第百七十五日目
朝。
窓を開ける。
ひんやりとした風が頬を撫でた。
思わず立ち止まる。
「あ……」
暑くない。
もちろん昼はまだ暑い。
けれど。
朝だけは違った。
夏が一歩だけ後ろへ下がり、
秋が一歩だけ前へ来たような空気だった。
居間へ向かう。
台所から甘い香りがする。
「おはよう」
奈緒が振り返る。
「おはようございます」
フミは大きな鍋を覗き込んでいた。
ことこと。
静かな音がする。
「今日はお出掛けだよぉ」
「どちらへ?」
「山」
また短い返事だった。
◇
車で町を離れる。
窓の外には稲穂が揺れていた。
少し前まで鮮やかな緑だった田んぼは、
黄金色へ変わり始めている。
「色が違います」
リツカが呟く。
奈緒は頷いた。
「もう秋だからね」
季節は本当に変わるのだと、
目で見て分かった。
やがて山道へ入る。
木漏れ日が揺れる。
蝉の声は少なく、
代わりに鳥の声がよく聞こえた。
「着いたよ」
山の入口だった。
◇
足元には落ち葉。
まだ少ない。
けれど確かにある。
夏にはなかった景色だった。
フミが笑う。
「下を見ながら歩くんだよぉ」
「薬草ですか」
「違うよぉ」
「宝探し」
宝。
リツカは首を傾げる。
歩き始めて数分。
「見つけた!」
由美がしゃがみ込む。
茶色い実を拾い上げる。
丸くて、
艶がある。
「栗!」
リツカは受け取る。
掌に収まる小さな実。
表面は滑らかで、
朝日を受けて輝いていた。
「綺麗です」
「でもね」
奈緒が木の根元を指差す。
そこには、
いがが転がっていた。
緑色の殻。
鋭い棘が無数に生えている。
「中に入ってるよ」
リツカは慎重に覗き込む。
確かに見えた。
茶色い栗が、
大切そうに包まれている。
「まるで薬草の種を守る殻ですね」
「そうかも」
奈緒は笑った。
「だから手で触っちゃ駄目だよ」
「はい」
しかし。
その返事から数分後。
「いたっ」
リツカは固まっていた。
指先に、
一本だけ棘が刺さっている。
奈緒は吹き出した。
「言ったばっかりなのに」
「油断しました……」
少し恥ずかしかった。
由美は笑いながら、
火ばさみを差し出す。
「これ使うんだよ」
なるほど。
人は失敗して覚えるらしい。
リツカは小さく頷いた。
今度は慎重に栗を拾う。
かごの中に、
一つ。
また一つ。
秋の実りが、
少しずつ増えていった。
山を吹き抜ける風は、
もう夏の風ではなかった。
どこか澄んでいて、
少しだけ木の香りがした。
リツカは深く息を吸う。
「秋の匂いですね」
奈緒は少し驚いたあと、
嬉しそうに笑った。
「うん。」
「もう、分かるようになったんだね。」
リツカも静かに頷く。
夏を知ったから、
秋が分かる。
季節は一つだけではなく、
繋がっている。
そのことを、
この世界が少しずつ教えてくれていた。




