第十四章:『未来への閃光、アパートへと続く軽い足どり』(最終回)
「……I'm Laura. thanks.」
彼女は、涙の染みた乾パンをそっと胸に抱きしめ、泥に汚れた頬を微かに緩めて、そう小さく微笑んだ。大叔父はその貌を見て、海軍仕込みの図太い笑顔で深く、深く頷いた。国籍も立場も超えた、奇妙で優しい静寂が洞窟を包み込んだ、その刹那だった。
バサバサバサッ! と、洞窟の入り口の藪から、一斉に野生の鳥たちが狂ったように羽ばたき、スコールの中へと飛び去っていった。太一のASDの過敏な肌が、ジャングルの大気の密度の変化を、不穏な『質量』として瞬時に察知した。
"Be careful!"(気を付けて!)
ローラが鋭い悲鳴のような声を上げ、足元のM1カービン銃をひったくるように構え直した。
しばらくすると、白く煙る豪雨のカーテンの向こう側に、一個分隊ほどの米兵たちの影がドロドロと浮き上がってきた。幸い、こちらには気づいていない。太一たちは眠る看護婦を抱え、ロバの手綱を引いて、洞窟の暗闇の最奥へと音もなく気配を潜めた。
洞窟の前を通り過ぎていく米兵たちは、クチャクチャと不格好にガムを噛み、雨に濡れる煙草を不機嫌そうに吹かしながら、手にしたM1ガーランド自動小銃を構えて辺りを警戒していた。太一の過敏な鼻腔に、彼らの纏う安っぽいアメリカの煙草の匂いがじっとりと届く。
だが、その時、耳の長いロバが頑固に脚を突っ張らせ、どうしても洞窟の奥に入りたがらない。トコポコと不器用に耳を揺らし、泥濘に蹄を突き立てて抵抗する。心臓が破裂しそうな緊迫感のなか、米兵たちはそのまま海の方へと静かに去っていったようだった。
「この馬鹿! でかい耳してるのに何で言うことを聞かない! 聞こえないのか!」
大叔父がホッとしたのも束の間、ロバの頭を小突いて怒鳴り声を上げた。しかし、その大叔父の怒声が洞窟の壁に反響した次の瞬間、太一は脇や背中から、一気に冷たい嫌な脂汗が噴き出すのを止めることができなかった。
ジャングルの奥から、軍靴が泥を激しく踏み荒らす、あの冷酷な足音が近づいてくる。
「おい。誰だ。誰かいるのか」
スコールの重低音を切り裂いて、洞窟の入り口に、じっとりと湿った空気を吸い込むみ、不気味な声が響き渡った。日本軍だ。あの、左腕に赤文字で『憲兵』と書かれた白い腕章をつけ、十四年式拳銃を握りしめた黒川憲兵大尉たちの足音に間違いなかった。
「……いよいよマズイ状況だな」
大叔父が泥まみれの黒ネクタイを震わせながら、太刀型の軍刀を逆手に持ち替えた。太一は、さっき大叔父さんが大声でロバを怒鳴ったから見つかったんじゃないかと、完全に呆れ果てるしかなかったが、下腹部の下痢の激痛は、なぜか恐怖を超えて完全に消え去っていた。数人の憲兵たちの足音が、じゅく、じゅくと泥を踏み締めながら、確実にこの洞窟の闇へと近づいてくる。
「太一、これは背水の陣だ」
大叔父が泥の中でドヤ顔を決めながら呟いた。
「何を言っているんだ、大叔父さんは……!」
「おい、ブリキ。なんとかしろ!」
大叔父はそう叫ぶと、大道寺コンビの後ろに潜んでいた、無骨な真鍮色の自動歩兵の背中へと強引に回り込んだ。
(――よし、九四式無線の乾電池の充電は、まだ残っている……!)
大叔父は、ロボットの背中にある重厚な金属の起動ボタンを、泥だらけの指で力任せに激しく押し込んだ。
「何やってるんだよ、大叔父さん!!」
太一が叫んだ瞬間、漆黒の闇に沈んでいた自動歩兵の頭部のスリットが、かつてないほどの烈しい出力を得て、突然、爆発的に明るく輝いた。琥珀色の真空管の眼から放たれた凄まじい閃光が、ウジの幻影から目覚めた看護婦の貌も、ローラの驚愕の瞳も、大叔父さんの不敵な笑みも、そして迫り来る黒川憲兵たちの影も、洞窟の地獄のすべてを純白の光の中へと包み込んでいった。
「――っ!!」
太一はあまりの眩しさに、三八式歩兵銃を抱きしめたまま、強く、強く目を瞑った。
……ゴウゴウというスコールの地鳴りが、ふっと消えた。
耳に届くのは、穏やかで、どこか懐かしい、都会の微かな喧騒の音。
ゆっくりと目を開けたとき、太一は自分が、あの薄暗い路地裏の、不思議な占い師のおばあさんの前に座っていることに気づいた。机の上には、妖しく輝く水晶玉が静かに佇んでいる。
「いい旅だったかい?」
おばあさんは、皺の刻まれた顔を優しく綻ばせ、すべてを見透かしたような穏やかな笑顔でそう言った。
太一は、自分が抱きしめていたはずの三八式歩兵銃が、いつの間にかいつもの通勤カバンに変わっているのを見つめ、それから、自分の胸の奥に灯った温かいサバイバルの熱量を感じながら、真っ直ぐにおばあさんを見返した。
「……はい。きっと彼らは、あの後、幸せになっていると思います。俺も、生きることについて、色々学べたよ。……ありがとうございます」
占い師の店を出て、星空の街のなか、自分のアパートへと帰る太一の足どりは、驚くほど軽かった。1944年12月のあの過酷な泥沼を生き抜いた彼のスペック脳は、優しく、力強いリアリズムで満たされていた。
(『レイテ泥沼サバイバル』――完)




