第百七十日目
八月の終わり。
朝。
ツクツクボウシが鳴いていた。
みんみん蝉の声は減った。
代わりに聞こえるようになった声だった。
風も少し違う。
まだ暑い。
けれど。
夏の真ん中の暑さではなかった。
終わりへ向かう暑さだった。
リツカは薬局から帰る。
玄関を開ける。
すると。
居間に異様な光景が広がっていた。
紙。
ノート。
教科書。
画用紙。
消しゴムのかす。
そして。
机に突っ伏す由美。
「どうしたのですか」
奈緒が静かに答えた。
「夏休み」
意味が分からなかった。
しかし。
由美が顔を上げる。
涙目だった。
「終わる」
「はい」
「宿題が終わらない」
なるほど。
理解した。
完全に理解した。
問題は由美だった。
宿題を終わらせなかったらしい。
かなり。
「なぜもっと早く」
由美は目を逸らした。
答えは分かっていた。
遊んだからだった。
全力で。
ひまわり。
花火。
夜店。
流しそうめん。
全部思い出せた。
当然だった。
その後。
リツカは宿題を手伝うことになる。
理不尽だった。
数時間後。
算数。
読書感想文。
自由研究のまとめ。
かなり進んだ。
由美は生き返り始めている。
単純だった。
その時。
みーちゃんがやって来た。
「終わったー!」
自由研究のノートを抱えている。
朝顔観察日記だった。
厚い。
思った以上に。
リツカはページをめくる。
芽が出た日。
葉が増えた日。
花が咲いた日。
種ができた日。
全部記録されている。
最後のページ。
そこには、
みーちゃんの字で書かれていた。
『来年も育てたいです』
リツカはその一文を見つめる。
来年。
最近よく聞く言葉だった。
来年の夏。
来年の花。
来年の風鈴。
以前の自分は、
来年のことなど考えなかった。
考えられなかった。
いつ元の世界へ戻るか分からなかったから。
けれど。
今は。
少しだけ違う。
来年を想像できる。
それが不思議だった。
夕方。
宿題も終わる。
由美は机へ突っ伏した。
今度は達成感だった。
たぶん。
庭へ出る。
朝顔は種を付けている。
ひまわりは頭を垂れている。
空は高い。
夏の終わりの空だった。
風鈴が鳴る。
ちりん。
少し前まで、
その音は夏そのものだった。
今は違う。
夏との別れを告げる音に聞こえる。
その時。
奈緒が隣へ来た。
「寂しい?」
突然だった。
リツカは少し考える。
夏が終わる。
確かに寂しい。
けれど。
悲しくはなかった。
「少し」
正直に答える。
奈緒が頷く。
「私も」
そして笑う。
「でも秋もいいよ」
「そうなのですか」
「栗とか」
「さつまいもとか」
「柿とか」
食べ物だった。
予想通りだった。
思わず少し笑う。
奈緒も笑う。
夕暮れの縁側。
二人で空を見上げる。
季節は変わる。
夏は終わる。
でも。
終わるから、
次が来る。
朝顔の種のように。
線香花火の後の夜空のように。
虹の後の青空のように。
リツカは静かに風を感じる。
その風は、
少しだけ秋の匂いがした。




