第百五十八日②
ラジオ体操から帰ると、
家の中には朝食の匂いが広がっていた。
焼き魚。
味噌汁。
炊きたてのご飯。
どれももう見慣れた。
けれど。
食卓の真ん中に置かれたものだけは違った。
丸い。
少し赤い。
柔らかそうだった。
「これは?」
リツカが尋ねる。
奈緒が答えた。
「桃」
桃。
初めて見る果物だった。
近付く。
その瞬間。
ふわり。
甘い香りがした。
リツカは目を瞬かせる。
「香りがします」
「するでしょ?」
「花のようです」
奈緒が笑う。
「食べるともっとすごいよ」
そんなことがあるのだろうか。
フミが桃を手に取る。
包丁を入れる。
するり。
綺麗に割れる。
中は淡い黄色だった。
朝日を受けて光っている。
まるで宝石みたいだった。
「はい」
一切れ渡される。
リツカは慎重に受け取った。
少し柔らかい。
落としてしまいそうだった。
そっと口へ運ぶ。
かぷり。
その瞬間。
目を見開いた。
甘い。
とても。
果汁が溢れる。
舌の上でほどける。
柔らかい。
優しい味だった。
スイカとは違う。
トマトとも違う。
初めての味だった。
「どう?」
奈緒が聞く。
リツカは少し考える。
言葉を探す。
そして。
「幸せの味です」
一瞬静かになる。
次の瞬間。
奈緒が吹き出した。
由美も笑う。
フミまで笑っている。
「そんな感想ある?」
「本当です」
本当だった。
嘘ではない。
桃を食べると、
なぜか心が穏やかになる。
温かくなる。
だからそう言っただけだった。
その時。
わふ。
足元を見る。
ハクだった。
当然のように見上げている。
桃を。
じっ。
真剣だった。
「駄目です」
わふぅ。
肩を落とす。
最近よく見る光景だった。
その後。
朝食を終える。
縁側へ出る。
風鈴が鳴る。
ちりん。
扇風機が回る。
ぶおん。
麦茶を飲む。
そして。
桃の甘い香りが、
まだ指先に残っていた。
リツカは空を見上げる。
夏の空だった。
青い。
高い。
白い雲が流れていく。
この国の夏は不思議だった。
暑い。
汗をかく。
大変なことも多い。
けれど。
その分だけ、
美味しいものや楽しいこともたくさんある。
そんなことを考えていると。
奈緒が家から出てきた。
「リツカ」
「はい」
「今度の休み、空いてる?」
「空いています」
奈緒は少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃあ、遠出しよう」
「遠出?」
「夏しか見られない景色がある」
リツカは首を傾げる。
だが。
奈緒の顔を見ると、
少しだけ楽しみになった。
その景色が何なのか、
まだ知らなかった。
どこまでも続く黄色い花の海を、
まだ知らなかった。




