第十章:『混濁の洞、カービン銃の戦慄と平和の鳥』
カチャリ。
スコールがわずかに弱まった洞窟の入り口、シダの巨大な葉を押し分けて、一人の影が音もなく滑り込んできた。
米兵ではない。太一の網膜は、その影が手にする兵器のディテールを瞬時に解剖した。米軍から現地抗日ゲリラへと横流しされた、木製ストックが泥水で黒ずんだ『M1カービン銃』。長年の草の汁と硝煙で染みついた無骨な銃身は、冷酷な鉄の質量を放っている。それを握る泥だらけの指先は、トリガーが指の皮膚を抉るほどの狂気的な力で引き絞られていた。
"Don't move. I'll blow your head off."(動くな。頭を吹き飛ばすぞ)
安全装置が解除される「カチリ」という金属音と共に、冷徹な英語が洞窟の壁に硬く反響した。
銃口を向けて睨みつけるその少女の衣服は、激しいゲリラ戦の中で引き裂かれ、硝煙と汗でドロドロになって肌に張り付いていた。肌の色は、熱帯の日差しに灼かれながらも、どこか白人特有の骨格を覗かせている。現地人なのか、ゲリラなのか、あるいは白人の血が混ざっているのか、その判然としない凄絶な佇まいに、太一たちの背筋を冷たい悪寒が駆け抜け、全身の汗が止まらずにガタガタと震えた。
「おい太一……! こいつは年貢の納め時だぞ。海軍の意地も、陸軍のブリキも、この小娘の一発でパーだ」
大叔父が泥まみれの防暑衣の襟元を震わせ、携えた海軍軍刀を慌てて構え直そうとした――その瞬間だった。
焦った大叔父は、自分の地下足袋のコハゼがもう片方の脚の裾に引っかかり、おっとっと、とカエルのように不格好に跳ね上がった。そのままバランスを完全に失い、洞窟の壁に肩をドカンとぶつけた反動で、今度は前に向かってスライディングするように派手に五体投地した。
泥水を顔面にまともに浴び、鼻の頭にべっとりと泥をつけた大叔父は、驚いて目を丸くしているロバの足元で、ペッと口の中の泥を吐き出した。
「ぶふっ……! クソ、海軍の魚雷戦術がこんなところで暴発するとは……」
大叔父は泥まみれの黒ネクタイを首に巻き付かせながら、鼻をこすって情けない声を漏らす。そのコミカルすぎる自爆ぶりに、太一は三八式歩兵銃を抱えたまま、完全に白目を剥いて唖然とするしかなかった。
しかし、そのマヌケな音をかき消すように、洞窟のさらに深い闇の奥から、不気ベた悲鳴と狂った笑い声が響き渡った。
「あは、あははははッ! 降ってくる、またあの鉄の雨が降ってくるわォッ!!」
シダ植物の巨葉を掻き分けて這い出てきたのは、カーキ色のナースキャップを不格好に頭へ乗せた、日本人の従軍看護婦だった。衣服は泥と垢まみれだ。しかし、汗と硝煙の煤で真っ黒に汚れた軍服の奥で、彼女の精神は完全に瓦解していた。
彼女は、地鳴りのように続く米軍の猛烈な無差別砲弾の嵐に晒され、目の前で数え切れないほどの日本兵たちが肉片となって消し飛ぶ様を、その千切れた死体に瞬く間に無数のウジ虫が湧き上がる凄惨な光景を、浴び続けてきたのだ。
過呼吸の「ひっ、はぁっ、はぁ……」という引き攣った呼吸を漏らし、口元からはドロドロとした涎がダラダラと垂れて泥水へ落ちる。彼女の右手には、薬液のとうに切れた、一本の「空の注射器」が狂気的に握りしめられていた。
「……看護婦が、気が狂っていやがる」
大叔父が泥の中から這いつくばりながら、引き攣った貌で呟いた。
その日本の地獄を体現したような光景に、カービン銃を構えたゲリラの少女は、激しい嫌悪を込めて吐き捨てた。
「Shit. Japs.」
過呼吸と死のパニックが最高潮に達した洞窟の闇。だが、その冷酷な英語の罵り文句を聞いた瞬間、泥まみれの大叔父は、顔の泥を拭いながら大真面目に叫んだのだ。
「な、何だと……!? 私に嫉妬しているだと!? 確かに私は海軍の男前だが、この極限状態で現地人の小娘に惚れられるとは、因果なものだな!」
大叔父は「嫉妬している!」と本気で勘違いして、泥の中でドヤ顔を決めている。太一は、迫り来る恐怖も、ゲリラのカービン銃の戦慄も、そのすべてを一瞬で消し飛ばすような大叔父の圧倒的なマヌケ発言に、完全に呆れ果て、本当に腰を抜かして泥の中にヘタれ込むしかなかった。
洞窟の奥では、自動歩兵の頭部のスリットがカチカチカチと不気味な歯車音を響かせ、琥珀色の真空管の眼を怪しく明滅させている。
その、一触即発の狂気が張り詰めた空間へ、トコトコ、と場違いな足音が近づいてきた。
白く煙るスコールの向こうから、一羽のドードー鳥が、何をするでもなく不器用に首を傾げながら、洞窟の入り口へと歩いてやってきたのだ。
カプ、カプ、と大きな嘴を鳴らし、人間たちの殺気など微塵も気づかない様子で、間の抜けた声を漏らす絶滅鳥。
そのあまりにも場違いで、奇妙なほどに穏やかな「平和な瞬間」が、洞窟に流れる時間を一瞬で凍りつかせた。狂っていた看護婦の叫びがふっと止まり、自動歩兵の頭部の点滅も静かに静まる。
銃口を突きつけていたゲリラの少女は、そのドードーの姿を凝視したまま、張り詰めていた指先からふっと力を抜き、ゆっくりと、そのカービン銃の銃口を地面へと下げたのだった――。




