肉片になるかもしれない、本物の地獄の戦場だった――。

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