第十三章:『ワルグフォーゲルの涙、乾パンのクッキー』
M1カービン銃の冷酷な銃身を下げたまま、少女は泥まみれの小さな手のひらの上にある、ゴツンとした陸軍の乾パンをじっと見つめていた。
やがて、彼女の長い睫毛が激しく震え、その凄絶な瞳から、大粒の涙がボタボタと泥だらけの乾パンの上へ滴り落ちた。少女は深く項垂れ、過呼吸の「ひっ、はぁっ、はぁ……」という引き攣った呼吸のなかで、声を殺して泣いた。
彼女は、一九四一年の比島侵攻からの、日本軍の数々のおぞましい醜態をこの目で嫌というほど直視してきたのだ。
罪のない同胞たちへの容赦ない略奪、容赦なく火を噴く小銃での銃殺、泣き叫ぶ者を泥に組み敷く銃剣での凄惨な刺殺、そして、夜の闇の中で雌を貪るような狂気的な強姦。お国のため、軍紀のためと称する日本の兵隊たちは、少しでも気に入らないことがあれば、現地の人間を家畜のようにすぐに激しくビンタした。
(――私たちのフィリピンだ。あなたたちの軍隊が、踏みにじっていい理由なんてどこにもない……!)
そんな地獄の底を這いずり回り、復讐の鬼と化していた彼女の前に現れたのは、これ以上ないほど不格好で、デリカシーの欠片もない大道寺コンビだった。
目の前で平然と立ち小便をし、"Here you are." などと邪道極まる片言の英語で笑う大叔父。しかし、その泥まみれの男の掌からは、これまでのどの日本兵からも向けられたことのない、剥き出しの、そして打算のない本当の「優しさ」が漂っていた。呑気で、信じられないほど不作法な男たち。けれど、彼女の命を、実存を、道具としてではなく一人の人間として扱おうとするその佇まいに、少女の脳髄を支配していた死のパニックが静かに融かされていく。
(この人たちは……野蛮人じゃない……)
震える指先で、彼女は涙の染みた乾パンを小さく噛み砕き、口腔へと運んだ。
熱帯の猛烈なスコールの湿気を吸って、パサパサと湿気りきった陸軍の配給。お世辞にも上等とは言えない代物だったが、腐った魚の油の匂いがするドードーの肉とは違い、それは彼女の乾ききった舌の上に、驚くほど優しく、素朴な甘みとなって広がっていった。
「……クッキー……なのか……?」
少女の唇から、言葉にならない掠れた呟きが漏れる。当時のフィリピンの民間人が知るはずもない、日本の兵隊たちの乾パン。けれどそれは、死の恐怖に怯える彼女の胃袋の底を、確かに温かく満たしてくれた。
太一のASDの過敏な耳は、彼女が乾パンを咀嚼する微かな音と、彼女の心臓の激しい鼓動が、ようやく静かな安堵のテンポへと落ち着いていくディテールを正確に捉えていた。下腹部を襲っていた下痢の激痛が、その奇妙な安息に共鳴するように、不思議と完全に消え去っていく。
洞窟の入り口の薄暗い光のなか、少女は濡れたカービン銃をそっと足元に置き、太一と大叔父の貌を真っ直ぐに見つめた。
(この人たちは、敵ではない――)
退路のない洞窟の闇の底、ウジの幻影に怯えて眠る看護婦の寝息と、琥珀色の真空管の眼をボウッと灯して静かに佇む自動歩兵の前で、国籍も立場も超えた彼らの本当の共同戦線が、一枚の湿気った乾パンを通じて、今度こそ強固に結ばれようとしていた――。




