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魔法をなくした薬師  作者: 灯野 しおん


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第百七十五日目

朝。


窓を開ける。


ひんやりとした風が頬を撫でた。


思わず立ち止まる。


「あ……」


暑くない。


もちろん昼はまだ暑い。


けれど。


朝だけは違った。


夏が一歩だけ後ろへ下がり、


秋が一歩だけ前へ来たような空気だった。


居間へ向かう。


台所から甘い香りがする。


「おはよう」


奈緒が振り返る。


「おはようございます」


フミは大きな鍋を覗き込んでいた。


ことこと。


静かな音がする。


「今日はお出掛けだよぉ」


「どちらへ?」


「山」


また短い返事だった。



車で町を離れる。


窓の外には稲穂が揺れていた。


少し前まで鮮やかな緑だった田んぼは、


黄金色へ変わり始めている。


「色が違います」


リツカが呟く。


奈緒は頷いた。


「もう秋だからね」


季節は本当に変わるのだと、


目で見て分かった。


やがて山道へ入る。


木漏れ日が揺れる。


蝉の声は少なく、


代わりに鳥の声がよく聞こえた。


「着いたよ」


山の入口だった。



足元には落ち葉。


まだ少ない。


けれど確かにある。


夏にはなかった景色だった。


フミが笑う。


「下を見ながら歩くんだよぉ」


「薬草ですか」


「違うよぉ」


「宝探し」


宝。


リツカは首を傾げる。


歩き始めて数分。


「見つけた!」


由美がしゃがみ込む。


茶色い実を拾い上げる。


丸くて、


艶がある。


「栗!」


リツカは受け取る。


掌に収まる小さな実。


表面は滑らかで、


朝日を受けて輝いていた。


「綺麗です」


「でもね」


奈緒が木の根元を指差す。


そこには、


いがが転がっていた。


緑色の殻。


鋭い棘が無数に生えている。


「中に入ってるよ」


リツカは慎重に覗き込む。


確かに見えた。


茶色い栗が、


大切そうに包まれている。


「まるで薬草の種を守る殻ですね」


「そうかも」


奈緒は笑った。


「だから手で触っちゃ駄目だよ」


「はい」


しかし。


その返事から数分後。


「いたっ」


リツカは固まっていた。


指先に、


一本だけ棘が刺さっている。


奈緒は吹き出した。


「言ったばっかりなのに」


「油断しました……」


少し恥ずかしかった。


由美は笑いながら、


火ばさみを差し出す。


「これ使うんだよ」


なるほど。


人は失敗して覚えるらしい。


リツカは小さく頷いた。


今度は慎重に栗を拾う。


かごの中に、


一つ。


また一つ。


秋の実りが、


少しずつ増えていった。


山を吹き抜ける風は、


もう夏の風ではなかった。


どこか澄んでいて、


少しだけ木の香りがした。


リツカは深く息を吸う。


「秋の匂いですね」


奈緒は少し驚いたあと、


嬉しそうに笑った。


「うん。」


「もう、分かるようになったんだね。」


リツカも静かに頷く。


夏を知ったから、


秋が分かる。


季節は一つだけではなく、


繋がっている。


そのことを、


この世界が少しずつ教えてくれていた。

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