第百八十八日
翌朝。
薬局へ向かう道を歩く。
空は高い。
風も穏やかだった。
リツカは奈緒の少し後ろを歩く。
その時だった。
ふわり。
リツカの足が止まる。
「……」
奈緒が振り返る。
「どうしたの?」
リツカは辺りを見回した。
「花の香りがします」
「え?」
奈緒は鼻をすんと鳴らす。
まだ分からない。
「こちらです」
リツカは細い路地へ歩き出す。
ゆっくり。
香りを追うように。
また、
ふわり。
甘い。
けれど桃とは違う。
桜とも違う。
もっと小さく、
優しい香りだった。
角を曲がる。
「あっ」
奈緒が声を上げる。
そこには一本の木が立っていた。
葉の間に、
小さな橙色の花が無数に咲いている。
まるで星屑のようだった。
「金木犀だ」
奈緒が笑う。
「もう咲いたんだ」
リツカは木へ近付く。
小さな花。
一輪一輪は目立たない。
それなのに。
こんなにも香る。
「不思議です」
「姿より先に香りで気付きました」
奈緒は少し驚いた。
「ほんとだ」
「私は見てから分かった」
リツカは小さく花を見つめる。
薬師だった頃。
香りで薬草を見分けることは何度もあった。
乾いた葉。
根。
花。
香りは薬の大切な手掛かりだった。
けれど。
今日は違う。
薬ではない。
季節を知るために、
香りを感じていた。
それが少し嬉しかった。
「金木犀はね」
奈緒が空を見上げる。
「秋が来たって教えてくれる花なんだよ」
秋を知らせる花。
リツカはもう一度香りを吸い込む。
深く。
ゆっくりと。
甘い香りが胸いっぱいに広がる。
その時。
「おはようございます」
後ろから声がした。
学校へ向かうみーちゃんだった。
ランドセルを背負っている。
「おはようございます」
「金木犀だね!」
みーちゃんは嬉しそうに笑う。
「この匂いになると運動会なんだよ!」
「運動会?」
また知らない言葉だった。
奈緒が吹き出す。
「秋は行事が多いね」
リツカも少し笑った。
春には入学式。
夏には七夕。
そして秋には、
十五夜や運動会。
季節が変わるたび、
町には新しい楽しみが生まれる。
金木犀の香りは、
その始まりを知らせる合図だった。
薬局へ向かう道を歩き出す。
風が吹く。
ふわり。
また香る。
リツカは振り返らなかった。
もうどこに咲いているか知っている。
けれど、
その香りが届くたび、
自然と笑みがこぼれた。
秋は目で見るだけではない。
耳で聞き。
舌で味わい。
そして、
香りでも感じる季節だった。




