第十一章:『泥沼の聖母、束の間の寝息と乾いた水筒』
間の抜けた顔でカプ、カプと嘴を鳴らすドードー鳥の佇まいは、一触即発だった洞窟の狂気を一瞬にして凍りつかせた。
その絶対的な平和の象徴を前に、トリガーを引き裂くような力で凝固させていたゲリラ少女の指先から、ふっと張り詰めた力が抜けていく。彼女は黒ずんだ木製ストックの『M1カービン銃』をゆっくりと、地面の泥濘へ向けて下げた。
その静寂を破ったのは、大叔父の泥まみれの低い声だった。
「……フッ、平和の鳥ってのは、鳩じゃなくてドードーだったわけだな」
大叔父が顔の泥を拭いながら呟いたその瞬間、シダの葉陰で涎を垂らして笑っていた日本人の従軍看護婦の身体が、ガタガタと激しく痙攣した。彼女は傷だらけの身体で這いずるようにしてドードー鳥の灰色の巨体にしがみつくと、その不格好な羽毛に顔を埋め、堰を切ったように激しく嗚咽し始めたのだ。
「う、あ、あぁぁぁぁッ! ひぐぅぅ、うぁぁぁぁッ!!」
肺が破裂しそうなほどの、地を幾重にも這うような号泣。もう空の注射器を握りしめる力すら彼女には残っていなかった。
無数の日本兵の死体、湧き上がるウジ虫、自由を奪う米軍の無差別砲弾。その地獄をたった一人で浴び続けて焼き切れていた彼女の精神が、絶滅鳥の温もりによって、今、強烈なパニックと共に「生」へと引き戻されている。嗚咽は止まらず、洞窟の壁にベタベタと反響した。
「……きっと、言葉にできんほどの大きな恐怖が、この娘を襲ったのだろうな。真面目すぎたんだな、この娘は」
大叔父の顔から、さっきまでのマヌケなドヤ顔が完全に消え去っていた。彼は泥まみれの防暑衣の腰から、先ほど小川で並々と満たしたばかりの『昭和五式水筒』を外すと、泣き叫ぶ看護婦の口元へと優しく手渡した。
「ほら、飲め。海軍の上等な水だ」
看護婦は引ったくるように水筒を掴むと、ゴボゴボ、ゴボゴボと、凄まじい音を立てて美味そうに喉を鳴らして水を貪った。冷たい水分が胃袋へ流れるたび、彼女の引き攣った過呼吸が、みるみるうちに穏やかなものへと変わっていく。
やがて、水筒を胸に抱いたまま、彼女は洞窟の奥の泥の上で、泥のように静かな寝息を立てて眠りに落ちた。
すると大叔父は、呆然と立っていた太一の背嚢から、汗と硝煙の匂いが染みついた日本軍の茶褐色の毛布を無造作にひったくるように引き抜いた。そして、眠る彼女の痩せた肩へと、自分の手でそっと優しく掛けたのだ。
「……よし、これで少しは温まるだろ」
大叔父はそう言って、泥まみれの黒ネクタイを軽く直した。
太一は、泥にまみれた大叔父のその背中を、じっと見つめていた。
下腹部の下痢の激痛すら忘れるほどの、激しい感銘が太一の脳髄を灼いていた。
(……戦時中に、こんな男が本当にいたのか。国のためでも、陛下のためでもなく、ただ目の前で壊れた人間を救うために、命の水と毛布を差し出せるような男が……。今の、現代の日本人に、これほどの男がいるか……?)
大叔父の優しさに満ち溢れた行動に、太一が心の底から魂を揺さぶられていた、その時だった。
洞窟の入り口では、M1カービン銃を手にしたゲリラの少女が、その強い眼差しのまま、俺たちの様子をじっと黙って見つめていた。その瞳の奥の冷酷な殺気は、大叔父の行動によって明らかに揺らいでいた。
感動的な沈黙が洞窟を支配する。だが、立ち上がった大叔父は、手戻ってきた昭和五式水筒を耳元で軽く振り、その不格好な唇をへの字に歪めて、信じられないようなボヤキを漏らしたのだ。
「……おい太一。この娘、俺の命の水を一滴残らず、全部飲みやがったぞ。カラッポだ」
大叔父は、空になったアルミ水筒を逆さにして、泥の中で本気でガッカリした貌をしている。
戦時中の英雄を見たかのような太一の崇高な感動は、その一瞬で木っ端微塵に吹き飛んだ。太一は三八式歩兵銃を抱えたまま、あまりの大叔父のズッコケな台無し発言に、完全に目が点になり、洞窟の泥の底へ、ただ呆然とへたり込むしかなかった。
洞窟の奥では、自動歩兵の頭部のスリットが、主人の「目が点になった」脱力感に連動するように、カチ、カチ、とどこか間の抜けた歯車音を響かせ、琥珀色の真空管の眼をボウとくすませていた――。




